本書は、アントレプレナーシップを「熟達(expertise)」の一つの形式として理解しようとする、私の知的遍歴を再構成したものである。偶然にも、個人の出資を受けた初めての民間の商業用宇宙飛行としての成功を果たした「スペースシップ・ワン」の実現には、これから書こうとしている要素の多くが具体化されていると考えている。スペースシップ・ワンの打ち上げ成功の3ヶ月後、世界初の民間投資による商業宇宙飛行用の宇宙船開発が発表された。このスペースシップ・ワンの打ち上げから民間投資による宇宙船開発の発表までのストーリー全体は、起業家精神の典型的すぎるくらいの例である。素晴らしい設計者であるBurt Rutan、Mike Melvillなどの優秀なパイロット、億万長者のスポンサーであるPaul Allen、そして、暴れん坊のRichard Branson。
このストーリーから今日のアントレプレナーシップ研究における中心的問題に対して、それらと異なるものの一貫性を持つ、新たな中心的問題を提起し、それに対して取り組む。例えば以下のような疑問が生まれる。
現状のアントレプレナーシップの論理的視角を検討してみよう。
スペースシップ・ワンのストーリーを読んだ、ほとんどの心理学者にとって重要な関心は、設計者であるBurt Rutanのパーソナリティーか、彼の意思決定におけるヒューリスティクス及びバイアスの辺りにあるだろう。エフェクチュエーションは、こうした従来の見方に対して異議を唱えるものである。一般的に、心理的要因は、アントレプレナーシップや起業家の成果の必要条件でも、十分条件でもない。その点、エフェクチュエーションはリスク認識、過剰な自信、機会コストの判断などの心理的変数についての既存の研究成果に対して、いくつかの新しい解釈方法を提示している。
進化論者にとって、重要なのは、「起業家が変異を創り出し、これらの変異が生き残るか否かの淘汰プロセスにかけられる」という点である。進化論者には、社会学の伝統にルーツを持つポピュレーション・エコロジー学者と、競争力学に深く関わる経済学者という二種類のタイプの研究者がいる。
Aldrichは起業家的組織を再生産者とイノベーターを両極とする連続体の中に位置づけられるものとして概念化した。組織進化論の視座に関連した多様なトピックについて考察した後、スペースシップ・ワンのような現象を分析する上で、いくつかのいまだに研究されていない領域や、特定の問いや仮説を提起する論理的難問が存在することを指摘した。これらのいくつかは後に展開する「アドバイス」のポジティブな役割についての議論のように、直接的に本書で展開される理論的基盤に言及するものである。また、Aldrichは集合的行為に関する難問も提起した。
経済学には、アントレプレナーシップを、競争力学のより大きなドラマにおけるバランス作用として捉えるという長い伝統がある。しかしながら、これらの視点は、個人の意思決定やその意思決定がなされる条件として、「未来は大なり小なり予測可能であり、意思決定者は自分が求めるものもわかっており、環境は個人の行為から独立した外部のものである」という前提に基づいている。この点、エフェクチュエーションはこれらの前提が適合しない場合に機能する概念である。エフェクチュエーションは、起業家がどのように、何に基づいて行為をするのか、そして、主流の経済理論における人間の行為の前提に対して、そうした理論がどの程度まで一致するのか、それとも全く相容れないのかを詳細に説明する。同様に、エフェクチュエーションは、起業家(個人)と市場(機会)を興味深い方法で統合するための、アントレプレナーシップの理論的基盤を提供しつつある。
Mark Cassonは極めて不確実な状況における「起業家的判断」の必要性を説いた。Cassonによると「起業家的判断」は「市場形成型」企業を立ち上げるために起業家が活用するユニークな情報に基づいているという。したがって、彼の想定する起業家は、優れた判断を行い、競争がさほど厳しくない状況を特定するために有用な情報を入手し、処理することを得意とする。スペースシップ・ワンのストーリーにCassonの理論を当てはめ、起業家的機能をして位置付けているスキルの中身を検証していくと、エフェクチュエーションの理論では反対の側面が浮かんでくる。例えばCassonは関与者間の交渉を妨害要素として理解しているが、エフェクチュエーションの経験的研究は、機会主義の脅威やモラルハザードに関する契約理論の主張は、熟達した起業家がどのように適切な判断をし、新しい市場を創るのかという点に関しては適合的ではないことを明らかにしている。
エフェクチュエーションに基づく起業家は、起業家の人生や価値に基づいた平凡な現実からスタートし、最終的には機会を紡ぎ出す存在として捉えられる。これをスペースシップ・ワンのケースに当てはめると、「宇宙旅行産業の機会は、利益が期待されるかどうかに関わらず、Rutanと彼の関与者による行為の結果として引き起こされた」と考えられる。多様な関与者の、間主観的相互作用が彼らの行為に結びついたということである。私は、アントレプレナーシップ研究を機能させるための、いまだに明らかにされていない理論的基盤の蓄積は、起業家の「熟達」に関する要素を包含するものであると考えている。そして本書における私の目的は、起業家の熟達に関する要素を特定し、それらを厳密な詳細にわたって、現象の創造と関連づけることである。
伝統的な起業家の成果の研究法としては、次の二つがある。
熟達した起業家の意思決定プロセス並びに未来を予測することに関する考え方のうち何が起業に影響を与えるのかを調べるためにシンク・アラウンド法による発話プロトコルを用いた。具体的には以下の通りである。調査協力者は、熟達領域における定型的な課題が与えられ、その課題を解く間、絶え間なくそれについて声を出しながら解答するよう求められた。この方法を選んだ理由は都合の良いストーリーの構築や研究者の推測の必要性を廃するため。また脳の短期記憶のシステムの構造上の理由から、認知プロセスのブラックボックスを直接観察することを可能にするためである。
特定領域における熟達研究はすでにいくつも行われており、それは興味深いものである。興味深い理由としては、熟達の要素は、その領域特有のいくつかのヒューリスティック(経験則的)な原則から構成され、それがエキスパート・システムや、検証・伝達可能な意思決定と問題解決のテクニックに具現化される点にある。アントレプレナーシップを熟達の観点から見ることはアントレプレナーシップに関するテクニックの開発を進め、さらにこの分野に新しい視点を持ち込むことで、特に起業家の成果に対する現在の分析視覚に対して影響を与えるだろう。
近年のアントレプレナーシップ研究は、起業家が創業した企業の成果にどのように影響を与えているか研究するものである。しかし、本書が提起している起業家的熟達の視点は起業家自身の成果に着目する。よって、企業の成功/失敗と起業家の成功/失敗は必ずしも一致しない。チェスの熟達者の勝利が確約されていないように熟達した起業家であろうと成功は確約されていないのである。この考え方では起業家に欠かせない「失敗のマネジメント」、つまり失敗をどう活かすかといった項目も評価が可能だろう。詳細な起業家的熟達と企業並びに起業家の成果との間の微妙な関係については第6章で述べる。
熟達した起業家の行動は、
上記のプロセスは以下の原則に従いつつ行われる。また以下の原則は現在受け入れられている考え方の反例である。
コーゼーションの論理の前提は「未来を予測できる範囲において、我々は未来をコントロールすることができる」というもので、それに対して、エフェクチュエーションの論理の前提は「未来をコントロールできる範囲において、我々はそれを予測する必要がない」というものである。エフェクチュエーションの論理を用いることは、以下のような世界観や立場を支持することを意味している。 エフェクチュアルな行為者は、
エフェクチュエーションが大事である理由は、エフェクチュエーションは起業家が取り組む課題について、包括的で代替的な分析枠組みを提供するからである。分析枠組みは起業家の思考回路を規定・解明する。要約するとコーゼーションとは対照的にエフェクチュエーションの枠組みは問題空間を変容させ、既存の現実から新しい機会を再構築しようとする。
本章では、リサーチデザインの理論的根拠、シンク・アラウド法による発話プロトコルの詳細、被験者の選択プロセス、そして実験用課題について明らかにする。
経験的研究における科学的なリサーチデザインには、少なくとも2つの視点がある。ルドルフ・カルナップは、立派な科学とくだらないナンセンスとを区別する際は言語の観点から行うのが重要であり、有意味な命題は原理的には「検証可能」でなければならないと考えた。一方、カール・ポパーは、意味の研究は科学の理解に適切な関わり方を持たないと考え、命題は「反証可能」であれば科学的であるとした。つまり、カルナップの検証はボトムアップ法によっていて、ポパーの反証はトップダウン法によっている。ほとんどのマネジメント分野の理論家はポパーの視点を採用したが、ハーバート・サイモンらが発展させたカーネギー学派やその門下である私は、カルナップの視点を採用した。
これまで多くのシンク・アラウド法による発話プロトコルを用いた研究が行われてきており、様々な問題解決・意思決定において人間が用いる認知プロセスや、ヒューリスティックな方略のモデル発展に貢献してきた。発話プロトコルの概念的・方法論的論点についての詳細な検討は、ビジネス分野以外でも幅広く研究されてきた。 シンク・アラウド法による発話プロトコルが、起業家の意思決定プロセスを研究する上で有益だ、という証拠も既に得られている。この手法の背景にあるアイデアは、問題解決や意思決定の実験研究の被験者が、問題を解き、意思決定をするとき頭に思い浮かんだ言葉を継続的に発してもらうことである。このシンク・アラウド法による発話プロトコルは、録音した上で書き起こされ、様々な定性的・定量的手法で分析される。この手法は事前に2つの準備を必要とする。第1に、熟達した起業家のサンプルが必要である。第2に、スタートアップ時に起こる典型的な「意思決定問題」を開発する必要がある。
本研究においては、熟達した起業家を、「個人・チームを問わず、1つ以上の企業を創立し、創業者・起業家としてフルタイムで10年以上働き、最低でも1社を株式公開した人物」と定義した。また、候補者の選出において、2つの情報源にあたった。1つ目は、ベンチャーキャピタリストのDavid Silverによって編集された、1960年から1985年で最も成功した起業家100人のリスト、2つ目はErnst & Young社による「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」の受賞者リストである。このサンプルは全ての熟達した起業家から抽出されたと言える。結果的に、実に多様な業界から45名が参加に同意し、全員が男性で90%がアメリカ国籍で、41〜81歳、3分の2が大学院卒であった。
被験者に共通する唯一の要素は、アントレプレナーシップである、と私は考えた。そのため、アントレプレナーシップそのものを、本研究の設計の中核となる課題に据えることにした。最終的な実験用課題は、「ベンチャリング」と名付けたアントレプレナーシップに関するコンピュータ・ゲームを扱う新しい会社を設立する過程で解決すべき10の設問からなる、起業家的意思決定の問題であった(付録1)。実験やインタビュー後、全ての被験者は「実験で提示された課題は現実的だ」と述べた。
私はプロトコルの録音データを繰り返し聞き、そこからいくつかのテーマを見つけ、それを分析や仮説形成に関する関連文献にあたる手がかりとした。最初に浮上したテーマは、「熟達した起業家は、マーケットリサーチを信用しない」ということだった。そして意識的・無意識的に、意思決定における未来の予測に対して、明らかな不信感を持っていたのである。このことは、「未来を予測することなく、どうやって意思決定をするのか?」という新たな疑問を生じさせた。
不確実性のもとでの意思決定の研究における規範の開発は、ナイト(Knight, 1921)による「リスク」と「不確実性」の概念的区別にその源流がある。確率分布が既知の状況は「リスク」にあたり、古典的な「分析のテクニック」が要求されるのに対し、確率分布が未知の状況は「不確実性」にあたり、「推定の手続き」が必要とされる。規範的モデルの構築を手掛けている研究者による実験研究では、人間は一般的に、「未知の分布」よりも「既知の分布」を好むことが明らかになっている。しかし、アントレプレナーシップの研究者は、起業家は、曖昧性に対する耐性が高いため、彼らは「未知の分布」を好むだろうとした。いずれの規範的アプローチも、人間は概してさほど合理的ではない(Simon, 1959b)とする、他の研究者によって修正がなされてきた。しかし、これらの発見は、意思決定者が非合理的であることを意味しない。むしろ、一定の制約内では、意思決定者はヒューリスティックや帰納的論理を用いて、効果的に意思決定をすることがしばしばあることを示しているのである(Gigerenzer et al., 1988)。
ここでナイトの話に戻すと、ナイトは2つではなく、3つのタイプの不確実性を論じていたことに私は気が付いた。最初は、既知の分布だが結果がわからないくじ引きについての未来。2番目は、未知の分布で結果が分からないくじ引きについての未来。3番目は、未来が分からないのみならず、原則的なものすらもわからない未来についてである。3番目の対処についてはナイト自身も途方に暮れた。それでは、調査協力者の熟達した起業家は、もし未来がこの第3のタイプの「ナイトの不確実性」にあたると信じている場合、どうするのだろうか? そこで私は、直接データを定性的に分析することで、「ナイトの不確実性」に対処する論理を見出そうとした。そして私はこの論理を「エフェクチュエーション」と名付けたのである。
エフェクチュエーションは、人間の行為が未来をつくり、それがゆえに、未来は合意のもとに行われる人間の行為によってコントロールされ、また創造される、という認識に根差している。もちろん、こうした見方は、現実よりも期待を色濃く反映するものであり、現実世界では、多くの起業家が失敗する。しかしこの事実は、エフェクチュアルな行為者が、予測することや予測に対応することよりも、世界の一部を形づくり、創造することに対して関心を持っている、という仮説を否定するものではないのである。
上述の概念形成の議論に基づき、本研究における被験者(熟達した起業家)の意思決定プロセスは、「未来の予測可能性」に関する以下の3つの信念のいずれかによって影響されていると推測できる。
次の帰無仮説が棄却されるならば、被験者の「未来の予測可能性」に関する信念の選好を分析する必要がある。
帰無仮説: 新しいベンチャーの開発に従事している「熟達した起業家」は、未来の予測可能性についての3つの信念(および、それに対応する技術)について、特定の選好を持っているわけではない。
最初のデータ群は、マーケット・リサーチに関するものである(例えば、設問1の問4「どのようにこの情報を見つけましたか?どのような種類の市場調査をしましたか?」)。我々が使ったコーディングの枠組みは、表2.3の通りであり、詳細なカテゴリーは仮説に関係するANL、BAN、EFFの3つの大きなカテゴリーにまとめられた。ただし、誰もが何らかの形で見るであろうPUB (公刊資料)については無視した。
マーケット・リサーチに関する質問から得られた235の意味的なかたまりのうち、24(10%)はANL、35(15%)はBAN、そして176(75%)はEFFに属していた。この分析の結果、帰無仮説を否定するに足る強力な証拠が得られた。また、「ボルダ得点方式」を用いて多弁な調査協力者が仮説に有利な方に数値を歪めていないかどうかについてテストした後でも、15(ANL)、20(BAN)、46(EFF)と、EFFは数の上で圧倒的に多数であった。このことから、新製品のための市場創造において、調査協力者である熟達した起業家は、伝統的マーケットリサーチの方法よりもヒューリスティックを明らかに好む、という仮説を支持していると考えられる。特に27名中7名は、EFFカテゴリー以外の発言はしなかった。この後の定性的分析では、この「極端にエフェクチュアルな行為者」について述べる。
27名の調査対象者のうち、マーケットリサーチまたは予測的分析を有意味な程度に用いる者は4名のみであったことから、分析の焦点は、他の23名がその代わりにどんなプロセスを用いたかを特定することへとシフトした。プロトコルの内容は、認知科学の研究者によってエキスパート・システムを記述する予備的な段階において開発・利用される、単純な「プロセス追跡法」によって分析された(Haines,1974)。
