※『経営行動』の解説
※Administrative Behavior 1945年版について
※高橋伸夫「『経営行動』の各版の比較【草稿】」2011年10月10日. PDF
※高橋伸夫 (2008)「『限定された合理性』はどこに―経営学輪講 Simon (1947, 1957, 1976, 1997)」『赤門マネジメント・レビュー』Vol.7, No.9, pp.687-706.
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管理は、「物事を成し遂げること」の技法として論じられるが、この議論の全てにおいて、全ての行為に先立つ選択に対して、あまり注意が払われない。本章では、問題の提起を行ない、また、他の諸章で取り上げられる論題について概論する。
組織の目的を遂行する実際の仕事は、管理階層の最下層の人々によって行われる。それに対し、組織の非現業員は、現業員の決定に影響を与えることで組織の目的の達成に参加している。どんな組織でも最高位の監督者と現業員の間には中間監督者が存在しており、中間監督者は、上からの影響を受けると、修正、伝達などを行い、現業員へ影響を与える。したがって、能率的な経営組織の建設は、現業員を決め、有効な行動を現業員がするように影響を与えられる監督者層を配置することである。また、組織の成功は現場従業員の成果によって判断されるため、組織の研究においては現場の従業員に注意の焦点を合わせなければならない。組織の構造と機能は、従業員の決定と行動の、その組織内での影響され方を分析することによって洞察される。
本書では、あらゆる種類の選択の過程について多くの実例が示され、全ての実例は以下の特徴を持つ。いかなる瞬間においても、数多くの代替的で(物理的に)可能な行為群が存在しており、所定の個人はその代替可能行為のいずれの一つをも取ることができる。そして、ある過程によって、この数多くの代替可能行為は実際に選択される一つの行為へと絞られる。この過程を指す場合、「選択」と「決定」は同義語として捉えられる。
特定の行為を支配する決定は、より大きな決定の適用の具体的な事例であり、それぞれの決定は、目標の選択とそれに適した行動を含んでいる。決定が最終目標の選択に繋がる限り、それを「価値判断」と呼び、決定がそのような目標の実行を意味する限り、それを「事実判断」と呼ぶ。ただ、経営者にとって、価値的要素と事実的要素はきれいに分類されるわけではなく、ある場合には単一の目的に結合される場合もある。
組織は個人から決定の自治権を一部取り上げ、それに代えて、組織の意思決定の過程を与えることで、集団の仕事に対して組織化された努力を適用しやすくする。この技術のことを管理過程という。管理組織は、現業員と監督者の間の意思決定職務の分業である、垂直的専門化によって特徴付けられる。(通常の「分業」は水平的専門化であり、多くの分析がなされてきた。) 垂直的専門化が組織で行われる理由として、次の3つが挙げられる。
組織のハイアラーキーの高い階層において行われた決定が、現業員の行動に影響する方法はおよそ2つの範疇に分かれる。一つ目は、組織にとって有利な決定に至るようにさせる態度、習慣、心的状態を現業員自身の中に確立することである。これは組織への忠誠心と能率への関係を教え込むことによって、より一般的には、従業員を訓練することによって、効果が生じる。二つ目は、組織の他の場所で決められた決定を、現業員に課すことである。これは主に権威に依存し、助言と情報のサービスに依存する。
企業組織において、企業家、従業員、顧客という3種類の参加者が区別される。参加者はそれぞれこうした組織の活動に携わる個人的動機を持っている。そして組織の活動が目指す目的も存在するが、それは全ての参加者の個人的目的であり、参加者自身の様々な個人的動機を満足させるための手段である。ただし、顧客の目的は、組織の目的と非常に密接に関係しており、企業家の目的は、組織の存続に密接に関係している従業員の目的は、どちらにも直接関係していないが、需要の範囲の存在によって、組織の体系に組み込まれている。そして、企業組織以外の管理組織においても、こうした3つの型の役割は存在する。
第2章では、「管理の諸原則」に対する不適切さを示し、諸原則を発展させる必要性を示す目的で、批判的分析がなされる。第3章では、経営的決定における価値の問題と事実の問題によって演じられる役割の分析から始まり、第4章では、管理組織における行動も含めて、社会行動システムの記述と分析のために、本書全体を通じて行われる概念的用具の説明が行われる。第5章では、組織の中の個人の心理と、組織が個人の行動を修正する仕方を考察する。第6章では、組織は、諸個人の行動がある種の均衡を保っているという、諸個人のシステムとみなされる。第7章は、組織における権威の役割と垂直的専門化、及び、専門家を有効にする組織過程について、詳細に分析する。第8章は、組織の影響力を伝達するコミュニケーションの過程を、第9章では、能率の概念が詳細に検討され、第10章では、組織への忠誠心あるいは一体化が詳細に検討される。第11章では、管理組織の構造を概観し、管理論の研究が直面する諸問題を議論して本書を終わる。
組織はここ最近、官僚的ヒエラルキーのイメージから社会の病巣として批判を受けている。こうした組織に対する懐疑的な見方から、組織よりもパーソナリティを重視すべきだという主張も多く見られている。すなわち、「良い」個人ならばどのような組織でも働くことができる、という主張である。 筆者はこれに対して反論し、なぜ組織が必要なのか、3つの理由を述べている。
人々が組織の為す役割を軽視してしまうのは、「組織」という言葉を誤解しているからである。多くの人々は組織のことを、組織図や複雑なマニュアル・手続きに代表される官僚的なものだと考えている。しかしこれは誤解で、「組織」とは、意思決定とその実行の過程を含めた、人間集団におけるコミュニケーションとその関係のパターンのことである。これは、過去積み上げてきた意思決定や実行のプロセスが、同じ組織における将来の意思決定・実行にも影響を及ぼすということである。このパターンのことを「役割システム」と呼んでいる。
ここまで述べてきたように、組織には意思決定・実行といった人間行為を調整する機関としての役割がある。その一方で、現代社会にはもう一つ、大きな力を持った調整機構がある。すなわち、市場である。近年の組織に対する批判は、市場に対する礼讃の、コインの表裏である。確かに、ソ連などに見られた中央による計画経済の失敗は、組織に対して市場が優位であることを示しているように見える。しかし、市場は健全なインフラがあり、企業など各組織が効率的なときのみ有効に働くのである。つまり、市場の成功のためには良い組織の存在が不可欠であり、市場は組織を代替するわけではないのである。市場の中でも組織はこれほど大きな役割を果たしているにも関わらず、経済学において企業(組織)は抽象化されすぎている。企業は特定のインプットを与えると生産というアウトプットを返す箱としてしか扱われていない。本書は、組織(企業)に対する貧弱な記述を訂正していくことも目標としている。具体的には、人々がどのようにしてインプットからアウトプットを決める意思決定を行っているのか、限定された合理性の下でどのようにして意思決定過程が形成されるのか、どのようにして組織メンバーからの忠誠心を得るのか、といったことである。
コンピュータは意思決定過程や組織デザインの形態に、これから莫大な影響をもたらしていくと考えられる。この推論は、コンピュータの、膨大な数の高速処理能力を持ち、巨大な記憶装置として機能し、専門性(チェスや法律調査など)があり、ネットワークコミュニケーションの機会を提供し、思考し意思決定をするといった特徴から容易に得られる。さて、コンピュータに対してはしばしば誤った理解がされている。すなわち、コンピュータを今後より使いこなすには、情報記憶装置としての役割を拡大していくべきだ、という考えである。しかし、情報はすでに足りていて、人間が情報に注意する時間が不足しているというのが正しい理解である。今後は、組織におけるコミュニケーションシステムをデザインするにあたって、いかに情報の供給過多と戦うかが重要になってくる。
垂直的専門化とは、現業員と監督者の間で、意思決定職務を分割することである。ここで意思決定の過程をさらに細分化して考えてみると、意思決定には夥しい数の事実・前提が用いられていることがわかる。こうした事実のことを「決定前提」と呼ぶ。意思決定において「決定前提」は大きな役割を果たすが、これらと並行して、
今まで、意思決定に着目して組織分析を行なっていたが、これは社会学なのか心理学なのかという問いが出てくる。結論としては、どちらか一つに絞れるものではない、ということになる。意思決定という言葉のみから考えると心理学的に思えるが、この意思決定のプロセスには、組織のシステムが多分に絡んでくるという点で社会学的なのだ。組織の場所とコミュニケーションの型から一体化された目標が定められ、この一体化された目標が組織メンバーの役割を規定する。さて、ここで述べた「役割」という概念は、ある行動に対する社会学的説明を提供する。ここから考えると、意思決定という「行動」も、「役割」の概念を用いて説明できるのではと考えてしまいがちである。しかし本書では、「役割」のみから意思決定を分析するのではなく、決定前提の観点から考える方が適切であると主張している。役割は、意思決定を説明する要素(決定前提)の一つに過ぎないとしているのだ。こうすることで、行為者の動機に知識や欲求・情緒が関与する余地が生まれる。
組織理論の研究は8つの学派に分かれている。すなわち、古典学派、新古典学派、組織行動学派、「近代」構造学派、システムズ、コンティンジェンシー、ポピュレーションエコロジー学派、多様構成者/市場組織学派、組織文化とシンボリックマネジメント学派の8つである。この「学派」について考える際によくある誤解が、「学派」同士が競合し合い、一方が一方を否定するという考え方である。一見新しく見える経営理論も、実際は既存のものをさらに前進させたというものが多い。しかしながら、徒に関連用語を増やし過ぎてしまうために、これらが全く別のものであるかのように見えてしまうのだ。したがって、八つの独立した学派として考えるのではなく、単一の概念的枠組みとして経営理論を捉えることが重要になってくる。
現在に生きる我々が過去や未来の組織の形について思いを馳せることは簡単ではなかった。しかし、コンピュータによって組織に大きな変化が訪れることを予想することは簡単だ。特に、遠隔コミュニケーションの可能性を提供するコンピュータの特性が組織形態の変革に大きな寄与をする可能性がある。例えば、一つの意思決定に関わるグループの数を増やせるということが考えられる。同じオフィスで集まって会議を行うといった必要が薄まるからである。また、伝統的な組織ヒエラルキーの重要性がなくなっていくことも予想される。メッセージの流動性が増すからである。
この章では「諸原則」の比較的検討を行い、その後経営行動の健全な理論をどのようにして打ち立てられるかを議論している。現在の経営の諸原則の致命的欠陥はどの原則についても、矛盾するが同じように容認できる、対になるような原則が存在していることだ。この批判を実証するために主な原則のいくつかを検討する。
次の4つの原則について検討する。
原則1が、いかなる場合にも専門化が進めば能率が増すことを意味しているとしたら、この原則は管理の方法を選択する際には役に立たない。なぜなら「専門化」は、効率的管理の条件ではなく、全ての集団的努力に、それが効率的であろうとなかろうと必然的にあらわれる特徴に過ぎないからだ。専門化は単に、2人の人が同じ場所で同じことをするのは物理的に不可能なために、違うことをしているということだ。管理の真の問題は「専門化すること」ではなく、「管理効率を高めるように特定の仕方で専門化すること」である。
原則2では「命令の一元性」を保つために明確な権限のハイアラーキーに組織のメンバーを配置することによって高められるとされている。この命令の一元性の問題点は、これが専門化の原則と両立しないことである。専門化の原則を適用すると、意思決定の仕事さえも専門化され、個人の意思決定よりも高度で熟練した決定がそれを専門とする者によって与えられることになる。しかしこれはある分野を超えて決定をする際に、1人の人の決定は権限のただ1つの経路のみを通じて影響を受けるという命令の一元性を侵害してしまう。そこで命令の一元性の原則をもっと擁護するには「2つの権威ある命令が矛盾する場合、部下が従うべき1人の最終的な人物がいるべきであり、権限の制裁は、この1人の人物に対する服従を強いるためにのみ部下に対して適用されうるべきである」と制限をすることができる。ただしこの場合でも、組織が権限のコンフリクトの解消以外の場合に単一のハイアラーキーを要求しないことや、特定の組織の中での権限の区分方法やどの経路を通じて権限が行使されるべきかといった問題が解消されないまま残ることになる。
原則3では、管理効率は、1人の管理者に対して直接に報告する部下の数を少数に制限することによって高められると考えられている。これは「統制の幅」を狭くするということだ。この原則自体には賛成する意見が多い。一方でこれに矛盾する考えが存在する。それが「ある事柄が実行されるまでに、それが通過しなければならない組織の階層の数を最小にすることによって能率は高められる」というものだ。階層の数が増えると組織メンバー間の交渉はいずれも共通の上司が見出されるまで上へ上へと持ち上げられ続け、決定や命令の伝達に手間もコストもかかる。これに代わる方法として各長の指揮下にある部下の数を増やすと、交渉スピードが上がる一方で、当然上司の監督人数が増えてしまい統制力が弱まる。
原則4はその内部に矛盾を含んでいる。なぜなら、目的、過程、顧客、場所は相競合する原理であり、区分のどの特定の点においても、原理4による利益を確保するには他の3つの原理の利益を犠牲にしなければならないからである。これには4つの主要用語(目的、過程、顧客、場所)の曖昧さが関係している。例えば、「目的」と「過程」という言葉には本質的な違いはなく、程度の差があるだけだと捉えられる。つまり手段―目的のハイアラーキーのうち、上層にありその目指す価値や狙いがある活動の集まりが目的、下層にあり直接の目的がある活動が過程なのだ。極端な具体例としては公衆の安全を守ることが目的、そのためにタイピングのスキルを持つことが過程と表せる。また、「顧客」と「場所」も目的のうちに内包されることが多い。例えば「X市の火災を防ぐ」とすれば目的に場所が含まれ、「X市民の火災を防ぐ」とすれば顧客が含まれる。このように、4つの範疇に依って組織の仕事を専門化し、定義することは困難なのだ。たとえこの4つの言葉を適切に用いることができても、この競合する4つの専門化の根拠のどれがどの特定の状況に適用されうるかという基準は不明なままだ。ギューリック、ウォレス、ベンソンといった研究者たちが、これらの専門化のいくつかの様式の利点や不利点を述べ、それぞれの様式を採用することが最善となる諸条件を純理的に考察したが、一方的なものや結論に達しないものが多かった。
