高橋伸夫ゼミナール 《2022年度冬学期テキスト: 課題・要約・参考文献》  Handbook  BizSciNet

Simon, Herbert A. (1969; 1981; 1996). The sciences of the artificial (1st ed.; 2nd ed.; 3rd ed.). Cambridge, MA: MIT Press.
初版の訳: 倉井武夫・稲葉元吉・矢矧晴一郎訳『システムの科学』ダイヤモンド社, 1969.
初版の訳: 稲葉元吉・吉原英樹訳『新訳 システムの科学』ダイヤモンド社, 1977.
第2版の訳: 稲葉元吉・吉原英樹訳『新版 システムの科学』パーソナルメディア, 1987.

第3版の訳: 稲葉元吉・吉原英樹訳『システムの科学 第3版』パーソナルメディア, 1999.


初版・第2版・第3版の関係

初版(1969)第2版(1981)第3版(1996)章タイトル初出
第1章第1章第1章Understanding the natural and the artificial worldsThe Compton lectures (MIT, 1968)
第2章第2章Economic rationality: Adaptive artificeThe Gaither lectures (UC Berkeley, 1980)
第2章第3章第3章The psychology of thinking: Embedding artifice in natureThe Compton lectures (MIT, 1968)
第4章第4章Remembering and learning: Memory as environment for thoughtThe Gaither lectures (UC Berkeley, 1980)
第3章第5章第5章The science of design: Creating the artificialThe Compton lectures (MIT, 1968)
第6章第6章Social planning: Designing the evolving artifactThe Gaither lectures (UC Berkeley, 1980)
第7章Alternative views of complexity
第4章第7章第8章The architecture of complexity: Hierarchic systems (副題は第3版のみ)Simon, H. A. (1962). The architecture of complexity. Proceedings of the American Philosophical Society, 106(6), 467-482.

第2版・第3版の翻訳には、付録として、1978年にノーベル経済学賞を受賞したときのストックホルムでの記念講演をまとめた
Simon, H. A. (1979). Rational decision making in business organizations. American Economic Review, 69(4), 493-513.
の翻訳が採録されている。原典の方は、2019年にJohn E. Lairdの Introduction をつけた第3版 "Reissue of the third edition with a new introduction by John E. Laird" が再版されている。

第1章 自然的世界と人工的世界の理解 (pp.3-30)

【解題】できるだけ具体的に・・・という意識はあるのだろうが、抽象的で、分かりにくいイントロダクションである。章の前半で押さえておきたいのは、内部環境(inner environment)を外部環境(outer environment)から分離可能である(separability; 脚注4)という考え方であろう。この章では「内部環境=内部システム」であるかのような記述が多くて、分かりにくいが、厳密には、外部環境から分離した「内部環境で内部システムが機能している」と考えた方が分かりやすい。たとえば、法制度としての会社を境界として内部環境を外部環境から分離し、その安定した内部環境の中で組織等の内部システムを機能させている・・・という具合に。そうすると、外部環境と内部環境のインターフェース(interface; 接面)として人工物(今の例だと「会社」)を見ることができる(p.6 邦訳p.9)というアイデアもピンとくるかもしれない(なにやら昔懐かしい分離超平面定理を連想させる)。ただし一般的には、インターフェースだけでなく内部システムも人工物なので、両者の区別がつきにくい(だから注意しないと「内部環境=内部システム」みたいになってしまう)。その上、分離可能性は、自然のインターフェース、自然の内部システムでも成立するので(脚注4)、人工物特有の性質というわけでもない。要するに、まだ未成熟な段階で書いているので、サイモン自身の記述もふらついているのだ。事実、この第1章の12年後に書かれた第2章になると、その最初の方で「内部環境によって定義された目標だけを条件として外部環境に適応する人工システム(artificial system)」(p.26 邦訳p.32)と、より明確に区分して記述されるようになる(第2版を出すときに、第1章も改訂すれば良かったのに、とは思う)。
 章の後半では、サイモンの思い入れのあるデジタル・コンピュータに絡めてシミュレーションについて書いている。サイモンは触れていないが、実は世界初の汎用デジタル電子計算機ENIACが完成した際(1945年)、試運転としてENIACに計算させたのが「ロスアラモス問題」と呼ばれた当時開発中の水爆の爆縮時の平面波の計算問題だったのである。つまり、デジタル・コンピュータは、誕生時から、シミュレーション(自然的世界を記号システムで人工的に再現する計算)に使われていたわけで、コンピュータとシミュレーションは因縁深い。(高橋伸夫)

 我々は自然科学とはどのようなものであるかをよく知っている。自然科学とは、事物の特徴や特性に関する知識の体系である。つまり、自然科学とは、事物の特徴や特性に関する、またその作用及び相互作用に関する知識の体系である。自然科学の中心課題は、不思議なことをごく当たり前のことにすることである。つまり、正しく観察すれば、複雑性も単純さを覆う仮面に過ぎないということを明らかにすることや、混沌とも見える状態の中に隠されたパターンを見出すことが、自然科学の主な任務である。

 我々が生きている世界は、自然的世界というよりは、むしろ人間によって作られた人工的世界というべきである。環境を構成しているほぼ全ての要素に、人為のあとを見ることができる。ここで我々のいう人工物とは、自然からかけ離れたものではない。人工物は自然の法則を無視したり、破ったりはしない。それでいて、人工物は人間の目標や目的に適応するものである。したがって、人間の求めるものが変われば、人工物も変化するのであり、その逆についても同じことが言える。このような自然法則と人間の目的の両者を併せ持つ事物や事象を、もし科学によって取り扱うならば、科学はこれらの2つの異質な要素を関係づける手段を持たなければならない。そこで、以下の章では、そのような手段の性格と、それらの手段がいくつかの知識領域に持っている意味関連を、主に検討する。

人工物

 自然科学は自然の物体と現象についての知識の体系である。それでは、人工的な物体と現象に関する知識の体系である「人工」科学というものは、果たしてありえないのだろうか。これまでのところで我々は、人工物を自然物から区別するものとして、次の4点を明らかにしてきた。それらによって人工物の科学の領域を設定することができよう。

  1. 人工物は、人間によって合成される(ただし、常にあるいは通常、将来の正確な予測のもとに行われているとは限らない)。
  2. 人工物は、外見上は自然を模倣しているかもしれないが、多かれ少なかれ、自然物の実質を欠いている。
  3. 人工物は、その機能、目標、適応によって特徴づけることができる。
  4. 人工物は、特にそれが設計されているときは、記述法のみならず命令法によっても議論されることが多い。

型としての環境

 目的の達成や、目的への適応には、次の3つの間の関係が関わっている。すなわち、目的ないし目標、人工物の特性、そして人工物が機能する環境である。自然科学は、3つの構成要素のうち、人工物それ自体の構造及び人工物が機能する環境の2つに関わりを持つ。

接面としての人工物 人工物それ自体の中身と組織である「内部」環境と、人工物がその中で機能する環境である「外部」環境の両者の接面として、人工物を見ることができる。もし内部環境が外部環境に適応しているか、逆に外部環境が内部環境に適合しているならば、人工物はその意図された目的に役立つ。

機能的な説明 適応的あるいは人工的なシステムを研究するにあたって、内部環境から外部環境を区別することの第一の利点は、そのシステムの目標と外部環境の知識があれば、その内部環境についてはほんの最小限の仮定を置くだけで、そのシステムの行動を予測することがしばしば可能になるということだ。内部環境と外部環境を区別することには、内部環境の観点から言っても、しばしば同じような利点が見られる。大抵の場合、ある特定のシステムが特定の目標あるいは適応を達成するかどうかは、その外部環境のごく少数の特性によって決まるのであり、外部環境の細部の特性にはなんら関係がない。

機能的記述と合成 最良の状況、少なくとも設計者にとって最良の状況においては、適応的システムの目標、外部環境、内部環境に分けることから生じる前述の二つの利点を結合することができるかもしれない。また、外部環境と内部環境のどちらか一方を詳細に決めなくても、そのシステムの主要な特性と行動を特徴づけることができるかもしれない。我々がその成立について期待を寄せている人工物の科学は、内部環境と外部環境の接面が比較的単純であるということから、抽象性と一般性を獲得するだろう。人工物を記述するにあたって中心的なことは、内部システムを外部システムに結びつける目標である。内部システムは、自然現象を組織化して、ある範囲の外部環境のもとで特定の目標を達成できるようにしたものである。外部環境は、目標達成の条件を決定する。もし内部システムが正しく設計されるならば、それは外部環境に適応したものになるであろう。そしてその結果、その行動は、外部環境の動きによってほとんど決まるだろう。その行動を予測するためには、「合理的に設計されたシステムは、これらの条件のもとでは、どのように行動するだろうか」を考えれば十分である。

適応の限界 しかし、問題はこれまでの説明から想像されるより、もう少し複雑である。課題環境の型を正確に取る変幻自在の内部システムが、もし仮にいつも設計可能だとすれば、設計とはすなわち希望することであるということになろう。あるデザインは、通常の自然法則に従う実現可能な内部システムを少なくとも一つ発見しない限り、実際に完成したことにはならない。

(日野潤)

シミュレーションによる理解

 人工性とは、本質的には違うが一見同じように見えることである。つまり、内部よりも外観が似ているということである。そのような人工性のあるもの、人工的対象物は、異なる物的システムでも、組織化してほぼ同じ行動を取ることで、本物を模倣することができる。ディジタル・コンピュータ(計数型電子計算機)の抽象的性格と一般的な記号操作能力により、行動を模倣できるシステムの範囲が広がり、この模倣は「シミュレーション」と呼ばれている。

 「シミュレーションは、その中に組み込まれている前提以上のなにものでもない。」という主張と「コンピュータは、プログラムされたことしか実行できない。」という二つの主張があるが、シミュレーションは、人々に未知の事柄を教えてくれるため、どちらの主張も正しいと言える。シミュレーションが新しい知識を提供する方法において、正しい前提が与えられていても、それに含まれる意味を導き出すことは困難である。例えば、正しい前提である局地的な大気に関する方程式を人々は知っているが、膨大な変数が存在し、それらが相互作用している中で、それを導き出すのは人々には困難である。そこで、そのような複雑な条件を最初から順番に追っていくのに必要なのがコンピュータである。よく知られている法則があるという特徴を持つエンジニアリング・デザインには、このようなシミュレーションが利用されているが、構成要素の組み合わせ全体がどのように行動するかを予測する難しさをデザインは抱えている。

 人々が現象を予測する場合、通常は、複雑な実体から抽出された少数の特性のみに関心を払い、細部について予測することにはほとんど関心を持たない。現象から細部を捨てていけばいくほどシミュレーションは容易になる。そのシステムの行動を決めているものが、その一つ下のレベルの近似的で、単純化され、抽象化された特性だけであるため、科学の発展が達成されてきた。こうした特性により、人工的システムと適応的システムは単純なモデルを使用するシミュレーションの対象として適している。

人工物としてのコンピュータ

 あらゆるコンピュータは、基本的要素からできた小さな構成単位を組み合わせることでつくることができる。その単純な基本要素とは、「and」、「or」、「not」であり、これらの要素からコンピュータのシステムはつくられる。これらの基本要素が、ある確率でしか正常に機能しない時の信頼性の問題は、要素と要素間の相互連結を上手に配列することで全体のシステムが高い信頼性を確保するようにするということである。 一つのシステムについての数学的理論を立てることやそのシステムをシミュレートすることは、システムの構成要素を支配する自然法則に関して十分なミクロ理論を持っていなくても可能、或いは不要である。

 経験的なコンピュータ科学は、コンピュータ部品の固体物理学や生理学と区別される、これまでに設計されてきたコンピュータは、能動的な処理装置と記憶装置に分解でき、入力装置と出力装置に組み合わせられているという共通の組織的な特徴を持っている。コンピュータは、一時に一つのことを行うシステムで、記号は大きな記憶装置から中央処理装置へと移され、操作される。このように、コンピュータのシステムは単純な基本動作ができるだけで、記号の変換を行い、貯え、写し取り、移動、消去、比較をするだけである。このように、コンピュータの行動は単純な一般法則に従って行われ、複雑に見えるプログラムは、そのプログラムが適応しようとする環境の複雑性そのものである。このようなプログラムと環境の関係であるため、人間行動への理解を深めるために、コンピュータ・シミュレーションは重要な役割を担っている。

記号システム:合理的な人工物

 コンピュータは、人間の精神と頭脳と同様に人工物の重要なメンバーである記号システム/物理的な記号システムに属する。目標追求的な情報処理システムである記号システムは、大きなシステムのために機能している。記号システムは、記号とよばれる一群の実体を有しており、物理的パターンで、記号構造の構成要素である。コンピュータにおいて、記号システムは、記号構造にはたらきかける単純なプロセス(記号)をつくり、変更し、複製し、壊すというプロセスを持つ。記号構造は、その記号構造が適応しようとする環境の内的表現として機能し、環境を正確かつ詳細にモデル化することができ、環境について理論化することもできる。また、記号システムは記号を使って、外界の対象的、関係、行動に指示を出す。記号は、記号システムが解釈し、実行できるプロセスを指示することもできる。

 「知能とは記号システムのはたらきに他ならない」という経験的な仮説を、経験的証拠によって第3章と第4章で検討する。第2章では、物理的な記号システムの機能として人間の知能を捉えるための抽象化と理念化について検討する。

(高松祥大)


第2章 経済的合理性: 適応機構 (pp.31-59)

【解題】サイモンはこの章で何を言いたかったのだろう。1978年に「経済組織内部での意思決定プロセスにおける先駆的な研究を称えて」ノーベル経済学賞を受賞した3年後の1981年の講演内容なので、「限定された合理性」をキーワードとして人工物「経済」について書きたかったのかもしれない。ただし、当時サイモンは経済学・経営学からは遠ざかっていたせいか、ここで書かれている当時最新(1980年前後)の理論についての解説はかなりあやしい。たとえば、「囚人のジレンマ」状況におけるAxelrodの協調行動の進化の話は局所的なピックアップだし、2009年にノーベル賞を受賞することになるWilliamson (カーネギー学派)のMarket and Hierarchies取引コスト理論の解説(pp.40-41 邦訳pp.47-49)は不正確で、いずれも読者は読んでも理解できないだろう。(高橋伸夫)