エフェクチュエーションの論理の全体像は以下の6つの要素から構成される。
エフェクチュエーションのプロセスはコーゼーションによる推論と正反対である。エフェクチュエーションのモデルは以下のプロセスで進む。
本章ではコーゼーションに基づくモデルと、エフェクチュエーションに基づくモデルを作成し、それぞれを用いた2種類の予測を立てることにした。そして、設問2に対するプロトコルの内容を用いることで、どちらのモデルがデータを裏付けるのかをテストすることにした。設問2では、調査協力者は、「ベンチャリング」に関する市場調査のデータが与えられ、以下のマーケティングに関する意思決定を行うことを求められた。
コーゼーションの推論に基づくモデルから、意思決定が以下のように行われることが予測できる。
エフェクチュエーションでは、「最初の顧客を許容可能な損失に基づき発見」→「市場セグメントの定義まで一般化」するので、最初に見込み客を調査する手段を選択することからスタートすると予測される。さらに「市場は紡ぎ出される」ということが、「セグメントの選択」ではなく「パートナーの選択」になるだろうと示唆する。
「大人向け」市場を選択した調査協力者は26%のみであり、コーゼーションに基づく予測は棄却された。48%はセグメントを選択しなかった。彼らは「チャネル」と「パートナー」を選択するだけで「セグメント」はそこから発展すると考えていた。74%はエフェクチュエーションを用いた。
セグメント同様コーゼーションは棄却された。多くは最初の顧客とチャネルに基づき、幅広い価格帯を選択した。
チャネルに関しては明らかにエフェクチュエーションよりである。85%の被験者が、最初に、「インターネット」もしくは「パートナー」を通じた販売を選択したのである。さらに、残りの15%の調査協力者もまた「ターゲット・セグメント」の選択を通じてではなく、自分の「過去の経験」に基づいて、チャネルを選択していた。理由を「きわめて安くて、アクセスが容易であるためだ」とはっきりと述べた。そして、「ターゲットとなる市場セグメントに基づき、チャネルを選択する」と述べた人は、誰もいなかった。実際に彼らは、「どんなセグメントを選択するか」よりも、「まずはどんな顧客でもいいので接触すること」に重きを置いていた。
経験的な研究の分析結果を解釈し、そこから有益な結論を導く際に行われる哲学的アプローチとして、
本研究において厳密な実証主義者の立場を取った場合の最大の問題点は、コントロール・グループ(対照群)の欠如である。そのグループは、候補として3つ考えられる。
成功していない起業家を対照群に用いることは、危うい前提を正当化してしまうことに繋がる。このことの前提となっている「熟達は成功を保証する」とすることや、「起業家を成功と失敗に分ける」ことは危険である。熟達した起業家の知識や能力に関係ないところにも、成功・失敗の要因は多数存在する。それは、全くの幸運や災害や戦争、新しい技術や規制などの外的要因から、創業時の資源や能力の相違に至るまで、様々だ。このことから、「起業家の熟達」と「企業の成功」を同一視することは、理論的に不適切である。そこで筆者は「成功していない起業家」を対照群とすることは止め、存在証明の問題(as a matter of existence proof)として研究プロジェクトに着手した。「起業家の熟達」と「成果」の関係性について結論を導くことを目的とせず、「様々な熟達した起業家に共通点が存在するか否か」という点を立証し、「起業家の熟達モデルのベースラインモデル」を確立するためにリサーチ・デザインを作ったのだ。
他の分野の熟達者を対照群として用いることは、比較することに意味があるグループをどうやって見つけるのかという問題を生じさせる。遠すぎても、その相違点は分野の違いによるものである可能性が高くなるし、近すぎても、差異が生じると予測される理論的根拠がない。実際CEOの多くは創業者であり、全ての熟達した起業家はリーダでもある。さらに技術的・役割的なバックグラウンドを様々に持っていることが多く、「他の種類の熟達」と区別するどころか、マネジメントにおける特定の職能領域の熟達者との比較も不可能になった。ただ、試案としては、「マーケティングのプロフェッショナル」と「戦略コンサルタント」がいい比較群になるかもしれないことがわかった。また、「経験豊かなマネージャー」と「熟達した起業家」はエフェクチュエーションの論理の利用に関して大きな違いがあったが、「高度経済成長のリーダー」と「熟達した起業家」は共通点が多かったことが、近年の研究で明らかになった。しかし、先行研究は「起業家の熟達といったものは存在しない」という仮説に立っていたため、筆者は、比較価値のある分野を検討する前に、起業家の熟達が存在することを明らかにする「存在証明」をまず確立することに決めた。
起業家における「熟達者(expert)」と「初心者(novice)」の分散の違いを比較する研究方法としては、
2005年のDew、ReadおよびWiltbankの共同作業において、「熟達した起業家」と「経験の浅い起業家」に明確な違いがあることが明らかになった。「熟達した起業家」は89%がエフェクチュエーションの論理をより好んだのに対し、「経験の浅い起業家」は81%がコーゼーションの論理をより好んだのだ。また2つのグループ(熟達者と初心者)に起業家的熟達のいくつかの要素で相違点があることを確認した筆者たちは、そうした有意の差異を示す項目を集めて得点表を作った。そして調査協力者を得点によって2つのグループに分けることができることがわかった。
上記の研究は、前述した2つの研究のうち、(b)のベースラインを作り上げる過程に相当し、アントレプレナーシップを認知的熟達の概念レンズで調査するものである。よって筆者たちは、(b)の研究方法を採用することを決めた。実際アントレプレナーシップに「熟達」という存在があるかどうかは疑いを向けられていたが、色々な枠組みを作ってそれぞれの相違点を比べてみても、枠組みごとの違いを示すことはできないため、筆者たちは、熟達した起業家のグループになんらかの共通点が存在することを単純に立証することを目指した。このような、起業家の熟達に関する現象を取り出すことに焦点を合わせようという主張は、「何がアトレプレナーシップを成立させているのか?」をめぐる議論の混乱によってさらに強まった。
前章で詳細に述べた(起業家に対する)最初の熟達研究に基づき、筆者たちは以下の暫定的結論を導き出した。
次節では、起業家的熟達に関する最初の経験的調査の終了後、現在進めている研究について、そして近い将来における研究可能性について述べていく。
シンク・アラウド法による発話プロトコルの方法を用いて、熟達者-初心者の比較研究以外にも少なくとも2つの起業家的熟達の研究が実施されている。
その1つはGustafssonの博士論文であり、「直観を引き出すタスク」「準合理性を用いるタスク」「分析を引き出すタスク」の3つのシナリオを用いて、「熟達した起業家」「経験の浅い起業家」の双方を含む調査協力者に対し、タスクを実行させ、データを抽出した。結果として本研究はアントレプレナーシップ研究において「熟達」の概念レンズが有効であることを立証し、「アントレプレナーシップには、教授可能、学習可能な側面が存在する」という信頼性を高めるものとなった。
もう1つはAllenの博士論文であり、主に「経験の浅い起業家」に対し、起業家の経験の違いを利用して、その経験とコーゼーション/エフェクチュエーションの論理の利用とを関連づけようとした。また本研究ではアントレプレナーシップ研究の心理的資質に関する先行研究において、これまでに使われてきた標準的な心理測定尺度を用いて、様々な心理変数の測定も同時に行われた。結果としてエフェクチュエーションの利用と経験との間に強い相関が示されたことに加え、ほとんどの心理測定尺度は、研究対象となった変数との相関を示さないことも明らかになった。
アントレプレナーシップにおける、エフェクチュエーションの論理の使用を調査するためのもう1つの方法は新しい企業や市場の初期段階における歴史を分析してみることである。以下、いくつかの事例を紹介する。
RealNetworks社は、圧縮技術とアルゴリズムを用いて、インターネット上の音声ファイルをダウンロードすることの限界を克服するオーディオ・ストリーミングの技術を先導した会社である。1994年初頭の創業から1997年9月の株式公開までの期間の同社の重要な意思決定の出来事を整理すると、それらはエフェクチュエーションの原則・プロセス・包括的な論理と関係づけることができた。
CarMax社はCircuit City社の中古車販売部門であり、同社の起源となった1991年のCircuit City社の中長期計画から1993年の創業、同社が持続的企業として株式会社化した1994年までの意思決定がエフェクチュエーションとコーゼーションのどちらの推論を使ったかを本研究では扱っている。本研究のコーディングデータによると69の意思決定のコードの中で33がコーゼーション、36がエフェクチュエーションに関連するコードとなり、基本的には50対50の割合であった。CarMax社の黎明期の成長ではエフェクチュエーションが重視され、目的が明確になるとエフェクチュエーションの使用が減ったものの決してコーゼーションのアプローチが支配的にはならず、時の経過によってスムーズに純粋なコーゼーションに基づく思考へと進化していくわけではないことが本研究では発見された。
本事例は1991年、セルビアによる攻撃を受け、大きな被害を受けたオシエク大学の教授であるSinger教授が、アントレプレナーシップの大学院プログラム、起業家的イノベーションに特化した、欧米流の2年制MBAコースを立ち上げた際の事例である。本研究は、Singer博士による大学院プログラム開発に関する、個人的な経験や歴史的な叙述を5段階に再構成し、その開発を、コーゼーションとエフェクチュエーションの双方の論理の活用について辿った。結果、最初はエフェクチュエーションの論理で発展し、発展に伴い、よりコーゼーションの論理を取り込むようになったことが発見された。しかしコーゼーションの原則は専ら目的主導の行為としてのみ現れ、リターン予測や競合分析の局面では現れなかった。これは本事例が教育機関のベンチャーであったことに起因している可能性がある。
Dewは無線ICタグの新しい業界を分析する中で社会学的・経済学的アプローチが、「変異」に重点をおいており、また社会学的理解と経済学的理論がともに現実の「変容」による変化を議論していてゼロから創造を行うことによる変化を議論しているのではないことを発見した。社会学的理解、経済学的理論のどちらのアプローチも「どのように、変動や変容が起こるのか」についての理論的基盤が欠けていたために、結果としてDewはエフェクチュエーションを提案し、業界の形成と発展に対して、社会学的アプローチと経済学的アプローチを原型として用いながら、両方のアプローチに対して理論的基盤を提供する、エフェクチュエーションの動学モデルを開発した。
実証主義のアプローチを用いて、エフェクチュエーションを理解しようとする際には、定量的なアプローチが必要でそのためにReadとWiltbankはサーベイ調査ツールを開発した。
大規模な定量的検証は、アントレプレナーシップにおいて、コーゼーションかエフェクチュエーションの論理かを分類するには粒度が荒すぎるため、サーベイ調査のツールとして「予測に基づく戦略」対「予測に基づかない戦略」を使用した。その戦略分類は「予測」と「コントロール」の2軸からなり、4つの象限に対応する4つのシナリオを用いて、各シナリオにおいて、意思決定者が用いる論理と特定の戦略との関係性を検証する。
上記、サーベイ調査ツールはエンジェル、VC等民間投資家の企業家的状況における意思決定プロセスの検証にも利用され、エンジェルは、意思決定においてエフェクチュエーションを用い、VCはよりコーゼーションを用いるという明確な仮説を導くことができる。
上記、サーベイ調査ツールから派生する研究の自然な流れは、行動経済学におけるシミュレーションによる実験室研究がある。
プラグマティズムは近年、社会科学の研究者間で関心が高まり、より多くの議論がなされるようになっているが、プラグマティズムの「実践的」で「用具的」な性質が、「なぜ皆エフェクチュエーションを使いたがるのか?熟達した起業家がエフェクチュエーションを使うのと使わないとでは、どういった違いが出るのか?」といった類の質問に関心を引き寄せ、これが「エフェクチュエーションの値打ちは何か?」という問いを導く。アントレプレナーシップに関する様々な先行研究をプラグマティズムの視点で読んでみると仮説を単に支持したり、棄却したりするだけでなく、我々が既知の知識の上にさらに何を築くことができるのかを再考するのに役立つと同時に「起業家はどのように行為するのか、または行為すべきか」という起業家的行為の理論ではなく、起業家的行為の論理としてのエフェクチュエーションの開発を導くプラグマティズムのアプローチによって新たな研究の可能性も開けてくる。
行為に関するエフェクチュエーションの論理とコーゼーションの論理の違いはパッチワークキルトとジグソーパズルのメタファーに準えることができる。パッチワークキルトとジグソーパズルは以下の3点で異なる。
新しい会社を構築するためのエフェクチュエーションの論理は主観的・間主観的・客観的な要素が全て組み込まれており、それらはジグソーパズルよりパッチワークキルトに似ている。
「合理的選択には、二つの推測が含まれている。不確実な未来の結果と、不確実な未来の選好についてである。」とMarchは述べている。ここでは二つ目の推測について議論する。それは「目的の曖昧性」の問題である。
事例としてスターバックスを取り上げ、ナショナルブランドに至るまでの起源を分析する。
現時点でのミクロレベルでの合理的選択に基づく選択は「個人は(合理的)に振る舞う」「個人は(非合理的・特異的)に振る舞う」の二つで分けられており、第三のカテゴリーとして「(合理性の派生形)」というものがある。Schultzにおいてはどちらの説明法でも主張することができる。つまり、「飛び抜けて高い値段を人々がコーヒーに支払うような市場を予測できなかったため、合理的に行動していない」とも、「曖昧な市場や投資家からのフィードバックを全て受け入れたわけではないため、非合理・出鱈目に行動したわけではない」とも言える。
もしヒューリティクスやその他の「合理性の派生形」に基づく第三の視点に立つのであれば、そこには我々が進むべき方向として何を選択すべきかについて、一貫した選択基準がない多すぎる選択肢が並ぶだろう。人々が皆、規範的合理性に基づく以外の基準を用いて意思決定をしてきたことは経験的な事実である。しかし、人々が利用可能なさまざまな非合理性のツールの中で、一体何を選ぶべきかについての論理もまた持ち得てないこともまた事実である。故にSchultzにはベンチャーを興す理由も興さない理由も存在しており、これがまさに「等方性」の問題なのである。
したがって問題は「起業家は多次元的な不確実性のもとで、どのようにして合理的に振る舞うことができるか」である。特に情報が「等方的」である時、「合理的に振る舞う」とは何を意味するのだろうか。ここで「等方性」とは、不確実な未来の結果を含む場合のいい決定や行為において、その情報が注目に値し、どの情報がそうでないかが、必ずしも事前にはわからないことを示す概念である。
以上をまとめると、以下の3つの要素がエフェクチュエーションの問題空間を構成している。
コーゼーションとエフェクチュエーションは、同じ人物が双方の推論を用いることができる。しかし、熟練した起業家は双方の能力を持ちながらも、新しいベンチャーの初期ステージでは、エフェクチュエーションに基づく行為を好んで用いており、そしてほぼ間違いなくコーゼーションの推論を必要とする後のステージにうまく移行できないのである。
コーゼーションとエフェクチュエーションにおいて、一般化された目的や願望は共通している。これらの違いは「問題フレーム」にある。つまり「特定の結果を生み出すために選択肢の中から手段を選ぶこと」に対して、「特定の手段を使って可能な結果をデザインすること」の違いである。コーゼーションのモデルが「多から一の関係図」で構成されるのに対し、エフェクチュエーションのモデルは「一から多の関係図」で構成される。これら両方ともが、意思決定や行為の異なる文脈のなかで重なりあい、相互に関連しながら、同時に起こりうる人間の推論にとって不可欠な一部なのである。