ここまで述べたように、はじめに述べた4つの原則はそれぞれの場合に、明らかに等しく管理状況に適用でき互いに矛盾する原則が見出されてしまう。さらに、全く同じ意義が「集権」対「分権」の論議に対しても主張できる。つまり、ある一方で意思決定の集権は望ましいが、分権にもはっきりとした利点があるなどと結論づけられる。これらの問題は、実際には管理状況を記述し診断するための基準に過ぎないものを「管理の諸原則」として取り扱うことから生じた。管理研究に有効なアプローチをするには、単に一つの原則を当てはめるのではなく、関連する診断基準全てを明らかにすること、この全ての基準によって管理状況を分析すること、いくつかの基準が違いに矛盾する場合にはそれらにどのように重みを割り当てるか決めるために研究を始めること、が必要とされる。
まず、管理状況の分析にあたっては管理状況の記述に何が含まれるか、次に全体的な観点からして様々な基準が正しい位置を占めるには、それらに重みをどう割り当てうるかを考える必要がある。
管理論の最初の仕事は管理状況をこの理論に適切な言葉で記述することを可能にする、経験的に観察可能な事実や状況に対応した概念の開発である。では、組織について科学的に適切な記述とは何だろうか。それは、組織の中の各人に、その人がどんな意思決定を行うかということと、これらの意思決定のそれぞれを行う際にその人が受ける影響とをできるだけ明確に示す記述である。しかし現行の管理組織に関する記述はこの標準に達しておらず、皮相的で単純化され過ぎており、現実性に欠けている。権限の機構の他にも組織行動について重要な様式の影響を考慮したり、意思決定機能の実際の配分の研究を行ったり、「権限」「集権」「統制の幅」「職能」について測定可能な定義を求めたりといったことが本来必要である。
管理の基本的な原則は、「良い」管理の合理的性格から導かれ、同じ費用を伴ういくつかの代替案の中から管理目的の最大達成をもたらす一つが常に選択されるべきであること、また、同じ成果をもたらすいくつかの代替案の中から最小の費用を伴うものが選択されるべきことである。実際にはこうした原則は、原則というよりむしろ定義に近い。それはどのようにして成果が最大化されるべきかではなく、最大化が管理活動の目的であること、またどんな条件の元で最大化が起こるかを管理論が明らかにしなければならないことを指す。
管理組織によって達成される効率の水準を決定する要因は何だろうか。その最も単純なアプローチは、組織のメンバーに(a)実行する能力の制限と(b)正しい意思決定をする能力の制限を尋ねることだ。これらの「合理性の制限」が取り除かれるほど管理組織は高い効率の目標に近づく。この制限には3つの側面がある。
ただし、これらの合理性の制限は変わりうる制限である。さらに制限の自覚がそれ自体、制限を変えうることが重要だ。これに関係して、「合理的な行動」はその行動がより大きな組織の目的の観点から評価されるときの合理性を意味することにも注意が必要だ。
管理論ではそれぞれの基準に適用されるべき重みも重要である。この重みの研究では、客観的に評価をしやすい管理組織について、管理的配置を修正することによって生じる業績の実際の変化を観察し分析することが望ましい。この研究を成功させるには2つの条件がある。
組織理論には次の2つのアプローチがありうる。
古典的理論は、組織はそのデザインが「格言」を満足させる限りにおいて有効であると主張した。基礎科学的なアプローチにおいては、これらの古典的な原則は相矛盾するものであるとしたが、これを工学の視点で考えたときは異なることが言える。工学の視点からは、格言は破ることのできない原則ではなく、デザインのガイドラインとして捉えられる。デザイナーがこれらのガイドラインを用いるためには、彼らは依然科学的知識を必要とする。この知識とは、ある状況下でどちらのガイドラインが特に重要であるかを見極める知識である。古典的組織理論における中心的な問題点は、どのような時にも無条件に全ての組織に適用できる、組織の絶対的な「原則」を見つけることに没頭していたことであった。この「組織の諸原則」はいまだに組織理論のテキストに変わることなくあらわれているが、批判と実証研究の流れによって次第に相対化されてきている。その流れは、異なった環境における異なった機能には、異なった組織デザインが必要であるということを示してきたのである。
いくつかの産業で広範な種類の製品を顧客のために製造している会社は、もし生き残って成功しようとするならば、単一系統の製品を均質の顧客グループのために製造している会社とは、異なった組織化をしなければならない。こうした組織の環境への適応についての研究は「コンティンジェンシー理論」と呼ばれる。ここで中心となる考えは、効果的な組織構造を構成するものは諸目標と社会的そして技術的状況に依存する、というものである。ここでは、どのように目標が組織構造に影響するか、またその逆について例を持って確認する。
構造と過程は組織研究に補完的なアプローチを提供する。組織を環境と関係づける研究の多くは、組織の安定的な構造的特徴を強調している。本書では、意思決定過程とコミュニケーションのシステムが、組織とその環境の間をどのように調停するのか、という適応のメカニズムをより詳細に見ていく。
会社の会計システムがどのように組織化されるべきかという研究において、まず研究の基礎は、意思決定が実際に行われる方法と場所の調査であった。実際に意思決定過程を詳細にかつ多くの会社で観察したとき、副社長や工場長、工場の部長の階層のような重要な組織階層では、会計部門に対してそれぞれが全く異なるコミュニケーションの問題を持っていることがわかった。それぞれの部門で必要とされる特定のデータを分析した結果、会計部門組織の一般的なパターンが開発され、業務上の決定に情報と影響を与えるというタスクを中心として組み立てられた。組織変更の提案としては、組織図の変化よりも、むしろ誰が誰に、どのくらい頻繁に、何について、というパターンにおける変化をもたらすことによって実行されるべきであるとされた。
製品開発を組織化する際の主要な問題は、全く異なった二つの源、つまり用いられる基礎的技術の基礎にある科学的な学問、および最終用途のための製品の諸条件を決める環境、からの情報を集めることにある。異なった種類の研究開発の技術が必要とされ、技術部門とその環境との間に異なったコミュニケーションのパターンが必要とされる。このように、決定のための非常に重要な情報が異なった離れた源で生じるとき、どのようにしてその情報を統合すれば良いかが問題となる。
本書で提案されている、鍵となる分析の方法は、組織活動に必要とされる決定とこれらの決定に貢献する前提の流れについての、注意深く現実的な描写を展開させることである。これをするには、過去において組織の分析として通ってきた日常的な知恵よりも、より基本的な方法で組織問題を扱う用語と概念が必要である。
あらゆる決定における「事実的」と「価値的」と呼ばれる2種類の要素の区別は、管理にとって極めて基本的な区別である。第一に、それによって、「正しい」管理的決定とは何を意味するのかを理解することが可能になる。第二に、それによって、管理の文献でしばしば行われている政策(policy)の問題と管理(administration)の問題の区別が明らかになる。論理学でいう第一原理に基づいてこれらの諸問題に解答するために、近代哲学の一学派である論理実証主義によって得られた結論を出発点として、決定の理論に対するその意味が検討される。
事実的命題とは、観察できる世界とその働き方についての言明である。原則として、事実的命題は、それが真実か虚偽か(true or false)を確定するためにテストすることができよう。決定は、事実的内容とともに倫理的内容を持つ。したがって、決定が正しい、正しくない、ということがありうるかどうかの問題は、倫理的な言葉が純粋に経験的な意味を持つかどうかの問題だと分析される。この研究の基本的前提は、倫理的な言葉は事実的な言葉に完全には変え得ないということであり、その正当化(justification)は、論理実証主義者や他の者たちによって十分明らかにされてきている。その議論は以下のようである。ある命題が正しいかどうかを決めるには、それは直接に経験(すなわち事実)と比較されるか、経験と比較することのできる他の命題に論理的な推論によって導かれなければならない。しかし、どんな推論の過程によっても、事実的命題を倫理的命題から引き出すことも、倫理的命題を直接比較することもできない。なぜなら倫理的命題は事実よりむしろ「当為」(oughts)を主張するからである。それゆえ、倫理的命題の正しさを経験的あるいは合理的にテストしうる方法は存在しない。
どの決定にも倫理的要素が含まれると主張することは、決定は倫理的要素のみを含むと主張することではない。決定は常に、相対的な意味において評価することができるが、その目的の変化は評価の変化を意味する。評価されるのは決定それ自体ではなく、決定とその目的の間に存在が仮定される純粋に事実的な関係である。同じく、事実的前提の媒介によって一つの命令が別の一つの命令から導き出されうる。
ほとんどの倫理的命題は事実的要素を混合しており、それ自体が目的なのではなくて中間の目的であるために、それが目指しているより最終的な目的に対するこの適切性の問題は依然事実的な問題である。現在の議論にとって重要な問題は、倫理的要素を含む言明は、いずれも正しいあるいは正しくないと記述できないことであり、意思決定過程は「与件」とされるある倫理的前提から出発しなければならないことである。この倫理的前提は問題になっている組織の目的を記述している。行政管理の分野では、倫理的な「与件」のこの混同した性格は通常かなりはっきりしている。倫理的な命題が合理的な意思決定に役立つためには、第一に、組織の目的とされる価値が明確でなければならず、第二に、特定の行為がこうした目的を達成する可能性について、判断することが可能でなければならない。
観察できる世界についての言明は、ある事象が起きるならばその言明は真実であったといい、他の事象が起きるならば虚偽であったという。ここに判断が介入する。管理的決定を行う場合には、真実か虚偽かがはっきりとわからない事実的前提を選択することが断続的に必要である。日常の言葉では決定における判断の要素と倫理的要素の間にしばしば混同があり、倫理的要素が大きくなるほど手段・目的連鎖(means-end chain)の階段がますます疑わしくなり、かつ、どの手段がどの目的に役立つかを決める際の判断の要素がますます多くなる、という事実によって、この混同はひどくなる。判断が形成される過程は極めて不完全にしか研究されていない。
民間の経営(private management)における決定も、組織のために設定された目的を、その倫理的な前提として受け取らなければならない。
実際には、判断における倫理的要素と事実的要素の分離は通常、ほんの少しだけにできる。大部分の目的や活動は、それ自体で価値を持つ目的あるいは活動にそれらを結びつけている手段・目的の関係から、それらの価値を引き出す、予期の過程によって、望まれる目的に内在する価値 は、手段へ移行される。中間的価値が含まれている限り、評価には倫理的要素と同様に重要な事実的要素が含まれている。経営的活動の結果は中間的な意味においてのみ目的と考えられうるので、結果に与えられる価値は、より最終的な目的との間にあると信じられている経験的な結びつきに依存する。中間的価値を正しく評価するにはその客観的な結果を理解することが必要である。よくて、決定の過程は次の2つの主要部分に細分化できるだろう。
この種の区分をする理由は、決定における倫理的要素と事実的要素に適用されなければならない「正しさ」の異なる基準があるからである。事実的命令に適用される時、「正しさ」は客観的経験的真実を意味する。一方で倫理的問題はそうではない。
「政策の問題」を一見して認識できるような、あるいはそれを「行政管理の問題」から区別できるような、どんな明快な識別の基準あるいは標識も、議論で示されていない。グッドノー、フロインド、ディキンソンの示唆や、裁判所の立場、それらと同じような極端な見解などの方法論的過程を見ると、次のような結論に到達できる。事実的な命題を正当と認める過程は、価値判断を正当と認める(validating)過程とは全く異なっており、前者はそれが事実と一致することによって、後者は人間の認可(fiat)によって、正当と認められるのである。
民主的な制度は価値判断を正当と認める(validation)ための手続きとして最も正当化(justification)され、どんな種類の専門能力も決してこの機能を遂行する資格とはならない。行政管理者に対して責任を強要するための現行の手続に対する批判は、実際にこれらの手続の有効性が低いことを示しているが、その手続はもともと価値がないと結論する理由は存在しない。もし倫理的な問題から事実的な問題を区別することが妥当な区別ならば、次のような結論が出る。
ここに示唆された方針に従って決定機能を分割すれば、それに「政策」と「行政管理」という言葉が最もよく当てられうる。こうした分割は、「価値」と「事実」の区別に明らかに依存する。現代の政治において民主的な責任を果たすには、立法府と行政管理者を区別する方針に近づく必要があるということは、おそらく正しい。
「政策」と訳してきたポリシー(policy)という用語は、この章で与えられた意味よりもずっと広く、またずっと曖昧にしばしば使われている。特に民間の経営(private management)の文献では「一般的な規則」や「経営トップの方針」を意味することが多いが、そのいずれにおいても、ポリシーが何らかの倫理的内容を持つことを含意していない。また、こうしたポリシー、規則に加えて、ほとんどの組織には数多くの「慣例」(practices)がある。こうした慣例は、慣習の力(force of custom)か他の理由によって組織で遵守されている。政策と慣例の境界線はしばしば曖昧である。
意思決定における価値的要素と事実的要素の区別が、政策の問題と行政管理の問題の間に通常引かれる境界線の基礎である。
第3章の前半は「である」と「べきである」の根本的な論理的な違いについて、後半は主として組織と民主的な政府の運営にとってこの2つの言葉の違いが意味するところについて扱っている。この区別は政策と行政管理の関係についての議論において中心的な役割を果たしている。しかし、誰が組織の中で基本的な目標つまり基本的な「べきである」を決めるのかという根本的な疑問は、公的組織だけでなく、民間企業や民間非営利組織の経営(management)でも問題となっている。