 前章で論じた外部環境と内部環境は、経済においてどう定義されるのか。外部環境は、各レベルにおける他の行為者、企業、市場、経済などの諸行動によって、定義される。一方、内部環境は、個人、企業、市場、経済がそれぞれに持つ目標と、合理的適応的な行動をなし得る能力によって、定義される。経済学は、外部環境と内部環境の相互作用、および実質的合理性 と手続的合理性 によって、どのように制約されるかを説明するのに役立つ。

経済主体

 教科書に見られる企業の理論は極めて単純なものであり、企業の内部環境は目標(収入と支出の差の最大化)によって完全に定義され、外部環境は費用曲線と収益曲線によって定義される。 この場合、内部環境の下で外部環境に適応していく人工システムの全ての諸要素が見出されるため、単に実質的合理性だけを考えればよい。しかし、現実はそれほど単純なものではない。

手続的合理性 現実では、企業は、製品の数量だけでなく、製品の種類も選択しなければならない。そして、各種の製品の設計、生産、プロモーション、販売など様々な手続きや構造を工夫しなければならない。このような工程を経て、教科書から実際のビジネスシーンに近づいていく。しかし、現実に近づくごとに、問題は、正しい行為の代替案を見出すこと(実質的合理性)から次第に、良い行為の代替案がどこにあるかを計算するその方法の発見(手続的合理性)へと、移っていく。そして、企業の理論は、不確実性下の推定の理論となり、またコンピュテーションの理論となる。

オペレーションズ・リサーチとマネジメント・サイエンス 応用科学のオペレーションズ・リサーチ(OR)と人工知能(AI)は、企業が手続的合理性を達成するのに役に立つ。ORは現実を近似して最適である解を求めるモデルで、一方AIははるかに複雑で構造化の難しい問題空間の中で発見的探索 が行われるモデルである。ORとAIは従来、企業の中間管理者の意思決定に主に利用されてきた。そしてトップ・マネジメントは経験豊富な経営幹部によって処理されている。なぜなら、「判断」は大量に記憶されている情報を利用した、非数値的な発見的探索法にほかならないからである(第3章・第4章で詳細)。

満足化と要求水準 人はできないことをやろうとはしない。同様に、企業も最善の解が得られない問題に対し、十分に良い解を与える手続きに頼るのである。そのため、現実の経済主体は、他に選択の余地がないゆえ「十分に良好な」代替案を受け入れる満足化を追求する人である。上記のように、満足化と最適化は異なるものであり、その差異は重要であるとサイモンは主張している。 とはいえ、満足化も最適化と同様に、ある共通の効用関数ですべての代替案を計測できなくてはならない。それが要求水準である。満足を測る温度計の特性として、(i)効用関数と異なりプラスマイナスの値が存在する、(ii)比較的安定した生活環境の下で測定すれば、ゼロ・ポイントに向かって回帰していく、が考えられる。要求水準はこれらの現象に対応し、各次元で達成可能と期待されるものによって定義される。現在の実績水準と比較して、上回っていればプラス、下回っていればマイナスと記録される。すべての次元において要求水準を満たしていれば、代替案は採用される。一方、満たしていなければ、要求水準が低下し、新たに満足できる代替案を探す。その繰り返しを行う。この選択の理論は人間の計算能力の限界を認め、効用最大化理論よりもはるかに人間の意思決定に関する観察結果と一致した内容を持っている。

市場と組織

 経済学は今まで大きな人工システムすなわち経済とその主要な構成要素である市場とに、主な関心を寄せてきた。しかし、我々はそれと同等の注意を組織にも向けなければならない。なぜなら、「市場」経済の典型であるアメリカ経済でも、人間が担う経済活動の80%は企業などの組織の内部環境の中で行われているからである。

見えざる手 たがいに利己的な打算で反応する膨大な人々の生産、消費、購買といった諸行動が、市場を通じ諸資源を配分していくメカニズムである。

不確実性と期待

(侯東郡)

企業組織

 組織の内部環境でおきている経済活動に話題を転換する。ここで重要な問題は、組織と市場との境界を決めるものはなにか、また経済活動を組織するのに、いつ一方が使われ、いつ他方が使われるのか、ということだ。

組織-市場間の境界 新制度派経済学は、市場よりも組織が好ましいとするが、経済主体全てが利己的に動くと仮定しているので、組織目標に向かって働くよう報酬と監視をするコストが不可欠になる。しかし、この説明は、組織内意思決定の分権化への機会について触れていない。分権化への機会は、従業員の組織への忠誠心の強さに依存し、また組織目的への一体化にも依存する。

分権化 企業組織は、市場と同様、巨大かつ分散化されたコンピュータなのであって、意思決定過程は実質上分権化しているのである。いかに分権化されていようとも、市場と組織は、効果の面で決して同等と言うわけではない。理想的な競争市場で証明されうる資源分配の最適性に関するいかなる定理も階層組織では証明されない。しかし、このことから実際の組織が実際の市場よりも効率が悪いという結論が出てくるわけではない。

外部性 外部性との関連で、市場と対比的に組織を論ずることがある。外部性への救済策は、行政的なそれであり、市場機構によって自動的に決められる解決策ではない。企業内の事業部間にも、市場と同等の外部性の問題が現れるが、各事業部間や各部門間の取引を全て内部市場に委ねても、内部市場価格は競争価格ではなく交渉価格になり自動的に決められるものではない。

不確実性 不確実な状況の下では、柔軟性を要求される。市場は不確実性が存在する場合、最大の柔軟性を与えるとは限らないので、意思決定において市場よりも組織の方が有利だ。

組織への忠誠心と一体化

 組織の中で多く活動が行われる重要な理由は、人が自分が所属する組織に忠誠心を持っているからだ。

一体化の帰結 組織への忠誠心は、動機的で認知的であるため、一体化と名付ける。これには、個人目的を犠牲にしても集団目的のために献身するという動機的な要素と、組織の成員は組織外の人々とは違った情報や概念や思考の枠組みを持っているという認知的な要素がある。組織が個々に与えた思考の枠組みや情報は、意思決定の過程や結果に大きな影響与え、部、課、組織全体に一体化する。その結果、組織成員は、自己の利害を犠牲にして組織目的を追求する。

一体化のための進化的基盤 人間は基本的に利己的で、利他的には行動しないと言う反論は間違っている。

これら2つの理由から従順な人は、社会的な影響を受け適合力を高められる点で大きな利点を持つ。だから、その成員の従順さ、あるいは利他主義が組織の適合性を高める。現代社会における市場と組織の役割は次のように要約することができる。
  1. 各人が互いに相手の行動を予測しないで済むよう、調整された仕方で、相互依存的活動が最もよく遂行されるような場合には、いつでも組織が現れてくること。
  2. 組織を存続させるとともに、個人の努力が、その報酬と密接に結びつかないときに現れる公共財問題を緩和させをする、そういった人間の動機付けは、組織への忠誠心や組織への一体化によって与えられること。
  3. 組織の場合も市場の場合も、人間の合理性に制約があるからこそ、どうすれば、個人的に利用可能な限られた情報だけで意思決定することができるのかに重大な関心が向けられること。

進化モデル

 進化過程は、組織への忠誠心の説明に加え、企業を含む経済諸機関の歴史的な発展過程の記述や説明にも重要である。進化は、ジェネレーターとテストと言う2つの過程で考えられる。ジェネレーターとは、新しく形態を生み出すことで、テストは新しく生成された形態を選別し、環境に適した形態のみが生き残るようにすることである。

経済人に対する別の理論 現代の組織と市場の経済は、熟慮の結果ではなく進化の過程でたまたま適応的な行動をした行為者を自然が選択するによって実現したものである。一方で、企業活動における個々の行為者は、慎重に合理的な選択を行うことで適用が実現されることが想定されている。 企業の進化論的な議論は、事実、最適化のことを意味しているのであろうか。

局所的最大化と全域的最大化 ここでの問題を扱う際に、局所的最大化と全域的最大化との相違は決定的に重要である。経済の世界は、局所的な最大化現象に富んでいる。

進化の近視眼的側面 経済システムが進化し適合的になったとはいえ、完全競争の理論に見出される全域的な最大点すなわち最適な均衡状態にあると言える合理的な根拠はどこにもない。このようなシステムの進化と将来の姿は、その過去の経緯に関する知識からのみ理解し得るのである。

経済的進化のメカニズム 企業が見せる環境への適応を生じさせるメカニズムは何であろうか。企業は、その仕事の大部分を標準的な業務手続きによって成し遂げる。したがって、進化はこれら標準的な業務手続きのアルゴリズムの革新と変革を生み出す全ての諸過程から生ずる。また、適合性のテストは企業の収益性と成長率である。収益性の高い企業は、利益の再投資及び新投資への魅力などによって成長する。また、経済的進化において成功したアルゴリズムは、企業間で借用されlamark的な進化論にしたがって進化する。なぜなら、新しい着想は、業務手続の中に組み込み企業間で移転することが可能だからだ。以上より、企業や経済の進化は簡単に予測できるような均衡点には導かれないのである。ましてや最適点に導かれるとは到底言うことができない。それらの進化は、無限に継続する複雑な過程であって、その進化の歴史を検討することによって最もよく理解される。ほぼ同一の地点からスタートしても、その後分岐していく経路を持つような動的システムの場合には、経済学的均衡理論は、そのシステムの現状や将来を説明するのにほとんど役立たないのである。

人間社会

 本章では知性の適応能力を問題の中心に据え、複雑な事態を示唆しようと努めてきた。経済人と経済制度に関わる真の描写のためには、彼らの内部環境によって、課せられた情報処理能力の限界を組み込まなければならない。また、経済的意思決定者の意識的合理性の側面のみならず、経済制度を作り上げてきた非計画的な、しかし適応的な進化過程の側面をも取り入れなければならない。そこで、人間の限定された合理性への適応という中心的な人間問題に広く利用されている解決方法として個別組織と社会組織の諸形態を取り上げたのである。以上の分析によって手続き的合理性の用具をいっそう深く理解するためには、人間知性の働き方や人間合理性の限界など、もっと綿密に検討しなければならないことが示された。第3章では問題解決過程と一般的認知構造に焦点を当て、第4章では、記憶と学習過程に焦点を当てることにしたい。

(金田悠吾)


第3章 思考の心理学: 自然と人工の結合 (pp.61-99)

【解題】生物としての人間は複雑だが、行動システムとしての人間は単純で、人間の行動の外見上の複雑性(apparent complexity)は、冒頭の「サイモンの蟻」(Simon's Ant)と呼ばれる例に出てくる蟻同様に、環境の複雑性を反映したものにすぎない。神経生理学的にどうなっているのかはまだわからないが、どんな人間も
  1. 情報処理システムは基本的に直列的で、
  2. 短期記憶の容量はわずか7チャンク程度で、
  3. 1チャンクの情報を短期記憶から長期記憶に移すのに8秒ほどもかかる。
ということは分かってきている。人間の行動システムの単純さはここから来ている(p.86 邦訳p.102)。そしてサイモンは、こうした行動システムを扱う心理学もまた人工物の科学なのだと主張する(p.75 邦訳p.89)。(高橋伸夫)

 この章で検討したい仮説は以下の通りである。「1つの行動システムとして眺めると、人間は極めて単純なものである。その行動の複雑さは、主として彼が置かれている環境の複雑性を反映したものに他ならない。」すなわち、生物の行動の複雑さは脳の構造といった内部構造の複雑さからくるのではなく、外部環境の複雑さからくるものであるという主張である。書籍内では、蟻が目的地まで真っ直ぐ歩けず複雑なルートを辿る例が出ている。蟻が複雑なルートを辿る理由は蟻が自発的に複雑な意思決定をしているからではなく、目的地までの道筋に障害物がたくさんあること(環境の複雑性)の結果である。

人工物の科学としての心理学

探索戦略 ある問題を解決する行動はその問題の性質から規定される。解決者の特質から導かれるわけではない。ただ、情報処理能力の限界は問題解決行動に制限を加えるだろう。

概念到達の速度に関する限界

 人間の思考について次の二つのことが判明した。

 ここで、戦略の知識と訓練が人間の行動に与える効果について述べたい。人間の行動に影響を与えるのは能力の制限のみではない。戦略の知識や戦略探索等の訓練も人間の行動に影響を与える。しかしながら、これらは内在的な特性ではない。「いつ、どのようにして人間がある事柄を学ぶかという問題は実に難しいが、我々は習得された戦略を、人間の根底にある生物学的システムの内在的特性と、混同してはならないのである。」
(山田洋平)

記憶に関するパラメータ: 1チャンクにつき8秒

 ここまで述べてきた少数のパラメータが人間の認知行動に現れる内部システムの主要な制約点だとするとパラメータの測定は実験心理学にとって重要な課題となるはずだ。しかし、典型的な実験範例はパラメータの推定というよりも、仮説の検定に関わりを持っている。実際、推量の基礎になるべきパラメータは記述されず、有意水準や分散分析の結果のみを報告するという慣行がよくみられる。また、実験心理学の報告書のあり方にはもう一つの苦言がある。それは、理論に最も関係の深い行動の測定尺度の選択にほとんど注意が払われていないということである。例えば、学習実験でいわれる「学習率」が「ある基準に対する試行の回数」「錯誤の総計」「ある基準に対する必要時間」などのようなその他の尺度とほとんど無関係に報告されている。これは、これから筆者が述べるようなパラメータの「一定性」を隠蔽してしまう。その点、Ebbinghausは分別があり、自分自身を被験者として無意味綴りを学習するという実験の中で、学習に必要な繰り返しの回数と時間の長さの両方を記録していた。また、S. S. Stevens編『ハンドブック』においても、C. Hovlandは大学2年生が無意味綴りを記憶するには10秒から15秒の時間がかかることがわかり、ドラムの速度が増したとき、ある基準に対する試行回数はそれに比例して増加するが、総学習時間は本質的には変わらない。以上のような実験から学習に関するパラメータが1綴りあたり15秒だということがわかる。