思考実験「カリーインハリー」の事例からわかるように、起業家は、エフェクチュエーションのプロセスを用いて、全く異なる業界で、全く異なるタイプの企業を興すことが出来る。これは当初のアイディアが企業にとっての単一の戦略的世界や市場を示唆するわけではないことを意味する。その代わり、エフェクチュエーションのプロセスは、スタート時のゴールにかかわらず、1つ以上の結果を起業家が作り出すことを許容する。さらに、ビジネスを始める上での一般的な意味の願望というものも、エフェクチュエーションでは必ずしもスタート地点とならない。いくつかの成功したビジネスや偉大な企業は、創業者による正確で詳細なビジョンを必要とすることなくスタートしている。
シンクアラウンド法による発話プロトコル法において述べられる、アイデンティティによる推論は、行為と結果、選択と帰結の間の因果的な繋がりとして機能する。「アイデンティティ」は「知識」や「ネットワーク」に依存しており、それらによって変化する可能性もあり、その逆もまた然りである。最終分析において、エフェクチュアルな行為者はこれらの三つの手段を最も重要視する。しかし、あらゆる入手可能な手段は全てエフェクチュアルなキルトを構成するパッチである。最終的に重要であるのは、特定のパッチではなく、それらを使って起業家が何をするかである。
コーゼーションのモデルは、最適な戦略を選ぶことでリターンを最大化することに焦点を合わせている。一方エフェクチュエーションはその人が「いくらまでなら損して良いか」を決めることから始めて、後に、限られた手段を梃子として創造的に活用することで、新たな目標と手段を作り出すことを重視する。「許容可能な損失」は起業家ごとに、またその起業家のライフステージと状況によって異なる。この推定に基づくことでエフェクチュアルな行為者は予測に頼らなくて良くなる。許容可能な損失の原則は、起業家自身が集められる手段の範囲で、アイディアを市場に持ち込むための創造的な方法を見つけることを促す。
許容可能な損失の原則は一見して「ミニマックス分析」や「リアルオプションの論理」と混同しがちだが、エフェクチュエーションにおいては、意思決定に必要な情報の「内容」と決定問題の構造に内在する「前提」という2点において異なる。要約すると
許容可能な損失は、リソースを最低限の出費に抑えることによって、逆境におけるシナリオをコントロールしつつ市場へ到達する方法の発見に集中することでリスクを低減する。熟達した起業家は、許容可能な損失の原則を習熟しており、それを「リソースがない状況でのマーケティング」の原則に変換できる。さらに、エフェクチュエーションは、許容可能な損失の原則を、自発的な関与者と彼らの持つ「新しい機会を具現化し構築する能力」と組み合わせ、それを新しいベンチャーを選択する上での判断基準とするのである。
「クレイジーキルトの原則」は、今後経営に関わるかもしれないし関わらないかもしれない潜在的な関与者についての機会コストを考えるのではなく、実際にコミットした関与者を考慮に入れるべきだとする。故に「クレイジーキルトの原則」はエフェクチュエーションでは決定的に需要であり、市場と企業を同時に創造するための重要な分岐点なのである。クレイジーキルトの原則が導く結論の一つは「エフェクチュエーションは体型的な競合分析を重要視しない」ということである。なぜなら、彼らはあらかじめ決められた市場を前提とせずに創業プロセスを開始するので、詳細な競合分析はスタートアップ期にあまり意味をなさないためである。代わりに、熟練した起業家は初めからパートナーシップを結ぶ。実際、「クレイジーキルトの原則」は「許容可能な損失の原則」と結びつき、起業家のアイディアを少ない資本で市場に持ち込む。許容できる損失は限られているため、エフェクチュエーションに基づく起業家があらゆる自発的な関与者と協業することは理にかなっている。特定の市場にこだわらないことによって、関与者とのパートナーシップのパッチワークによるキルトが成長し、それは新しい市場に結実するか、最終的にどの特定市場で新しいベンチャーの事業が固まるかを決定するのである。
コーゼーションのモデルは、偶発性が存在するにも関わらず、常に予測できない要素を避け、あらかじめ決められた目標を達成しようとする。対照的にエフェクチュエーションは偶発性を活用しようとする。エフェクチュエーションに基づく行為者にとって、不確実性や偶発的な情報は目標を達成するための「リソース」であり、「プロセス」である。生き抜いているベンチャー企業はしばしば「偶発性の産物」である。公式的モデルでは、驚きは通常エラーの扱いで分類されてきた。しかし、エフェクチュエーションの論理では、驚きはむしろ価値創造のための機会の源泉であると言える。ただしそれが可能になるのは、新しい可能性を生み出すために驚きを用具的なやり方で捉え、さらに想像力にとんだやり方で、驚きと既存のインプットを組み合わせるときだけである。
コーゼーションの論理とエフェクチュエーションの論理はいずれも未来をコントロールすることを目指すものであるが、コーゼーションは「不確実な未来における予測可能な側面」に焦点を合わせ、エフェクチュエーションは「予想できない未来の中のコントロールできる側面」に焦点を合わせる。熟達した起業家は、予測に頼らないことによって、「Knightの不確実性」に対処する。その代わり、彼らはまず行動に移すことのできる仮説を立て、世界に対する行為や他者との相互作用を通じて、実際にそれを具体化する、あるいは書き換える。エフェクチュアルな行為者は、「Knightの三つ目の壺」に対処する唯一の方法は、すでに手元にある身近なものを使ってともかくやってみることだ、と述べる。エフェクチュエーションは、不確実性のもとでの意思決定に関わるほとんどの先行研究を支配する、存在論的な立場を浮き彫りにする。これらの研究における取り組みは、もっぱら予測精度を向上させるための「因果分析」に尽力している。しかし、コーゼーションに偏ることは、コントロールに関する求術の研究をほとんど無視してしまうことになる。未来が本当に予測不可能な最もよくしられた例として「自殺の第四象限」がある。熟練した起業家のうち何人かは「自殺の第四象限」を好む。なぜなら、「自殺の第4象限」においては、飛行機の中のパイロットが必要だからである。新しい技術を商業化する際に、先陣を切る起業家は、予測に失敗することにしばしば気づく。このような予測不可能な事例において、コーゼーションに基づく地図は、存在しないか、エフェクチュエーションに基づく行為や相互行為に比べて有用性が低いのである。
どのようにして新しい市場ができるのかという問いに進む前に、「市場」という概念の定義をする必要がある。Coaseによると、資本主義社会における、企業とともに中心となる制度が市場であるとされ、謎に包まれているとされる。謎に包まれているのは、概念について多様な記述がなされているからであり、「需要」「供給」「制度」の三つのカテゴリーに分類される。定着した既存の市場においては上記の三つが容易に認識することができる。しかし、新しい市場の場合はそれらが不完全な情報に満ちている。需要が外生的で安定していたとしても、技術進歩や制度進化によって供給の方法が無限にあるように思える上に、選好が内生的に変化するものであることを考慮すると、さらに問題は複雑化する。それでも起業家や経営者は、新しい市場の創造に取り組まねばならない。場合によっては既存事業を生き残らせるのと同時並行で行わねばならず、新しい可能性の「探索」と古い確実性の「活用」のトレードオフの関係があるとされる。
新しい市場の創造に関する経験的研究は膨大な数行われてきたが、結論としては事前には予測不可能で形になるとしても其の実現には時間がかかるとされる。それゆえ、新しい市場を創造するために一番有力な方法は、考えうるあらゆる市場空間を何らかの形で探索する他ない。市場は、探索と活用の双方のプロセスを通じて技術的・制度的に進化する結果として出現しうるのではなく、「参入」「購入権」などの言葉に見られるように、あらゆる新しい市場は「全体像」として理論的に存在しており、企業は様々な探索的戦略を通じて発見するものであると私は仮定したい。
Goodmanは「帰納に関する新たな問題」を提起した。例えば、「すべてのエメラルドは緑である」という結論は今まで見つかったエメラルドが緑だからという帰納的な結論であるが、これに対して、選言的な予測として未来の特定の時点t以前は全て緑であり、t 以後は青である状態について「グルー」という言葉を導入する。すると、今までのエメラルドは緑でもあり、グルーでもあると結論づけられるので、将来エメラルドは青になることを認めてしまうことになる。この「グルーのパラドックス」は哲学以外でも研究され、新しい市場の創造に対しても応用してみる。
例えば、インターネットの商業化について、1985年に確立され、1994年にネットエスケープ社が創業する以前のインターネットは、主に研究者や学者に使われていたという点で「rインターネット」とよび、それ以後のインターネットは商業的な特性を強めたという点で「c インターネット」と呼ぶことができる。ここで起こる疑問は、第一にrインターネットの創業・開発者はどうやって商業的可能性を見出したのか。第二に需要側の経営者はどうやってcインターネットを通じた小売流通の可能性を発見したのか。第三に制度的な視点で、rとcの双方をどうやってインターネットという定義に収束させたのか。そして、ナスダックのように店頭販売から、バーチャルな取引所に変容させたのか。cインターネットに変容する様々な市場の発見には、rインターネットの可能性を探索する必要があったと理解できる。探索は不確実で、時にマイナスを伴うこともあるという洞察は、rインターネットからcインターネットに変化するのに時間がかかったことのいい説明になる。
結局、存在する可能なすべての市場を発見するには、失敗を伴いながら膨大な探索・実験を行う必要がある。一方、バーンズ&ノーブル社がなぜ最初のインターネット書店を立ち上げなかったのか、等の別の説明として、「新しい市場の創造が等方性のプロセスである」という事実が挙げられる。事後的には探索と活用の結果に見えても、元々の現実が変えられていった結果であるかもしれない、ということである。Goodman流にいえば、インターネットはグルーであり、rインターネットがグルーであったことに反駁できないのである。 帰納的に考えたときのグルーの不可解な点は、帰納的に緑のエメラルドが青に変わるメカニズムが存在しないことである。ここに、人間の行為を議論に投入すると、色の変化を待つのではなく、エフェクチュエーションに基づいて、「現存する現実」を「新たな可能性」に変容させることで不可解さは消滅する。
市場の創造は、既存の現実を新しい市場に変容させていくプロセスである」と「市場はグルーである」という前提のもとで、人々はエフェクチュアルな行為をすべきである。エフェクチュアルな行為者は手持ちの手段を理解し、「できること」と「実行するに値するに信じていること」によって行為を規定する。最初に「他の人と相互作用をすること」で新しいベンチャーへのコミットメントに結びつく。
エフェクチュアルなコミットメントの中で、個々の小さな相互作用がどのように利用可能なネットワークやリソースを拡大すると同時に、関与者の目的に一定の制約を課すことで、新しい市場の構造へと収束していくのかを理解する。ここで新しい市場の文脈へ一般化すると、関与者の二者は供給者と買い手にとどまらず、合致する問題と解決策の構成要素を持っているランダムな二者であっても、供給側の構成要素や制度的構造であっても良い。この新製品の一般概念化をすると、エフェクチュアルなネットワークに参加する新しいメンバーは未来の市場の小さな一部から交渉が始まり、ネットワークが成長するにつれて既存の市場がよく知られた市場へと変容していく。その中で共通の制約が増加することで需要・供給の計画や新しい市場の制度的構造として具体化されていく。
このとき、「パイの分割」もしくは、企業が生み出す成果の人々への分配という問題が出てくる。しかし、エフェクチュアルな関与者にとって、自分と相手のみが問題なのであり、最終的な人工物がどう生み出されるかには関心を持っていない。だから、常に彼らは失うことを許容できる範囲のみを投資しているのである。
エフェクチュアルなネットワークが外部の世界を取り込みながら新しい市場に融合するにつれて、そのネットワークは徐々にエフェクチュエーションに基づくものではなくなっていく。この変容は「弁証法」によってモデル化され、内部環境と外部環境は互いに似たものになってくる。ただし、新しい市場は、ネットワークの内部環境と外部環境の間のインターフェースを形作ろうとする相互的なコミットメントの連鎖を通じて編み出されていく。これは以下の三つの影響を受ける。
エフェクチュエーションの動学モデルの開発を、新市場の創造に関する探索-活用パラダイムの代替的哲学基盤を検討することから始めた。ここでの中心はエフェクチュエーションに基づくコミットメントの発想であり、次のような性質を持つ。
インターネットの歴史におけるコミットメントを具体的に見てみると、以下の事実がわかる。
以上の事実より、最初のエフェクチュアルなコミットメントが、結果的に新しい市場へと融合していく関与者のネットワークをどのように起動させたかを説明してくれる。また、Goodmanのいう、新しい市場のグルーな性質を体現するものである。
エフェクチュアルなコミットメントの分析を始めるにあたって二つの問題を提起した。1つ目の問題は、緑/青の世界に対立するものとしてのグルーの世界でどのように起業家は行為できるのか? 2つ目の問題は、多くの存在する可能な市場から一つを選ぶように振る舞うときと、既存の現実を新しい市場に変容させるように起業家が振る舞うときとでは、どのような違いが生み出されるのか?である。
1つ目の問題について、重要な違いは「機会コストの無視」にある。つまり、最初のエフェクチュアルなコミットメントを超えた探索を行わないこと、そして、「新しい人工物がどうなるか」を、拡大する関与者のコミットメントによるネットワークの決定に委ねてしまうこと、である。ここで、「X、すなわち人工物へのコミットメント」と、「C、すなわちネットワークへのコミットメント」を仮定する。グルーな世界観ではCへのコミットメントがXへのコミットメントの切り札になっている。緑/青の世界観では、XとCの両方ともが、可能性のある選択肢を探索することを通じて選ばれる。探索の終わりは企業が掲げる目標に依存する。
一方、グルーな世界では、Xへのコミットメントは常に仮のものである。しかし、Cへのコミットメントは、将来の関与者同士の相互作用に対して発言力を持つことから、決定的に重要なものとなる。また、Xを変容させる前から別の選択肢Dを探索しないという明示的な事前のコミットメントにも関わる。関与者を「掌中の鳥」に限定する、という制約もグルーな世界の特徴である。そうなると、ほかの関与者になりうる者の機会コストは無視されるのか? という問題になる。次にBuchananの主張と絡めてエフェクチュアルなコミットメントを見ていく。
Buchananによる「選択に影響する機会コストは、もっぱら主観的である」という意見に完全に同意する。グルーな世界における選択肢は既存の現実の変容の可能性としてみなされ、低次元での目的は曖昧であり行為者のコミットする当面の変容によって引き起こされる結果であるが、緑/青の世界では選択肢は全ての可能な選択肢から探索され、明確な目的を達成する手段にリソースが割かれる。
グルーな市場に関する分析では、「個人の目的」と「ネットワークの目的」を考慮する必要がある。後者は常にあるXを変容させることであるため、前者はあるメンバーが既存の人工物に変容を加えたときのみに分析に関係する。 さらに個々人は許容可能な負の側面に注目するため、期待利益や予測情報への依存を最小限にすることができるのである。同様の非予測的ロジックは、Cにコミットするときの機会コストを無視することを補強する。