純粋に「である」の集合だけからどんなに注意深い推論を行なっても「べきである」は得られない。世界が実際にどうであるかという知識の集積は、それだけでは世界がどうあるべきかを示しはせず、我々の事実を超えたある価値の提案が必要となるからだ。我々が組織の目的などにおいて「べきである」という観念を持って思考を始めると、その時のその「べきである」は後の結果に影響を与える。一方で、その「べきである」は普通すでに完全に事実的要素と混ざり合っている。「べきである」の価値提供はその先に有望な何らかの事実があるであろうということを意味している。ある目的の価値について思考する場合、その目的が目指す、もっと基本的な目的を示すこと、あるいは前の目的の達成が後の目的の達成の手助けになるという確信を示すことによって、その目的の価値は守られる。そしてその連鎖の終わりは美徳や真理といった最終的な価値になるであろう。そしてこれらの考え方は「である」と「べきである」の違いの混乱を一掃しうるかもしれない。
「事実前提」(factual premise)という用語は、経験的に正しい記述を意味するのではなく、確信(a belief)、つまり事実の主張を意味する。この主張には証拠があるかもしれないし、ないかもしれない。人間の意思決定はこうした確信を利用するが、それは世界が本当はどうであるかを述べていないかもしれないし、いるかもしれない。我々は真実であっても虚偽であってもこうした確信を「事実前提」と呼ぶ。
この100年間でのテクノロジーの急速な役割の増大は、普通の人が行う多くの重要な決定の中で鍵を握る技術的な問題についての正しい判断を難しくした。そのため、我々はそういう技術の専門家に判断を委ねることを求められるがそれに誤信(fallacy)があることは明らかである。我々は結果の計算だけでなく、価値の選択も専門家に任せないで決定を完全に彼らに委ねることはできないからである。第3章では公的組織におけるこの問題の適用について述べているが、それが営利・非営利の民間組織にも当てはまるため、ここでコメントを付け加える。
事実と価値の区別によって民間組織は2つの疑問を投げかけられる。(1)組織が目指している基本的な価値を誰が選択し、その選択者はどのようにその選択を実施するのかという疑問。(2)民間組織が掲げる目標と、社会が望む目標との適合性をどのように維持するのかということである。それぞれに対して、次のような答えがある。
第3章において、目的を達するために適切な手段を選択したならば、その決定は正しいという結論に達した。合理的な管理者は、有効な手段の選択に携わるが、管理論の構築においては、さらに合理性の概念について吟味し、特に「有効な手段の選択」が意味することを明瞭にする必要がある。この観念を明瞭にする過程によって「能率」と「調整」の概念が順次明らかにされていくだろう。この章では決定の客観的環境について取り扱う。ここで選択(choice)とはいくつかの代替案の中から一つの代替案を選ぶ(selection)ことを意味する。代替案に続く結果は、代替案ごとに違うので、意思決定の客観的側面における分析は、選択によって変わってくるそうした結果に主にかかわることになる。
事実と価値は3章で述べたように手段と目的に関係している。決定の過程においては、望む目的を達成するのに適した手段であると考えられるような代替案が選ばれる。しかし、目的はたいていは最終的な目的に対する単なる手段に過ぎないことがしばしばある。こうして、目的の系列あるいはハイアラーキーという概念に導かれることとなる。
諸目的がより遠い目的に依存しているという事実からこれらの目的をハイアラーキーに整列させることが導かれる。各階層は下の階層から見れば目的と考えられ、上の階層から見れば手段として考えられる。目的のハイアラーキー的構造を通じて、行動は統合された一貫したものとなる。しかし実際の行動においては、高度な意思的統合はほとんど行われていない。単純に分岐するハイアラーキーの代わりに、意識的な動機の構造は、もつれた蜘蛛の巣(a tagled web; ちなみに、きれいな蜘蛛の巣だと、中心の蜘蛛から同心円状にハイアラーキー的構造になっている)状のような、弱くまた不完全にしか互いが結ばれていない各要素のまとまりのない集合体である。さらに、これらの要素の統合はハイアラーキーのより高い階層、すなわちより最終的な目的に近づくにつれて、次第に弱まる。手段と目的のハイアラーキーは組織の行動の特徴でもあり、組織の活動と究極の目的との間の結びつきはしばしば漠然としたものとなっている。組織の行動に合理性を残しているのは、これまで記述してきた不完全でしばしば相矛盾するハイアラーキーである。
手段・目的(means-end)のハイアラーキーの観点からの合理的行動の分析は、主に次の3点の注意を払わなければ、不正確な結論を導くこととなるであろう。
手段・目的図式に対して提起されてきた難点は、次の3点である。
行動の主体や組織は非常に多くの代替案に直面しているが、それらは意識に上るものもあればそうでないものもある。決定あるいは選択は、各瞬間における行動の代替案のうちの一つが、実行のために選択される過程のことである。ある期間にわたる行動を決めるそうした決定の一連の系列を戦略と呼びうる。合理的決定の正しさの評価には単に予想された結果のみでなく、その選択された戦略から生ずる結果のすべてが関係してくることは強調されなければならない。決定というタスクは以下の3つのステップを踏む。(1)すべての代替的戦略を列挙すること。(2)これらの戦略の各々から生じる結果のすべてを確認すること。(3)これらの結果の集合を比較検討すること。
ある行動方針を一度開始してしまえば、すでに実行されてしまった部分を完全に放棄するよりは、むしろそれを続けることが好ましいように思われる。この事実によって、個人あるいは組織の行動はその行動方針にコミットしてしまうこともありうる。例えば人生のうち7年間を医者になるべく勉強に費やし、さらに10年間その職業に従事していた人が、医者であるべきかどうかを決めるために時間をさらに使うようなことは通常あり得ない。他の職業につくという代替案は、これまでずっととってきた戦略においてすでに行ってきた投資によって事実上閉ざされている。投資してきた時間が各瞬間において、個人が考慮すべき代替案の範囲を狭めていることはたしかに合理性の必要条件である。
意思決定における知識の機能は、代替的戦略のどれを取ればどういった結果が生ずるのかを特定することである。知識のタスクは起こりうる結果の全集合から、より限定された結果の部分集合を選び出すこと、あるいは各戦略と相関している結果の唯一の集合を選び出すことである。行動している主体は行動から生じるであろう結果を直接知ることはできないが、ある行動が異なった結果をもたらすことは、短い範囲の時間内と限られた種類の範囲内だけで生じうる。
2人以上の個人が含まれている場合、各個人は自分以外の行為の結果を独自に予測するために、他人の行為がどのようなものかしらなければならない。このことは経営の意思決定の全過程において重要な要素である。競争的な状況にあるときであれば、常に相手の結果を互いが予想しあうため、結果として生ずる行動のシステムは非常に非確定的な性格のものとなる。反対に2人またはそれ以上の参加者が共通の目的を共有し、他の人が行おうとしていることについて各人が十分な情報を持っていることで各人が正しい決定を下せる場合、結果として生ずる行動のシステムは安定的なものとなる。これをフォーマルに述べると、協働的なパターンでは参加者は両者とも同じ一連の結果を求め、各参加者がほかの者の行動を正確に予測するならば、両者ともこれらの結果が確実になるように行動する。競争的なパターンでは、第一の参加者にとっての最適の結果は、第二の参加者にとって最適なものではない。それゆえ、第一の参加者が自分の求める結果を実現することは、ほかの参加者を失望させることとなる。たとえば、市場の法則は安く買い入れ高く売ることにあるが、もし買い手が安く買えば、売り手が高く売ったということはありえない。協働なパターンでさえも、もし各参加者がほかの者が何をしようとしているか予測できないならば、不安定となることもある。ここでは目的間の対立ではなく、不完全な知識が問題である。
意思決定における第3の要素、すなわち諸結果間の選好を定める過程は価値付け(valuation)と名付けることができるだろう。各戦略に対して、独自の結果の集合が対応している。合理的な行動には選好の順序に従って諸結果をリストすること、さらにそのリストで最上位にある代替案に対応する戦略を選択することが含まれる。
競合する価値の間の個人の選択は一群の無差別曲線によって記述することができ、これらの曲線は、起こりうる結果のどういう集合が互いに等価値であるのか、すなわち選択において「無差別」であるかを示したものである。
ここまでで「手段・目的」の区別は、事実と価値の間に区別に対応していないことがあきらかとなった。手段・目的連鎖(means-end chain)とは、価値とそれを実現する状況を結び付け、同様にそうした状況とそれを生み出す行動とを結びつける予期の系列である。この連鎖の中ですべての要素は、手段と目的のどちらにもなりうるが、それは連鎖の価値的な側との結びつきと連鎖の行動的な側との結びつきのいずれかが問題となっているのかによる。手段・目的連鎖におけるある要素はそれが連鎖の行動的な側に向かっているのであれば、その要素の手段としての性格が顕著であると言えるであろう。逆にその要素が行動の結果を記述しているものならば、目的の性格が優勢と言える。代替案を評価する心理的行為は、実際には、価値自身の実現の観点からなされている。たとえば、貨幣はそれで購買できるものの価値の指標となってくる。これらの価値の指標は、重要な事実的要素を含んでおり、高い価値指標という特徴を持つ代替案は、それに対応して高い価値を所有するであろうと仮定されているからである。もし手段・目的関係をこのように定義するのならば、それは価値と事実を明確に区分していないこととなる。なぜなら同じ行動が結果として2つ以上の価値を持つこともあるからである。
合理性を定義するには多くの複雑性をはらむが、これらを避け明瞭にする唯一の方法は、「主観的に」や「意識的に」など適切な副詞と連結して「合理的」という言葉を用いることである。
知識とはある行動をとることによって起こりうるすべての結果のうち、実際にはどの結果が生ずるのかを発見するための手段である。知識が選択の過程の一部である限りにおいて知識の究極の目的は、各々の行動の代替案の結果として生じる唯一単独の可能性を発見することである。もちろん実際にはこの目的は不完全にしか達成されない。 このように行動の諸結果に関する知識は選択に対する一時的な影響力とみなされる。第2の影響力は行動している個人が持つ他の結果の集合と比較された上での、ある結果の集合に対する選好にあることが認められる。選択の問題とは諸結果を記述し、それらを評価し、それらを行動の代替案各々と結びつけるというものである。手段と目的は事実と価値に完全には対応していないが、手段・目的連鎖は行動からその結果として生じる価値に至るまでの一連の因果的に関連した諸要素として定義された。この連鎖における中間的目的は価値指標として役立っている。そしてこの価値指標を用いることによってわれわれは代替案を、そこに内在している最終目的あるいは価値を完全に吟味することなしに評価することができる。代替案という考えは、相互作用する個人の持つ価値と彼らの共同行動の結果との関係から行動パターンが競争的であるか、協力的であるかを決める。行動パターンにおける不安定性はそのパターンが競争的であるとき、またはこのパターンの中の参加者それぞれが他者の行動を予測し誤った時に結果として生じるということが分かった。最後にいくつかの定義が合理性の様々な意味、すなわち客観的、主観的、意識的、意図的、組織的、個人的の意味を区別するために定められた。
第4章と第5章は人間の合理的な意思決定を扱う。このコメンタリーでは、なぜこれらの章が合理的な行動に関する内容で占められており、また合理性の限界(the limits of rationality)を強調したのかについて説明する。
社会科学における合理性の扱いは分裂状態にある。一方の極では、経済学者が全能の合理性が経済人にあるとしており、他方の極には、すべての認知を情動に縮減しようとする社会心理学の傾向がある。経済人は、完全かつ矛盾のない選考体系を有する。そのため、彼にとって開かれている代替案の中から選択することが常に可能である。さらに、それぞれの代替案の詳細を完全に理解しており、最適な選択のための計算の複雑さに関する制約はない。この理論の多くは、トマス主義的な洗練状態に到達し、知的かつ審美的な魅力を備えるようになった。しかし、生身の人間による実際の行動や可能な行動との関係はほとんど認められない。後者の極に見られる傾向は、フロイトにさかのぼる。これまでの行動学者は、人間は自分で思っているほどには合理的でない、ということを示すことに励んできた。だが、次世代の行動科学者は、経済学者が主張するほどの合理性は有していないものの、自分たちが記述しているよりは、人間ははるかに合理的であることを示す必要がある。
組織における人間行動の大部分は合理的であることが意図されていることを組織の観察経験のある人間は理解する。組織における多くの行動はタスク志向的で、しばしば目標達成に有効である。それゆえ、組織における人間行動に心理学的な説明を与えるならば、合理的な行動の位置付けに関して正しい判断を下す必要がある。また、組織での合理性は経済人がもつような全知全能なものではない。つまり、単に心理学をとり出して捨て去り、経済学的な基礎の上に組織の理論を据えることはできない。人間の行動が、合理的であろうと意図されているも、その合理性が制約されている現実世界にこそ、組織と管理の真の理論が成り立つ場所が存在する。
最後に、組織における行動は合理性が制約されているという主張は、行動がいつも組織の目標を実現する方向に向けられているということを意味しているわけではない。個人は、彼自身の目標達成を進めるためにも合理的に努力するが、そうした個人の目標は組織の目標と全面的に調和しているわけではない。さらに、しばしばそれに反するものでもある。くわえて、組織内の個人やグループは、しばしば、かれら自身の目標や、かれら自身が思い描く組織のあるべき姿を達成するための力を得ようとする。組織理解のためには、こうした行動様式や合理性の目標の全てを、われわれが描き出す像に含め、人間の利己性やパワーを求める闘争を含める必要がある。人々が非合理的にふるまっているというとき、一般的には、以下のようなことを意味する。かれらの目標がわれわれの目標ではないということ。かれらが妥当ではないもしくは不完全な情報にもとづいて行動しているということ。かれらが行動の将来の結果を無視しているということ。かれらの感情が判断を曇らせ、感情によって注意がその場限りの対象に集中されていること、などだ。かれらの行動が、不可解で説明できないほど、あきらかにランダムであるということを意味していないことが多い。合理性は意図されているが、制約されている。