 また、有意味性も非常に重要な変数である。高い連想値を持った無意味綴りはそうでないものに比べ、所要学習時間が約3分の1になる、さらに、文章を形成している散文の中の1語あたりの学習時間は、関連のない言葉のつながりからなる学習の約3分の1である。機械的言語学習に関する文献の中で上記の現象を最も合理的に説明しているのがEPAM理論である。EPAM理論では、「チャンク」とは何かを理解させてくれる基盤を提供している。チャンクとは、刺激に関する最大熟知単位である。例えば「QUV」という無意味なチャンクは「Q」「U」「V」というチャンクで形成されている。しかし、「猫」を表す「CAT」という言葉は、それ自体が一つの親密なまとまりを形成しており、1個のチャンクとなっている。EPMAでは、1つのチャンクを定着させるのに要する時間について、ある一定性を仮定している。

記憶に関するパラメータ: 7チャンク、あるいは2チャンクか

 学習や問題解決の実験に現れる内部システムの2番目の制約的特徴は短期記憶にとらえられうる情報量である。ここでもチャンクという単位が重要になる。短期記憶に関する最近の実験から以下のような事実がわかっている。被験者が一連の数字や文字を読み取って、それを単純に逆方向に言い返すことを求められた場合、一般に7、長くても10アイテムまで正確に言い返すことができる。しかし、それがどんなに単純なものであっても、何か他のことが聞き取りと言い返しの間に介入してくる場合には、記憶しうる数は2に落ちる。もし、10アイテムが2チャンクとして記号変更されるならば、10アイテムが保持されたたということになる。

組織記憶

 筆者は上記のようなパラメータが標準的な心理学実験によって示される情報処理システム上のほとんど唯一の特徴であるという仮説を示しているとは主張していない。行動が単純で環境だけが複雑な状況下においては、人間行動を左右する諸法則の中に複雑性を持ち込む必要はないということを筆者は主張している。

刺激のチャンク化 記憶は一般的に「連想的」な仕方で組織されるとされているが、この連想的という言葉の意味はあまり明瞭ではない。そこで、今回は2つの意味をあげる。1つ目は、McLeanとGreggによって示されている。彼らはデタラメに並べられた24個のアルファベットの文字を被験者に与えたが、1回ごとに書かれている文字を示されチャンク化するように仕向けると、一度に全部を記憶する場合に必要な時間に比べ、およそ半分の時間で学習を完了した。また、二人は学習された結果が1つの長いリストとして記憶されているのか、チャンクの階層構造として記憶されているのかを明らかにすることを試みた。その結果、アルファベットは短い部分系列の連鎖として記憶されており、その部分系列はチャンクの部分的な長さに対応していた。

視覚的記憶 McLeanとGreggの実験の素材は記号の連鎖であったが、それと同様の問題を2次元の視覚的な刺激に対する情報の記憶形態についても検討することができる。これを検討するためによく用いられる実験の一つを紹介する。被験者に以下のような魔方陣(縦、横、斜めに足すと15になる)を視覚的刺激として記憶させる。
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  3 5 7
  8 1 6
そしてこの刺激を取り除いたのちに、3の右側にある数字は何か、5の真下にある数字は何かなどのような一連の質問を行う。これらの質問は難しさの増大に対応させて質問を配列し、最初の問題に答えるよりも最後の問題に答える方が、時間がかかることを期待して作られた。これはなぜか。記憶にとどまっている心像が、対象物をそのまま映しとった写真と同一ならば、異なる質問に対しても、相違ない所要時間で答えるはずだからである。しかし、最後の質問の方が時間がかかったことから、記憶されたものは写真とは全く異なる仕方で組織されていると結論づけなければならない。同様の実験がチェス・プレイヤーに関しても行われた。この実験の中で、被験者はゲームの駒組みを数秒間見せた後、それを再現するように求められた。その結果、チェスの上級者は正確に再現できたが、中級者は再現することができなかった。しかし、同じ数の駒を今度はデタラメに盤上に並べた後に崩し、再現を要求すると上級者であろうと再現をすることはできなかった。この実験からもチェスの上級者は特別な写真記憶能力を持つのではなく、駒と駒との相互関係で記憶を行なっていることが証明された。以上のようなことから記憶というものはリスト構造の体系であり、それが2項を結びつける説明的な部分と短い3、4個の部分からなるリストを含むものであるという仮説に達することができる。

想像力 これまで議論してきた実験は、視覚上の長期記憶に関連するばかりではなく、心像を保持したり処理したりする場の短期記憶たるいわゆる想像力とも関係がある。例として、経済学者がよく使う需要と供給の図を考える。需要曲線と供給曲線の交わる点を市場均衡点と読み取ることができ、x軸、y軸から均衡量と均衡価格を読み取ることができる。しかし、これは2つの連立方程式を立てて代数的に解くことも可能であるが、そこに至るまでの経路は全く異なる。このように、いくつかの推論方法の相互作用を知るためには、それぞれの場合にどのような結論に達するのか、その計算過程を研究する必要がある。

(関口陸)

自然言語の処理

 人の思考に関する理論と言語の使用に関する問題は不可分である。言語は、前述した認知過程のプロセスにどのように結びつくのか。また、心理学が人工物の科学であるとする筆者の命題とどのように結びつくのか。変形言語学の諸理論や認知に関する情報処理論は、どちらもディジタル・コンピュータの発展によって生み出された概念から派生したものである。また、コンピュータが具体的ハードウェアとして存在しながらその魂となるのはプログラムである、という認識からこの理論は誕生した。この2つの理論は一見人間の精神を正反対に捉えているように見えるが実はそうではないように思えるかもしれない。理由は、筆者の主張は「思考というものが個人的な学習や社会的な知識伝達を通じてどのように課題環境の要件に適応していくかという特性」を強調してきたからである。その一方で型式言語学の指導的理論家は、人は先天的に言語能力に関わる基礎的な機構を持っているという「生得論者」の立場をとった。

 この問題は、言語普遍性に関する問題を想起させる。周知のように、各言語には構造的に共通する点がある。(名詞と動詞の区別や、句構造、文変換など)仮にこの能力を生得論者のいう普遍概念だとしても二つの解釈がある。

  1. 言語能力が純粋に言語のための能力であり、他の活動に活用されない可能性があるという解釈である。
  2. 会話の理解においては人間の思考に不可欠な中枢神経システムのいくつかの特徴に依存しているという解釈である。
現代言語論と情報処理論におけるこの並行論に対して、この二つ目の解釈によって説明できる。両者は階層的に組織されたリスト構造を記憶組織の基本的原理として想定する。また、記号とリスト構造の行き来にも関係している。

言語処理における意味論 言語論は従来、統語論、文法論に偏っていた。しかし自動翻訳などの応用面において、文脈や意味などの要素の影響を受けることで言語論は困難に直面した。そのため今後の言語論においては意味論が重要になると思われる。ここで述べる思考における理論は、こうした意味論の要素となる。ここで論じる記憶組織における原理は、言語の綴りや諸刺激を内的に表現する際の問題を考える際の基盤となる。上記のアプローチの利用法としてL.S.Colesの研究内容を例とする。まず、

I saw the man on the hill with the telescope.

という文章がある。望遠鏡については、私が持っているのか、彼が持っているのか、丘の上にあって彼は持っていないか、の三つの場合がありうる。しかし、この関係を示す図がともにあれば解釈は一意に定まる。Colesのプログラムは映像の対象を認識し、対象同士の関係をリスト構造として表せる。この例の場合は、

SAW [ (I, WITH ) , (man, ON ) ]

となる。この例は一連の語句の関係を解釈する上で役に立つことを例示している。Laurent Siklossyの作成した別のプログラムは、意味論的な情報が言語の習得にいかに役立つのかを説明している。Siklossyのプログラムは、インプットとして「絵で学ぶことば」の本に類似したものを取り入れている。(「絵で学ぶことば」では、各ページに絵が描かれていて、その下に学習すべき言葉で絵に関する説明文が一つあるいは複数載せられている。)プログラムの課題は、絵が示している内容を述べた文章を表現することにある。これらの例から導き出されるのは以下のような内容である。

認知問題における人間行動を説明するための記憶構造の仮定は、言葉や刺激は内的にどのように表現されるか、そして頭の中で言葉と意味を以下に合致させていくかということに関しての説明の解説に適している。その説明は言葉あるいはその他の刺激に対して階層的なリスト構造が用いられるという共通性という観点からなされる。

こうして、言語は生得的であるという主張と、言語は人工的なものであり最も人間的なものという主張との間に矛盾が存在しないことが示された。前者は、まず内的な環境が存在し、その環境が人間の情報処理を限定するという主張であり、後者は、内的な環境によって定められた言語の適応上の限界が、統語論のみに関わる限界ではないという主張である。また、この主張は外界の刺激を内的に表現する方法にも限界があることを示している。

結論

 この章では、「1つの行動システムとして人間を見ると、それは極めて単純なものであり、行動の経時的な複雑性は、置かれた環境の複雑性を反映したものである。」という仮説から始まった。この仮説は、第1章の命題、「行動は目標に適応したものであり、そのため行動は人工的であり、その適応力を制約する行動システムの特徴だけを表すのである」という命題に立脚している。この命題をいかにして検証し始めたか、そしてどのようにして行動システムにおける諸原理を理論化し始めたのかを示すために、人間の情報処理能力の領域から考察をした。この研究においては、人間の情報処理システムの中に広範な共通性が現れることが重要な点として示唆された。1度に処理できる記号がわずかであることなどから、人間の情報処理システムが直列的に動くことは明らかである。中枢神経システムの短期記憶や直列的な情報処理システムを用いることによる制限から、精神と脳の機構に関する新しい知識を得た。研究では、記憶というものは連想的に組み立てられることが示唆されるが、これはコンピュータにおけるリスト構造に類似している。

 ここでのアプローチにおいては生理学についての言及がない。この理由は、ここでの命題によって、コンピュータも脳も思考の間においては環境に自らを適応させようとするシステムであることが導かれるためである。しかし、神経生理学は人間行動の説明に寄与する要素を持つ。この章で説明した記憶構造や連想構造などの適応能力の限界を説明するために、生理学の助けを借りなければならない。

 最後に、我々が内部的な情報処理の心理学というものを生理学と結びつけるとき、それは心理学を探索の一般論理に結びつけることを期待する。この理由等については詳しくは第5章で述べるが、まずはデザイナーが用いる情報がどのように記憶されるかについて論及する必要がある。

(原口佳祐)


第4章 記憶と学習: 思考に対する環境としての記憶 (pp.101-131)

【解題】前章では、人間の行動の外見上の複雑性(apparent complexity)は、(A)人間の行動システムは単純だが、(B)外部環境が複雑で、その外部環境の複雑性を反映したものにすぎないとし、まずは(A)の人間の行動システムの単純さがどこから来ているのかを説明した。この章では、(B)の外部環境が、(1)五感を通じて理解される現実世界と(2)長期記憶に貯蔵されたその世界に関する情報の二つの外部環境からなっていると主張している。ワイクのイナクトメント(環境有意味化)の認知科学的な説明になっているのかもしれない。ちなみに、根拠はよくわからないが、直観のきく熟達者は5万チャンクの長期記憶が必要で、その知識量を蓄積するには10年はかかる(pp.89-91 邦訳pp.105-108)という記述は、本当であれば面白い。(高橋伸夫)

 人間の思考過程が単純であるという仮説は、情報処理に関する研究から得られたものである。その研究の多くは前章で検討された降伏算術の問題や概念到達の問題と似たパズル的な問題を取り扱っていたが、それらは記憶や技能に依存しない問題である。人間の思考に関する研究はこれらの比較的無内容の問題から始めるのが妥当ではあるが、しかしそこで留まるべきではない。過去10年の間に認知心理学や人工知能の領域はますます豊かな領域、すなわち本質的で意味ある内容が含まれており、それをうまく取り扱うには記憶された大量の専門知識を必要とする領域に目を向けつつある。そして我々が意味豊かな領域に目を向けるにつれ、単純性と複雑性に関する新たな問題が浮かび上がってくる。この章では、人間の能力に関する結果とコンピューターシュミレーションの結果とが単純性の仮説を一般に支持するものであることを見ていく。記憶の増大が複雑性の増大を招くとは限らないのである。

意味豊かな領域

 人工システムの環境を内外に分けようとするとどうしてもその境界線はある程度恣意的になる。人間という問題解決者に対しても同様の見地を取り入れることができるが、この場合も問題解決の基本的用具は前章で述べた情報処理過程の小さなレパートリーである。情報処理者は二つの主要な構成要素からなる外部環境に影響を与える。一つは「現実の世界」で、もう一つは長期記憶に貯蔵され、再認ないし連想により検索されうる、現実世界についての大量の記憶情報である。意味豊かな領域で問題を解く場合には、問題解決の探索活動はその大半が長期記憶の中で行われ、その記憶内の情報によって方向づけられる。

長期記憶 人間の長期記憶に関するある程度の事実は前章で示されている。長期記憶は本質的にその限界はない。記憶は通常連想的なものとして描かれるが、それは記憶の中のある思考が検索されるとそれがさらに別の思考を導くからである。情報は連結されたリスト構造の形で貯蔵されている。長期記憶を図書館として考えることができる。すなわち、自由に交差的に参照でき(連想リンク)、かつ複数のエントリーを通じて直接アクセスできる精巧なインデックス(再認能力)つきのトピック貯蔵情報(結節点)として考えることができる。長期記憶は、現実環境と並んで、あたかも第二の環境のように作用するのであり、また問題解決者はそれを通して探索を行いかつその内容に応答していくことができる。病状診断は意味豊かな領域の一例である。医師の診断方法には二つの過程が浮かび上がってくる。一つは「再認」で、症状によって即座に病気を仮定するものであり、もう一つは「探索」の過程で、これは第3章においてより単純な問題解決課題を述べたときに識別したものと似ている。探索活動は二つの環境、つまり医師の記憶する医学的知識と患者の体のもとで交互に実施されることになり、一方の環境で収集された情報はもう一方の環境での探索活動の方向づけに利用されるのである。

直観 熟達者は時々、未熟者が長時間探索活動をおこなった後にようやく見つけ出すような解答を「直感」によって即座に導き出すことがある。直感はかなり容易に説明しうる現象であり、要するに大抵の直感は再認活動のことに他ならない。チェスゲームを使って考える。チェスのグランドマスターはおおよそ5万のチャンクを長期記憶に貯蔵している。グランドマスターの技能は、記憶された5万チャンクの中に存在するということもできるし、また盤上の駒組みが記憶されたどのチャンクに当たるかを確認し、かつそれに関する情報を長期記憶から探りあてることを可能とならしめるようなそういった索引の中に存在するということができる。おなじみのパターンに関連する情報は、そのパターンに直面したとき次に何をするべきかという情報も含んでいる。したがって、熟達者は自己の立場を認識するだけでなく、次にどのような手を打つべきかも理解しているのである。