エフェクチュアルなコミットメントの鍵は、タイプUのエラーを犠牲にしても、タイプTのエラーを減らすことである。全ての人間は程度の差こそあれ説得可能であり、新しいメンバーは、他のメンバーの見方を説得できる範囲内で市場の形を変える可能性もあれば、他のメンバーから説得されうる範囲内で、自分の選好を変える可能性もある。 エフェクチュアルなネットワークは人間の行為を通じてコントロールできる範囲内で、未来の形をコントロールしようと試みるため、エフェクチュアルなネットワークは特定の未加入のメンバーの価値を評価するための包括的基準を持っていないのである。交渉のみが唯一の基準であるため、Dに関する機会コストは棄却できる。その上、「新しい市場は実際の世界に存在する既存の構成要素から作られる」というグルーな世界観を受け入れることになるのである。Dは不確実性を孕むものであるが、CとEにとって良いものであるかどうかを事前に決定することは叶わないため、エフェクチュエーションに則っていえば、「掌中の1羽は叢中の2羽に値する」ということである。
上記の分析はエフェクチュアルなネットワークにおける関与者の既存のつながりの役割と重要性に関する、「社会ネットワーク理論」とも完全に調和する。新たなネットワークは、ランダムな機会から生じるかもしれないし、意図的なものでも意図せざるものでも経路依存的なやり方で生じるかもしれないし、既存のネットワークの意図的な活性化を通じて生じるかもしれない。実際偶然の出会いは起こってきた。しかし、新しいネットワークを開始するという考えは、交友関係における信頼に大きな影響を与える社会ネットワークの役割に疑問を投げかけることになる。「機会主義」も「信頼」も互いに相反するが人間の行動における事実である。
ここで、結局数多くの理論と経験的証拠の両方が示唆することは、強い行動主義的な仮定による機会主義からも、信頼を基盤として結び付きからも一旦離れて、より現実的な視点に立つことが有用であろうと考えられる点である。これは、エフェクチュアルな行為者は実際のコミットメントに頼ることを理にかなったものにしている。エフェクチュアルなネットワークは結果として出来上がったパイの取り分を保証することなしに、Xの形を変化させることに対して多大な意欲を要求するため、機会主義者を排除し、賢い利他主義者などを招き入れることになる。したがって機会主義を新市場の創造には無関係なものと位置づけることが出来る。しかし、注意すべきなのは利益の分配が近づいてくるにつれて機会主義的に振る舞うメンバーが出てくる可能性があるということである。これは、機会主義と利他主義についての進化論的な説明に符合するものである。
なぜ世界がグルーであるかのように振る舞うのか、に関して説明する。数多くの進化経済学者は、厳密で有用な理論的基礎を生み出す必要があると述べている。ひかし、新市場/業界に関するこれまでの経験的研究を比較・蓄積することから見えてきたのは、それらの結果がデータ分析の上での理論的基礎と一致しないということである。主に2つの定型化された事実を考慮する必要がある。
起業家研究者や実務家の間では「ほとんどの企業は失敗する」という考えが一致しているが、熟達した起業家は「失敗という選択肢はない」という決まり文句を何度も口にしてきた。この両者の間を取り持つため、筆者は起業家に対し、彼らが成功と失敗についてどんな主張を持っているのかを尋ねることにした。次第に明らかになってきたのは、熟達した起業家は、自信過剰や予測に関して何らかのバイアスを持っているのではなく、確率に関して異なる仮定をしていたということである。さらに熟達した起業家は、企業だけでなくあらゆる失敗を極めて用具的に捉える視点を持っていた。
企業の誕生・成長・死に関する計量経済学的な研究に貢献したEdwin Mansfield(1962)以降、産業組織論の研究者たちは、参入プロセスにおける決定要因と、それが市場に与える影響についての研究に着手し始めた。本章の目的にこれら一連の研究を照らし合わせると、2つの事実に注目できる。
産業組織論における上の2つの結論は、進化論的視点やポピュレーション・エコロジー的視点を持つ組織論者によっても支持されている。しかし産業組織論も、ポピュレーション・エコロジーに関する文献も、起業家の成功/失敗確率については論じていなかった。
起業家の成果に関して、経済学者による研究から定式化された事実は少なくとも2つある。
「起業家の成功と失敗」が「企業の成功と失敗」とは異なるものであるという証拠が不足している主な理由は、「失敗した企業」の証拠を得るのが困難なことに加えて、「失敗した起業家」の証拠を得ることがほとんど入手不可能であるためである。失敗した企業の創業者は、ほとんどの場合再度起業するか、失敗する以前に成功した経験を持つ「連続的起業家」になっているかのどちらかになる。どちらにせよ失敗から長い年数が経たない限り、失敗した企業のことを話したがらないのは無理もない話である。
これまでの連続的起業についての経験的研究では、「経験のない起業家」と「習慣的起業家」の違いや経験が起業の成果の大きさに与える影響に焦点を合わせていたが、これは重要でないことが判明している。適切な比較は、特定のパターンの成功や失敗が習慣的起業家の成果の経時的変化をどのように説明するのかという点である。一度しか起業をしたことがない者にとっては、起業それ自体が目的であるのに対し、連続的起業家にとってのそれぞれの企業は、結果はどうあれ学びのための道具であり、最終的により良い結果を成し遂げるための道具なのである。このように、「習慣的起業」をサイコロの確率ゲームとしてではなく、学習プロセスとして研究する価値は十分にあると考えられる。
一時点でのポートフォリオで異質性(多様性)を活用することの効果は知られているが、意外にも、同様の効果が、習慣的起業の文脈においても「影響」を通じて得られることが確認されている。習慣的起業家は一時点で複数のベンチャーを起業させることはできない(異質性を用いて企業の失敗による損失を平準化できない)。そこで、連続的起業家は「影響」を通じて、異質性によるメリットを達成しようとするのだ。エフェクチュエーションと起業家的成果の関係について、次の命題を立てている。
【命題1】起業家は自らの成功確率を上げるため、企業における失敗と成功の双方を利用でき、実際に利用している。
この命題は、次の仮説に変換できる。
人々は最初から「コーゼーションに基づく個人」と「エフェクチュエーションに基づく個人」に分けられるのだろうか。こうした資質的な側面が影響していることも考えられるかもしれないが、エフェクチュエーションと成果に関する仮説を導くにあたって、次の命題を立てた。
【命題2】起業家のキャリアパスと彼らが創業した企業のライフサイクルは「エフェクチュエーションの論理」の利用に依存し、かつ影響を与える。
この命題から以下の仮説を導く。
ある時点で失敗が起こった場合に、エフェクチュアルな行為者は、コーゼーションの論理で投資をするものよりも投資額の点で損失が少なくなりやすい。エフェクチュアルナ行為者は急激に成長する機会を開拓するために、十分な投資をその場でできない可能性があり、成長機会を逃して競合や他の関与者にとって変わられる。どちらの場合でも次の命題を主張することができる。
【命題3】エフェクチュエーションは「企業の失敗」の確率を低下させるかもしれないし、させないかもしれないが、しかし確実に「失敗のコスト」は低下させる。
この命題は企業家個人のもならず、その集合体としての経済全体に当てはまる。
エフェクチュアルな行為者は確率推定のプロセスの点において通常のベイズ主義者ではない。ベイズの公式は伝統的に例えば実際に現実のものとなっている世界の状態に対応して信念を修正するための推論エンジンとして用いられてきた。しかしこれは別の用途でも使用することが可能である。つまり我々の信念に合うように世界の状態を操作するための、制御エンジンとして用いることができるのである。連続的起業家の事例で考える。連続的起業家の事例における、ベイズ主義には2通りの解釈ができる。第一に「企業の失敗確率は高い。だから私は複数の企業を立ち上げる」と結論づける。これはベイズの法則の推論エンジンとしての通常の使用方法である。しかし、エフェクチュアルな解釈では「企業の失敗確率に関係なく、連続的起業を通じて、私の成功確率を上げることができる」と結論づける。どちらの考えも連続的起業に結びつくが、内包された態度は基本的に異なる。
ベイズ主義の通常の解釈によれば全ての事象には確率がある。視界、ベイズ主義のエフェクチュアルな解釈では、全ての事象の確率が決まっているわけではない。事象はいかに人間の行為を通じて制御できるのか、という観点から、3つのカテゴリーに分類されている。
熟達した起業家は、エフェクチュエーションの世界に生きている。そこでは信念が行為に先行する必要はなく、新しい目的は常に作られ続け、企業の失敗が起業家の成功へのインプットになるだろう。言い換えれば、起業家の「失敗という選択肢はない」という言葉の文字通りの意味は「成功は、失敗しないことではないこと」、そして「失敗は、成功しないことを意味するとは限らないこと」である。エフェクチュエーションの世界では、成功/失敗は0か1かの変数としてはモデル化できない。
エフェクチュエーションは、人間が作った世界において物事を生み出すためのデザイン原則でもある。言い換えれば、エフェクチュエーションに基づくアントレプレナーシップとは、「人工物の科学」である。
バーナード・ショーの物語に登場する、ジョン・タールトンは下着の販売によって1代で財を成したタールトンズアンダーウェア社の創業者だった。彼は自身のビジネスを新しい製品、新しい技術、新しい効率的なやり方を使って構築し、常に新しいものを探していた。しかし下着の仕様は既に決まりきっていて、創造力を発揮し、世界を変えるような余地はどこにもないと考えられており、このタールトンのジレンマにショーは気づいていた。これは非常にもっともらしい命題に対して異議を唱える試みとして読むこともできる。
これは「分離命題」である。これはとりわけアントレプレナーシップの研究と教育に対して深い影響を及ぼしている。例えば「行為とアイデアとは別のものである」と考えられているが故に、意思決定論の多くは正しいコーゼーションに基づく推論に焦点を合わせている。起業家は、機会をリスクとリターンとに分けて考えるようになる。こうした見方では、「限定合理性」というものは、異なる種類の合理性をひとまとめにしたものではなく、「制約条件の下での最適化」と等価になる。同様に「起業家の想像力と芸術家の真の想像力は違う」と考えられるが故に、起業家の卓越性は、芸術家と違って研究対象とならない。その結果、起業家は「企業が外的環境の需要を満たすために、自然発生的に生み出された、抽象的で実体のないもの」といった存在になる。最後に「人工物は世界から分離されている」ように見えるが故に、世界というものを、動かしがたい境界条件として捉える誘惑に駆られる。世界はあまりにも所与のものとなるが、人々にとって最も誘惑的なのは、所与のものが決定されているだけでなく、根本的に「コントロール対象外」の何かだ、と捉えることだ。
もし作品上のジョン・タールトンが「分離命題」に内在する困難を体現していたとするならば、18世紀に陶磁器で財を成した起業家である、ジョサイア・ウェッジウッドはそれを否定することによって得られる解を体現している。彼の作る人工物は、アイデアを具現化したものだったが、その人工物を作るプロセス自体によって、彼自身のアイデアとアイデンティティもまた再編成されたのである。彼は陶磁器を「社会的流動性を象徴する存在」にするべく意識的な努力を行った。さらに陶磁器とは無関係な活動にも積極的に関わりを持ち、新たな会計手法の発明や分業の実施、技術イノベーションの先駆的活用は、科学的・起業家的・社会的革新が、境目なく組み合わされた彼の人物像を裏打ちしている。ウェッジウッドのように、エフェクチュアルな起業家は、彼らの周囲の世界を「人間によって作られた人工物」として認識している。彼らは、自身のアイデアが彼らの製品に体現されているのと同様に、彼らの行為もまた、アイデアを構成することも知っている。エフェクチュエーションの論理を世界で機能させるためには、あらかじめ考えられた分離命題を再考する必要がある。
サイモンにとって、人間の意図とデザインは社会科学の中心に存在し、「人為的」という言葉は、「人工的」と同義であった。
サイモンは人工物の科学を、「自然の法則と人間の目的の両者をあわせもつ事物や現象」についての研究であるとした。彼によれば、人工物とは「模造」である。それらは行動を示すものであり、そして、しばしば計画的な言葉で記述される。またサイモンは人工物を、「内部環境と外部環境の境界」とも定義している。人工物の科学は、「人間が作った人工物」における、何らかの部分集合を研究する。サイモンの「人工物科学」という概念には、2つの重要な要素がある。1つ目は「人間が作った人工物」に関心を持っている点である。2つ目の要素は、人工物と自然法則との関係性に関わりがある。サイモンが「自然法則は、人工物を作ることを制約はするが決定はしない」と強調しているように、人工物はデザインすることが可能ということだ。社会科学では、しばしば人間行動が持つ激しい複雑性を否定することで、これらの要素に対応しようとする。その結果として、あらゆる社会科学は、別のより「自然科学的な」科学によって、包摂される恐れがある。重要なのは、相互依存関係の分析に重点的に取り組む傾向にある社会科学とは違って、人工物科学は、相互依存関係のデザインとコントロールに対して、より興味を抱いているという点である。このようにデザインを重要視するということは、人工物科学がどんな種類の問題に関心を持っているのかを明確にする。
アントレプレナーシップにとって興味深い人工物とは、「起業家」と「企業」である。起業家は、内部環境と外部環境の境界として存在する。企業の場合は、その従業員と株主とが内部環境を構成する。アントレプレナーシップを「人工物科学」として研究することはデザイン思考に問いを投げかけることである。人工物のデザインは、ほとんどの場合、彼らの内部環境・外部環境を有用な形で互いに似通ったものにすることを伴う。起業家は、企業を自らの環境に合わせてデザインするが、彼らはまた、彼らの個人的な願望や企業のリソースに合わせて、外部環境の一部を形作ろうとする。アントレプレナーシップを人工物科学として研究するために、我々は「個人や企業が、彼らの内部・外部環境をどのようにデザインするのか」に焦点を当てる必要がある。アントレプレナーシップを人工物科学として研究することは、デザインは、しばしば外部環境と内部環境の形成を含むのであり、内部環境・外部環境のどちらか一方を固定化することはできないという認識が必要となる。
サイモンは、特に人工物の性質を理解する上で重要な2つのデザイン原則を特定した。その2つの原則とは「非予測的コントロール」の原則と「準分解可能性」の原則である。非予測的コントロールの原則は、未来が不確実で予測不可能であったとしても、我々が望む人工物をデザインすることは可能である、と主張することである。準分解可能性の原則は、一定の安定的性質を実現するために必要とされる人工物の構造的様相について説明する物である。この原則は、遍在的でシンプルな物だが、しばしばモジュール性と混同されており、アントレプレナーシップではなおざりにされてきたアイデアである。次節では、こうした考えについて述べる。
メリッサ・シリングによれば、「モジュール性」は、システムの要素が分解・再編成可能な度合いを記述する連続体であり、要素同士の結合の強度や、システム構造のルールが、どの程度要素の様々な組み合わせを可能にしているかを示している。モジュール性は重要であり、普遍的で有用だが、準分解可能性はモジュール性と同じではない。2つのアイデアには、構造と機能の点で重要な違いがある。準分解可能性的システムは、繰り返される相互作用を通じた「分化」と「専門化」を通じて、ボトムアップにデザインされるという意味で、「モジュール的」システムとは区別される。アイデンティティの知覚は、このプロセスの結果ではなく原動力である。
エフェクチュエーションとND(near-decomposability 準分解可能性)の間には繋がりがある。NDは、急速に進化する複雑なシステムの構造において非常に普遍的な原則であり、エフェクチュエーションは高成長企業を築いた起業家によって好まれる意思決定モデルと思われるというもの。上記のサイモンの示唆をもとに、その繋がりは「局所性(locality)」と「偶発性(contingency)」によって存在する。人間の合理性の認知限界は、最善でも局所最適しか達成できない人工物を作らせるが、そうしてできた人工物は、偶発性に適応したり、それを活用することを学ぶことによって、長期にわたって持続しうる。NDシステムは、内部環境の制約が要請する局所性の利用と、外部環境の複雑性の変化が要請する偶発性の利用、その双方に長けている。コーゼーションに基づくモデルは目的と結び付けられ、エフェクチュエーションは特定の目的との結びつきから解放される。このことは、エフェクチュアルな行為者が特定の目的を変更することだけではなく、プロセスの当初には予見できなかったような複数の目的を創造することも可能にする。