合理性には、いくつかの異なるタイプがある。ある目的に役立つならば、合理的と見なしうるのか、それとも意図的な目的をもってなされたときなのか、それとも、より厳密な基準で意図的かつ意識されたものであるときのみなのか。これら全ての種類の合理性は組織で見出される。多くの行為は意識的かつ意図的に始められるが、それ以外の多くの行為の基礎となっている目的や理由は、その行為者には知られていないこともある。ある行為者がきわめて意図的かつ意識的に、ある手続きを開発したとしても、それは時が経ち習慣的なものになるかもしれないが、同じ効用と目的を維持する。習慣やルーティンは、そうした目的に有効であるだけでなく、希少でコストのかかる意思決定のための時間と注意を温存する。そのため、組織の活動(または個人の活動)の大部分は、確立されたルールやルーティンに従って進められるが、短期間もしくは長期間のインターバルを経て再検討される。そうしたルールやルーティンの確立は、それ自体が合理的な決定である。組織的意思決定における合理性を語るときには、そうしたルールやルーティンおよびそれらの確立過程を含める必要がある。組織で習慣やルーティンが大きな役割を果たしているために、組織行動を意思決定の術語で記述するのは適切ではないという主張は誤りだ。ルーティンそれ自体は一度きりの決定が具現化したものであり、それを特定の環境で適用することは、それがしばしばルーティンな決定であるとしても、一つの決定である。ルーティンをとりあげるときには、それをつくり出す過程やそれ自体に疑問を向け、再検討し、定期的に改訂することを導く過程にその分析を向けるべきだ。意思決定する(もしくは意思決定しない)機会を決めることそれ自体が意思決定過程の鍵となる要素である。
人間行動についての日常の思考において、人は理性と感情をしばしば対極のようにとり扱う。感情が、人の行動を合理的であることから妨げており、合理性が、人の真の感情を表現することから妨げている、といった表現だ。この一般的な見方に存在する真実の程度を確かめるために、感情の機能および感情が行動において果たしている役割について吟味しなければならない。人間は、他の複雑な生物と同様に、同時には一つ、もしくはごくわずかのものごとしか意識的に処理できない。より多くの注意がタスクに求められるほど、より一つのことに集中するようになる。しかし、一日の間、とりわけ長い時間間隔の間に、多くのニーズに目を向け、多くの目標を達成しようと努めなければならない。注意を特定のタスクに配分すると同時に、あるタスクがリアルタイムな緊急性をもって現れたときに、注意を迅速に切り替えることを可能とするようなメカニズムをもたなければならない。モチベーションと感情はこうした注意の配分を担うメカニズムである。感情は、外的な刺激に直接的に関連付けられているとともに、過去の経験によって貯蔵された記憶の特定の内容とも関連付けられている。刺激があらわれたときや、そうした記憶が出来事や思考によって呼び起こされたとき、関連付けられている感情が生じる。こうした感情は、これまでに注意を払ってきたことを妨げ、それらの感情を呼び覚ました状況や思考に注意を縛りつける。感情と理性の間には、本来的には対立するものはない。感情はモチベーションの主要な源泉であり、特定の目標に集中させるものである。そして、感情に喚起された目標に、思考という大きなパワーを向けることができる。とり組んでいるタスクを妨害するように感情がかき立てられ、つまり感情が合理性を別の目標に向けたときもある。ある主題について真剣に考えること、とりわけ私達の思考の妨げに抵抗することができるためには、強力なモチベーションの力で注意を固定することが必要である。しかしながら、感情が強烈なときには、注意の焦点は非常に特定された、おそらくその場限りの目標に狭められ、あるいは行動の前に考慮した重要なことがらを無視してしまう。この場合、感情は理性の反対に位置することになる。しかし、そのように評価を下す際、慎重に行なう必要がある。別の環境のもとで、非常に複雑な問題を解決することやきわめてむずかしい状況へ対処することにわれわれが集中できるようにしているのは、同じような想念の強さだからである。特定の目標およびその実現手段に注意を保つことによって、行為をそうした目標に向けて方向付ける助けとなる力として感情を考えることが、組織における経営や意思決定との関係で感情を考えるためのもっとも有益な方法である。感情が理性とともに働くのは、それが広範で恒久的な目標に結び付くときである。逆に、感情が理性と対立して働くのは、それが過度に意思決定をせき立て、決定過程で考慮がなされる可能性と結果の範囲をあまりに狭くするようなときである。
一人の孤立した個人の行動が高い合理性を持つことは困難である。なぜなら、探索しなければならない代替案が非常に多く、またそれらを評価するために必要な情報もあまりに膨大であるからである。したがって、個人の選択は、選択の主体に受容された前提によって定められた限界内でのみ適応的となる。この前提は、主体が選択可能であり、意図的な修正も可能であるため、ある程度高度の統一性と合理性は達成されうる。この章では、
を述べるなかで、組織によって、個人が客観的な合理性にある程度近づくことができることを明らかにしていく。
客観的な合理性とは、行動する主体が、(a)決定の前に行動の代替案を概観し、(b)個々の選択に続いて起こる諸結果の複合体全体を考慮し、(c)全ての代替案から一つを選び出す基準としての価値システムを用いる、ことによって、みずからの全ての行動を統合されたパターンへと形づくることである。しかし実際の行動は、
ために、客観的合理性には及ばない。
人間は、自分を取り巻く状況について断片的な知識しか持っておらず、現在の知識から将来の結果を導き出す規則性や法則についてもわずかな洞察しかできないため、合理性は制限されているといえる。合理的な選択は、重要な間接的影響が存在しない範囲において、実現可能となる。
予測された喜びが、実現した喜びと異なったものであることは、よくある経験である。これは単に結果の予測ができなかったことによって生じるのではなく、選好の変化とともに重きを置く価値が変化することによる。それゆえ、評価の正確性と一貫性は、想像した結果におけるさまざまな価値要素を突き止め、予測の場合にも実際に経験する場合と同じような重みをそれらの諸要素に与える能力を、個人がどのくらいもっているかによって、制約されている。
実行可能な行動全てのうち、思い浮かぶのはほんのわずかにすぎず、想起されない行動に伴う結果は評価の段階に達しない。
人間は、動作の結果を観察し、望む目的を達成するために動作を調節する。これを学習能力(docility)と言い、人間行動と同様、高等動物の行動において特徴的なものである。
しかし、動物の学習能力と人間の学習能力との間には極めて顕著な差異がある。(1)人間は、他の選択をした過去の経験から、今直面している特定の選択の性質についての何らかの推測が行える。(2)コミュニケーションにより、学習において人間は動物よりはるかに大きな利益を得ている。人間は、実験的な方法の利用、知識の伝達、結果の理論的予測によって、比較的わずかな経験を広範囲の事柄の決定に対する基礎として役立てることができるため、思考および観察を著しく節約することが可能となっている。
過去と同様の問題が起こったとき、記憶によって、過去に集められた情報や当時達した結論の蓄積を利用することができる。人間は、必要になったときすぐに記憶を引き出せるようにするため、さまざまな連想法や人工的な道具に頼っている。
習慣は、意識的な思考の領域から繰り返し生じる状況の側面を抜き出すことによって、同様の刺激や状況に対して適切な行為をもたらした決定を意識的に再考することなしに、同様の反応で対応することを可能にする。記憶と同様、習慣にも、ステーネ(Stene)によって「組織ルーティン」(organization routine)と名付けられた人工的な組織上の対応物がある。組織の中で頻発する事柄を、受容・承認された慣行を参照することで解決するようになったとき、その事柄は組織ルーティンの一部になったと言える。ただ、環境の変化によってその習慣的反応が不適切となった場合に、その反応が起こるのを防ぐために意識的な注意を必要とするという事実は、組織にとって重大かつ広範な含意を持っており、詳細に考察されなければならない。
特に比較的複雑な行動においては、行動の代替案や知識および予測される価値が注意の焦点に入り込むための躊躇の時間が存在し、特定の側面に注意を向けさせる刺激によって決定がなされる。この決定の多くは習慣化されたもので、通常は非合理的ではない。多くの刺激が同時に存在して注意へと向けられているとき、刺激の気まぐれに選択をゆだねるのではなく、意識的な選択が競合する「価値」の間で合理性を成すことが必要である。
合理的な活動としての管理行動の研究は、組織全体の観点から見て、選択を引き起こす刺激が恣意的でないということを示すことができなければ、ほとんど有用なものとなり得ないと思われる。したがって、決定過程を開始するきっかけとなる刺激がどのように生まれてくるのかを考察しなければならない。一つの広いパターンに行動を統合するメカニズムは、(1)一旦行動がある特定の方向へと向けられたならば、その方向に行動を持続させるようにするものと、(2)ある特定の方向への行動を開始させるもの、の2つのグループに区別できる。前者の大部分は内的なもので、心理学の問題である。後者の大部分は外的なもので、他者によって喚起されることでそのメカニズムが経営組織において中心的な役割を果たすこともありうる。
注意や行動は、いったんある方向へと起動されると、かなりの時間にわたってその方向に持続される傾向がある。その第1の理由は、活動は同じ方向に活動を持続することを有利とさせるなんらかの「埋没費用」(sunk costs)を生じさせることが多いことである。第2の理由は、活動それ自体が、注意を活動の継続と完成に向けさせるような刺激をつくり出すことである。第3の理由は「段取り」(make-ready)費用である。その仕事を遂行するための準備に時間がかかっており、その仕事から他の仕事へと転換するのにも時間がかかるために、一つの仕事を持続することが有利になる。
統合を可能にするメカニズムの作動の結果生じる行動のパターンに目を転じると、この過程は3つの主要なステップを含む。
実際にはこの過程は階層化したステップの全体を含んでおり、ある一般的な段階における決定は、その下のレベルのより詳細な決定に対する環境を提供している。
厳密な意味で決定が将来に影響を与えられるのは、
の2つの方法においてのみである。
を選択することによって、ある問題についてのそれ以降の全ての決定を導く決定がなされる。こうした事前の決定が注意の枠組みを決定し、その注意の枠組みによって特定の選択状況に心が反応する。この狭い注意の枠組みのおかげで、選択を「その場で」行う場合よりも、はるかに合理的な選択が可能になる。
計画立案に含まれる心理的な過程は、選択の一般的な基準を選ぶことと、そのほかに特定の状況への適用によってその基準を特殊化することから構成される。全ての代替案からただ1回の選択をする方法は、最終的な決定が最良のものであることを保証する唯一の手続であるが、全ての可能な計画が十分に練り上げられていることが求められるもので、実際にはこのような手続きを取ることは不可能である。これに対して、実行可能性が高いと考えられる代替案の比較により計画立案を行う手続は妥協的なものであり、この手続によってもっとも「妥当性の高い」計画だけが詳細に検討される。
個人に対する組織の影響には、2つの主要な種類がある。
組織は、人間の合理性の達成の土台となるものであり、個人は決定に際して、自分の属する組織化された集団の影響を受けなければならない。
組織は、そのメンバーの活動に調整をもたらす。調整には、個人の目的及び中間目的と、組織の他の部分の目的との関係、彼及び集団の他のメンバーが取りうる代替案に対する個人の評価、他者によってとられるであろう行為のコースに対する期待、の要素が含まれている。
管理論の中心的テーマは、人間の社会的行動における合理的側面と非合理的側面との境界にある。管理論とは、意図されているが同時に限定されている合理性に固有の理論であり、最大化できるような理性を持たないために、満足化をはかる人間の行動についての理論である。
第4章で扱った経済人を、第5章における経営人、すなわち我々が日々の生活で認識している、限定された合理性を持つ人間へと変えていくためには、2つの重要な改変が必要である。
経営人は、最大化よりも満足化をはかるので、すべてのありうる行動の代替案を最初に調べずに、比較的単純な経験則に基づいて選択できる。単純化は誤りを導くかもしれないが、人間の知識及び推論の制約に直面すれば他の現実的な代替案はない。しかし、経営人モデルが管理的意思決定の正しい描写であると、我々はどのようにしてわかるのだろうか。限定された合理性を持つ経営人が用いる意思決定メカニズムは、我々自身の判断過程についての内観的知識(常識)と非常によく適合するだけでなく、人間の決定過程について研究してきた心理学者及び組織・経営研究者によってなされてきた、人間の決定過程についての大多数の観察と適合している。限定された合理性と満足化という概念を支持する大量の証拠を持ってすれば、第4章と第5章の人間の合理性についての記述の多くの特徴は検証されてきている。
合理的な人間の意思決定についての相当に精密で経験的に検証できる理論を構築できるようになったと同時に、ゲーム理論や統計的決定理論の進歩により経済人についての形式的理論化の復興が精力的になされていることは少し皮肉である。合理的期待という近代経済学の仮説は、ゲーム理論と密接に関連している。合理的期待の基礎にある考え方において、すべての意思決定者は経済システムの真の均衡水準についての正確な知識を有しており、また他のすべての意思決定者が均衡水準についての同じ知識や信念を有していることを仮定し、すべての行動者がそうした知識や信念に基づいて未来についての期待を形成し、意思決定をする。ゲーム理論も合理的期待のどちらも、現実世界に直面した意思決定者の実際の知識や計算力の厳しい制約を考慮に入れておらず、限定された合理性の理論から導かれる方向とは全く反対の方向に進んでいる。