情報量はどの程度か? 5万チャンクという数字は、人間が新しい情報を長期記憶に貯蔵する速さから判断すると、10年を要する知識量であるといえる。

情報処理過程のための記憶 これまで記憶というものが主にデータの塊から構成されているかのごとく議論してきたが、熟達者は知識だけでなく技能も兼ね備えている。彼らは状況を把握しその状況に関する情報を準備する能力のみならず、そのような状況に遭遇した場合それに対処するための強力な専門技術も持ち合わせている。知識と技能の境目は微妙である。しかし、専門的な知識や技術は依然として長期記憶の外部環境に存在するとみることができ、かつそれらの知識や技能は問題解決に際し探索活動を制御したり方向づけたりする一般的な情報処理過程によって引き出されるものである。

理解と表現

理解するプログラム UNDERSTANDというコンピュータプログラムは人間が使う情報処理過程をシミュレートするものである。問題文を解析し、ついで解析文から抽出された情報から表現を作り上げるという二つの段階を通じて情報処理していく。UNDERSTANDは、まず状態を表すフォーマットを作り、次にある状態を他の状態に変化させるいわゆる規則にかなった動きのプログラムを作る、といった形で進んでいく。リスト構造は、あらゆる種類の記号情報を表現する極めて一般的な能力を持っているので、原則として理解のために現実の世界に関する知識を必要としないパズル的問題に関しては実質上どんなことも表現できる。なぜならそういった問題はどれも対象、対象間の関係、諸関係の変化といった形で記述できるからである。

物理学を理解すること 一方意味豊かな領域における問題を理解するには、その領域に関する知識をあらかじめ持っていることが必要である。これがパズル的な問題と異なるのは、それが現実の問題に関わっているからではなく、既知であると前提されている事柄に関連しているからである。プログラムISAACはさまざまな事項に関する情報を、問題対象を記述し、それに関する情報を提示する簡単なスキーマで記憶しているため、このような問題を理解することができる。ISAACは意味豊かな領域の問題を理解するための典型的なものであり、知識は2通りの方法でプログラムに貯蔵される。一つは要素スキーマによるもので、これは問題状態に表現を与える指針となるものであり、もう一つは均衡方程式を作る手続きである。 二つのプログラムを比較してみると、UNDERDTANDは問題指定に含まれている情報だけを頼りに、問題表現とオペレータを問題状況全体から作り上げていかなければならないのに対し、ISAACは問題文で取り上げられている事柄と記憶に貯蔵されているスキーマや物理法則とが正確に対応しているか否かを見出さなくてはならない。最も精緻な理解システムはこれら二つの能力を結合させたものであろう。既存知識のない新しい領域と既存の理解するプログラムは、既存知識を持たない新しい領域で人間がどのように問題を把握できるのかを説明する一連の基礎的メカニズムを与えるものであり、またひとつの理論をあたえるものである。

規模と単純性 問題・理解プログラム(problem-understanding programs)は外部世界から情報を入手し、それをリスト構造として長期記憶に貯蔵されていく知識に変換する。極めて断片的かつ曖昧な外界の写真を記憶した場合、問題解決過程の一部は、外部世界の代わりに内部世界で行われる。より多くの知識が得られるにつれ、記憶量は本質的に際限なく増大する、しかし記憶力が増大しても、記憶そのものは同じ基本的な要素から構成され、また同じ原理にしたがって組織化索引化され、さらには同じ基本形の処理過程で操作されていく。こうして我々は規模が拡大したからといってシステムが複雑になったとも言えるし、また基本構造に変化がないのだから単純なままであるとも言える。人間は頭の中に多くの領域の知識を記憶するが、領域の多様性は必ずしも領域での問題処理の複雑さを増大させるわけではない。人間の記憶力の増加はこれを思考過程の複雑さの増加と見るよりも、思考過程の生ずる環境の拡大と考えるのが最もよいのである。記憶構造全体に関する驚くべき事実は、思考システムは記憶の力を借りて、茶会問題や物理学のような問題を理解し解決するのと同じ基礎装置を使いながら、相違なるかなり広範な議題を効果的に処理していることである。

(加藤優里)

学習

 思考にとっての外部環境たる現実世界と長期記憶とは、共に絶えず変化し、その変化は記憶内で適応的に生じている。人間の思考に関する科学理論は、記憶内容に関わるこの変化の過程をも考慮に入れなければならない。もしも人間の知的システムが真に単純であるならば、その単純さは、変化の基礎にある不変要因を見出すことによってのみ明らかとなる。我々は学習過程なるものを、単純かつ一定の方法でその変化の過程を説明できる不変化された変化要因(unmoved mover)と想定することができるだろう。学習とは、環境適応能力に多少なりとも永久的な変化を生みだすような、そういったあるシステムにおける変化のことである。理解するシステム、特に新しい領域で問題を理解することのできるシステムは、学習するシステムなのである。学習は様々な形で行われるが、それらは認知システムの主要な構成要素に対応して、ごくわずかな基本的な種類にまとめられる。人間の学習の大部分は、我々が今まで述べてきた記号処理システムの枠の中で説明し得ると信じてよい理由が存在する。

理解を伴う学習 暗記学習より有意味学習の方が、より迅速に学ぶことができ、またより長期間記憶にとどめておくことができると同時にさらに、新しい問題にもより応用が利く。暗記学習と有意味学習との相違が実際面で非常に重要であるにもかかわらず、その相異は情報処理論的にまだ完全には理解されていない。相違の一部は、索引化(indexing)の問題である。すなわち、有意味な資料は適宜即座に取り出せるような形で索引化されている。また一部は有意味な資料が重複度の高い形で貯蔵されていることにもよる。そのため、ある部分を忘れたとしても、記憶に残っている他の部分から全体を再構成することができる。また、有意味な資料は手続き的な形で貯蔵されており、一般的問題解決過程やその他の処理手続きが、容易に利用できるような方法で表現されている。これらすべては、さらに今後研究を要する、理解と意味との側面である。

プロダクション・システム プロダクション・システムが学習するシステムを組み立てるのに良い点は、その構造の単純性と画一性である。プロダクション・システムは、任意の数のプロダクションの集合なのであり、個々のプロダクションは、1組のテストないし条件(conditions)と1組の行為(actions)とから構成されている1つのプロセスである。人間の認知活動をシミュレートするシステムは、2種類のプロダクションから構成されているように考えられる。1つは、その条件が短期記憶の内容をテストするプロダクションであり、もう1つはその条件が外部世界に関する知覚をテストするプロダクションである。プロダクション・システムとして今日まで、数多くの認知的シミュレーションがモデル化されてきた。しかしモデルをつくる上でプロダクション・システムがとくに魅力的なことは、それに学習能力を賦与し、適応的なプロダクション・システムをつくることが比較的容易であるという点にある。

例示からの学習 例えば、ある頭のよい学生が教科書で代数方程式の練習問題に出合い、しかもそれを解く手続きをいままで学習していない場合、彼は例題を分析し、推論することによって新しいプロダクションを学習する。この場合のプロダクションは、上述した我々のプロダクション・システムに含まれる第2のものである。こうした例示からの学習の考え方は、「行為を通じて(by doing)」学習する方法に拡張することができ、AnzaiとSimonはこの種の「行為学習(learning by doing)」図式を、ハノイの塔(Tower of Hanoi)パズルのために作成したが、それは連続的に何度かその問題を解くことにより、次第に効率的かつ一般的な戦略を獲得するものである。

発見過程

 学習を行う際、何が新奇なのかを決めるのは、問題解決者がすでにどれだけの知識をもっているかということと、環境からどのような支援が得られるかということに依存している。したがってわれわれは、学習システムで用いたのと同様の処理過程を、新しい知識を発見するシステムをつくる際にも利用し得る、と期待してよい。

目標がない場合の問題解決 1963年に開発された初期の発見プログラムは、外挿法によって文字のつながりを完成させる問題を解くものであった。中心的な発想は、データに含まれるパターンを探索するのに仮説ジェネレータを使うこと、および探索を継続していく際にパターンが示されるごとにそれを利用することの、2つである。これは、我々に旧知の、発見的な探索法「以外の何物でもない」。初期の発見プログラムの別のものは、AMである。その課題は、おもしろい新概念やそれらに関する興味深い推測を発見することであった。AMは、何がおもしろいかを判断する規準をもつとともに、(best-first探索に依拠した)1組の探索ヒューリスティクスと、さらにある課題領域に関する初歩的な知識(たとえば集合論の初歩)を持っていた。

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古典物理学の再発見 非常に興味深い第2の発見システムは、P.LangleyのBACONプログラムである。BACONは、多数の数値データの中から不変数(invariants)を発見し、それを説明するために新しい概念を導入する。AMと同様、基本構造の面で、BACONにはとくに目新しいものはほとんどない。AM、BACONの両プログラムおよびその後継プログラムは、我々に、発見過程が人間の認知活動に新たな種類の複雑さをもたらすものではないことを信じさせる、いくつかの根拠を与えてくれる。

新しい問題表現を見出すこと どのような問題解決活動も、問題に合った表現、つまり解の探索が行われる問題空間をつくることから始めなければならない。我々は、多少拡張したり変形したりしても、以前に出会った問題空間のいずれにも適合しないような状況に遭遇することがある。頻繁に表現問題が現れてくるのは、すでに知られている表現を単純に利用することと、新たな計算法を発明することとの、中間地帯においてである。「損なわれたチェッカー盤」として知られる難しい「洞察」問題の研究において得られた重要な示唆は以下の通りである。ある問題に関わる状況のうち特定の諸特徴に焦点をあてた上、それらの特徴をもたないものは除去し、それらの特徴を持つもので1つの問題空間をつくるのである。このアイデアは、表現変更の理論をつくるのに最初の一歩にはなるであろう。

結論

 記憶に関してここで見出されたことは、人間の認知に関する複雑性や単純性についてわれわれの基本的な考え方を修正する必要はどこにもない、ということである。つまり、内部環境すなわちハードウェアは単純であり、複雑さは外部環境の豊かさ、すなわち五感を通じて理解される世界と長期記憶に貯蔵されたその世界に関する情報との、この2つの外部環境の豊かさによるものである。人間の認知過程に関する科学的説明は、内部環境に関するパラメータや一般的な制御と探索指示のメカニズム、学習および発見のメカニズムなどの一連の不変数によって記述することができる。人間有機体の適応能力、すなわち新しい表現や戦略を獲得し、高度に特定化された環境に手慣れたかたちで取り組めるようになる能力は、それ自体、われわれの科学的研究のそしてまた人工物のまさに原型にかかわる曖昧ではあるがしかし魅力のある対象となっているのである。

(遠藤央基)


第5章 デザインの科学: 人工物の創造 (pp.133-165)

【解題】この章の冒頭で「望ましい性質をもった人工物をいかに作り、いかにデザインするか」(p.111 邦訳p.133)を教えることが工学部の仕事だったのに、20世紀に自然科学がカリキュラムから人工物の科学をほとんど駆逐してしまったために、工学部は物理学部や数学部になってしまったと嘆いているが、身につまされる。この章で、サイモンは、サイモン流のデザイン論(人工物の科学)とそのカリキュラムに含まれるべきトピックスを示している。要約にまとめられている7項目や章内にちりばめられている諸理論は、私のような人間、つまり1970年代〜80年代に大学の管理科学科や経営工学科でいわゆるオペレーションズ・リサーチ(OR)/マネジメント・サイエンス(MS)系の教育を受けてきた人間にとっては、どれもなじみのあるトピックスである。そう、OR/MSは経済学のように体系的な教科書で(誰が教えても同じように)教える科目とは違い、確かに「トピックス」として講義されることが多かったのだ。その意味では、より良き社会システムをデザインできるはずだという当時の時代的な雰囲気と嗜好を見事に反映した内容の章になっていると感じる(今の若い人にそれが伝わるかは疑問だが)。もっとも、その時代に育った私のような人間でも、それが人工物の科学であり、デザイン論なのだと言われてしまうと、やや拍子抜けするが、なるほどと納得する部分もあり、(明らかに経済学とはスタンスが異なり) 確かにOR/MSでは、社会のシステムをデザインすることを教えていた。例えば、同じ効用関数を使っても、経済学が均衡が存在することを証明するのに使ったのとは対照的に、OR/MSは最適解・満足解を求めて、その解を実現するシステムを(デザインして)提示することを目指した。にもかかわらず、21世紀に入ってOR/MSや経営学の学術論文から、どんどん人工物の科学が駆逐されてきているのは残念な現実である(それ故、身につまされる)。ある意味、この章で散漫な感じで繰り広げられるサイモン流のデザイン論は、本書の核心部分なのだろう。昔から、経営学はアート(art)かサイエンス(science)かという議論があったが、サイモンは、少なくとも大学の経営学は人工物の科学であるべきで、そのカリキュラムからアート的な要素を駆逐すべきではないと主張していることになる。別の言い方をすれば、論文で評価される学問分野はあっていいが、作品で評価される学問分野もあるべきなのだ。(高橋伸夫)

 歴史的にも伝統的にも人工物について教育することは工学部の任務であった。しかしながら、デザインは全ての専門教育の核心をなすものであり、それは専門的知識を科学的知識と区別する主要な標識をなすものである。それにもかかわらず、自然科学は専門学部のカリキュラムから人工物の科学をほとんどすべて駆逐してしまった。すなわち専門教育のカリキュラムからデザイン研究を放棄したということであり、この結果生じた専門能力の欠如は次第に問題となっていった。そこで、こうどの知的水準で人工科学と自然科学とを同時に教育できる学部を考案する必要が生まれた。この問題の核心は人工科学の中にある。人工的な世界は内的な環境と外的な環境との間の接面に位置しており、内部環境を外部環境に適合させることによって目標を達成するということに関わっている。この中心問題がデザイン過程それ自体であり、専門学部はデザインの科学、すなわちデザイン過程に関する知的に厳密で分析的な学術体系を見出し、教えることが必要になっていった。