エフェクチュエーションが、ND人工物を作り上げる過程では、エフェクチュアルな起業家は、自分が提供できる製品・サービスに興味を抱いてくれる最低1人の顧客、あるいはパートナーを発見するために、「自分は誰か」、「何を知っているか」、「誰を知っているか」からスタートする。そして製品、関与者、環境の最初の安定的な連結が現れる。しかし、最初の安定的な連結は、起業家と彼のベンチャーの関与者が利用できる手段を変化させる。知識の回廊は拡大し、社会的ネットワークは大きく成長し、そのアイデンティティも名声や正当化の効果を通じて拡張される。最初の関与者と彼らの興味に基づいて、エフェクチュアルな行為者は、偶発的なやり方で、新しい組みあわせを追加し、当初の組み合わせを拡張し始める。このプロセスを反復することを通じて、エフェクチュアルな行為者と関与者は、異なる要素を結びつけ、のちに「社是」、「事業計画」、「製品案内」、「ブレスキット」といったものに体現される、革新的な有意味なテーマへとまとめ上げていく。ボトムアップに一つずつブロックを積み上げるプロセスが、失敗のリスクを減らす一方で、統合的なアイデンティティを創ろうとする継続的努力が、エフェクチュアルなベンチャーを成功させ、何が機能し何が機能しないかを学習させ、競争優位性を高めさせることを可能にする。
サイモン流の人工物の限定された合理性を伴った具現化へのコミットメントが、戦略マネジメントとアントレプレナーシップに対して与える2つの示唆は、
組織をデザインする者は、われわれが生きる環境をもデザインする。「われわれは誰なのか」「何者になりうるのか」「何を知っていて、何を学ぶことができるのか」「誰と交流し、誰と距離を置くか」など、その過程で、人間の存在における調和を再構築する。一見して「意図的な」、しかし実際には「ランダム」「構造化された」人々の試みによって生み出されたものの中から、賢く選り分けることができる。
戦略マネジメントやアントレプレナーシップの最新の研究に対して、エフェクチュエーションが示唆するものとは何か。近年、戦略マネジメントのその主な関心は「持続的競争優位」にあり、アントレプレナーシップ研究の主な関心は、「機会の追求」にあるとされる。しかし、持続的競争優位なるものの、究極的な源泉が存在するかは断言できない。エフェクチュエーションは、市場を人工物として概念化し、上記の批判を支持する。また、起業家の行為の前提条件として、機会の存在を想定することにも疑問を投げかける。前者は、戦略マネジメントにおける自発的なイグジットに光をあてることを示唆し、後者は機械の概念化を意味する。この章では、2つの研究領域における今後の研究における重要性を確認する。
戦略マネジメントにおける根本的な問いは、「いかにして企業が競争優位を達成し、それを維持するか」。つまり、持続的競争優位である。一方で、とらえどころのない概念であることが知られており、それを追い求めた結果いくつかのパラダイムシフトが生じた。持続的競争優位の一般的理論の探求には批判も多い。「持続的競争優位の源泉」を掘り下げるのなら「それが存在する際に、戦略マネジメントが果たす役割とは」という問いに帰着する。もし、企業がそのような源泉を見つけたのであれば、私たちは独占市場の経済に帰結する。その経済では、金融経済学における「不可能生定理」に相当する戦略マネジメントのみが残る。
エフェクチュアルな視点は、より意味がある戦略マネジメントへの関わり方を提案する。それは、局所性や偶発性を肯定的に捉えて活用すること、あるいは適応的アプローチのみに新規性を求めないこと、のいずれか、もしくはその両方となる。DenrellとMarchの「ホット・ストーブ効果」を例に出す。私たちは、学習や競争による淘汰と再生産のような、適応的プロセスに内在する成功した行為の再生産は、代替策に対し負のバイアスをもたらす。このバイアスは、適応の逐次的サンプリングに固有の「成功の再生産」が行われる傾向から生じる。そのため、「成功の再生産」が弱まって来た時には軽減される。また、WinterはCollisの「高次のケイパビリティ」の定式化に則って「アドホックな問題解決」を提示した。
論理的な見方では、より高次の変化率の存在は、複数の導関数は存在しない可能性がある、という数学的な意味においてのみ問題になる。そして、計算論的に考えると、時系列上のN+1次の値は、N次の変化率の計算の値に影響する。しかし、ダイナミック・ケイパビリティが比較的具体的な目的を持つパターン化した活動が関わるような能力と同様なら、「高次での変化を支配する組織的プロセスが高度にパターン化されている」という保証もなく、反対にそれを否定する理由も出てくる。この意味では、高次のダイナミック・ケイパビリティは必ずしも存在し得ない。エフェクチュエーションは、こうした議論の展開を支持し、持続的競争優位の究極の源泉が必要であるという教義に対し、異論を唱える。この観点では、「人間の行為は、基本的に創造的なものである」と考える。この創造性が必要とするのは、競争優位性への「満足化」アプローチである。つまり、一つの有用なイノベーションが最大限報われ、その次のイノベーションが生まれる程度に安定した市場を必要とするのだ。
この世界では、イグジット戦略が、現在考えられているよりも、はるかに重要になる。エフェクチュエーションに基づく戦略マネジメントは、永遠の優位性を求める代わりに、自発的なイグジットと結びついた、活力と創造力を重視する。製品、事業単位、企業、市場は、衰退の運命にあること自体が経済の発展と繁栄を築くための効果的な方法だとされる。企業が自ら死を選ぶことは、エフェクチュエーションに基づく戦略の健全なポートフォリオの一部をなしている。このようなアイデア自体は、決して革命的なものではない。「株式会社」という制度は、創造的な個人が彼ら自身の生命や生活を驚かすことなく、リスクに挑戦できるように作られている。企業の有限責任と、それに伴う不減性は、人間と社会とが、技術的・経済学的発展の新境地を開拓しながら、よりよく生きるための道具だった。しかし数世紀が経過し、株式会社という制度は、人や社会に対する道具的な見方を含むようになった。企業が死亡するのは、生存をかけた争いの結果としてのみであり、市場も、人間の行為を通じて意図的な創造と破壊は起きないと考えられる。
イグジットに対して用具的な味方をする戦略マネジメントとはどのようなものか。IBM社の例にそれを垣間見ることができる。IBM社の管理職層は、対立するエンジニアとマーケター・プロ経営者双方の合意を形成することに苦心した。エンジニアのグループは、コンピュータの可能性を説き、経営者を説得した。1960年には、当時一番売れていたコンピュータを、かつて市場に存在しなかった技術による置き換えを狙った。熟達した起業家も、情熱的なコミットメントを行う少数のステークホルダーにより支持される大胆な推測に対し、会社を賭けるケースがある。IBMの例では、明確なキャッシュ・フローや、心理的な励みとなる利益予測をもたらす明確な既存市場が存在しない状態から開始した代わりに、既存の顧客基盤とネットワークを駆使し、革新的新製品の市場を創造することを狙った。新製品の市場がどうなるかでなく、現行製品が廃れると仮定し、それを現実とすべく予測を活用した。この予測は「成功するかどうかはわからないが、未来の市場を創出するために、同社がコントロール可能なことに投資する必要がある」という主張に結びついている。市場を「人工物」として再概念化することは、歴史の転換点と同様のレベルで、私たちの思考に根本的転換をもたらす。エフェクチュアルな視点から見れば、企業は最終的に滅ぶ市場で収穫を目指す、関与者たちの手中にある「道具」といえる。局所性を利用した「人工物としての市場」と競争優位の「偶発性」との関係は、アントレプレナーシップと新しい機会創出との関係においても繰り返される。
アントレプレナーシップ研究は、起業家の特質と新規ベンチャーの成果に結びつく成功要因について重点的に取り組んできた。最近ではその焦点は「起業家的機会」へと移行している。 「起業家的機会」とは何だろうか。アントレプレナーシップの研究により説明されるべき現象なのか、または起業家の行為や、企業家的企業の成果を分析する上で、所与として扱われるべきものなのか。多くは後者を支持している。ShaneとVenkataramanは、Cassonによる起業家的機会の定義を用いた。アントレプレナーシップを持つためには、まず「起業家的機会」に出会う必要がある。起業家的機会とは「新しいモノ、サービス、材料、組織などが、それを生産するコストよりも高く売れる状況」を指す。機会の認識は、主観的過程ではあるが、機会そのものは全ての人が常に知っているわけではない、客観的な現象である。電話の発見は、人々がそれを発見するかしないかにかかわらず、通信のための新たな機会を創出した。Shaneは、「起業家が利益を生み出すことのできる、と信じてリソースを再結合するための、新たな手段―目的のフレームワークを創造できる状況」と定義した。SchumpeterとKirzner自身は、起業家の役割について、より複雑な立場をとる。Kirznerは、起業家的知識を「高度で抽象的な知識で、情報を入手できる場所と、それを展開する方法に関する知識」とした。また、人間はいかにして起業家が「優れた先見の煌めき」を得るのか理解できないとした。この謎の答えは、起業家は一般には「優れた先見の煌めき」を一切持っていない、というものだ。その代わりに熟達した起業家は、非予測的コントロールの論理のもと、機会を創出する。
もし、「市場や機会が、社会にすでに存在するものである」と考えずに研究を始めるなら、どうすればいいか。この答に対するアプローチは2つある。まず、アントレプレナーシップは、実際には経済学を「一般化」するものである、という推測を行う。言い換えれば、経済学は、市場が既に創造された、あるいは、業界や競争図式が既に存在しているような、特殊なケースを研究している、ということである。このように考えると、起業家的機会は、これらの科学が所与と考えるものの発端を作る機会となる。その発端には、選好、需要関数、競争関係、社会政治的な制度などが含まれる。起業家的機会が始動するのは、人間の営みにおける全ての重要な事柄が始まる場所、すなわち、William James (1996)が導入し理解しようとした、「純粋経験の世界」においてである。純粋経験の世界では、知識が完成することはなく、機会は常につくられつつある。なぜなら、James流のプラグマティズムが考えるように、宇宙そのものが、「作られつつある世界(worlds-in-the-making)」によって構成されるからである。言い換えれば、機会は、「発見されるもの」であるのと同時に、「つくり出されるもの」でもある。機会とは「起業家が自身の行為の基礎とするデータ」であると同時に、「起業家の行為の結果」でもある。つまり、プラグマティストによるアイデアを総合してみると、人々の日常体験のぬかるみの中に存在するものとして、起業家的機会を理解しなおす必要がある、という結論へと導かれる。そうした分析は、「起業家的機会は、組織や市場を含む、安定した経済・社会的仕組みを作ろうとする、起業家の具体的な努力の結果である」という結論に至る。以下では、人々が起業家になるいくつかの方法を分類する。
親が起業家である一部の人々は、家族の事業を継承するか、自らも起業家になるか、いずれかを選ぶ。これは別の職業でも同じで、カースト制度があるインドのような伝統的社会では、より顕著にみられる。米国のような、より近代的な社会では、幼少時の経験から、起業家の子供でなくとも起業家となることがある。
労働市場と起業家によるベンチャーの間のトレードオフは、さまざまな形で存在する。仕事をクビになることで、起業家になる人々がいる。あるいは、親会社が彼らのアイデアや発明を商業化しない、という人々、教育や言語スキルが不十分なために雇用されない人々や、犯罪の前科がある人々も、起業家になることがある。
時に人々は、起業家になるよう促される。現在、多くの政府が起業や政府の技術の商業化に対し、インセンティブを提供する。
自身の仕事で、大成功を収めるだけの幸福を持ち合わせた人々もいる。彼らはその後、営利組織または非営利組織をつくり、恵まれない人たちが経済的に独立するための道筋をつくることがある。ショービジネス、プロスポーツ、世間から注目される他の分野に例が見られる。
大きな不幸に見舞われた人々もまた、起業家になることがある。飲欲酒運転被害者、性的虐待被害者による企業などがその例である。
アントレプレナーシップは、これまで、「人々が、起業家的機会に気づくことの結果である」と考えられてきた。しかし、起業家的機会の大部分は、起業家的に行為した結果、ならびに気づいた機会に対する行為の相来である、との主張もある。
起業家的機会の検討のため、これまでの議論をまとめる。「いかにして機会が現れるのか」についての2つの推論は以下の通り。James的前提では、人々は、より良く生きるために努力する。Simon的前提では、人々は、自らの環境を構築するために努力する。第2の推論として、利益機会は、人々が起業家的な目的・手段を用いて、環境を構築するために努力しているような、社会や時代に創速されるという推論が導かれる。「世界に利益機会を生み出すための、起業家的な思考・行為の様式が存在する」というのが、サラスバシーの主張だ。起業家的手法は、現実世界で起業家による行為や関与者との相互作用を通じて、社会的・経済的人工物を生み出すことを可能にする。したがって起業家的手法を理解し、それに基づいて効果的なしくみを構築することは、経済的機会の創出のために重要となる。こうした主張は、政策や研究に対して重要な示唆を持つ。「起業家は経済的機会が存在するところに向かう」という前提に基づいた努力は、「起業家がいるところに機械が創られる」という前提に基づく努力とは大きく異なるように思われるからだ。
「起業家に機会を提供すること」と「機会を創造する起業家を支援すること」という2つのアプローチは、いずれも経済の発展に必要なものだ。しかし、起業家の研究および政策における努力のほとんどは、起業家は既に存在するものを“発見する”という前提に立って、注ぎ込まれてきた。これらの機会の源泉は、起業家的手法ではなく、外的な技術進歩や社会変化に由来するものである。サラスバシーは、取り組むべき問題は、「機会が世界に客観的なものとして存在するか」あるいは「起業家の意識に始めから存在するか」という対立ではなく、「機会が起業家を創りだすのか」それとも「起業家が機会を創りだすのか」であるとしている。社会科学が、その分析の出発点と捉えている「市場」とは、起業家的手法により構築されうる「人工物」である。したがって、起業家的機会とは、より良く生きたいという全人類共通の日々の思いにより導かれ、起業家が構築する重要なルートである。
「プラグマティズムは開かれた世界の哲学である」という共通見解は、ある程度存在する。プラグマティズムは「人間の行為が真の価値を持つ世界、真の選択が可能でかつ必要な空間」を前提としている。プラグマティストは、「人のコントロールが及ばない存在」について認識しているものの、それでもなお「その人が自身の運命をコントロールし、それに責任をおうことを放棄しない道があり得る」と考えている。
プラグマティストの一般的なアプローチは、「実践的」で「用具的」なものである。プラグマティストは、物事が「本質的にどうであるか」よりも、「何が役に立つか」に関心を持ち、画一的な真実を発見、所有しようとはしない。
プラグマティストと功利主義者(プラグマティストと反対の立場をとる)とで、問題解決に提供する手段が違うことを、大型SUVの需要を例にして説明しよう。
既存の現実を新しい可能性に変容させることを通じてイノベーションを起こす方法の一つは、手持ちの手段で何ができるかだけではなく、それらを使って、他に何ができるかを問うことである。このプロセスは何か別の起源から生じたものだが、現在の役目のために活用されている特性、「外適応」を結果的に生み出す。ここでいう「外適応」は、もともとある形質のために選択された技術が、たまたま獲得された別の形質のおかげで、のちに成功や生存につながることをさす。