意思決定についての経験的研究によって、意思決定過程における三つの基本的な要素が古典的理論において欠如していたことが明らかになった。第一の欠落は、どのような決定がどのような特定の時間になされるかを定めるアジェンダを設定する過程、二番目は、注意を向けるように選ばれた問題についての表現を獲得もしくは構築する過程、三番目は、意思決定者がそこから選択する代替的行動を創出する一連の過程である。
古典的理論では、同じ組とされた諸決定は、それぞれの時点で次々になされると仮定されていた。しかし、現実の世界では、利用できる注意はタイムリーな行為が要求されるものに向けられなければならない。すなわち、アジェンダを設定したり改訂したりする過程が存在しなければならない。
新しい決定の機会が生じたときは、決定すべき問題の表現が発見されなければならない。アジェンダの項目を解決できる形式に整えられれば(定式化できれば)、その問題を解決する方法を知っていると言えるが、おそらく今日においては、アジェンダ設定の過程よりもこの問題形成のメカニズムについての方が十分に知られていないだろう。問題の表現は、問題それ自体のように、おのずから我々に提示されているわけではない。それらは、我々がある状況をよく知っている種類のものであると再認した時に記憶から掬い上げられるか、または選択的な探索を通じて発見される。そもそも問題を定式化することそれ自体が問題解決タスクである。現実に即した問題の表現についての理論の開発は意思決定研究のアジェンダの上位に置かれなければならないことは明らかだろう。
合理的経済人の理論の特徴として、代替案のすべてが所与であることが挙げられる。しかし、実際はどんな組織においても、ありうる行為の代替案を発見することに大きな労力が割かれる。代替案を発見するためには、すでに存在する代替案を探索する場合と、存在しない代替案を創造し設計しなければならない場合がある。近年の認知科学の研究によって設計の過程について多くのことが教えられた。どんな問題解決過程においても、我々は一つの目標もしくは目標の組を、見込みがありそうな解決策に適用するための基準として定式化する。設計には、見込みがありそうな解決策を作り出すジェネレータが必要である。探索している問題の表現について知れば知るほど、探索を方向づけるためのより多くの情報を抽出することができ、探求はより効率の良いものになる。
意思決定過程におけるアジェンダ設定、問題の表現、代替案の発見、代替案の選択などの副次的な過程は、決して「線形的」過程(順序の決まった過程)ではなく、新しい状況が生じ新しい事実が発見された時の柔軟性に対してなんの障害も与えない。
見込みのある解決策を合成するための良定義のジェネレータの集合が存在する時、問題は良構造であると言える。こうした特徴が欠けていくほど、問題は悪構造化する。不良定義の問題を解決するために使われる基本的な過程は、「直観的」「判断的」「創造的」な過程が含まれており、良定義を解決するために使われている論理的、分析的な過程とは全く異なると主張されることがある。しかし、実際これらの過程は異なっていない。「直観的に」、極めて素早く、かなりの精度と正確さで反応する熟達者の能力は、蓄積された知識及びそれによって可能となっている再認による問題解決の産物である。直観、判断、創造性は、基本的に再認能力の現れであり、経験と知識に基づく反応である。分析と再認は、熟達者の行動において多くの要素が密接に混ざり合っている。
「論理的」意思決定対「直観的」意思決定という論争は、『経営行動』の初版の出版以前から存在する。出発点の一つは、チェスター・バーナードによる「日常の心理」(『経営者の役割』の付録)というエッセイである。
バーナードのエッセイの中心的な主題は、意思決定を行うための「論理的」過程と「非論理的」過程との対比であった。経営者は、科学者とは対照的に、秩序だった合理的分析に基礎付けられて決定を行うような余裕がないことがしばしばであり、決定することが必要な状況に対する直観的もしくは判断的な反応に大いに依存している、というのがバーナードの主張である。「論理的」な意思決定においては、目標及び代替案は明示的になっており、異なる代替案を追求した結果が計算され、そうした結果がどのくらい目標に接近したかという観点から評価される。「判断的」な意思決定においては、決定に対するニーズへの反応が、通常はあまりに急であるために、そうした状況を秩序立てて順次分析をしている余裕がない。さらに、その意思決定者は、その決定に到達した過程や、その決定が適切であると判断した理由について、大抵は説得力のある説明をすることができない。それにもかかわらず、意思決定者は、自分の直観的な意思決定の正しさに強い自信を抱き、そうした決定を素早くできる能力を自らの経験によるものだと考えているようである。バーナードは、こうした非論理的過程の大部分は、知識と経験によって基礎付けられていると感じていた。『経営行動』における理論は、「論理的」な意思決定のみならず、直観や判断を含む決定にも適用される。判断的及び直観的過程がどのようなものであるかについて説明していく上で、合理的過程と直観的過程が非常に異なっており、それらが脳の異なった部分において実行されているという、「二つの脳」仮説について述べる。
「分離脳」についての生理学的研究は、意思決定には二つの質的に異なった種類(分析的なものと直観的または創造的なもの)があるという考えを助長してきた。この二分法の主要な証拠は、(右利きの場合)右半球が視覚パターンの再認において特別な役割を果たしており、左半球が分析的過程や言語の使用において特別な役割を果たしているというものである。しかし、そうした生理学的な証拠が、どちらかの半球が独立に問題解決や意思決定、または発見をすることができることを含意しているわけではない。二つの異なった思考様式についての証拠は、日常の出来事において素早く的確な判断や妥当な決定に到達している時には、体系的理論を行なった兆候がなく、結論へと至った思考過程が報告できないというバーナードの観察にある。
認知科学や人工知能研究によって、我々の専門技能についての理解が非常に深まってきた。
管理者が、分析もしくは直観によって自分が決定するべきとわかっていながら、難しい決定を先送りしてしまうことがある。先送りを引き起こす要因はなんなのか。
こうした不愉快な意思決定状況すべてに共通しているのは、ストレス、すなわち行動を理性の要請からそらせてしまう強力な感情的力である。それらは、管理者が明らかに非生産的なやり方で振る舞うような事例でしばしば見られる。こうした種類の行動は、注意深い分析や計算がない反応を表しているという意味において「直観的」である。しかし、学習や経験をもとにした熟達者の直感とは異なる。熟達者の「非合理的な」決定と、ストレスがかかった感情が作り出した非合理的な決定を混同してはならない。 要するに、管理の「分析的」スタイルと「直感的」スタイルを対照することは誤りである。直感と判断は、習慣へと固定化された分析や、状況の再認を通じた素早い反応能力へと凝固した分析であるに過ぎない。すべての管理者は、問題を体系的に分析できる必要があり、また長年の経験や訓練により直感と判断の修練を得て状況に素早く反応できる必要がある。管理者らしく振舞うということは、あらゆる管理スキルに熟達し、適切な時にいつでもそれらを使えるということである。
個々人が持つ目標と組織の目的との関係を考え、組織が各構成員に与えるインセンティブと、それに対する構成員の貢献の均衡を考察する。
個人の組織への参加を考える時には、組織は、各構成員に与えるインセンティブと、そ れに対する構成員の貢献が均衡状態にあるシステムとみなすことができる。個人は組織の目標が個人的な目標に沿う時に、構成員として組織に貢献する。この貢献には直接的な貢献・間接的な貢献の2種類がある。直接的貢献とは、組織の目標そのものが個人的な価値を持つ場合の貢献であり、教会等の宗教組織が代表的な例である。間接的貢献とは、組織への貢献の見返りとして個人が何らかの報酬を組織から得る場合の貢献のことをいい、企業の従業員による貢献が代表例である。この場合の報酬は大きく次の3種類に分けることができる。
また、組織は通常、これらのモチベーション・タイプのうち一つに支配されている3グループから構成される。そのグループとは、顧客、企業家、従業員である。顧客はA、企業家はB、従業員はCのタイプの誘因を見返りに組織に貢献し、一つのグループの貢献は他のグループの誘因の源泉となる。誘因に対する貢献の総量が必要量を満たすような組織は存続・成長し、満たさなければ組織は縮小・消滅する。
こうして誘因以外にも、貢献のタイプ、統制のタイプでも組織参加者は分類される。
顧客は、製品の産出という組織の目標を個人的な目標として、その製品の見返りに金銭をもって組織に貢献する。この金銭が、企業家・従業員の貢献への誘因になる。ここで特徴的なのは、顧客は組織との永続的・継続的な関係を想定せず、特定の製品を手に入れるための契約に基づいて行動しているという点。 政府組織の目標は、組織の最高統制機関である議会と市民にとっての個人的な目標である。ここでは、企業のケースと同じように、顧客に該当する議員たちが政府組織に資金を提供している。しかし、議員たちは組織に対して最終的な法的コントロールを持っており、彼らの「個人的」とされるモチベーションは選出された代表者としての立場を踏まえたものである、という2点において企業における顧客のケースとは異なっている。ボランティア組織では、組織目的は構成員の貢献を確保する直接的な誘因になる。ボランティア組織の経営は以下の3点で問題が起きやすい。
これらの点において、ボランティアは金銭提供の代わりに組織奉仕をしているが、企業組織の顧客と多くの特徴を共通で持っている。
組織の存続のためには、顧客が組織維持に必要な貢献をしてくれるに足る魅力的な目的を持たなければならないので、組織の目的は顧客の価値の変化に常に適応する必要がある。しかし、顧客への迎合が全てではない。組織目的は、その完遂によって個人的価値を満たされる内部の人間の影響も受け続ける。目的の修正は、組織参加者の利害の妥協から生まれる。
このように、従業員等の構成員が組織に参加するインセンティブには多様性があり、組織の目的に対する忠誠心に価値を置く者や、組織の成長に価値を置く者など様々であることがわかる。組織目的の機会主義的な修正はしばしば組織内において論争を呼ぶことになる。組織の決定を下す支配者集団は自由に組織を方向付けられるわけではなく、組織が与えるインセンティブに対して十分な貢献を得られるような均衡の達成に配慮しなければ組織は存続しない。
組織存続を第一に目指す支配者集団は、次の2方法で支出するインセンティブと得られる貢献のバランスを取ろうとする。
政府機関においては顧客すなわち立法議会が支配集団である。立法議会や有権者の嗜好や目的は常に変化し、公的機関に対する立法議会のコントロールは受動的なことが多いため、企業組織の均衡とあまり変わらないといえる。営利組織と同じように、支配集団は組織目的を、資源の自由な動員を通じて最大限に達成しようとするので、能率は公的組織において基本的な基準になる。
いくつかの点で一般的な企業組織とは異なる。
以上のように、全組織形態に共通してインセンティブと貢献の均衡メカニズムが存在することがわかる。そしてそのすべてにおいて能率は経営上の選択の基本的な基準となる。能率による選択の定義とは、同じコストがかかる2つの代替案ならば組織目的の達成度が大きい方、同じ達成をもたらす2つの代替案ならよりコストが少なく済む方を選ぶことである。
組織は金銭や努力の形で貢献を受け取り、その見返りとして誘因を提供する均衡によって成立する。その誘因は、組織目標それ自体、組織の維持と成長、これらとは無関係のインセンティブがある。このような均衡は組織の支配者集団によって維持されるが、多岐にわたる個人的な価値達成への配慮をもってはじめて組織は存続できる。
ここでは、前半は、「動機」「目標」「制約」そして決定プロセスにおいてそれらに期待される役割の区別について、後半は、組織が自らの従業員に一般的に提供する仕事の環境の類、そして組織で働くことが従業員の個人的な動機と生活にいかに相互作用するかについて、の二つの主要なトピックについて議論する。
第6章では、組織の存続と成功が組織目標と二つの種類の個人的な目標(組織の成長と成功に付随した報酬の獲得、賃金とそれらにあまり付随しない他の報酬の獲得)という点から議論された。組織の目標、つまり財やサービスの生産は、顧客にとって直接的な利害であり、株主にとって個人的目標の第一カテゴリー(組織の成長と成功に付随した報酬の獲得)、従業員にとっては第二カテゴリー(賃金とそれらにあまり付随しない他の報酬の獲得)である。このことから、組織は個人の利害の多様性を利用して一つの共同的取り組みを形作ることがわかる。組織の目標を決めるのは、所有者とトップの管理層の動機がもとになっていると考えられるかもしれないが、実際は彼らの動機とは完全には合致せず、全ての階層の管理者と従業員によって修正されている。しかし、後者の動機によって組織の目標が決まるといえるわけではない。ではどういうことか。
事例で考えてみよう。最適食餌を導くにあたり、その目標は
など様々だ。また、1を制約条件として考えよりよい2を選ぶこともできる。このような状況下では決定状況は単一の目標で描写されえないため、目標の全体の集合、つまり意思決定者が達成しようとする栄養上および予算上の制約の集合について話す方が理に適っている。この事例を組織に当てはめまとめると、次のようになる。実社会における意思決定状況においては、行為のコースが受容可能であるためには、全ての要求の集合あるいは制約の集合を満たさなくてはならない。ときにこれらの要求の一つがとり出され、その行為の目標としてみなされることがある。しかし、多くのなかから一つの制約を選び出す場合は、そのほとんどが恣意的である。多くの目的のために、要求の全体の集合を行為の(複雑な)目標とみなすことは、はるかに意味がある。この結論は個人と組織の両方の意思決定に当てはまる。
満足のいく行為コースの解を探す上で、目標(諸制約)は、
に使われ、牽引役を果たす。集合の中のどの代替案が発見され選択されるかは、どの要件が代替案を生成するものとして提供され、どの要件がそれらをテストするものとして提供されるかに依存する。例えば飼料メーカーと家畜農家において。飼料メーカーは出来るだけ安く作ること(コスト削減)を目標にするかもしれないし、最高品質の飼料を作ることを目標にするかもしれない。しかし両方に制約があるため、その飼料がメーカーと農家の両方の要件を満たすとき売買が成立する。しかし、メーカーは高く売りたいし農家は安く買いたいという、明らかに異なる目標を持っている。一方別の意味では、両者は明らかに共通の目標を持っており、完全競争の極端なケースでは制約によって実行可能な集合は両者が交換する財の量と価格を唯一に決定する一つの点へと絞り込まれる。(しかしこのケースはほとんどの現実の生活の状況は当てはまらないため、通常は実行可能な集合の中の別々のポイントを示すものになることが多い。)