デザインの論理(The logic of design): 固定的な代替案

命令論理(imperative logic)のパラドックス 明瞭な命令論理あるいは規範的な義務論理に不可欠なものを明らかにするために従来から各種の「パラドックス」が考え出されてきた。これらに挑戦するために数多くの様相論理(modal logic)が構築されてきたが、それらはいずれもデザイン過程に関する論理上の諸条件を取り扱うのに適切であると証明されるほど十分には開発、応用されていない。しかしこの証明は不必要であり、デザインにとって様相論理が必要とされるか否かが問題なのである。

叙述論理(declarative logic)への還元 デザインにどのような種類の論理が必要となるかを見出す際、人が要求しうる限界いっぱいまで推論する高度なデザイン活動には「最適化方法」が存在している。これにより、制約条件と両立しうる許容値の集合のうち、環境パラメータが与えられたとき、効用関数を最大化する命令変数を求めるという形で、最適化問題を数学問題として議論できるのである。

以上【トピック1】【トピック2】

最適値(optimum)の計算 デザイン科学のカリキュラムには「与えられた代替的選択対象から合理的な選択を行うための論理的枠組みとしての効用理論と統計的決定理論」と「利用可能な代替的選択対象のうち、どれが最適値であるかを実際に計算するテクニックの体系」の2つの中心的なトピックスがある。前者はコンピュータが膨大な知識と適当な基準関数を強引に計算することにより対応されており、後者については実際の応用面においてはプログラミングや待ち合わせ理論、および制御理論などが利用されている。

満足行動の発見 計算技術の問題は最適化のみでなく、不等式、すなわち満足すべき性能についての仕様を一層多く利用する。このような意思決定を満足かという。現実に、我々は満足解か最適解かの選択をしなければならない。なぜなら我々はめったに最適解を見出す方法を持たないからである。多くの満足化状況において需要可能な水準を満たす代替案を探索するのに必要と考えられる時間の長さは、その水準の高さに依存し、探索対象の規模全体にはほとんど依存しない。

デザインの論理: 代替案の発見

目的・手段分析(means-ends analysis) いかなる目標追求システムにも共通な条件は求心的(afferent; 抹消から中枢に向かう神経の)・感覚的チャネル(システムはこれにより環境から情報を受け取る)と遠心的(efferent; 中枢から抹消に向かう神経の)・運動的チャネル(システムはこれにより環境に働きかける)の二つのチャネルを通じてシステムが外部環境に結び付けられているかということである。GPS (General Problem Solver 汎用の問題解決コンピュータ・プログラムのことで、携帯電話のGPS (Global Positioning System; 汎世界測位システム)のことではない)は目標志向的な行為が求心的な世界と遠心的な世界との関連にいかに多く依存しているかということを明瞭に示している。求心的・感覚的な側面としてGPSは現在の状況のみならず、目標とする状況や目標とする対象を表すと同時に目標と現実との特定の差異も表せないといけない。また、遠心的な側面でGPSは対象や状況を変えていく行為を表すことができなければならない。

探索の論理 最終的なデザインを構成する完全な行為にとって、個々の行為の連続から組み立てられるということこそ、代替案の探索に特徴的なことなのである。代替案空間の巨大さは、必ずしも数の多さを必要としない要素的諸行為が連鎖をなして結合されるその結合方法に無限の組み合わせがあることから生じる。完全な行為を構成する行為系列を考える代わりに、要素的な行為を考えることは有意義である。このように、現実のデカイの問題解決システムやデザイン手続きは単に構成諸要素から問題の解を集めるだけでなく、それらの適当な組み合わせを探索しなければならない。

以上【トピック3】【トピック4】【トピック5】

資源配分としてのデザイン

高速道路のデザインの例 デザイン過程を辿る際にはデザイン・コストを考慮しなければならない。Manheimは一般的な計画水準から、実際の建設を決定するに至るまで、デザインを逐次的に特定していくという着想とさらに具体化すべき計画案はどれかを決定するための基礎として、より工事の水準で各計画案を評価するという2つの概念を結び付けた。高速道路のデザインの場合、Manheimの方法では、各デザイン活動にコストを配布し、また高次の各計画案に対し高速道路のコストをそれぞれ推定することを基礎にしている。ある計画の「有望さ」はその計画の完成によって生じてくるところの結果に関する確率分布によって表示される。より高次の計画案の評価には「次にどこを探索すべきか」という問題に答えることと、「いつ探索をやめ、また満足のいくものとしていつあるかいを受諾するか」という問題に答えるものになるのである。

探索を導く方法 問題解決プログラムの典型的な構造について考える。これはまず可能な経路を探索し、探査された経路の「樹型」を記憶装置に記憶する。そして各経路の「価値」を示すとされる数値を各分岐の単点に与える。ここでの「価値」はその経路に沿って探索を行ったならば得ることが期待される推定値に過ぎない。かくして、探索過程は問題の解を追求する過程としてみなすことができる。しかし、それはある解を見出すのに究極的に重要な意義を持つところの、問題構造に関する情報収集の過程として見ることができる。後者の観点は探索樹のある特定の分岐に関して得られる情報はそれが作り出された脈絡以外に多くの脈絡で使われうるという意味で、前者より一層一般的である。

(塩竈義央)

デザインの型: 階層

 第1章において、「複雑なシステムにおける構成要素は全体機能に貢献する特定の部分機能を遂行する」と言う基本的な発想を学んだ。そしてこのような複雑な構造物をデザインするための有力な方法の1つは、そのような構造物を、多数の機能的部分に対応した半独立の構成要素に分解する、適当な方法を見出すことである。このようにすれば、ある程度他の構成要素のデザイン過程と無関係に、各構成要素をデザインすることができるのである。全体のデザインを機能的な構成要素に分解する仕方が、ただ1つしかないと考える理由はまったく存在しない。きわめて異なった種類のいくつかの実行可能な分解方法が存在するかもしれないのである。そこでは部分機能、部分過程、部分領域等々によって仕事が分割される。

ジェネレータとテストの循環(The generator-test cycle) 分解を考える1つの方法は、デザイン過程をまず代替案の生成を含む過程と考え、つぎにそれら代替案を一連の諸要求や諸制約に照らして検証するというように考えることである。デザイン過程を組織するに際し、全体的な統合デザインが詳細に開発される前に可能なサブシステムはどこまで開発されるのか、あるいは逆に、種々のまたは可能な構成要素が開発される前に、総体的なデザインはどこまで開発されるかについてもまた、代替案は自由に考えてよい。デザインの理論はやがて、デザイン過程においてどちらを優先させるべきかの問題を決定する、原理原則を含むことになろう。

スタイル決定要因としての過程 一般にデザイン過程が、最適デザインよりもむしろ満足デザインを発見することにかかわることを思い起こすならば、ジェネレータとテストとの間の結合ならびに分割のありかたは、最終的なデザインの本質にも影響を与えうることがわかる。複雑なシステム、たとえば都市や建物や経済をデザインする場合、われわれはある仮定された効用関数を最適化するシステムをつくることを、断念しなければならない。デザイン過程で大変望ましい変数を反映しているか否かを、われわれは考えなければならない。われわれはふつう都市計画を、計画者の創造的な活動が住民の要求を満たすようなあるシステムをつくりだすための1つの手段であると考えてきた。しかしたぶんわれわれは、地域社会の多くの住民がそこに参加の機会を見出しうる、そういった重要な創造的活動として都市計画を考えるべきなのであろう。

以上【トピック6】

デザインの表現

 問題表示がデザインに対しどのような影響を与えるかについて、いままでほとんど論じてこなかった。この問題の重要性が認められてはいるのものの、われわれは依然として、この主題について体系的な理論をもつにはいたっていない。

表現の変化としての問題解決 表示の仕方で相違が生ずるということは、すでに周知の事柄である。表現が相違を生むということは、別の理由からも明らかである。数学というものはすべて、私が前章で指摘したように、その前提の中に暗黙のうちに含まれているものだけを結論として引き出すのである。したがって数学的な展開はすべて、もともと真ではあるがはっきりしなかったものを明確にする、表現上の変化として見なすことができる。

空間的表現

表現の分類 諸現象の集合を理解する最初の段階は、その集合の中にどのようなものが存在するかを学ぶこと、つまり分類をすることである。しかし表現に関しては、まだこの段階にいたっていない。われわれは、問題を表現しうる諸方法について、大まかでしかも不完全な知識しかもちあわせていないし、またそれら諸方法間の差異のもつ意義について、いっそうわずかな知識しかもちあわせていない。

以上【トピック7】

要約: デザイン理論におけるいくつかのトピックス(topics in the theory of design)

 以上から、デザイン論(人工物の科学)のカリキュラムには、少なくとも次のようなトピックスが含まれなければならない。

    デザインの評価
  1. 評価理論: 効用理論、統計的決定理論
  2. 計算方法:
    1. 線形計画法、制御理論、動的計画法などの最適代替案選択のアルゴリズム
    2. 満足代替案選択のためのアルゴリズムと自己発見的方法(heuristics)
  3. デザインの形式論理: 命令論理と叙述論理
  4. 代替案の探索
  5. 自己発見的探索(heuristic search): 因数分解と目的・手段分析
  6. 探索のための資源配分
  7. 構造の理論およびデザイン組織化の理論: 階層システム
  8. デザイン問題の表現

心の世界におけるデザインの役割

 確かに数学を知らない作曲家がいるように、音痴のエンジニアもいる。音痴だろうと無知だろうとあるいはそうでなかろうと、それぞれの専門的な仕事内容について相互に実りある会話をなしうるようなエンジニアや作曲家はほとんどいない。しかし、彼らはデザインについて実りある会話を行いうる、また彼らは自分たちが従事している共通の創造的な活動を知り始めうる、さらにまた彼らは創造的で専門的なデザイン過程について自分たちの経験を分かち合い始めることができる。コンピュータを通じてできる。

(市原慶星)


第6章 社会計画: 進化する人工物のデザイン (pp.167-201)

【解題】日本の会社法では、会社の機関設計なる用語が普通に使われるし、制度設計や組織設計もよく聞く。その意味では、社会的な人工物のデザインは日常的に行われているといっていい。ただし、会社、組織、制度などは、最初からデザインを決めるべき設定の人工物だということには注意がいる。確かに、地域社会や組織が抱える問題を解決するために、あるいは予見される危機を回避するために、何らかの人工物をデザインする、あるいはデザインし直すということは、そんなに珍しいことではない。大学によっては、何かの科目の課題になっていることもある。しかし、この章の最後にカリキュラムとしてもまとめられるサイモンが挙げているトピックスは、デザインの仕方を教えるというよりは、むしろ社会をデザインすることに伴う問題点を列挙したように読める。それは、章のタイトルにもなっている社会計画(social planning)という用語につきまとう計画経済や社会主義の残像のせいだけではあるまい。(高橋伸夫)

 現代的な諸手法がまだ利用可能ではなかった頃にも、野心的な計画立案者は、全体社会やその環境を、新しく作り直すべきシステムとして扱い、プラトンやトマス・モア、マルクスなどの計画を社会革命を通して実現しようとした。彼らが関心を寄せた大規模なデザインのほとんどは、政治的・経済的な仕組みに関するものであったが、河川開発計画のような物的なものも取り扱われた。社会的な規模において人工物をデザインする、つまり社会計画を策定する際には、現実世界の極端な単純化・謙虚と抑制が必要である。それを乗り越えてもなお困難な障害があり、その障害を乗り切るための手法を次の順に本章で記述する。

  1. 問題の記述
  2. データの不完全性
  3. クライアントの性格が与える計画作成への影響
  4. 計画者の時間と注意力の限界
  5. 社会計画における諸目標の曖昧性とコンフリクト

1. デザインを表現すること

 問題をある特定の方法で概念化していくということは、その概念に矛盾しない形で1つの機関を組織することである。異なった組織間では、実施するプログラムや、重点をおく目的の優先順位に違いが生じる。必要なのは、「正しい」概念化ではなく、全てのメンバーに理解され、行為を促進させるような概念化である(例: マーシャル・プランを実施するために作られたECAの組織)。「デザイン」問題に対する表現の選択にあたって、制約となる資源を正しく確認することが重要である(例: 国務省の情報処理における障害が、当初、プリンタの印字能力の問題だと思われていたが、実は人間の処理能力の方に問題があった)。問題を、機能的な推論が可能な形で適切に表現する構造こそが重要であり、それは必ずしも定量的である必要はない(例: 自動車の排気ガス規準に関する議論)。

2. 計画設定のためのデータ

 デザインの質は、利用可能なデータの質に大きく依存する。極端に乏しいデータしか得られずに計画を行う時、可能な戦略としては1つの可能な推定値の各々をその正確さの尺度で測ることが考えられる。予測(未来に関するデータ)は、一般に最も弱みがある。良い予測となる要件は2つ。1つ目は予測対象について理論的な理解(予測モデルの理解)が必要、又は、現象が分かりやすい規則性を持っているか、のいずれかであること。2つ目は、初期条件に関して信頼しうるデータが存在すること。デザインのためのデータ問題の核心は、予測することにあるのではなく、未来に対して代替的なシナリオをデザインし、かつ理論とデータに含まれる誤りについて感度分析を行うこと。例えば、1972年のローマ・クラブの報告書『成長の限界』のようないつ滅亡するかの予測よりも重要なことは、それをいかに回避するかデザインすることである。そうした未来像のデザインの流れは、(1)計画の時間的視野を選定、(2)各タイミングにおける目標状態を検討、となる。さらに、ホメオスタシス(外界の影響から守る)・フィードバック(外界の変化に適応)の2つのメカニズムを結びつけることでシステムを改善する。

3. 顧客は誰か

 技術の進歩によって各専門家は以前より大きな影響力を持つように。デザインによって生み出される外部効果(顧客の関心を超えた影響)も考慮する必要性が出てきた。同様に専門家は、顧客の概念についても再定義。顧客個人に奉仕するのではなく、国家機関に雇われているのだと自覚しつつある。専門家はこうした役割の複雑化で、緊張に晒されている(例: 建築家、医療従事者、エンジニア)。

 社会全体を顧客として見れば問題は解決するようにも思える。しかし、利害の対立や専門家の判断の不確実性があるため、そのような捉え方は、専門家たちに社会の目標・優先順位の決定を任せることにつながってしまう。社会的コントロールをある程度維持したいなら、社会の諸機関は、デザイン目的の再定義において専門家たちと協力すべきである。専門家による計画対象になっている組織メンバーは、単なる道具ではなく、システムを自分の目標追求のために利用しようとするデザイナーである。組織理論は、このような動機的側面を、誘因・貢献のバランスという視点から論じようとするもの。