エフェクチュアルな起業家は、偶発性を認め、活用する。社会経済システムに対するエフェクチュアルな起業家は、変化する政治、文化に対する強い詩人と似ている。エフェクチュアルな起業家は、現実を言葉で語り直す代わりに、それを新たな製品やサービスへと作り替えることによって、偶発性を認め、活用する。エフェクチュエーションはプラグマティズムを行為可能な形に落とし込むことによって、現実に機能させている。エフェクチュエーションの論理では、行為は根現的なものである。アイデアが重要なものとなり、言葉が意味を獲得するためには、行為が必要となる。さらに、行為は物事や経験を有用な「人工物」へと変容させる。エフェクチュエーションの論理は、人間の振る舞いに関する一般仮説が有効でなかったとしても、人工物を機能させることができる。
実証経済学は、事実あるいは安定した経験的関係性を確立しようとするのに対し、エフェクチュエーションに基づく経済学は、「何であるか」を受けて「何でありうるか」を検討し、それが人々やコミュニティに価値をもたらすか否かにかかわらず、実行可能な行為指針を確立しようとする。実証経済学を社会科学として捉えるのに対し、エフェクチュエーションに基づく経済学は、人工物の科学となる。
エフェクチュエーションの論理にできるのは、あるがままの世界の中で、それぞれが違ったタイミングで違うことを要求する可能性のある多様な関与者がもたらす制約条件の下で、「人々がどのように物事を行いうるか」について新しい可能性を内で出すことである。エフェクチュエーションの論理は、人間が人工物をデザインする上での規範的アプローチの必要性を否定し、自発的に三角する関与者との間主観的な相互作用と、彼らが行うコミットメントをデザインの主要な推進力とする。エフェクチュエーションに基づく経済学は、人々の行動に関する「であったとしても(even-if)」という前提に立脚した上で、何がなされ得るかに焦点を当てる。
人間行動における予測不可能性は、3つの原因から生じている。
エフェクチュエーションの論理は、人間行動の異質的で、不安定な特性、文脈的な性質を必然的に伴う、いくつかの創造的な攪拌が、多様な市場をボトムアップで縫い合わせていくために、未だ作られていない世界に内在する予測不可能性と、どのように組み合わせられるかを示している。
本章では、あらゆる市場は「究極的には人々の希望の中に存在する市場」であり、「製品やサービスを営利セクターと非営利セクター・ソーシャルセクターに分けるような考え方は、不必要であり意味がない」という前提を出発点にする。この章では、これまでの諸章と変わって非営利のベンチャーや社会的な財・サービスにおけるエフェクチュエーションの役割を検討し、さらにそもそも両者を分けて考える必要性にも疑問を提示する。
一般的に市場は、我々の経済的・政治的・社会的・生活を編成する上で、企業・政府・非営利ベンチャーのような他のメカニズムと競合するものだと考えられており、近年の歴史では「市場は他のメカニズムよりも優れている」とされている。ここではこの単純な市場優先の考え方に対する3つの重要な批判を分類することから始める。
「市場の失敗」という言葉は、「社会的に望ましい活動を継続すること、もしくは社会的に望ましくない活動を止める・防ぐことに対して市場メカニズムが失敗すること」を指す。最も多く研究されている例として、「外部性」が挙げられる。ポジティブであれ、ネガティブであれ、外部性に対しては政府やその他の非市場メカニズムがその非効率の軽減を担っている。しかし、近年は営利企業を含むソーシャルベンチャーは増加傾向にあり、民営のメカニズムが外部性に対処するために発展している。外部性以外にも、非市場メカニズムを求める誘因は存在する。例えばWolfは「市場の失敗」を引き起こす4つの要因を挙げている。
Wolfは上記の4つの市場の失敗を説明した上で、非市場的なメカニズムも、以下の要因で引き起こされる同様の失敗を免れ得ないと説いている。
また、Mancur Olsonは、「市場は、政府によってつむぎ出された人工物である」と主張している。言い換えれば、「そもそも市場を創造するためには、政府の介入が必要である」というのである。
Olsonは、さまざまな国における経済的相違が起こる理由を理解しようと研究した。彼は大規模な人口移動に関する多くの研究を統合し「制度および経済政策の圧倒的な重要性」を主張した。さらに彼は最重要の説明変数は「公共政策および制度の違いにある」と結論づけた。一見すると彼の結論はWolfの「非市場的メカニズム一般、とりわけ政府の介入は不必要かつ不十分である」という考えと対照的に見える。しかしこの矛盾はOlsonが提唱した「市場拡張的政府」という、「市場阻害的政府」に対立する概念から克服される。近年では「市場と政府は代替関係にある」という考えが通例になっているが、市場拡張的政府というのは、市場を代替したり抑圧したりするものではなく、より多くの市場を生成させ、その原因となり、正当化する政府のことを指し、経済がうまく機能するときには政府は大きな意味での市場の促進要因になっていると彼は語った。
ただしOlsonの記述では、「どのようにして、政府が市場拡張的になることができるか」についてはあまり明確ではない。ここで、エフェクチュエーションの論理を営利企業のみ限定する論理的根拠が疑われる。むしろ「市場」や「起業家」を人々の希望の中に存在するあらゆる市場や、政府や社会起業家を含めた、「あらゆる市場」・「あらゆる起業家」として定義するのはどうだろうか。よりよく生きるための全ての努力は市場拡張的なアプローチに対して開かれており、そこから恩恵を受けるだろう。
しかしこうした可能性を深く掘り下げる前に、市場が他のメカニズムに優先するという盲信に対して最後の提案を行う必要がある。それはSimonによる階層組織の偏在性と重要性、そして現場の事実ではなく机上の空論に過度に依存した「新制度派経済学」に対する警告に関する論文に基づくものである。
新古典派経済学を拡張する形で構築された新制度派経済学では制度の重要な役割を以下のように定義する。
それは人々の相互行為を構築するために、人によって発明された制約である。それらは、公式的制約(規範、法律、規約)と非形式的制約(行動の規範、慣習、自主的な行動準則)、およびそれらを実行する際の特徴から構成される(North, 1994)。
新制度派経済学の知的系譜を遡ると、Coase (1937)による「なぜ企業が存在するのか」についての分析に至る。Simonが指摘するように、この問いは市場が中心になっている世界においてのみ問題となる。市場取引が最初から選択肢となっている世界では、人々が組織を形成するという前提が疑問となる。そこでSimonは、「そもそもわれわれは市場経済ではなく、組織経済の中で生きている。」とする、より単純なアプローチを提案した。つまり組織が社会の標準的な形態であり、複雑で稀で比較的新しい市場メカニズムこそが説明を要するものなのだとした。市場を作るためには努力が必要であるが、起業家が永続性のある組織を作ろうとし、意図的であろうとなかろうと最終的に新しい市場を確立するプロセスとしてその一例が見られる。
歴史を見ても、組織的プロセスの遍在性(広くあちらこちらにゆきわたってあること)を裏付ける証拠、つまり生産・公共事業・取引・政府そのものを組織化するために、人々が協力していたという豊富な証拠が存在している。さまざまな組織目標を集合的行為によって達成しようとする取り組みが、「市場」を含む今日世界に存在しているさまざまな制度を作り上げてきたのである。したがって、われわれが発明したこの最も有用な道具である市場を、ビジネスは営利で、社会的目標は非営利という誤った区別に譲り渡してしまうなら、それは残念なことである。
「起業家」という言葉の定義が、目的関数として経済的利益だけを求めるものでないとするならば、Jane Addamsは起業家だと言える。彼女は27歳の時、「ハル・ハウス」というセツルメント・ハウスを創設した。そのコンセプトは、教育を受けた大学卒業生を町の貧しい地域に移住させ、さまざまなクラブ活動、レクリエーション、教育プログラムを近隣に提供するというものだった。彼女は近隣のニーズに関して演説をし、資金を集め、規模を拡大していった。
ここで一度、グラミン銀行創設者、Mohammed Yunusによる講演に話を移す。彼はバングラデシュの田舎町で、貧しい人々の中でも最も貧困な人々とともに働いている。彼はともに働く人々を「盆栽の人々」と呼んだ。彼らがどれだけ迫害を受けていても、盆栽の松も森の赤松と同様に松なのであるということだった。さらに、痩せた鉢の中の土壌ではなく、日のあたる広い地面に植え替えられればより大きく成長するということも示している。多くの点でAddamsとYunusのストーリーは似通っている。Addamsはロンドンの安い食料品の競売りで貧しい人々に直面し、生涯記憶に残しており、Yunusはバングラデシュの貧しい人々がわずかな経済的支援も受けられず困難に苦しんでいる人を見ている。Yunusはこれに対し自分の信用で融資を受け、やがてグラミン銀行へと成長させた。
Yunusは講演で、人間の悲劇を緩和するのではなく、人間の可能性に投資することの有効性を一貫して強調し、貧困のない世界の実現が可能であることを理論的に説いた。筆者が講演の後Yunusと話しお礼をしようとした時、「お金は送らないでください。グラミン銀行は資金を必要としていません。」と答えた。一方Addamsは手紙で自身の活動に対する支援を依頼している資料が残っている。ここがこの両者の違いである。つまり、Addamsは問題を「チャリティ」、すなわち富の再配分に値するものとして定式化したのに対し、Yunusは同じ問題を「投資」として、すなわち富を創造できるものとして構築した。Addamsの努力の焦点は人々のニーズであったが、Yunusの努力の焦点は人間の希望や可能性であった。どちらのアプローチも人々が自分自身と自らの境遇を改善することを助けるものだが、Addamsの主な道具はソーシャルサービスであるのに対し、Yunusは市場を発明し、変容させ、活用し、構築したのである。
グラミン銀行のYunusが作り上げた原則はエフェクチュエーションと極めて高い親和性を有している。その原則は従来の銀行で行われている実践とは、正反対のものであった。以下で、その原則について説明していく。
株式は、我々に何をもたらすのか。金融経済学では、「オーナーシップは、残余請求権の購入を意味すること」として知られている。一般的に、正当に予測可能な請求権は、原理上、公式的なあるいは完全な契約書として書き表すことができる。言い換えれば、契約に基づく請求権は、未来に対する、コーゼーションに基づく請求権である。つまり、その価値は、未来の予測可能な側面に由来している。一方、株式は、エフェクチュアルな請求権を提供する。つまり、その価値は、未来の予測不可能な側面に即していると言える。十分に発達した株式市場は以下の4つの重要な利点をもたらす。
私は、利益を創出する組織形態として、「投資家が所有する企業」という単一の組織形態を推奨しているわけではなく、「組織形態の選択を、利益の動機と切り離して考えること」を呼びかけている。人々は、企業を恣意的に「営利」と「非営利」という二律背反のカテゴリに分類することで、問題の定義を深刻に見誤っている。さらに悪いことに、我々は人間の希望に関する全ての問題を、「利益をもたらすもの」か「利益に反するものか」で定義することを強いられている。その代わりに、利益追求をデザイン上の制約とすることで、必要な組織形態を自由に発明することができ、あらゆる人間の不幸に関わる問題に取り組むことができる。熟達した起業家は、人間活動のあらゆる側面に関わる様々なベンチャーで、これを次々と実行してきたのである。
「営利ベンチャー」と「非営利ベンチャー」を分けて考える経済的な必要性はない。どちらも資金の調達と配分を伴い、価値を創出するために投資をし、社会的価値と同時に経済的価値を増大させることができる。
エフェクチュエーションの論理は、新しい市場を作るための一連の行動指針として具体化されるような、役に立つフィクションを生み出すことができる。いかにして人間の希望に関わる株式市場が実現されうるかを示唆する3つのショートストーリー「International Institute of Modern Letters」「Ithaca Hours」「Ashoka」がある。
本章では2つのことを主張した。1つ目は、人間の努力を価値創造に向けて組織化する上で、「市場」メカニズムは、有効で強力な道具であるということ。2つ目は、株式市場はあらゆるベンチャーに対して、それを創造し、運営する起業家と、起業家に資金を提供する者の両方に対して、開かれることが可能であり、そうすべきであることだ。どちらの主張もエフェクチュエーションの論理から自然に派生したものであり、またその論理と一貫性を保つものである。
この章では、筆者がエフェクチュエーションを実際に教える中で経験したことや直面した課題について述べていく。
エフェクチュエーションはアントレプレナーシップを実践する唯一の方法ではない。筆者の講義は、コーゼーションとエフェクチュエーションという2つの道具箱を、新しいベンチャーの創造過程で効果的に用いる方法を中心に組み立てられている。
筆者の授業では、早い段階で生徒に新しいベンチャーのアイデアを考えすぐにそれを作るように要求する。筆者は常に、学生たちが新規あるいは確実な成長可能性があるアイデアが生まれるのを待たないように促している。これは、『大成功を収める新規のアイデアなんてものはなく、既存の平凡なタイプのアイデアに、少しの改良を加えるだけで良い』とRobertが言うように、「実行可能で個人的に価値がある」と考える平凡なものに向かって進むように促すと言うことである。
生徒が新規ベンチャーのアイデアにコミットすると、全ての意思決定と行為をコーゼーションとエフェクチュエーションの双方の視点から検証することができる。この時、自動車の工学技術の違いが有用なアナロジーとなる。エンジンをスタートさせてから時速60マイルに到達するまでのデザイン原則と、高速道路でスムーズに高い性能を発揮し続けるための知識が大きく異なると言うことだ。ここで対照的な視点を探究することとの意味は、優劣をつけることではなく、両方の活用を学ぶことにある。
エフェクチュエーションの講義内容で不可欠なのは、エフェクチュアルなネットワークである。エフェクチュエーションの静学的要素は、エフェクチュエーションの紹介文を読んだ生徒の議論やベンチャーの設立を扱った課題、個別のケーススタディによって扱うことができる。一方で、エフェクチュエーションの動学モデルを教えるためには、第5章で扱ったモデルが効果的である(5.2 グルー市場における行為あたりの内容)。筆者の出すクラス課題では、事業モデルを作る上で、ブランディングの基本設計をどうするか、どう組み込むか、といった実際のステップを踏むことや、多様な関与者との関係に配慮しそれらからのフィードバックに対処させるといったことも要求している。
コーゼーションに基づく意思決定を重視する場所でエフェクチュエーションを教えるには困難が伴う。彼らは、エフェクチュアルな行為を、「コーゼーションのような分析をしないこと」と混同している。そこで、「何がエフェクチュエーションでないのか」について説明し、議論の混乱を防ぐ必要がある。
エフェクチュエーションは時として「なんでもあり(anything goes)」というタイプの創造性だと誤解される可能性がある。ここでいうなんでもありというのは、評価や判断ができず規律もない創造性ということである。エフェクチュエーションを「学ぶことも教えることもできないタイプの創造性の話」として受け止めてはいけない。
エフェクチュエーションを「数字や体系的で蘭理的な理由付けを行うことを避けるため」の言い訳として使ってはならない。会計・財務のような定量的な講義で苦しむ生徒は、謝った理由でエフェクチュエーションを好む傾向にあるが、彼らが原価計算や条件規定書、キャッシュフローについて考える段階になると、幻想から醒めるようになる。
経済学のようなバックグラウンドを持っている生徒は、合理性を重視するあまり、合理的な分析の枠に馴染みにくいものを、「非合理」「直感的」と見なしてしまう。この考えは、時にエフェクチュエーションを非合理的でリスキーなものとして拒絶することに繋がってしまう。エフェクチュエーションの「論理」の部分を強調することは、こうした考えを消去することに役立つだろう。