動機には個人的関心とプロフェッショナルとしての関心の二種類存在する。プロフェッショナルとしての関心は役割によって定義され、役割によって定義される目標と個人的目標は分離される。これは人間の限定された合理性と一致し、人は環境を関数として一つの役割から他の役割へシフトする。その能力により、人は役割に合った目標と制約を記憶の中に蓄積し、役割行動を定義する意思決定プログラムの一部を形作る。しかし、この役割行動における個人間の差異は大きく、組織に与える影響も大きい。
行動を個人の要素と組織の要素に分解することで、コミュニケーションの流れとともに全ての参加者の意思決定プログラムを組織の意思決定システムへと合成できる。専門化された役割につく人々が組織の意思決定に参加するとき、各人によってコミュニケーションや環境・探索プログラムが異なるため、人々の知覚が差別化されたり下位目標が形成されたりする。在庫と生産をコントロールするシステムを考えたときに行われるのは、
で、この決定の三つの集合は異なる役割によって作られる。しかし実際は上位階層によって撃的な単純化ののち概算ベースで決定が行われ、下位階層で行われる特定の詳細な決定に対する制約として提供されている。このようにして、組織の部分同士の緩やかな結びつきによって多くの種類と特定の制約がサブシステムに課され、意思決定メカニズムが実行されている。
個人の誘因と貢献のシステムはメンバーや存続を確保するための制約を組織に課す。一方、組織の意思決定システムに組み込まれた制約は、考え出され採択される行為のコースに課される。組織が存続に失敗する原因は、組織の意思決定システム内の制約のなかにいる全参加者の、動機付けにかかわる関心を取り込むのに失敗するためだ。しかし、組織の行為が参加者にとっての誘因と貢献の好ましいバランスを維持するのを制約が保証しているという点で、二つの制約の集合には強い経験的つながりがある。目標は組織の意思決定プロセスが存続と消滅のどちらに向けられているか、から導き出されるべきだ。
決定は制約の全ての集合を満たすような行為コースの発見であり、一つではない。満足のいく行為のコースを定義する制約の多くは組織の役割と関係している。組織の意思決定システムは、多様な参加者の誘因と貢献を反映している制約を含むので、組織の存続を目指すものとなる。「組織の目標」は上位階層の役割を定義する制約と探索の基準を示し、部下はそれに自らの選択を合わせる。
組織の存続と成功は、組織のタスクを実行するのに必要な貢献を確保するためにメンバーに十分なインセンティブ(金銭・非金銭)を与えられるかによって決まる。ここでは職場の中心にある現在における不満の深刻さや過去の不満との違いについて、特に職務満足のレベルや仕事への愛着や疎外に注目して考察する。
企業に魂を売った経営者(オーガニゼーション・マン)は、企業のために行動するだけでなく、集団のメンバーとして集団に忠誠心を持ち、集団の規範を受容し、集団のプロセスに従って意思決定をする人のことだ。これは、個性を表現し一人で革新を起こす過去の無骨な個人主義に対をなすものだ。しかし、現代においても個人主義者のための場所がないわけではない。現代の個人主義者は社会倫理のいくつかの要素を吸収し、他者と効果的に働くための経営スタイルを獲得している。多くの経営者は仕事で退屈さや満足の欠乏を経験する。職務からの見返りがないと人は主な満足を他の部分に求める。これを疎外されていると言う。ビジネスへのコンピュータの導入で管理者の注意はダウンサイジングとより長期的な関心と人々の管理へ移行したが、仲間や部下たちとの相互作用の本質を変えるものではないので、より高い経営者層ではそこまで変化しなかった。
産業化以前、人々は物質的に貧しかったが、楽しくて挑戦的な職業を得ていたためおそらく幸せだった。産業革命による機械化と分業の影響で、労働者の仕事は個人的特性を失い、非人間的なものになり、疎外された。モノに満ち溢れてはいるが満たされない余暇を手に入れただけだった。
調査結果によると、コンピュータ革命による満足水準の変化に関して、認識できる傾向はないと結論できる。自動化は新たな疎外をつくり出しては来なかった。コンピュータ化への心理的トラウマを示す研究もあったが、新技術そのものではなく変化プロセスの問題とも考えられる。不快感や反発を引き起こすのは、変化ではなく、彼らがなんのコントロールも影響も行使できない変化に服従させられる際の不安と無力な感覚である。ブラウナーの研究によると、労働者の満足は、
2では、不具合が起きた場合のみ介入するバックアップの職務や、工場の改善や新しいオペレーションの導入という長期的問題に従事する職務など、高度なスキルが必要で、機械にペースが決められる仕事はほぼなかったためだと考えられる。コンピュータ革命における変化も2のようにあるべきである。
これについての議論は次章のコメンタリーで行なう。
自動化の目的と経済的根拠は労働者を救うことである。自動化後、生産性の向上が見られ、事務的職業に携わる労働力の割合が下がり、サービス業に従事する割合が上がった。世論調査からは二つの職業の満足度の差はわからず、サービス業もルーチン・ワークが多く、実際の職務満足への貢献はわずかだが、ほとんどのサービス業は人間との接触が多いため、肯定的で人間化されたと捉えられることが多いと考えられる。
ネットワーキング技術の広がりにより、在宅ワークや共同業務が促進されたり、ハイアラーキーがコミュニケーションチャネルの全体システムにおいてあまり重要な要素ではなくなってきた。これらによって新たな独自の課題も生まれた。在宅ワークについては、顔を合わせながら相互作用することができる環境と遠隔環境のどちらが好ましいか、ハイアラーキーについては、トップマネジメントがリーダーシップをいかに維持するか、についてだ。
経営者と労働者の職務からの疎外について、産業革命に端を発する長期的トレンドの可能性とコンピュータ導入によってもたらされた過去40年の短期的なトレンドの可能性を考察してきた。産業革命以前にも労働者にとって黄金時代など存在せず、また今日の労働者と40年前の労働者の職務への満足度は同等である。そしてこれは経営者の満足についても同様だ。疎外の主な原因は、仕事が産業化されたことではなく、人々が生活のために働かなくてはならないこと、そして職務が興味をそそるほど複雑ではなかったということである。高度に自動化された職場はより人間的な環境であるかのように見えるため、自動化は仕事の満足の向上に対して穏当な貢献をするだろうと切に希望している。ネットワーキングによる未来の職場が従業員の満足にとってどのようなものになるかを予測するのは極めて困難である。
第6章までは個人が組織のメンバーになるプロセスを論じてきたが、第7章以降は組織がいかにして個人の決定に影響を与えるのか、という問題を論じていく。個人に対する組織の影響とは、組織によって個人の決定が決められることではなく、個人の決定の土台となる価値前提や事実前提のいくつかを組織が個人に対して決めることであると解釈される。そして、集団において各人の行動を合致させるためには調整が必要となる。そういった影響力を行使するやり方の一つとして、この章では権威の役割というものについて論じていく。
部下が代替案を選ぶための自分の批判能力をいったん保留にし、自らの選択基準としてその命令やシグナルを受諾するとき、権威という。実際に権威が行使されるときには、命令だけでなく提案(suggest)や説得(persuade)という形がとられることも多く、その用語の細かな違いはあるものの、何らかの確信のもとで批判的な論評や熟考なしに提案が受け入れられる状況を生み出すという意味で、広く「権威」として捉えられている。権威の概念は複雑であり、実際の命令がなくとも、部下が上司の期待を予期してその通りにふるまうことによって権威が行使されるパターンも存在する。そのため、この研究では、権威を上司の側から見た制裁の観点で捉えるのではなく、それを受諾する部下の観点から定義している。
部下が、こうした権威の行使を受諾する誘因として正負の広い意味で「制裁」と呼ばれるものが存在する。例えば、自らの役割を引き受けなかった場合に感じる社会的な非難や、組織としての共通の目的(目的達成のために命令の受諾が有効である場合)、上司と部下の個人間の関係性、命令への服従による職位や利益の維持、といったものがそれに該当する。また、組織の目的や自らの利益に無関心な場合も、他者の決定を受諾することの誘因になりやすい。こうした権威について考える際に最も重要なことは、部下は行動の選択に関して「受諾圏」を確立するということである。この受諾圏の範囲内においては、部下は上司による決定を進んで受け入れ、受諾圏外では代替案の検討などにより受諾するかが判断される。この受諾圏内における受諾は、部下が代替案に対して無関心であるとき(多くの人は自分で決定するよりも、すべきことをはっきり告げられることを好む)もしくは、望ましくない選択をするほど制裁が強い場合に行われる。個々人の受容圏の規模は、例えば不明瞭な目的しか持たないボランタリー組織では狭く、制裁が非常に厳しい軍隊などでは広くなる。
権限の行使は、集団内での調整された行動を確保する手段として用いられる。権限は
という特に注意が必要な3つの機能を持っている。一つ目に、権限の責任は代表的なものとして、民主主義国家におけるハイアラーキーに関わる。特定の社会において、その内部のハイアラーキーと、そこに法的な責任を持たせるメカニズムを分析するには、権限と責任の問題は中心的なテーマとなる。二つ目に、専門家を組織において権限を行使できるポジションに置くことで、専門化された知識の利益を得ることができる。こうすることで、専門家は技術的知識を確保する形での決定を行うことができる。三つ目に、権限の行使によって決定機能を集権化することで、全メンバーの行動を統一することができる。
権限の行使に際しては、部下に対する命令の一元性が維持されず、権限の対立が生じる可能性がある。それらを回避するために、権限のハイアラーキーの中でいくつかの解決方法が一般的にとられる。
改めての確認となるが、権威という用語は、あくまで部下による上位者の決定の受諾を意味し、不服従の際に制裁を適用するための上位者の権力を意味するものではない。
権限は、個々の参加者の行動を支配する関係である公式組織を作り出す。ただ、実際に組織をうまく運営する際には公式組織の枠組み通りにはいかないことが多い。実際は、公式的枠組みとは合致しない個人間の関係である非公式組織を伴うことにより、公式組織はうまく運営されるようになる。
組織において、合理的規範からかけ離れるのかを説明するために心理的命題が必要になる。したがって、権威のシステムによって支配されている限り、個人の行動に心理的な側面は反映されない。もちろん、上司と部下の心理的な働きが、権威の行使の程度に影響することはあるが、実際に権威が受諾される限りは、心理的問題は部下の実際の行動にとっては全く重要ではない。つまり、心理は他の環境要因と同様に、管理をする上での条件として入り込むという理解が正しいと考えられる。
組織における権限の行使は、これまで長きにわたり議論が繰り返されてきたトピックである。本章では、公式権限が組織からの疎外を引き起こし自己実現を妨げる程度、労働者の満足と生産性向上のための意思決定に従業員が参加する可能性、権力欲が組織の正常な活動に及ぼす影響の3点について考察する。
通説として、組織に関する主要な問題は人々に権限の行使と受諾を強制する点であり、権限が人間のパーソナリティー発達を阻害するという批判が存在する。さらに権限の受諾は依存と受身の態度を喚起し、自己実現を妨げるとされる。組織での権限の受諾は、個人が行動基盤の一部として他の組織メンバーから提示された前提を受容することを意味する。ここで人々が自身の行動に対する権限の行使を受け入れる理由には、賃金その他の外的報酬および生産物の社会的価値が認められることによる内的動機など様々なものが存在する。このもとで大多数の人が権限を屈辱的とみなし、依存と受身の態度を人々に植え付けると仮定するのも無理はない。しかし実際は、周囲の環境が適切な程度の構造・要求を提供する際、人々の創造性が最大限発揮される。いわば、より多くの自由がより多くの創造性を生むとは限らないのだ。さらに言えば、組織は人々の欲求を満たすための適切な手段であり、それが権力に対するものでない限り権限の行使は特段問題を引き起こさない。近年組織の権限に対し提示される疑問は、社会的関心の対象が達成や親和から権力に移行している現れと言える。我々の大多数は生涯において権限を弱めることが絶対的に望ましいとみなしている。そのもとで現代組織は専制的で創造性を抑圧するものだと批判する人々は、以下2つの前提に依拠している。
上で述べてきたことは1への反論である。また2に関しても留意すべき点がある。大多数の人は組織を手段的システムすなわち「社会の財やサービスを生産し、従業員に対して、もともとはかれらに残された余暇時間のなかで満たしていた楽しく満足のいく生活をもたらす手段を提供するシステム」と認識している。よって2が真の意味で成り立つのは一部のプロフェッショナルについてのみである。彼らは、自身の価値観が当然全ての人に共通すると考えないよう努めねばならない。現行の組織構造をむやみに批判するのではなく、組織の改善方法を探ることと両立して、社会的手段として提供される組織の主たる職務遂行のための組織能力を強化することが重要である。そしてこの能力の強化において必要不可欠なものの中に、雇用関係およびそれに伴う権限も含まれるのである。
意思決定プロセスにおける従業員参加拡大のアイデアは、近年組織行動についての研究および改善策として提示されてきた。通常なされる主張は、参加は従業員の満足と生産性両方を向上させるというものだ。しかし莫大な実証研究から導かれる結論としては、参加は満足を向上させるものの生産性に対して一貫した効果は見られない。動機付けと認知の両面から、参加が生産性を向上させるという主張を検証する。動機付けの面では、参加は従業員の生産性向上を含む組織目標への一体化を促進し、努力向上、問題解決欲求喚起などを通じて生産性を向上させると仮定する。また認知的側面では、労働者はその管理者が知らないある種の情報を持っており、意思決定への参加が品質その他諸々の問題解決に有益であると仮定する。これが基礎的メカニズムを形成するためには、2つの必須要件が存在する。