 社会計画の設定過程についても似ているところがある。計画作成者とメンバーとの間で一種の駆け引きが行われる。プランナーが作り上げたデザインに対し、メンバーはその環境下で自身の目的が達成されるように行動の仕方を変える(例: 経済安定化政策)。今後、社会計画のデザインをする際には、そのような影響効果を入れ込むようにしなければならない。

(深瀬里佐子)

社会設計における組織

 組織を作ることは企業の場合でも官庁の場合でもボランティア組織でも社会の最も重要なデザイン課題の一つであった。もし、人間が単子(monad)だったなら、すなわち他者と相互関係を持たないのであれば我々は組織の設計に関心を持つ必要もない。しかし、我々は単子ではない。よって生まれてから死ぬまで我々が目標に到達できるかどうかは、社会における他者との相互作用に大いに関わっている。組織によって課せられる規則は、我々の自由を束縛する。しかしこの同じ組織が、個人の努力だけではとても達成できそうにない目標達成への機会を与えるとともに、また自由をも与える。例えば、アメリカ人は、世界の平均に比べれば、天文学的な収入を得ている。その理由は、アメリカ人がインフラに恵まれた社会に生まれたからである。

4. デザインに対する時間的・空間的視界

 我々は誰でも、暗くて長い廊下の、小さなランプで照らされた光の輪の中に座っている。廊下は時間軸を表している。ランプの光は廊下の数フィート内を照らすが、それから先は、現在を取り囲む過去と未来の広大な暗闇によって光が弱められ、急速に明るさを失う。歴史学や考古学などは過去の廊下を遥かかなたまで照らす狭い光線を我々に与えてくれるが、しかし実際に照らしているのは極めて断片的にのみである。我々は大変な興味を持って過去を読み取ろうとするのである。光線が捉えたわずかばかりの事柄は生き生きとしかも直接に感得できるものとして受け取られる。しかし大部分はその形がぼんやりとしていて、我々の注意もまた現在に引き戻される。光の方向が未来に向けられるとき、いっそう急速に明るさが消え失せていく。我々は両親や祖父母について同情することはできる。しかしその枠外に出るとなると、関心は感情的であるというよりもいっそう知的興味の対象となってくる。我々は遠く離れた事象については何が勝利で何が破局なのかを定義することさえ難しい。

将来を割り引く このように我々の価値体系に入り込んでくる過去と未来の事象の重要度は現在から遠く離れるにつれ急速に低下する。限定された合理性の存在たる我々にとってこのことはかえって幸せだ。仮に意思決定が遠く離れた事柄にもごく近い事柄にも同程度に依存してなされると決して行動に移ることができず、永久に考えがまとまらないであろう。一方時間的空間的に離れた事象の重要度を薄めていけば選択問題を縮小していくことができる。経済学者は未来に対するこの種の割引を、利子率で表している。将来のドルの現在価値を見出すために彼は、現在から一段階ずつ離れていくたびに一定の百分率でドルを減価させていく、複利の割引率を適用する。ただし、利子率は現在との関わりで将来というものを割り引く別の要因と混同されてはならない。たとえ我々が遠い将来好ましくないことが起こると分かっていても、現在それについて我々がなすべきことは何もないということも十分ありうるのである。 我々が将来について行う重要な意思決定は、主に支出と貯蓄に関する意思決定である。そして貯蓄の場合、投資対象が持つ重要な諸属性の間に柔軟性があってはじめて、我々の投資価値を保証できる。

時間的視界の変化 今世紀の注目すべき特徴の一つは、特に工業化の進んだ世界で時間的視界に変化が起こっているように見えることである。例として、今日直面しているエネルギー問題が挙げられる。その中でも第3の問題に対する我々の注目度に対しての指摘が比較的少ない。すなわち時間のスケールが長い(かなり将来的)ものに対する注目度に対する指摘が少ないということである。おそらくまだ第3のものを切り離し、より差し迫った問題だけを考えるまでの段階に整理されていないのであろう。しかしその状況は理にかなっていない。なぜなら、時間的・空間的に遠く離れた事象に適用される社会的因子率を、我々が極めて低く見積もってしまっていただけだからだ。時間的・空間的に遠く離れた事柄に我々の新しい関心が集まったのはいくつかの理由がある。その中の比較的新しい事実として、世界的な規模で即座に通信ができるようになったことと、迅速な航空輸送の発達がある。その結果すべての国家間で経済的軍事的な相互依存が絶えず増大するようになった。また人間の知識、とりわけ科学の発達も最も大きな原因の一つだ。

進歩を定義する 因果の綾が複雑になるにつれ、我々は遠く離れた影響を考慮に入れなければならない計画設計や意思決定の手続きに厳しい負荷を負わせることになる。ますます遠いところまで見せてくれる新しい科学や知識の側と、我々が見ているものを取り扱い可能にしてくれる新しい科学や知識の側との間に絶えず競争がある。人間社会で何が進歩であるかを定義することは容易ではない。進歩の定義に関して本文では2つの例が挙げられており、1つは人間にとって基本的に必要なことを満たしていくこと。もう一つが人間の幸福が平均的に増大すること。生産技術の発達により一つ目の定義では進歩したと言えるものの、第二の基準で測った場合進歩したかというとそれはいささか疑問が残る。

注意力の管理 実践的な観点からみると我々が未来に関心を持つのは、望ましい未来を作るには現在行為することが必要となる場合があるからである。他の理由であるならば、それは純粋な好奇心によるものしかあり得ない。新投資や新知識に対する要求に注意するよりも、その時々に緊急に必要なことに注意を傾けることはよくある。討議すべき内容が多ければ多いほど中長期の決定が無視される。これを防ぐ方法の一つは計画作成グループを作ることだが、業務組織に吸収されてしまうことや、業務組織の意思決定に影響力を行使できなくなる危険があるため、指導層は絶えず注意を払う必要がある。

5. 最終的な目標をもたない場合のデザイン活動

出発点  将来を予告したり規定したりすることには限界があるという考え方は究極目標という考え方と両立しないものだ。我々は次の世代の人たちにどのように残したいと考えているのだろう。そのうちの一つは、不可逆的な介入を避けながら、しかも将来の意思決定者に可能な限り多くの代替案を与えられるような世界である。望まれるものの第二は今よりも良い知識体系と今より多くの経験能力を残してやることだ。

社会をデザインするためのカリキュラム

 現代は、人々が悲観や苦悩を自然にさらけ出す時代だ。人間性が多くの問題に直面していることは確かであるが、我々はそれらの問題を全て今解かなくても良いことを知ればもう少し楽観的になれるかも知れない。我々がどうしてもしなければならないことは未来に対する選択の余地を残しておくことであり、さらにそれを少しでも拡大することなのだ。子孫は冒険をすることやデザインを追求する際、我々と同じ機会を与えられる以上に、我々に多くを要求することはできないのだ。

(宮地泰正)


第7章 複雑性に関する諸見解 (pp.203-217)

【解題】この第7章は第3版(1996年)で書き足された章で、当時大流行していた「複雑系」(complex system)について、サイモンなりのコメントを書いておく必要性を感じて書いたのだろう。もともと第8章が「複雑性の構造」だったので、この第7章を書き足すことで、複雑系ブームに便乗して第3版を出したという見方もできる。それくらい、当時は、猫も杓子も複雑系だった。当時、複雑系をテーマにしたシンポジウムに色々な分野の有名人が登場するので、それを見物しに米国まで行ったことがあるが、本来は違う専門の人が皆「複雑系」を名乗っていて笑えた。かくいう私も勧められてエージェント・ベース・シミュレーションに手を染めていたので、そうかこうやってやれば複雑系なのかと学んだが、この辺の事情は拙稿でまとめている。
 サイモンが言う3回の噴出(eruption;「噴火」の方が適訳か)のうち3番目が複雑系である。1番目と2番目は時期的に重なっていて分けにくいが、戦間期を中心にして、物理学を科学のモデルとみなして爆発したムーブメントで、行動科学や一般システム理論に代表される。米国では、第一次世界大戦の頃から、自然科学を学問のモデルと見て、数量化、記号化といった方法を社会科学に導入しようとする動きがあったが、学際的研究の進展の中で、それがさらに促進された。その結果、客観的に観察、測定、分析することができる行動のレベルで人間を科学的に研究する学問として、心理学、社会学、人類学から生物科学にまでまたがって、行動の観点からこれらを統一する一般理論を追求する新しいタイプの科学である行動科学(behavioral science)が米国で生まれた。こうした運動は、別の流れでも現れた。フォン・ベルタランフィ(Ludwig von Bertalanffy; 1901-1972)は1945年の論文で、無生物、生物、精神過程、社会過程のいずれをも貫く一般原理の同形性の根拠を究明し、定式化する新しい科学分野として、一般システム理論(general system theory)を提唱した。ちなみにジャーナル Behavioral Science (行動科学)を発行していたのは、the Society for General Systems Research (一般システム研究学会)で、両者は融合した存在だったといっていい。実は、私はそのジャーナルに論文を掲載してもらった数少ない日本人の一人なので(良き思い出)、勝手に親近感をもっている。そしてサイモンも、このムーブメントに乗って大活躍した人物で、その基本的な姿勢は生涯変わらなかった。だから、サイモン自身は複雑系を名乗るのは忸怩たるものがあったのではないだろうか。この章でも最後の方で複雑系(complex system)が出てくるが、それまでは第8章を意識して複雑性(complexity)と呼び続けているのはその表れかもしれない。 (高橋伸夫)

 前章までは、いくつかの種類の人工システム(経済システムや企業組織、社会計画など)について幅広く取り扱ってきたが、最後の2章では、複雑性の主題をより一般的に扱うことで、その複雑性が、今日の世界の大規模システムの構造や行動にどのような影響を与えているのかを考察していくこととする。

複雑性の概念

 20世紀になって、複雑性や複雑系への関心は幾度も大きな高まりをみせた。本著では、それを大きく3つの時期に区分している。

  1. 初期の噴出は第一次世界大戦後に生じた。「全体論」という用語が用いられ、「ゲシュタルト」や「創造的進化」について関心が向けられた。
  2. 第2の噴出は第二次世界大戦後に生じ、「情報」「フィードバック」「サイバネティクス」「一般システム」といった用語がもてはやされた。
  3. 3つ目の出版年1996年当時の噴出においては、複雑性を「カオス」「適応システム」「遺伝的アルゴリズム」「セルラーオートマトン」と関連付けている。
3つのどの時期においても、複雑性に関心がある点では共通しているが、具体的にどの側面に注目するかで以下のように区分できる。まず、最初期の関心は、全体は部分の集合以上のものであるという主張に焦点が向けられており、大いに反還元論者の側面を有していた。次の時期の関心は、還元論の問題についてかなり中立的な立場をとっており、複雑なシステムを維持するためのフィードバックとホメオスタシス(恒常性)といった機能に焦点が向けられた。そして現在は、複雑性を維持するメカニズムや複雑性の解析手段に注目が向けられている。

全体論と還元論 初期の噴出で、「全体論」とは、南アフリカの政治家であり哲学者でもあるJ. C. Smutsの言葉を借りるならば、自然的対象を全体物とみなしたうえで、自然というものが個々の具体的な事物から成り立っているとしても、必ずしもそれが諸部分に分割できるわけではないこと、つまり、個々の事物を機械的に寄せ集めるだけでは、自然という全体物を構成することはできず、したがってそれらの特徴や行動の説明まではできないということを指す(この考えを知能に対して適用した場合、思考とは神経細胞の動きや配列「以上のもの」を含んでいるという主張ができる)。よって、複雑なシステムに全体論を適用する場合、新たなシステム特性や、システムの構成要素には存在しないサブシステム相互間の関係を仮定する必要があり、創発(emergence)という「創造的な」原理が必要となる。創発を機械的に説明することは認められないからである。ただし、緩い意味での創発とは、単に複雑なシステムを構成する個々の部分が、それ単独では存在できない相互的な関係をもつことを意味する。「緩い創発性」は、様々な分野において見受けられる。力学分野における慣性や、回路理論における電圧のように、直接的には観測できないが、観測値相互の関連から定義できる量に対しての複雑系の記述については、新しい述語を導入すると便利になることが多い。例えばOhmは、電気抵抗に関してOhmの法則を確立したが、電圧や内部抵抗については深くは分析されず、ブラックボックスとして扱われた。電圧と内部抵抗は、直接計測されたものではなく、Ohmの法則を適用することによって推測された理論上の表現なのである。このように、全体システム内の相互作用を研究する際には、大抵の場合、その構成要素の細部を無視することが可能になる。たとえば経済学において、他のすべての需給関係が一定であると仮定した上で、密接に関連する市場間の相互作用を研究することもしばしばみられる。部分の特性から全体の特性を正確に推測することは容易でないが、創発に関する緩い解釈は、原則的に還元論を受け容れ、半ば独立した理論をつくることができるようになった。それと同時に、ある上位レベルのものを、直下の下位レベルの諸要素や諸関係によって説明する、橋渡しの理論をつくることも可能となった(これは、原子や分子から細胞、器官、そして有機体へと積み上げていくような科学の通常の考え方によるものだ)。

サイバネティクスと一般システム理論 第2の噴出は、第二次世界大戦中およびその直後の時期に、「サイバネティクス」の出現をみることとなった。サーボ機構理論(フィードバック・コントロール・システム)、情報理論、最新のプログラム内蔵コンピュータといったものをさまざまに組み合わせることで、複雑性に対して新しい大胆な考察が加わったのである。全体論は、従来では不可能だった新しい次元において還元論と対立を引き起こし、その対立は今日でも人工システムの哲学的議論として続けられている。また、戦後何年かの間に、物理的、生物的、社会的なシステムといったそれぞれの固有の特性を超えて、それらのシステムのすべてに適用できるような「一般システム理論」を開発する試みがなされた。しかし、多種多様なシステムが、ある重要な特性を共有しているとは期待できない。比喩や類推は誤解をもたらすこともあり、結局、比喩の類似性が的確なものか表面的なものに過ぎないかにかかってくるからである。しかし、多種にわたる複雑系に共通する特性を探求することが全くの無駄になるわけでもない。フィードバックや情報の概念は、広範な状況をとらえるための準拠枠を与えてくれたのだ。この時期の最大の特徴は、一般システム理論に関する広範なアイデアよりも、より限定的な概念に注目を集めていた点にある。