熟達した起業家は、高いカリスマ性を持ったリーダーとして映ることがある。そうしたエフェクチュアルな行為者は、自身が「機会を発見し、適切な人物を見出し、目的をしっかり捉える才能をもった先見の明のある人物」だと語りがちだが、彼らが実際に行った具体的な意思決定と行動の理由に焦点を当てると、エフェクチュエーションの論理が浮き彫りになるだろう。これは彼らが実際には真のカリスマ的リーダーではないという主張ではなく、起業家のキャリアにおける初期のフェーズはエフェクチュエーションがどのように作用するかを知るには興味深いフェーズであるため、本質に迫るべきだということだ。
近年「情熱」という言葉が、ビジネスにおいて濫用される言葉となっている。情熱を心酔する人は、エフェクチュエーションを「自発的な関与者」などの言葉で装飾された情熱の別名だと捉えてしまう。ここでも、エフェクチュエーションの論理の部分を強調することが教育としては有用である。
MBAコースの生徒などはリスク回避的な傾向にあるため、エフェクチュエーションを「リスクを負い恐れずに行動するか、デメリットを無視することを意味している」と解釈する可能性がある。この本でも学んだようなリスクと価値の関係や、Knightの3種類の不確実性といった包括的な議論などが重要であり、第6章で学んだ内容も議論の内容を定めるのに役立つだろう。
「ある人々はエフェクチュエーションに基づいており、別の人々はコーゼーションに基づいている」といった考え方がある。これはエフェクチュエーションを論理ではなく資質として捉える考え方であるが、筆者は、ほぼあらゆるものに基盤となる資質は存在し、エフェクチュエーションにも学ぶべき知識の体系は存在すると主張する。
「エフェクチュエーションはベンチャーが成功するための新しいレシピである」という考え方も、講師が克服すべき最後のハードルである。第6章で説明されたように、エフェクチュエーションと成果の関係性について議論し、この落とし穴を避ける必要がある。
筆者の受講生は、他の授業で教わったアイデアをエフェクチュエーションの論理を使って、リフレーミングしようとすることがしばしばある。この中で、とりわけ調査する価値があるものをいくつか提示する。
第9章の「であったとしても論」のきっかけとなったのが、創業の決断のリフレーミングである。起業家の道に飛び込むための最善の道について、受講者は常に知りたがっている。この時直面する、「安定した給料」という機会コスト問題に対処するために、受講者は「(失った収入分を補うだけのリターンがあるという未来予測の元) Xドルの給与を諦める」もしくは「(限りないリターンの可能性に対して)限定された、時間的・資金的投資を行う」という2つの方法で捉えようとすることが多い。しかし、ここにa)新しいベンチャーの利益可能性は、今の給与の良い仕事を辞めないという意思決定の機会コストであること b)事前に確約した期間内に新しいベンチャーの結果が出なかた場合にも現在と同程度の収入を得られる可能性は0じゃないこと という2つの事実を加えると、創業の決断は大きく違ったものに見えてくる。
上記の創業の決断という問題の構造は、コストと投資の問題に変換することが可能である。とあるベンチャーを起業した学生の例を出す。彼はソフトウェアサービスをクライアントに提供する事業を行なっていたが、彼が新商品を設計した際に、生産設備投資の必要が出てきた。彼は市場の規模や成長率、市場シェアの見込みなどを緻密に計算したが、後に精緻な計算などは不要であることに気づいた。彼が必要としていたのは、「株式と引き換えに手頃な条件で機械を貸してくれる機械メーカー」と「最初の運転資金をカバーするための売り上げを立ててくれる1、2件の顧客」だけであったのだ。
リソースの獲得は、起業家にとって重要なテーマである。とある授業で受講生の1人が、「財布には必ず所有者がいる。ならばなぜ財布ではなくその所有者をターゲットにしないのか」という指摘をした。この指摘の通り、実際に関わる人々を切り離してリソースだけを狙うことは、投資家との関係を維持し育てるために必要なことを軽視させることにつながり、起業直後のベンチャーにとって投資家と距離をおいたまま関係を維持することはできない。このテーマについて考察した結果、「新規ベンチャーの創造が主に関与者との関係に牽引されるならば、ベンチャーの失敗の主たる原因は、リソース不足や製品・技術・市場の要因、戦略やマクロ経済といった環境要因ではなく、なんらかのパートナーシップの問題である」という仮説に行き着いた。
エフェクチュエーションにおける自発的な関与者の重要性は、オーナーシップの放棄についての理解を深めることと関係がある。エフェクチュエーションの論理から見ると、オーナーシップに関して検証可能な命題が2つある。一つ目は、株式は、予測不可能性によって価値を生むということである。自発的な関与者によって株式の買い付けが広く行われれば行われるほど、予想もしていなかった新市場を招く可能性が高まり、長期的には株式の価値が高まるようになる。二つ目は、株式は、自発的な関与者が所有し、まだ使うか決まっていないリソースに対する選択権であるということだ。偶発的に起こることが予測可能なほど株式を分配する必要性は薄くなるが、何が偶発的に起こるのか予想できない状況においては、関与者のリソースを自由に行使する必要がある。自発的な関与者の場合、株式は、これらのリソースについての暗黙の選択権となる。つまり、自発的な関与者の数と種類が増えるほど、新しいベンチャーは、利益を生むためにより多くの予測不可能な偶発性を活用できるようになる。
新しい産業や市場がどこで生まれるのかに関心を持つ我々の分野では、Darwinの影響が深く埋め込まれた研究者コミュニティの中に存在している。このコミュニティにいる研究者の多くは、市場と産業の変化に対する進化的なアプローチを取るためにとりわけ「進化経済学」の伝統の中で機能するような、厳密で有用な理論的基盤の開発の必要性を主張してきた。従来の起業家および企業の行動に関する説明は、従来の産業基盤に関する説明と、うまく噛み合わないのである。とりわけ我々は、少なくとも2つの定型化された事実を考慮しなければならない。
第1に、「市場が生まれた時点では、製品の多様性は大きい」というものだ。基本的な進化の見方では「新しい市場は、既存の人工物を変容することや、しばしば新技術の一部を市場で販売可能な製品へと変容することに基づいて、供給側から立ち上がる」と考える。この説明は、「新市場における消費者の選好は曖昧で、不完全で、明確に定義されておらず、進化の途上にある」という第二の定型化された事実とセットになっている。このことは、市場では決して「発見」されたり、予測されたりするものではないことを意味している。あるいは、仮に我々が選好を安定したものと仮定したとしても、消費者は新しい技術を使用することによってそれを学習するのである。この第二の事実は、企業が既存の需要を予測し、それに沿った革新をするために、マーケットリサーチをする、記述的理論と規範的理論の両方に対して異議を唱えるものである。Mowery、RosenbergとDosiは、「これらの新市場創造の初期段階においては、需要はイノベーションの方向性に対してさほど影響を与えない」と結論付けた。
今のところ、市場プロセスに関する理論は、「多様な起業家あるいは企業が、需要に関して異なる予測をするだろう」と仮定することで、こうした二つの事実の相違を解消してきた。同じ命題のより強力なバージョンでは、需要サイドに関するより優れた知覚、直観、情報あるいは知識を仮定するものであり、「一部の人々は他の人々よりも優れた推測ができる」と考えている。こうした問題の組み立て方では、起業家は、OlsonとKahkonen4つの「元素」つまり、「技術」「選好」「生産要素」「制度」といった、主要な外数変数にかけるしかないことになる。「こうした要素が報酬を決定し、行為の背景を作り出す」というのが、標準的な論理となる。
私は、新市場の形成をこうした形で説明することには少なくとも3つの重大な問題があると考えている。第1にそれらは「新市場がどのように生まれるのか」を十分に説明できないばかりか、経験的な証拠によっても反証されている。起業家は、市場を作るために選好や態度の多様性に「委ねる」ことなどしない。第2に、我々が実際に観察したのは「多様なものからの選別」や「少数の市場への制度化」などはなく、市場の中に「継続的な不安定さ」「変化」「イノベーション」を伴う、「大規模で根強い多様性」が存在しているという事実である。第三の問題は本書で述べてきたような論理が、素晴らしく明確な「報酬構造の論理」の土台を崩していることだ。
もしあなたが「面白い研究がしたい」と考えているのならば、ただ「そこにあるもの」を取り上げて、邪魔な石を取り払うだけで済ましてはならない。これは考古学者が行う仕事だが、彼らにはそれを行う理由がある。考古学では、岩の中から見つけ出した過去の断片がそこになければ、何も語ることができないからだ。ここには二つの重要な考えがある。まず、若いアイデアはその基礎となるデータを必要とする。それは我々が「エフェクチュエーションのアイデアが効力を有するかどうか」を知るために唯一の方法である。新しい理論には独自のデータ収集が必要となる。注意すべきだと考える第二の点は、私が「発見問題」と呼ぶ、「時間の経過が必然性を強める」という事実である。この問題への一つの対処法は現象をリアルタイムに研究することである。
エフェクチュエーションに関係する経験的証拠を集めるために、無線ICタグ産業を興味深い産業であるように思った一つの理由は、その産業を「選択的生成のケース・ヒストリー」として理解できるからである。それは、無線ICタグを活用した自動認識の対象リストを、漸進的で着実な努力によって拡張していくことが、その特徴となっている産業である。
無線ICタグ産業の基本的ストーリーは、適応に基づく通常の進化のストーリーのようには全く見えない。「ある既知の使用法のために技術が開発され適応される」というストーリーではなく、無線ICタグのストーリーは逆さまの適応のバージョンである。つまり、「外適応」と呼ばれるストーリーなのだ。無線ICタグはある一つの目的のために設計されたが、絶え間なく別の用途、元々の設計目的以外のあらゆる用途にも適応されてきたのだった。「外適応」の基本的なアイデアは、「元々ある特性のために選択された技術が、偶然に獲得された別の特性のおかげで、その後に成功して生き残る」というものだ。エフェクチュエーションに基づく起業家は「手段を適応的に用いる」のではなく、「手段を外適応的に用いる」と言い表すのが一番あっている。
無線ICタグ産業からの重要な教訓は、「コーゼーション的/適応的アプローチと、エフェクチュエーション的/外適応的なアプローチとでは、全く異なる資源や技術の使用法を帰結する」ということだ。外適応的な変異を取り入れることで、エフェクチュアルな起業家は、適応のみが生み出すよりも、より広く異なる範囲の変異を生み出す可能性がある。エフェクチュエーションはその方向性において明らかに外適応的であり、間違いなく変異を生み出すが、ただし、それが「有用なものになるか、無価値なものになるか」は、その過程で証明されることである。外適応的な変異は「変異はランダムに起こる」という一般的仮定よりも生み出されるパターンが明白であり、それは企業、市場、産業の進化をモデル化する上で全く異なる理論的基礎を提案する、とも言えるかもしれない。例えば、「許容可能な損失」の基準や、「自らの行為の結果、環境に影響を与えることができる」と信じている程度に基づいて、一つ以上の結果を選択しようとする起業家によって、一連の変異が検討されることもあるだろう。
エフェクチュエーションは不確定な状況における意思決定の一般理論であるが、ここでは特に、「エフェクチュアルなアプローチ」と「新規ベンチャーの成果」との関係性に着目する。エフェクチュエーションとはそもそも、いわゆる「不確実な状況」に置かれていることが一般的な新規ベンチャーのシナリオを用いて開発されており、また新規ベンチャーの成果についても広い研究が存在しており調査の基礎を与えてくれるため、この着眼点は適切であると言える。この主題について、まずはエフェクチュエーションの原理を操作化するための構成概念を求めて、新規ベンチャー企業についての文献を徹底的にレビューした。この探索からエフェクチュエーションによって定義された構成概念を測定し、構成概念と新規ベンチャーの成果を分析する論文を見出した。次に、エフェクチュアルなアプローチと新規ベンチャーの成果との間の関係性についてのメタ分析のため、これらの論文の統計値を用いた。この節では、エフェクチュアルなアプローチと新規ベンチャーの成果の関係についての調査結果の詳細について議論し、今後の研究のための提案を行う。また最後に、エフェクチュエーションと成果との間の関係について、ベンチャーの成果に限らない一般的なモデルの提案を行う。
メタ分析の目的に合うように修正されたエフェクチュエーションの原理を6つ示す。
メタ分析のアプローチは Lipsey and Wilson(2001)によって説明された手順に従って実施された。まず、「エフェクチュエーションに基づくアプローチ」と「新規ベンチャーの成果」の関係性を満たすために、以下の4つの基準を満たすような研究論文を探し出した。
こうしてデータを収集した後、研究間の尺度の一致を確認するために個々の観察を補正する。具体的には、相関関係における変数の測定誤差を直性補正・50/50分割を仮定した二値変数の補正を行った。また、「固定効果モデル」と「ランダム効果モデル」のどちらを採用するかにおいては、Q値についてカイ二乗検定を行い、異質性が見られた分析にはランダム効果モデル、見られない分析には固定効果モデルを採用した。これらの作業によって得られた値を表にしたものが本文中の表12.2である。
また、従属変数の尺度の妥当性の検証を行った。すなわち、企業の財務的成果について、定量的でない尺度を用いているすべての研究を排除した。主観的な従属変数に基づいた研究を排除したことで、エフェクチュエーションの原理5として挙げていた「偶発性を梃子にする」は完全に消去されたが、他の全てのメタ分析の結果は有意に変更されることはなかった。したがって、得られた結果は広すぎるもしくは無関係な成果尺度によってバイアスがかけられているわけではないことが確認された。加えて、観測変数の信頼性の検証も行なった。すなわち、観測された変数に対して0.80の信頼性水準を用いて相関係数を再計算した。しかし結果は有意に変更されることはなかった。
この研究においては、エフェクチュエーションの原理の中で「手段」「パートナーシップ」「偶発性」についてのメタ分析を行った。これは、残りの「デザイン」「許容可能な損失」「する能力がある」について文献の中で既存の尺度を見つけることができなかったためである。
この研究によって「戦略立案に対するエフェクチュアルなアプローチ」と「新規ベンチャーの成果」との間に正の関係性があることがわかったが、今後の参考のために、本研究に固有の限界について議論し、いくつかの提案を行う。
ここではエフェクチュエーションに基づくアプローチに関する一般モデルを提案する。図12.2 がそれである。 これによって、「エフェクチュエーションの戦略の利用が、入手可能な手段によって導かれるかもしれないし、その関係は別の変数によって抑制されるかもしれない」という洞察が得られる。エフェクチュエーションに関わる中核的な戦略の理論を構築し、多様な異なるタイプのエフェクチュエーションの結果を調査するためにこれらの変数を用いることは、起業家がどのように生み出され、どのように学習し、中核的な戦略の相違をどう適用するのかについて基礎的な情報を提供する。
エンジェル投資家は、「自らの資金を新規べンチャーに対して私的に投資する、 裕福な個人」 である。アーリーステージでは進め方を決定するために予測する努力が根本的に困難であり、その状況は前進のためのエフェクチュエーションのアプローチの潜在的有用性を高めている。今日のアーリーステージにおける主要な資本提供者はまぎれもなくエンジェル投家達なのに、われわれは「そのような高い不確実性を伴う状況を、 彼らがどのように操作しているのか」について、ほとんど分かっておらず、彼らの取り組みの結果については、さらに知らないのである。