これは一般的に成り立つと言えないことは明らかであり、また参加の成功はその運営方法および貢献可能な従業員の見極めの有無に左右されることも容易にわかる。そしてこれらの要件が満たされない以上、参加が生産性を向上させるとは言えない。参加は職場の「民主化」や、権限のハイアラーキー弱体化を招くものではない。従業員が参加に対しモチベーションを示す絶対的証拠があるのは、自身の個人的目標達成に影響を与える賃金その他雇用問題に関してのみである。これらは労働者と組合、取締役会間の問題になるが、本書の焦点から外れる。
権力は、個人の目標達成のための手段として、そして同時にそれ自体への欲求を個人に喚起する。権力への欲求は、行使する側と行使される側の対抗関係において如実に現れる。組織における最大の懸念は逆機能的結果である。これは特に権力思考の世界で生じやすい問題であり、組織の成果よりも支配者が誰であるかが重要な問題としてみなされ、競合する集団間のマイナス感情が飛躍的に高まることを指す。そしてこれは権力のみならず、相互依存システムとの相互作用から生まれる。組織に関する古典的問題は、タスクの完遂とこの逆機能的結果の回避あるいは緩和との両立である。いわゆる「人間関係学派」は権限関係を強調しないことでこの問題に対したが、組織に有効に働く役割の軽視という代償を払った。別の方法として、欲求の向く先を権力から達成と親和へとシフトさせることが考えられる。権力および権力への欲求は絶対的に腐敗するものであり、従来支配する側とされる側双方の腐敗を引き起こすことは歴史から見ても明らかである。社会集団内のあらゆる立場の個人が持つ権力そのものへの潜在的欲求を刺激することなく、権限が組織目的達成の効果的手段として活用されるような環境を作り出すのが管理上の重要なタスクである。
コミュニケーションとは組織のあるメンバーから別のメンバーに決定の諸前提を伝達するあらゆる過程であると定義できる。コミュニケーションは組織に必要不可欠であり、どのようなコミュニケーションの技法が用いられるかによって意思決定機能をどのように組織内に分配すべきかが決まる。ある個人が特定の意思決定をすることについてそれが許されるかどうかは、
の2つのポイントにかかっている。また組織におけるコミュニケーションは、二方向の過程があり、
の2つがある。決定に必要な情報はしばしば組織の様々な場所で発生する。意思決定の機能を配分するための単純な方法は、組織の各メンバーに彼らがそれに関連する情報を持つ決定を割り当てることである。しかしこれには基本的な難点があり、それは一人の個人が、特定の決定に関連する全ての情報を持ち得ないことである。
公式と非公式のコミュニケーションの関係性は、組織においてコミュニケーションの公式システムを常に非公式なコミュニケーションの経路が補っているという関係性になる。
公式のコミュニケーションの手段としては、口頭のコミュニケーション、メモ及び書状、ペーパーフロー、記録及び報告書、マニュアルがある。
非公式のコミュニケーションは上述したように公式のコミュニケーションを常に補っており、そのシステムは組織メンバーの社会的な関係に基づいて作り上げられる。組織での個人の行動が組織の目標のみならず、個人の目標も目指していたことに鑑みると同じ組織内のメンバーと個人的に付き合う時には、相手方の態度や行為が組織の動機よりはむしろ個人の動機によって左右される範囲を査定する必要がある。時に非公式のコミュニケーション・システムは組織メンバーの個人的目的を進めるのに用いられるが、これによって派閥(clique)が生じる。派閥はコミュニケーションの非公式ネットワークを築き上げ、これを組織の中で権力を獲得するための手段として用いる集団のことである。そして派閥間の対抗はしばしば敵意を生み出し、非公式のコミュニケーション・システムの目的をくじく。派閥のように個人的なモチベーションがコミュニケーションに影響を与えることは別のことにおいても起こる。
情報の発生源から組織のその他の部分へ自動的に情報は伝達されないことに密接に関わっており、情報を得た人がそれを伝達する際、その伝達がもたらす結果を考え、悪い影響をもたらす場合は伝達せず、情報をおさえこむ。情報伝達がなされるのは次の3つの場合であることが多い。
したがって管理階層の上部の1つの主要なコミュニケーションの問題は、上部での決定に関連する情報の多くが下部で発生し、経営者が異常に用心深くない限り上部まで決して到達しないことにある。逆に上司が部下に伝達しない時に生じる問題もあるが、これは部下がその情報を必要とすることに上司が気づかないといったような偶発的なものであることが多い。
ここまでコミュニケーションの源泉について扱ったが、その受け手についても注意を払う必要がある。コミュニケーションの源泉とそのコミュニケーションが提示される仕方によって受け手がコミュニケーションにどれだけ考慮を払うかが決まる。ただ、それだけではなく受け手の心理状態、態度、モチベーションもコミュニケーションのデザインを決める基礎要因になっている。つまりコミュニケーションが効果を発揮するためには、道理を説き、弁じ、受け手の心や行為に何かを入れ込むよう説得する必要がある。
経営者のコミュニケーション業務の多くは自身が行う必要はなく、オフィスのスタッフ・アシスタントに委譲することができる。委譲できるものの中には外部に出されるコミュニケーションの起草、入ってくるコミュニケーションの取捨選択及び連絡事務のような業務も含まれる。
またコミュニケーションは組織において極めて重要なものであるため公式の「記憶」貯蔵手段を発達させている。これは組織が大きくなれば特定の情報収集機能を担う部署ができるなど、専門化は進んでいく。組織の持つ唯一の記憶はその参加者たちの記憶の寄せ集めであるが、
以上の2つの理由から組織は人工的な「記憶」を必要とする。人工的な「記憶」の手段としては、記録システム、通信文及び他のファイル、書庫、フォローアップシステムなどがある。
組織の決定センターに必要な情報は内部情報のみならず、外部情報もある。しばしば外部情報を確保するための部門が置かれることがあるが、その際の問題点として受け入れる情報が組織の中の適切な場所に速やかにかつ便利に使える形態として伝達されるように、それをおくことができるかというところにある。これは結果としてその機能がどこまで専門化されるべきか、どこまで現業部門間に分権化されるべきかというような問題を生じさせる。内部情報の調査に関しても同様に部門が置かれているが、そうした部門の機能は広げられてきている。その結果、二重命令、二重の権限システムを生み出してしまうという問題が発生することがある。しかしながら経営者にとっては内部調査、検査をする部門がどんな問題を起こそうとも利益になることが多い。なぜなら経営者は内部調査の部門を通じて全く上部に伝達されないような情報も獲得することができるからである。
経営における訓練の役割は、組織メンバーに決定の諸前提を伝達する代替的な手段の一つとして考えるとき、最もよく理解される。訓練の手続きには@その組織の所属する前に受けた訓練A訓練の方策としての日々の監督B公式の訓練の3つが主にある。多数の新人を短期間に訓練するには、公式の訓練が適している。公式の訓練の問題点は訓練される集団内に受容の態度を確保することで新人の場合は問題にはならず、既にかなりの期間にわたって職務を遂行してきた従業員の場合、深刻な問題になりうる。こうした従業員に対しては、会議方式を採用することが有効でそれは教員の「教える」役割を最小限にし、かつ新しいアイデアが集団そのものから生じているという幻想を生むからである。訓練の意義は命令を通じての公式権限の行使が困難とわかる状況において価値が最も大きく、必要な能力を組織階層の最下層の人々に与えることによって意思決定過程の一層高度な分権化を可能にするところにある。
このコメンタリーでは、第8章で触れられていない、コンピュータを利用したコミュニケーションと組織の学習について論じる。
音声認識や自然言語の習得、高水準のコンピュータ言語の構築、自動設計、視覚的パターン認知、そしてロボット工学などは、過去の予測をはるかに上回るスピードで進歩してきた。コンピュータは汎用の情報処理装置であり、人間のあらゆる思考を追随し、それを処理する。それにより、われわれは人がどのように学習し思考するか、そしてそれをより良くするためにはどうすればいいかを学ぶことができる。
情報はそこにあるからといって処理されるものではないし、あればあるほどいいものでもない。しかし人はそうだと勘違いする。新しく拡大されたコミュニケーション・チャネルによって大量の情報を受けるとことができても、人間というユーザーに処理できる能力がなければ、情報の山から解放されるわけではない。
情報不足は意思決定における本質的な問題ではない。遠い過去においても情報は飽和していた。しかし必要な情報を選択するための原理が欠けていた、つまり、情報から私たちが必要とする部分だけをとり出し、選択的に取り入れることができていなかったのだ。そこで、情報を的確に要約し特徴づけ、一定の規則を見つけたことで、莫大な情報は一つ一つが多くの情報を提供する簡潔な法則に圧縮された。ここに今日における情報革命の真髄がある。
このように、情報伝達技術が発展しつつあるときに最も重要な変化は、機械自体の進歩ではなく、情報がどのように伝達され、どのように記憶や検索のために組織化されうるのか、そして、思考や問題解決、意思決定にどのように利用されうるのか、を理解することを助けてくれる科学の進歩なのである。よって、これからの問題は、組織の人間の情報処理能力を考慮した、ビジネスや行政における意思決定のための効果的な情報処理システムをデザインすることである。
組織において、教育と学習は重要なコミュニケーションである。そしてそれに必要な組織の知識は、ファイルや文書、コンピュータのデータバンクに保存されているもの、メンバーの記憶に蓄積されているものの2つに分類できる。また、組織は知識を事実と手続という2つの形式で獲得しており、ほとんどの知識は日々の活動を制御するプログラムの形(つまり手続の形)をとっている。これらの手続は、従業員の相互の関係にも影響を与える。
組織学習と個人による学習の違いは何か。しかし学習とは個々人の頭の中で起こるため、組織学習は、@組織メンバーの学習によってA組織が今まで持っていなかった知識を持つ人を組織に加えることによってB新しい知識をファイルやコンピュータシステムに導入することによって、の3つの方法しかない。この中でも人間による組織学習において重要なのは、個人・グループ同士での情報の伝達だ。組織における個人の学習は社会的なものなのである。その知識が組織内のどこに貯蔵されているかが明らかになっているかどうかで、意思決定の際に利用できる有用なものになるかが決まる。よってここからは、組織による知識の獲得・保存・伝達の方法に焦点を当てていく。
組織は相互関係を持つ役割のシステムとして捉えられる。また役割は、組織メンバーの行動を構造化する。
大学を例に話をしよう。「教養-専門」教育を強化し、教育実践を革新しようとする大学があるとする。しかし教員が輩出される大学院では専門教育を重視する学問分野が多いため、再教育を継続的に行い続ける必要がある。
組織記憶の多くは人間の頭の中にあり、紙に書かれた、もしくはコンピュータの中にある手続となっているのはほんのわずかである。そのため、人間の離職は組織の長期記憶にとって大きな障害となる。組織記憶は、専門家の知識の記憶システム(索引が付された百科事典の形式)の集合体として描くことができる。人間の専門技術が自動化されたエキスパート・システムに組み込まれることで、組織記憶は個人の離職に対して脆弱でなくなる。
組織の外や組織内の別のポイントで生まれた革新を融合させていくことについて考える。
学習は、既存の文化のなかで利用される新しい知識をもたらすか、その文化自体を根源的な方法で変えてしまうか。人間による問題解決の中でも、新しい問題に対処するための表現をどのように獲得するかはまだそれほどわかってきていない。
このセクションでは認知心理学の諸概念がどのように組織学習の分析に応用できるかを示してきた。組織記憶の内容のうち、最も重要なのは組織そのものと組織目標の表現である。その表現は、組織のメンバーの役割を定義する基礎を与えてくれるからだ。
1930年代になると、組織における人間関係の研究が盛んになり、従業員が組織に参加し、そこにとどまり、組織の目標のために精力的かつ有効に貢献するよう動機づけられるような組織環境をどうやってデザインできるかが関心を集めた。高度に自動化・機械化されたシステムの導入により、人間の仕事はより思考力・コミュニケーション能力が求められるものになったため、組織デザインは情報技術研究とその応用において中心的な課題となり、組織のデザインにとっても情報技術は重要な問題となった。
企業においてサービス提供が主となると、有形のものを生産しているときとは異なった組織問題を引き起こす可能性がある。サービス組織の方が品質を測る基準を定義するのが難しいが、品質を測る際の問題ははるかに大きい。一つの経済活動を「物を生産する活動」と「サービスを生産する活動」に分けて考えるとわかりやすい。サービスを生産する活動は、社会的で外部性が高いからである。だからこそ、脱工業化社会の組織における組織的意思決定は過去に比べてはるかに複雑になっている。
脱工業化社会において中心となる問題は、意思決定をするためにすなわち情報を処理するためにいかに組織化するかである。組織は、意思決定と情報処理システムであるとともに、人間の集合体であるとも言える。これらの2つの視点は共に、健全な組織をデザインするときに有用である。
情報処理システムにはそれ固有の能力の限界があるため、
の2つの要求が組織デザインにつきつけられる。意思決定に関連する情報のほとんどが組織外部で発生するため、組織内のシステムに合う形式に変換するためのインターフェイスを持つ必要があるし、デッドラインのある意思決定のためには特別な準備がなされなければならない。この視点により、情報システムにおける過去の失敗の原因がわかってきた。人々はより多くの情報を集めようとしていたが、分割方法が確立されておらず、注意能力も足りず、インターフェイスも完備できていない状態では手に余るのだ。
今日の組織の主な問題は情報の貯蔵と処理の組織化である。情報処理技術の発展とともに、意思決定過程は合理的なものになった。それと同時に、諸問題を理解し結果を予測できるようになったため、その問題を解決していくための一歩を踏み出す責任感が生まれた。
組織の意思決定において、重要な決定前提として、能率の基準と、個人の組織への一体化あるいは忠誠心が重要である。本章では、能率の基準を主題として取り上げる。