複雑性に対する現在の関心

 第3の噴出は、第2のときの特徴と共有する側面が多い。世界的大規模システムを理解し、それに対処する必要性が高まったからである。そこに関連のある数学やコンピュータ・アルゴリズムを併用することで、第2の波を超える新しい考え方を生み出すことができた。

カタストロフ理論 カタストロフ理論は1968年に登場した、非線形動的システムを分類する数学理論である。しかし、実際にそれを用いて分析を進められる状況は限られており、初期の応用例もすでになじみのある現象を事後的に説明したものが大半だったため、今日では公衆の目にとまることもなくなってしまった。

複雑性とカオス カオス的システムとは、決定論的動的システムのことであり、初期状態がたとえわずかでも変化した場合、一挙に軌道を違えてしまうシステムのことである。カオス的システムは数学的な扱いをするのがかなり困難であるため、20世紀中葉以降までの貢献はわずかなものだった。しかし、カオス的行動を表現しうるコンピュータの能力の発展により新しい原動力が生まれたことや、様々な分野の研究者が注目を集める重要な現象が、専門的な意味でカオス的である可能性から、広範な物理的生物的システムの複雑な行動面において研究されるようになった(最初の例として、1960年代初期、天候がカオス的な現象である可能性を研究した気象学者E. N. Lorenzがいる。彼はシンガポールの蝶がはばたくことでニューヨークに嵐が起きる可能性について研究を行った)。実際に、特定の物理システムがカオス的行動をする確かな物的証拠が1970年代後半に見つかりはじめた。1970年代末から1980年代初期にかけては、コンピュータが見出したカオスに関する新たな現象が大きな関心を生んだ。従来では見えなかったシステムの秩序ある動きが、どこからカオス的な動きに変わるのかを予測する規則性を明らかにしたのである。現在では、カオスの多くの側面を深く「理解する」ことが可能になった。しかし「理解する」というのは、予測できることを意味するのではない。私達は新しい一般化された均衡概念を、カオスによって認識させられたにすぎないからだ。これがいわゆる「ストレンジアトラクター」である。従来の古典的非線形理論では、システムは安定均衡に達するか、天体の軌道のように極限周期軌道内で永久に振動するかのどちらかしかなかったが、カオス的システムにおいては、その状態空間領域であるストレンジアトラクターに入ることも入らないこともあるのである。ストレンジアトラクター内での運動は、止まらず、予測可能でもなく、不規則にみえるが、それでも決定論的である。ストレンジアトラクターへのかすかな進入角度の違いが、またシステムがストレンジアトラクター内部にあるときのちょっとした攪乱が、システムを全く異なった軌道に乗せてしまう(たとえば四角い理想的なビリヤード台に対して、ビリヤードボールを正確に45度角で狙えば、直角の軌跡を何度も繰り返すうちに元の場所に戻るが、45度の角度を少しでも増減させると、そのボールはいずれ穴のどこかに近づくような軌跡をたどる。カオス的行動に対して、台の表面全体がストレンジアトラクターとなるのだ)。カオス理論は、1960年代初期から1980年代後期にかけてのように、驚異的なペースで展開することはなかったが、多くの科学分野において、重要なシステム研究に不可欠な概念枠組みとなり、数学的用具ともなった。カオスのメカニズムは、カタストロフ理論と比較してもより一般的で、より広く適用できることから、複雑系の研究では、カタストロフ理論より大きな役割を担うことを期待されている。

カタストロフ的世界あるいはカオス的世界の合理性

複雑性と進化 私達はこの世界でみられるすべての複雑系がカオス的であるのではなく、それらの一部がカオス的であるに過ぎないということを考えてみるべきだろう。飛行機の例でいえば、「カオス的」という不吉な用語は、「制御不可能な」と解釈されるべきではない。未来が細部においては予測不能であっても、集合的現象としては制御可能なのだ(たとえば、竜巻や台風の軌道は安定的でないことで有名であるが、短期的にみると十分安定しているといえる)。現在、複雑系に関する研究の多くは、システムの進化、すなわち複雑性の創出に焦点を当てている。とくに脚光を浴びた進化を表す計算的アプローチは2つある。それが、Hollandによってはじめて研究された遺伝的アルゴリズムと、セルラーオートマトンのための計算アルゴリズム(有機体の増殖と競争をシミュレートする、いわゆる「ライフ・ゲーム」を演ずる計算アルゴリズム)である。

遺伝的アルゴリズム 進化の観点からみれば、有機体は、形質のリストあるいはベクトルによって表現することができる。世代から世代にわたる形質の組み合わせの度数分布は、有性生殖や突然変異などを通して変化する。自然淘汰によって高い適合度をもつ形質や組み合わせは、低い適合度のものより速く増殖するため、低い適合度のものは徐々に適合度の高いものに置き換わっていくのである。

セルラーオートマトンとライフ・ゲーム コンピュータは進化の過程の統計数値を推定するのに使われるだけでなく、抽象レベルで進化過程をシミュレートするのにも利用される。コンピュータ・プログラムは色々な種類の記号対象をつくることができると同時に、それらを環境の関数として複製・消滅させることもできるのだ。

結論

 複雑性を理解しようとする試み自体は、数世代前から天文学者や生物学者、物理学者によって行われてきている。現在の活動に関する新しさは、特定の複雑系の研究をすることではなく、複雑さの現象それ自体を研究していることにある。ただし、複雑性というテーマがあまりに一般的で多くの示唆を得られないものであれば、理論化や一般化に役立つ性質をもった特定の複雑系を取り上げる方が有益であろう。現在、カオスや遺伝的アルゴリズム、セルラーオートマトン、カタストロフィ、階層システムなどについて生じていることは、まさにそのような事象なのである。

(呉恵倫)


第8章 複雑性の構造: 階層的システム (pp.219-256)

【解題】副題の「階層的システム」は、1996年に複雑系の第7章を書き足した際に、おそらく複雑系と区別するために付加されたのだろうが、この副題の方が分かりやすい。システムを構成する各下位システムの行動は、(1)短期的には他の下位システムの行動からほぼ独立だが、(2)長期的には総計的にのみ(in only an aggregate way)依存する(p.198 邦訳p.236)という性質の準分解可能システム(nearly decomposable system)でありさえすれば、システムを構成する要素が何なのかに関係なく、要素間の関係の同型性を扱うことができる。これは一般システム理論的なシンプルで強い主張なのだが、残念ながら、この一般システム理論的な例示の寄せ集めに埋もれてしまい、サイモンの博学ぶりの誇示だけが鼻につく結果に終わっているのが残念。ただし、多細胞有機体の進化の話(pp.192-193 邦訳pp.229-230)は、モジュラー型の製品でイノベーションが進みやすいという21世紀の議論を先取りしていて面白い。その筋の専門の人は必読だろう。(高橋伸夫)

 この章では、科学の対象となる複雑なシステムについていくつか述べる。このシステムの構造の細部には触れず、主にシステムの複雑性にのみ注目する。その抽象性から、社会科学、生物科学、物理科学で取り扱われるシステムにも関連性が見えてくるだろう。諸分野において、技術的な細部には触れずに、その複雑なシステムを取り上げたい。最終的な判断は、読者や専門家に任せる。複雑なシステムの正確な定義は定めず、多数に関連し合う多数の部分から成り立つシステムであり、部分の合計以上のものであると大雑把に定める。これから、複雑性の4つの側面、つまり、

  1. 階層的なシステムを持つこと
  2. システムの構造と進化に関すること
  3. システムをどのように分解・分析できるか
  4. 複雑性とその記述との関係
について順次触れていく。

1. 階層的システム

 筆者のいう階層的システムとは、相互に関連するいくつかの下位システムから成り立っており、その下位システムに順次、最もレベルの低い基本的な下位システムに至るまで階層的構造を持って連なっているシステムのことである。何を持って基本的な下位システムとするかの基準は曖昧であり、その時々によって異なる(素粒子や天文学)。また、階層という語から想像されるような上下関係や従属関係を必ずしも持つものではない。公式的な組織であっても、紙の上だけで存在する階層があるだけで、部分相互間の関係が多分に含まれており、そういった広い意味で階層的システムという語を用いる。

社会的システム 社会科学の分野での一例が、企業や大学といった公式組織である。これらは、明確に上位、下位のシステムを持つが、家族→村落・部族→社会のような上下はないものの緊密な相互作用を持つ階層システムもある。これは計量社会学的マトリックスにおける相互作用の度数を調べることで、操作的に定義できるかもしれない。

生物的システムと物理システム 細胞や素粒子、天体や気体なども階層システムを持つ。一つの部分が持つ下位システムの数をシステムの幅と呼ぶ。階層的なシステムがあるレベルで広い幅を持つとき、そのシステムは「扁平な」ものであると言える。ダイヤモンドや線状ポリマーがいい例である。生物的及び物理的システムは、だれとだれが相互作用を持つかを重視する社会的システムとは異なり、視覚的または空間的に識別される下位システムを持つ点が特徴駅である。両者に通ずることは、相互作用の緊密度である。

記号システム 書物や音楽などの人間が作り出した記号も階層システムを持つ。

2. 複雑なシステムの進化

 1000個の部品を持つ時計を作る際、1000個まとめて組み立てる方法と、10個の部品で作られるサブアセンブリーを、10個集めてより大規模なサブアセンブリーを作り、それを10回繰り返す方法を比べると、2000倍もの効率の差が生まれる。

生物的進化 生物的進化が起こるのも階層的構造の相対的有利性によるところが大きいことが、上記の例え話から明確にわかる。つまり、単純な要素から複雑な形態に進化するのにかかる時間は、安定した潜在的中間形態がいくつ、どのように分布しているかに依存している。したがって、システムの幅によって決定されると考えられるので、単細胞生物から多細胞生物への進化に必要な時間と、巨大分子から単細胞生物に進化する時間がほとんど同じだと言える。この単純化された考え方には様々な反論が上がるだろうが、次の4つの反論以外に関しては各自の判断に委ねる。

  1. 1つ目の反論は、目的論の含蓄がある時計の話と同列に扱うことはできないというものである。確かに、複雑な形態に移行しようとする流れはあるものの、それは安定したものが生き残っただけで、複雑な形態へ移行しようという目的はここには存在しない。
  2. 2つ目の反論は、大規模システムの全てが、必ずしも階層的に見えるとは限らないということだ。線状ポリマーなどが例として挙がるが、これも扁平な階層システムと見ることができるのでここでの議論では問題ない。
  3. 3つ目の反論は、この進化の過程は熱力学第二法則に反するというものである。しかし、生物としての箱の中で複雑性が増したという変化は、エントロピーの変化とは全く関係がないため、第二法則に反するものではない。実際、生物はクローズドシステムではないから、進化の方向やソ連位かかる時間を古典的な熱力学で語ることはできない。生物におけるエントロピーは各世代のバクテリアによって作り出されるが、進化によって最初に作り出される細胞と同等の情報量が複製によって生み出されることからも、エントロピーと進化の時間の間に関係がないことが窺える。
  4. 多細胞有機体の進化 4つ目の反論は、このモデルは多細胞有機体の進化に当てはまらないというものである。多細胞有機体は、既存の独立的システムが結合したものではなく、単一システムの細胞の増大と分化によって進化したものであるという点で異なる。分化によって進化するシステムには、消化システムや循環システムなどの入れ子構造が見られるが、その入れ子構造は単純なシステムの結合で進化するシステムにも見られる。次節では、速い進化を可能にするのは、要素の結合自体ではなく、階層的構造であるという意見について触れる。各サブシステムは、他のサブシステムの中身に影響を受けたり与えたりしないのだ。

自然淘汰としての問題解決 話は少し変わり、階層性が、そして自然淘汰の過程が、生物学的進化となんら関係のない、人間の問題解決の行動に見られるという話をする。問題解決には普通、多くの試行錯誤に溢れており、それは非常に選択的に行われる。いくつかの選択肢の中から、目標に向かっての前進のしるしのあるものを見つけ、それを軸にまた新たな試行錯誤を続ける。前進のしるしのないものはここで淘汰される。これはまさに生物学的進化における中間形態の安定であり、時計のサブアセンブリーでもある。人間の問題解決は、試行錯誤と選択性の様々な組み合わせであると結論づけることができる。

選択性の源泉 以上で述べた問題解決や進化のシステムにおける選択性は、環境のからの情報、ある種のフィードバックから生まれると考えられる。問題解決の場合、2種類の選択性がある。1つ目は、先述した試行錯誤によって導かれた情報が今後の指針となる場合である。2つ目は以前の経験である。直面した状況が以前経験したものと似ている、もしくは同じ場合に、試行錯誤がほとんど必要なくなるのだ。生物学的進化において、この2つ目に当たるのが、増殖である。詳しくは、この章の最後で述べる。

帝国と帝国との形成について アレクサンダー大王が大規模な帝国を建設できたのは、彼の死後、四つの王朝に分裂したことからも分かるように、大規模な安定したシステムがそこにあったからであると言える。アラビアのロレンスがトルコに対抗した反乱軍を組織するもうまくいかなかったのは、疑り深い砂漠の部族が下位システムにあったからであろう。

結論:階層の進化論的説明 これまでに、安定した中間形態の存在が、単純なシステムから複雑なシステムへの迅速な進化を可能にしてきたことを説明した。逆に言えば、自然界に階層システムが多く存在するということ自体が、階層システムが進化に必要だったという説の論拠となるかもしれない。もっと完璧な理論では、システムの幅を決定づける要因も説明できるかもしれない。

(松本航太)

3. 準分解可能システム

 階層システムでは、システムの下位システムの間の相互作用と、下位システム内部における相互作用が区別できる。また、それらの相互作用は異なる強さを持っていることが多い。例えば公式組織の内部において、同じ部門に属するふたりの間の相互作用(下位システムの内部の相互作用)の方が、異なる部門に属するふたりの相互作用(下位システムの間の相互作用)よりも強い。もし下位システム間の相互作用が下位システム内部の相互作用に比べて極端に小さい場合、各下位システムは互いに独立していると考えることができる。つまり、そのようなシステムはいくつかの下位システムに分解可能であるといえる。ある種の階層的システムは、近似的には準分解可能システムとして捉えることができる。そのとき、次の二つの命題が成り立つ。