エンジェル投資家の実践を観察した研究は、エンジェル投資家が公式的VCの実践をほとんど用いていないことがしばしばあることを示している。 多くのエンジェルたちはその起業家に関する個人的な知識を事前に探索し、 事業計画と予測を、プロポーザルに対する彼ら自身の知識や、その起業家に対する安心感ほど重要ではないと考えているのである。 エンジェル投資家に関する近年の研究の中で、「事業のエンジェルたちは、財務的見通しにはより小さな関心しか払わず、収益率をあまり計算しない傾向にある」 ということがわかったように、彼らはより「直観 (gut feeling)」に基づいて投資をする傾向がある。 しかし研究によれば、エンジェル投資家は、公式的VCよりもリスクが高く、失敗は少なく、これによりエンジェル投資のより起業家的な側面を探究する可能性が見えてくる。 とりわけ極めて不確実性の高い状況では、熟達した起業家が新しい企業および市場を創造する際にしばしば用いるエフェクチュエーションの原理を妨げることになるだろう。ベンチャーキャピタルの考え方が前提としている重大な仮定とエフェクチュエーションの論理に基づいた意思決定を鑑みると、投資家だけではなく起業家にとっても、「自分自身の製品や市場の成功を予測できない」状況をわれわれは想定し、投資家と起業家の関係性を「価値ある機会を作り出すためのパートナーシップ問題」として関係を捉え直さなければならない。
エフェクチュエーションに基づく論理の主要な原理は、極めて不確実な状況におかれたベンチャーの失敗を低減する可能性がある。エンジェル投資家に関する既存データは、彼らが決まってエフェクチュエーションの主要な原理のいくつかを用いており、彼らのほとんどがしばしば起業家としての豊富な経験を持っていることを示しており、VCに関する既存データは、彼らがより因果関係に基づく予測的なアプローチを用いていることを示している。実際に、公式的VCの実践はむしろ投資の失敗を増加させる意図せざる結果を伴う可能性がある。これらを合わせて考えると、未公開株式投資に対するエフェクチュアルな見方は、エンジェル投資家の成果に関する、次のような基本仮説を示唆している。
仮説: エンジェル投資家は、「非予測的コントロール」によるエフェクチュエーションの論理を強調する限りにおいて、アーリーステージの投資で、投資の失敗を経験する割合は、 公式的ベンチャーキャピタルの投資家よりも低い。
主要な仮説を、4つのより具体的で検証可能な 仮説へと分解した。「許容可能な損失」は、その資源を限界まで引き延ばすことによってベンチャーを長生きさせる。「手段への関与」は、 柔軟性を維持しながらも、ベンチャーが現在の能力に集中し、こうした能力を活用して販売可能な製品を創造する新しい方法を発見することを促す。 非予測的コントロールを重視 するエンジェル投資家は、こうした原則に従事するベンチャーを選択し、 そう したベンチャーが 「自らの未来を積極的にコントロールする」という視点で戦略的活動を行うよう働きかけるため、結果的に投資の失敗を著しく低下させる。
ここでは上記の仮説を、 アメリカにおけるエンジェル投資家の成果に関する初めてのデータセットを用いて検証する。プロセスは、サーベイ調査のための定評ある手順(Dillman, 2000)に従って実施された。ここでは以下の変数を含む回帰分析の結果に直接移る。
予測およびコントロールの概念の有用性を主張するために、要因に関する基準を作った。この基準モデルは、本研究が行われる文脈を説明し、本書で開発されたアイデアの付加価値を検討するための強力なテストを提供する。
成果を各投資のイグジットの際に達成される「内部収益率(internal rate of return: IRR)」のカテゴリとして測定し、投資家のリターンの分布を評価することを可能にした。
いくつかの変数は、マイナスを伴うイグジットに影響を及ぼしていることがわかる。「起業家経験」と、「先行する投資家と一緒に投資を行うこと」が「100%未満のIRRのイグジット」と「マイナスのIRRのイグジット」を有意に増加させている。さらに、「シードステージ」にしてより多くの投資を行うエンジェル投資家ほど実際には有意に少ないマイナスのイグジットを経験していることが分かった。そして自らの「個人的関係性」を通じてより多くの投資を行う投資家ほど、有意に多くのマイナスのイグジットを経験していた。
仮説1は「コントロールの重視が、マイナスのイグジットに対して有意に負の影響を与えている」ことから支持された。仮説2では、「投資家による予測の重視」と「より多くの失敗の経験」を関連づけ、仮説3では、それを「より大きな(翻訳では「多くの」原文でも "more" になっているが "bigger" の間違い)成功の経験」に関連づけるものだったが、「予測の重視」と「イグジットの成果」との間には、どちらの方向性に関しても有意な関係が見られなかったため、仮説2および3は支持されなかった。仮説4については、「予測の重視」 が「有意に大きな損失」に結び付いていることと、「予測を回避し、コントロールを重視する」投資家はさらに小さな損失を経験していることがわかる。
表12.7の基準モデル との関係では、予測とコントロールはマイナスのイグラクトのモデルの自由度調整済み決定係数を向上させ、回帰式の当てはまりを5%水準で有意に改善していることが分かる。これらの発見の頑健性は主に共線性のテストと発見を分割したサンプルで確認することによって行われた。全体としてみると、 「コントロールを重視すること、つまりはエフェクチュ エーションの原理を活用することは、エンジェル投資家の失敗を有意に低減す る」ことがわかった。これらの投資家はしかし、同様の頻度で100%のIRRを伴ったイグジットも経験している。さらに、「予測を重視することは、エンジェル投資家 にとっての投資の規模を有意に高めている」ことがわかった。
エンジェル投資家の新規ベンチャー投資に対する失敗の割合は有意に低いが、成功を説明することはより困難であり、これが「サンプルサイズの問題」であるのか、 「エンジェル投資家の低い成功頻度の問題」であるのか、「失敗の反対としての成功がより高い確率で起こる」ということによってもたらされているものなのかは明確ではない。加えて、「起業家経験」 と「他の投資家と一緒に投資する経験」の両方がマイナスのイグジットとホームランのイグジットの両方を増加させ、より極端な成果に結びつくことがわかった。 予測とコントロールの問題を検討することはモデルの説明力を著しく高めるものであった。
第1に「不確実な状況下では、予測はポジティブな成果には結びつかない」。本研究の経験的な結果は、エフェクチュエーションのアプローチが大規模な成功を減ずることなく失敗を最小化するために重要な効果を持ちうることを示している。第2に、コントロールの次元が発展することで「組織的変化を効率的でない」と考えているポピュレーション・エコロジーや他の領域に対して興味深い示唆を持つ。新規ベンチャーのリーダーたちは「自らのモデル」と「淘汰の基準」の両方に対して影響を与えることによって、「生存の可能性」と「成果」を著しく向上させる。最後に、こうした結果は、「不確実性をコントロールしよう(不確実性に影響を与えよう)とするエフェクチュエーションの取り組みと成功との間にはトレードオフが存在しない可能性」を示している。今回の経験的研究は、非予測的コントロールのアプローチが不確実な状況で体系的に新しい価値を生み出す可能性を示唆している。われわれは機会コストと「Knightの不確実性」において生じるトレードオフに関して再考する必要があるのかもしれない。疑問に答えるための多くの研究は定性的にもなされなければならない。差し当たり、エンジェル投資家に対する本研究はエフェクチュエーションの成果についての最初の経験的なデータであり、エフェクチュエーションが真に不確実な状況におかれた行為者にとって新しい機会を提示することだろうと示すものである。
この章では、著者が一切取り組んでこなかったこと、ないし、うまく成し遂げられなかったことに焦点を合わせて、可能性のある新たなベンチャーを垣間見ることにしよう。
私自身は、スペースシップ・ワンに関する綿密な調査をしたわけでもなければ、詳細なケーススタディを記述したわけでもない。遅かれ早かれ、誰かがこのベンチャーに優れた歴史を記述するだろうと思っているからだ。そして、そのような歴史が記述されたあかつきには、私は、これまで議論されてきた複数の対立仮説を検証するために、いくつかの具体的な疑問をデータと付き合わせてみたいと考えている。
私は、これらがあまりに細かすぎる出来事であり、おそらく容易に入手できない情報であることは、もちろん承知している。しかし、もし我々が、教育や実践におけるケーススタディの可能性を論じるのではなく、現在の知のフロンティアを前進させるような、本当の意味で有用な理論を開発しようとするならば、そうした事例についての綿密な歴史は、紛れもなく必須であると考える。
スペースシップ・ワンに関する具体的な疑問は、研究者と起業家にとってのより一般的な実証的関心を象徴している。これらの問題は、不確実性と不完全な知識の下での「判断」に関する問題を含んでいる。さらに、あらゆる起業家はその実践の中で、意識的にせよ無意識的にせよ、そうした判断に関する、次のような側面の一部もしくは全てを整理しなければならない。
本書における幾つかのアイデアは、関連領域の他の研究者によってなされた研究と概念的に関連するものであり、またそれらに対して示唆を与えるものである。そのうちいくつかに関しては幾分深い探求を試みたが、それ以外のものは見過ごしてしまったか、ほとんど関係を明確にせず触れた程度だった。そうした関連する研究の包括的なリストを作ることがここでの目的ではないが、いくつかのつながりについては、明確に言及しておく価値があるだろう。例えば、進化経済学には、「市場形態のダイナミズム」、「経路依存症」といった、エフェクチュエーションに関連する概念開発の助けになるような、多様なサブトピックが存在する。また、オーストリア学派経済学における幾つかのトピックや、「消費者選考の進化と消費技術」などとの、前途有望な繋がりもある。
本書で取り上げたアイデアを考える際、それが政策的な合意にならないよう意識して選択を行った。それは私が、「規範的問題を通じて考えることに、より多くの研究がなされる必要がある」と信じているからである。しかしエフェクチュエーションの論理は、OlsonやSenといった経済学者のとる政治的な立場とも調和するのではないか、と私は考えている。Shane (2003)は、起業家的な機会には、「技術的変化」「政策的・規制的変化」「社会的・人口動態的変化」という、3つの源があることを特定した。1つの興味深いリサーチクエスチョンは、こうした変化のいくつかを創り出す上で、起業家の行為が果たす役割である。スペースシップ・ワンは、明らかに、「技術的変化」のフロンティアを前進させた起業家の事例である。また起業家は、個人あるいは集団で、「規制的変化」に対して影響を与えようともする。少し想像力を働かせれば、「社会的・人口動態的変化」の場合でさえ、そこに起業家の関与を見ることができる。企業における失敗の役割、そして成功した起業家による、失敗のマネジメントもまた、政策研究のための重要な領域である。地球上のほとんどすべての政府は、それぞれのやり方で、起業家に対してシードを生み出すための資金提供を行なっている。今日では、こうしたプログラムの中に、「失敗に対する強い抵抗のバイアス」が存在しており、成功した起業家に不可分なものとして、失敗を管理あるいは活用するための体系的な試みは、全く存在していない。この問題は、起業家のキャリアに関するデータが少ないという事実とも関係している。
アントレプレナーシップは、知の歴史の中で、まさしくに「インクの染み」である。したがって次に示すものは、当然ながら完全なリストではない。可能性のある研究事業について、ここではエフェクチュエーションの論理と密接に結びついたものに限定して、概観したいと思う。
主観-客観の2分法はまさしく今日の幾つかのアントレプレナーシップの研究者たちの問題であった。例えば、「機会が世界のどこかに外在するのか」、それとも「起業家の知覚の中だけに存在するのか」についての議論を考えてみよう。幸運なことに、知識の哲学における近年の発展は、我々の関心に対して興味深い意見を述べている。私はとりわけ、Davidson(2001)による、「主観の神話性」についての研究と、「3種類の知識」に関するアイデアに興味を惹かれている。Davidsonは、知識を、主観・間主観・客観という「3つの脚をもつ椅子」として概念化した。3つの脚のいずれも、全体の体系を崩壊させることなく、取り外すことはできない。しかし、彼のこうした3つの認識論的基礎の特徴は、我々が期待したものと完全に同じではない。ここで詳しく説明はしないが、特に、彼は、主観の特権的な地位の土台を切り崩すのである。
起業家の語りを分析することならびに、その意味を理解することは、ますます多くの質的研究にとって好ましいアプローチになりつつある。とりわけ、起業家が作り出し、使用するメタファー、彼らが現実を解釈する際の「エラー」、そして彼らが用いるレトリックの説得的なパワーについては、エフェクチュアルな起業家の実践と研究の両方にとって重要な問題である。我々は、認知言語学からのアイデアと方法を、「人工のメタファー」として新たなベンチャーと新たな市場の成果を分析するためにも、適用することができる。すべてのベンチャーは、ある意味で、単にその創業者の願望を達成することのみを追い求めるわけではなく、「豊かな世界とは、どのようなものか」についての、彼らの考え方を身体化したものであり、そうした願望を達成することを含んでいるのである。したがって私は、ベンチャーとそのビジネスモデルは、人類の大きな集合と、小さな集合にとっての、豊かな生活を、調和させるための「人工のメタファー」という点で、分析できると考えている。
本書の中で私は、経済学において、エフェクチュエーションの論理を確立する可能性のある、将来の研究領域をいくつか指摘してきた。しかし、ここでは、私が第9章で展開した、経済学において「であるかのように」の理論ではなく、「であったとしても」という理論を構築する可能性について改めて表明したい。これは、ほとんどの「選択の理論」で用いられている、行動科学的基礎の根本的な改定を含んでいる。つまり、それは契約理論、取引費用、進化経済学、新制度派経済学、公共選択、社会選択といった、多様な経済理論に影響を与えることになる。エフェクチュエーションの論理のミクロおよびマクロ経済学的な含意を探り出すことで、発展と幸福のための有用な理論を形成する、アントレプレナーシップを真剣に確立するための中核となるに違いないと信じている。
歴史家がいつの日か、我々の時代に支配的な倫理として、アントレプレナーシップを位置付けるようになることは十分ありうる。そうした倫理が勃興する初期段階を生きている我々には、いくつかの疑問が存在する。「アントレプレナーシップは到達点なのか、それとも方法なのか?」、「全世界をシリコンバレーのような1つの輝かしいイメージで築くために努力すべきなのか、もしくは、多くはシリコンバレーとは違ったように見える局所性や偶発性を、価値ある機会へと変換すべきなのだろうか?」「それは多様な文化的状況の中で、合意された経済的効果を達成するために、新しい手段を発明することなのか、それとも、それは既存の文化的・経済的状況についての考えを変換する新しい目的の発明を含むものなのだろうか?」こうした疑問に対して、我々が何を選択するかによって、次に何が起こるかに大きな違いをもたらす可能性がある。
本書では、アントレプレナーシップを1つの道具や1つの到達点としてではなく、科学的手法と同じような方法としてみなすべきことを訴えてきた。さらに、科学的手法が実験の論理を通じて機能するのと同じように、エフェクチュエーションの論理は、起業家的手法を駆り立て進歩させるものである。科学は、あらゆるものに適応可能な壮大な理論の構築や、人生そのものの分解不可能な原理のような、壮大な目標を達成することに成功することもあれば、しないこともある。さらに、どのように定型化されても、それを適応することによって、より良い世界がもたらされることを保証するわけではない。しかし、それが何らかの効用をもたらす可能性は、それが1つの「方法」であり、「世界観」であるという事実に起因している。それは、多様な貢献を生み出す可能性のある、より広汎な人々に教授され、学習される論理を持つプロセスである。そして、平均してみると、それは時間と共に発展を遂げているように見え始める。その発展の1つの尺度は、それが我々の目的の達成のために、どれくらいうまく本来の潜在力の利用を可能にしているのかの程度である。同様に、我々はアントレプレナーシップを、目的を達成、変換、創出するために人間の性質を解き放つための方法として再概念化するだろう。エフェクチュエーションの論理を明らかにすることが、こうした再概念化に役立つ一歩となることを願っている。