  1. 短期的には、構成要素となる各下位システムの行動は他の下位システムの行動からほぼ独立している。
  2. 長期的には、どの構成要素の行動も他の構成要素の行動に集合的に依存する。

社会的システムの準分解可能性 各分野における準分解可能性を持つシステムを考える。経済動学の分野では、需要と供給の均衡に影響する主要な変数は、商品の価格と数量である。商品の価格は他の類似商品の価格と数量によって決まり、全く別の産業の商品の影響を受けることはあまりない。つまり、商品の売買が成立するか否かは、産業内での相互作用にのみ影響される(産業間の影響はほとんどないといえる)ため、経済システムが準分解可能性を持つといえる。ただし、消費という下位システムを考慮すると、経済動学のシステムは準分解可能システムであると一概にはいえない。一般に経済は価格と数量が均衡を決定するとされるが、実際には消費者は購入時の価格と数量以外の要素も考慮しているからである。社会システムの分野では、準分解可能性は明らかである。例えば公式組織内部においては、部門内での上司と部下・部下同士の意思疎通は頻繁に行われる一方、他の部門とのむすぶつきも欠かせないものである。そのため、部門内(下位システム内部)の相互作用だけでなく、部門同士(下位システム間)の相互作用も頻繁に行われているため、準分解可能性の一例だといえる。

物理化学的システム 生物化学の分野においても、システムの準分解可能性は広く認められる。原子核をシステムの基本的要素としたとき、要素間の結合は、結合力の大きいものから順に共有結合、イオン結合、水素結合、ファン・デル・ワールス力と階層づけられる。また、共有結合より弱い結合に分子間結合があり、一つの分子の内部の結合をシステム内での相互作用と考えると、分子間結合はシステム間の相互作用にあたり、この点で準分解可能性を持つといえる。物理学の分野では、高エネルギー・高周波の振動が比較的小さな下位システムに、低周波の振動が比較的大きなシステムにそれぞれ関連していることが分かっている。すなわち、原子核の例で考えると、システム内部での相互作用にあたる原子レベルや核レベルのシステムは高エネルギー・高周波に関連し、システム間での相互作用にあたる分子の振動は、低エネルギー・低周波に関連している。システム内部での相互作用と、システム間での相互作用の大きさを比べると、前者の方が大きいエネルギーを必要とするという点で、準分解可能性の概念と一致している。

階層の幅に関する考察 階層の幅は、ときに非常に広く、ときに非常に狭いことがあるが、その理由を考えるには、相互作用に関するさらなる検討が必要である。下位システム間の相互作用が起こる範囲にはシステムによって差があるため、階層の幅の広さを考える際には下位システムごとの相互作用を及ぼす範囲の広さを考慮する必要がある。逆に言えば、各下位システムが作用を及ぼせる範囲を考えることで、階層の幅の広さに差があることを説明できる。物理学の例でいうと、酸素原子は二価の原子価を持っているが酸素分子は原子価がゼロであるため相互作用を持たないのに対して、炭素原子はいくつ結合しても全体に二価の原子価を持ち続けるため無限に結合することができる。しかし、もし下位システムが強い相互作用の力と弱い相互作用の力の両方を持っており、強い相互作用の力が結合の途中で消滅する場合を考える。はじめ各下位システムが強い結合力によって結びつくことでひとつの下位システムが成立しているが、その強い結合力が消滅した場合、二次的な弱い力の相互作用によって、より大きなシステムへと結び付けられる。例えば、水の場合強い相互作用能力としては酸素分子と水素分子の結合力である。しかし、すべての分子同士の結合が終わったらこの強い相互作用能力は消滅し、水溶液中の塩との結合が始まる。その結果電解伝導性が生じる(つまり電気を通すようになる、これが弱い結合能力)。分子レベルの結びつきから、物質レベルの結びつきになり、より大きいシステムの結びつきとなる。社会的システムにおいても、下位システムが相互作用を行える範囲には限界がある。人間は一時に一つの会話しかできず、人間関係には仕事や責任が生じてそれらをこなすための時間が消費されるため、人間が同時的に携われる人間の数は無限ではない。また、システムの相互作用の力の強弱とシステムの大きさに関連があることは社会的システムでも同様であり、システムの上位にいる人(立場の偉い人)ほど計画に参与する頻度が低く(相互作用の力が弱い)、システムの下位にいる人ほど計画に参与する頻度が高い(相互作用の力が強い)と一般にいわれている。

生物的進化: 再論 以上のように、各分野における様々な階層は準分解可能性の特性を持ち、一般的に構成要素内の結合は構成要素間の結合より強く、それらは明確に区別できる。ここで、組織と器官の分化によって進化してきた生物学的有機体を考えると、生物学的有機体は準分解可能である。各有機体は消化、循環、排せつなどのシステムによって他の有機体と結ばれており、他の有機体との相互作用なしには活動できない。一方で、各有機体は他の有機体がどのような活動を行っているかに無知であるため、各要素は独立的に活動しているともいえる。各有機体の内部の活動は、他の有機体との相互活動より活発である。また、各有機体間の影響は全体的な変化を通じて生まれるという点で、各要素間の相互作用は長期的・全体的なものである。以上の事実から、生物学的有機体は準分解可能性を満たしているといえる。ダーウィンの進化論に従うと、適合度は一つの個体の子孫の数で測られるため、ひとつひとつの組織や器官の適合度を個別にはかることは不可能である。進化の過程では、遺伝子の微細な違いが全体の適合度に影響を及ぼし、生存・繁殖に影響を与えていく。そのため、遺伝子の違いがどの程度全体の適合度に寄与するのかを比較することが必要である。しかし、もしある特定の遺伝子が結合しているすべての他の遺伝子から相互作用を受けるならば、影響をもたらす遺伝子の組み合わせが膨大になるため、特定の遺伝子の違いが全体の適合度に及ぼす影響の大きさを調べることは不可能である。準分解可能性を仮定すると、各器官の間の相互作用は無視できる程度のものであるため、全体の適合度は個々の器官の適合度への寄与の度合いの合計で求められる。そのため、個々の遺伝子の組み合わせではなく、器官の組み合わせの中で有効なものを見つけることで、適合度の差をはかることができる。今日では、ゲノムが概ね階層的な構造を持つことが分かっている。細胞内での遺伝子の働きは、器官や組織の働きに対して下位システムである。そのため、細胞内でのプロセスは器官や組織の遺伝子の働きとは独立して働いている。

(西川真央)

4. 複雑性の記述

 人間の顔のような、複雑な物体を描けと言われた時、私たちは顔の輪郭→目・鼻・耳などのパーツ→(より細かく書くのであれば)瞳・まつ毛などという順番で描いていく。これは、対象の情報が記憶の中で階層的に整理されている証拠である。アウトラインの形をとった情報であれば、主要部分間の関係(目と鼻の位置関係)の情報やサブアウトラインでの内的関係(目におけるまつ毛と瞳の位置関係)や情報は容易に組み込める。しかし、異なる部分に属する下位部分同士の関係はアウトラインに現れず、見失われる。これが素人と画家の絵を区別する特徴である。

準分解可能性と理解可能性 準分解可能システムの持つ動態的な特性について考える時、システムを階層として表現しても問題がないことがわかった。というのも、2つの分子の相互作用を研究するときに、片方に含まれる原子ともう片方の原子の相互作用まで考慮に入れる必要はないからだ。このように多くの複雑なシステムが準分解可能で階層的な構造をもっている事実は、そのシステムについての理解や記述を可能にする。逆に複雑なのに階層的でないシステムの解釈には、その構成要素の相互作用を詳細に理解する必要があり、我々の能力では難しい。

複雑なシステムの単純な記述 複雑なシステムだからと言って、そのシステムの記述まで複雑でなければならないことはない。元の構造に含まれる重複(redundancy; 冗長)を利用すると簡略化できる。階層的構造は重複が多いため、簡約的に記述できることが多い。重複には次の3パターンがある。

  1. 複雑なシステムは、それを形成する下位システムを構成する限られた基本的用語によって記述できることが多い。例えばおびただしい種類のあるタンパク質が20種類のアミノ酸の配列で構成されていたり、無限の種類がある分子であっても、その構成要素は90種程度の元素のみであったりする。
  2. 階層的システムは準分解可能性の性質を持ちやすく、システムの構成部分の集計値的な特性のみがそれらの部分の間の相互作用の記述に関わる。つまりほとんどのものが他のほとんどと弱い関係しか持っておらず、現実をある程度記述するということにおいては、起こりうる相互作用のほんの一部を考慮するだけで十分なのだ。欠けている詳細をそのままおとしてしまうような言語で記述すれば、複雑なシステムは簡略化できる。
  3. 複雑なシステムの中のはっきりしない重複性は記号変更によって明確にできる。中でも、任意の時点とその直後におけるシステムの中にある不変の関係に着目した記号変更が一般的である。例えば1,3,5,7,9,…というシステムを、各数字が1つ前の数字に2を足したものであるという記述によって一般化するようなものである。

状態記述と過程記述 科学の任務は、上記の重複性を利用し、世界をわかりやすく記述することだ。ここでは複雑なシステムの理解に役立つ2種類の記述、状態記述と過程記述をみる。円を例にとると以下のようになる。

状態記述は、知覚の対象として世界の特性を記述するもので、絵画・図形・化学構造式などである。一方過程記述は、行動の対象として世界の特性を記述することで、望ましい特徴を備えた事物を作る方法を提供するもので、微分方程式・化学反応式などである。このように世界を知覚の対象と行動の対象に分けて考えることで、適応的有機体の生存のための基本的条件が明らかになる。有機体は知覚された世界における目標と過程の世界における行動の間に相関関係を作る必要があり、それを言葉で表現すると目的-手段分析になる。これは理想と現状の差異を見出し、それを解消する相関的過程を発見するというプロセスなのである。したがって問題解決には2種類の記述の仕方の間で絶えず変換作業を行う必要がある。われわれはまず解に状態記述を与えることで問題を提示し、最初の状態から目標の状態に至る過程を発見する。それが成功したかは過程記述から状態記述への変換によって知ることができ、その解は全く新しいものになる。科学の活動の多くはこの問題解決を適用したもので、例えばある自然現象の記述が与えられた場合(≒状態記述を与える、知覚して記述する)、科学はその現象を生じる過程を表現する方程式を発見する。

自己増殖システムにおける複雑性の記述 複雑なシステムに単純な記述を見出すという問題は、複雑なシステムがいかに自己を再生産できるかの説明においても興味深い。ある事物について十分に明確かつ完全な記述があれば、それに基づいてその事物を再生産することができ、再生産の過程は状態記述からでも過程記述からでも作り上げることができる。最も簡単なのは、複雑なシステム自体がそれ自身の記述、コピーできる鋳型として働くことで、DNAを例にとると、二重螺旋がほどけて鋳型となり、それぞれの鎖に対して相補的な新しい鎖が形成されることで増殖するという説がある。

個体発生は系統発生を繰り返す DNAはその生物の機能や発生を決定するための情報の多くを含んでいるが、それは生物の状態記述としてではなく、生物を形成し、維持するための一連の指令として記録されている。これをコンピュータープログラムと比較する。遺伝物質がプログラムであるとすると、それは特殊で特異な性質をもつプログラムであり、第一に自己増殖を行うという性質、第二にDarwin的進化によってできたという性質がある。しかし、他にはないだろうか。生物学でよく知られた一般理論で「個体発生は系統発生を繰り返す」というものがある(E. ヘッケルが1866年に唱えた)。個々の生物、例えば人間の場合は、その発生の過程で、受精卵から魚類→両生類→爬虫類→鳥類・哺乳類とその先祖の形態のあるものと似た段階を辿って人間になって生まれてくるということだ。複雑な問題を解決する方法として、以前に解決した問題に変形するという方法がある。例えば自動車を作りたい時は、ゼロから考えるのではなく、四輪馬車から横木を取ってモーターと伝動装置をつける方法を考えるということだ。同様に遺伝のプログラムも、進化の流れの中で単純なものに複雑なものを付け加えることで、変えることができるのだ。細胞分裂による増殖はDNAなどの状態記述と細胞分裂というより大きな複製過程の1部分としてその記述を複製する簡単な「解釈の過程」を最低限必要とするが、これだけでは十分でなく、そのメカニズムを過程記述と、より複雑な解釈の過程に基づいて概念化する方が自然である。それは段階をおって成体を作っていく過程であり、各段階は一つ前の段階の作用素の効果を表現している。これらの2つの記述の間の相互関係を概念化することはさらに難しいが、これらの論議から得られる手掛かりは、記述自体が階層的な構造、準分解可能な構造をもつかもしれないということだ。下位のレベルが個々の細胞の高頻度の挙動を支配し、上位レベルの相互作用が発生しつつある低頻度の挙動を支配しているということだ。遺伝のプログラムがこのような組織になっているとして、物質代謝を支配する遺伝情報と分化した細胞の発生を支配する遺伝情報を区別できることで我々の理論的記述の仕事が単純化される。 記述が過程言語のかたちで貯えられて進化しつつあるシステムにおいて、個体発生が部分的に系統発生を繰り返すという論は生物学以外でも適用できる。これは、部分的反復が進んだ知識に到達するための最高の近道を提供するかもしれないからだ。

要約: 複雑性の記述 構造が複雑か単純かは記述の仕方によって決まる。複雑な構造のほとんどは非常に重複的で、これを利用してその記述を単純化することができる。自然の状態記述を過程記述で言い換える考え方は近代科学の発展の中心的役割を果たしてきた。微分方程式などの動態的な法則は単純化のための手掛かりを提供してきた。状態記述と過程記述の相関関係は環境に対して合理的にはたらきかける能力の基礎であり、自分自身を記述する時でも、過程記述は有用な情報なのである。

結論 この論文における基本の立場は、複雑なシステムについての理論をたてる一つの道は、階層の理論によるものだというものである。複雑性は単純性から発展していくため、複雑なシステムは階層的であり、準分解可能性を持っている。準分解可能性はシステムの記述を単純化し、発達や再生産に必要な情報がどう蓄えられるかの理解を容易にする。

(小川孝衛)


付章 企業組織における合理的意思決定 (pp.259-299)

【解題】(高橋伸夫)

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