営利組織において、経営者は能率の基準によって意思決定をする必要がある。能率の基準は、個人が利用できる全ての代替案のなかから、最大の純(貨幣)利益を組織にもたらすものの選択を命じる。すなわち、収益と費用の差額の最大化が求められる。営利組織では、産出と投入双方の測定に貨幣という共通要素があり、それによって両者を直接比較できるため、能率の基準は平易である。一方で、産出の金額による測定が通常無意味ないし不可能な非営利組織では、金額で直接に測定しえない諸要因が決定の過程に含まれるため、能率の基準を拡張する必要がある。
営利組織においても非営利組織においても、「投入」要因は主として金額で測定されうる。組織が社会のための費用にかかわるとしても、この費用は組織が購入する財とサービスによってかなり評価されうる。よって、組織の決定における能率の基準は貨幣投入額と産出額で計ることができる。しかし、貨幣投入額と産出額のみで計れない場合も存在する。従業員のサービスの評価の場合には従業員の福祉も考慮に入れる必要がある。また、組織が負担する貨幣費用によっては、投入が正確に測定されない場合も存在する。特に、経済の一般的安定と繁栄が目的の一部となっている公機関の意思決定の場合には、さらにほかの考慮が払われなければならない。
決定における消極価値は、通常、時間あるいは貨幣費用で要約されうるが、積極価値はより複雑である。営利企業においては、産出の貨幣価値は生産の費用(投入)と幾分同じ役割を果たす。一方で、非営利組織の場合は、価値の尺度として、産出された貨幣価値が中立的でないため、それに代わるものが必要とされる。そこで、活動の諸目的を述べること、またこの諸目的の達成の程度を測定する仕様の作成が必要となる。最終目的の達成における管理活動の効果を示す測定値は、いずれも、その活動の結果の測定値であらわされる。
決定に達する際の一つの基本的な問題は、低い費用と大きな結果の間に共通の要素を見出すことである。この2つが矛盾するとき、すなわち管理的選択が、低い費用で小さい結果の可能性Aと、高い費用で大きい結果の可能性Bの間の選択として提訴された時、どのようにして決定がなされるか。全ての管理的決定の基礎を成すのは、利用できる資源の限界−「希少性」−であり、これが、時間と金銭が費用となる基本的理由である。この希少性ゆえ、経営選択は常に、費用は同一であるが異なる積極価値をもつ代替案のなかから選択として考えることができる。Aは、AB間の費用の差額によって可能とされる代替的な活動、を併せ含む第3の可能性Cによって置き換えられるべき、となる。選択は、一定の資源を代替的な活動B及びCに用いることによって得られる結果の比較の問題になる。能率の基準は、一定の行動にとって代替的な諸行動から得られる結果の最大値に対する、当該行動から得られる結果の比である。能率の基準は、一定の資源の使用から最大の結果を生む代替案の選択を命ずる。
経営の指針としての「能率」に対する批判は多い。しかしそれらは、ここで定義している定義とは異なる能率の定義を引き合いに出しており、ここでかかわるに及ばない。能率を「節約」ないし「支出削減」と等しいとみなす能率批判などがこれにあたる。
経営者、行政管理者が自由にできる資源の投入は厳しく限られている。彼らが用いうる限られた資源を効率的に使って、管理の諸目的を最大限に達成することが彼らの役割である。能率の基準によって意思決定がなされる場合には、それぞれの代替的可能性に関連する諸結果の経験的な知識を持つことが必要である。能率の基準は、経営状況の分析によって計ることができ、分析にははっきりした段階が少なくとも4つ存在する。最高位の段階では、結果、すなわち機関目的の達成が測定される。こうした結果に貢献するのは、経営的遂行の諸要素である。これらの次位に、努力で測定される投入がある。最後に、努力は貨幣費用で分析される。これは生産関数として1組の方程式で表される。
以上のことから、意思決定課程の事実部分は、結局、経営活動の生産関数の決定になると言える。こうした関数についての知識はまだ断片的であるが、経営決定の形成において合理性がいかに重要な役割を果たすかを計るためにも、生産関数の経験的研究は不可欠である。
機能別化は、組織目的の従属的な諸目的への分解を伴う。従属的な諸目的の一つあるいはそれ以上が、組織単位のそれぞれに割り当てられる。そうして、機関内の課や局の階層に対応する機能や目的の階層が存在する。一般に、諸機能の階層的配列は、手段・目的の関係に一致する。有効な機能別化にはいくつかの前提条件がある。まず、一般目的は、それと手段・目的の関係にある従属的な諸目的に分解されなければならない。さらに、活動の技術が、それぞれが主として一つの従属的目的に、一つの従属的目的だけに貢献するように、機関の業務を異なる諸部分に分割できるようでなければならない。
機能別化の価値として、組織単位の活動が明確な特定の目的を目指しているとすれば、その組織単位での意思決定問題は、それだけ単純化される。代替案を比較考量する際に考慮されるべき価値要素は、全て組織目的に関連づけられうる。他方、機能別化の限界として、組織において目的と活動が対応していない場合、目的の単なる構成要素への分解は無意味となる。また、機能別化が技術的に非現実的であるならば、機能別化は質の低下を招く。それは、組織単位の活動によって影響されるが組織目的の記述には含まれない価値が、意思決定過程で無視されるからである。
「地域」別および「顧客」別専門化は、実際は特定の種類の機能別化に過ぎない。もしそうであるならば、それらが成功するには、有効な機能別化の諸条件を満たさなければならない。まず、目的と同様、機能の系列にしたがって業務活動を分割することが技術的に実行可能でなければならない。また、これらの分割された業務活動は、その特定された機能に関係のない価値に多大の影響を与えてはならない。
統治の立法的及び行政的決定過程を改善するための有力な手段は、予算文書である。公共予算課程の真髄は、それが、一定期間に使われるべき全ての支出に対する包括的な計画の採択を要求することである。しかし、もし予算が能率の統制のための用具として用いられるべきなら、現在の手法は相当改善される必要がある。
典型的な行政予算は、次年度にそれぞれの部門が支出を許される額と、その使い方を述べる。しかし、予算に見られる特定の数値の決め方はコミュニティによって大きく異なり、支出の合理的配分の根拠とならない。
もし予算編成が支出の合理的配分の根拠として役立つべきであれば、長期予算は現在の不十分な文書に代えられなければならない。現在、実際には、政策の基礎的な決定は、立法機関によるその政策の検討のどんな機会もないまま、予算の検討を託された機関の技術者たちによって行われることが非常に多い。しかし、政策の大部分の立法的宣言はサービスが達すべき十分な水準を述べることなく行政府活動の諸目的を述べるため、技術者らが事実的根拠に基づいて結論を得ることは不可能である。それゆえ、現行の手続きは、政策決定への十分に民主的な統制を保障するとは言えない。予算の方法が改善されれば、(1)政策形成機関と行政管理機関の一層有効な分業が可能になり、また、(2)社会的生産関数と、意思決定におけるその重大な役割に注意が集中する。
第9章では公的組織よりもビジネス組織の方が結果を測定することが容易であると議論してきた。それはビジネス組織には「利益」という最終結果がありそれを測定できるからなのだが、企業の結果測定においても公的組織や非営利組織とは違った困難さが存在する。まず、短期と長期の利益間のトレードオフに関わる諸困難、次に、部門・部署が別々に損益計算書を与えられ利益を追求する場合の部門間の移転価格の決定の困難(これは非常に稀なケースであるが)、さらに利益に対する貢献が間接的な部門が提供するサービスの価格決定のメカニズムの不適切さの困難があげられる。このような理由から利益はビジネス組織の結果を図る唯一の尺度とはなり得ない。
近年CEOがなぜ長期的な利益を無視して短期的な利益を追い求めるのかについて考える。CEOの任期が短く、彼らの報酬が毎年の利益に基づくボーナスの形で支給されると仮定した場合短期の見通しが長期の見通しよりも意思決定において重視される可能性はありうる。一方で株主にとって長期的な見通しが容易であれば全てうまくいくであろう。しかし未来の不確実性は非常に大きい。しかし不確実性は会社の帳簿においては価値をつけられる必要があり、それ自体を見かけ上の確実性と捉えてしまうこともある。このような理由から貸借対照表における株主の資産が将来利益の近似的見積もりとなることはほぼない。今までこの問題に対して効果的な解決法を提案した人はいない。したがってこの問題が組織の意思決定の障害になることは言うまでもない。
一つの組織の下位部門についてその成果が損益という用語でどれくらい適切に評価されうるかは構成要素の相互独立性の程度による。この際考えなければいけない問題は、各部門の距離感についてである。先ほど述べたように距離が遠い場合、各部門の提供するサービスと外部の同じサービスとが競争環境に置かれる。しかし部門間の距離が近い場合、内部の使用者と供給者の間で市場の売買とは異なる価格の決定がされる。もちろん競争的な外部市場があればそれがガイドラインにはなるが、それは市場による価格決定とは異なる。もちろんこれはそれぞれの負債がない状態にしておくという意味においては大きい。部門別の損益計算書は、能率を促進させるという意味では魅力的な方法ではあるがそれは部門間の価格設定が競争市場での評価に基づく場合のみである。しかし部門別損益計算書を採用する場合、様々な環境が部門間の高度な相互依存性を要求する事態に陥った場合には各部門の独立性を創造する魔法はないということに注意が必要である。
能率の基準を適用する上で最も難しいのは、最終生産物ではない活動の成果を評価することにある。これと同じことが管理行動や法律、広告などの、間接的に生産に関与する問題について言える。この問題は1990年代の初頭からアメリカで行われた軽はずみな人員削減に見ることができる。ここでの人員削減はすぐに影響が出ないような人員を対象にする。それによりもし財務諸表上の短期的利益が向上したとしても、規模の縮小による長期的な利益に対する影響は疑わしいし測定にも時間がかかる。
最終生産物ではない活動の成果を評価するという仕事を2つ(あるいはそれ以上)に分けることができる。まずは活動それ自体を評価する仕事、次にその活動は最終目標に対して価値があるかを評価する仕事である。ここでは研究者の仕事に対する評価について考えてみよう。大学における研究は公の活動であり、それは公的な場に公開されて評価を受けるまで終わらないことを意味する。そしてその研究はそれに続く自分の研究に対する有用性を判断した人によってもう一度評価される。様々な評価者のうち何人かは非常に高いレベルの知識を持っているためその研究に対する評価は妥当な統一見解が得られ、容易に研究の順位づけがなされる。ビジネスにおける管理職と専門家の仕事もある程度公的な活動としての性格を有している。彼らの仕事は出版されるわけではないが社内に公表される。その仕事が目に見えるゆえに仲間たちによる評価が可能であり、能力のレベルが判断される。研究の場合でも短期的な利益が評価されることが多い。ましてビジネスにおける管理職の決定の正しさを長期的に評価しようと思ったら、我々は因果関係の鎖を解きほぐすという難しい作業に立ち返る必要があるしその是非は将来になってみないとわからない。今まで見てきたようにこれは一つの客観的な基準に基づいて行うには非常に難しい判断なのである。
活動の質に対する直接的な測定以上のことをしようとした場合に、評価が非常に繊細であることをよく表している例として第二次世界大戦前後にアメリカで行われたマラリア・コントロール活動がある。戦争直前にマラリアは絶滅し欠けていたが、戦争中海外で多くのアメリカ兵がマラリアにかかった。この活動は彼らが帰国して新たな伝染病を国内に持ち込むのを危惧したものであり、公衆衛生局はこれに対してマラリアを媒介する蚊を殺すために殺虫剤を用いた。この活動を評価する尺度として感染者数と蚊の個体数の二つの尺度があった。当時は技術的に感染者と死亡者のデータは信頼できるものではなかったため、衛生局は成果の基準を罹病率と死亡率から蚊の個体数に変更した。衛生局は5億ドルを投下して蚊の数を減少させたと示したが、その行動とマラリアの撲滅の関係は謎のままだった。このケースにおいてより優れた統計があれば正しい政策決定ができたかは定かではない。このケースで欠けていた重要な情報は戦争直前にマラリアが絶滅し欠けていた原因と、感染した軍人による新たな伝染病が発生する可能性についての情報だった。これに匹敵する不確実性はビジネスの意思決定においても普通のことである。投資に対する短期的な収益率の測定が可能であったとしても、外部環境が自社のビジネスに与える長期的な影響や、自社ビジネスの価値の変動、新たな設備投資に対する他社の取りうる短期的戦略、会社の内部で使われる指標の有効性など、評価にまつわる諸問題は山積みなのである。
第9章では、能率の評価が組織の全ての決定の評価になることを示した一方でとりわけ公的機関の活動の場合能率の評価が非常に難しいということも指摘した。このコメンタリーにおいてはこうした難しさがなぜ私企業内の諸活動の能率の評価にも及んでいくのか、ということを示してきた。
組織の目的は、初めのうちは権限の行使によってその組織の参加者に課せられるが、次第に参加者が組織への愛着・忠誠心を獲得するにつれて大部分が内在化されていく。 このように、組織が参加者に役割を割り当て参加者がそれに従う中で、参加者は個人としてのパーソナリティとはかなり異なる「組織パーソナリティ」を獲得する。役割や仕事の割り当てと組織パーソナリティの創造により、参加者が組織での決定においてもとづくべき価値・事実・代替案があきらかになる。
決定の「正しさ」は、二つの異なった見地から判断されることが知られている。広い意味では社会の一般的な価値尺度からみて望ましいかどうか、狭い意味では自身の(もしくは組織から割り当てられた役割における)効用や利益の最大化の観点からみて望ましいかどうかである。社会の価値と各組織の価値の区別は、次に正しさの第三の概念として、社会から正しいとされる決定と組織から正しいとされる決定の一致の程度へ注目することにいたる。社会が社会に存在する様々な組織と価値を一致させようと試みるのと同じように、企業あるいは政府の大組織は、構成部分である部門や局などの組織目標を全体としての組織目標に一致させようとする。しかし、全般目的につねに完璧に合致する従属目的をつくることは難しい。そのため参加者は、特定の部分的目的には合致しても組織全体としてのより広い目的には合致しない意思決定を行なってしまうことがある。
意思決定は組織ではなくメンバーである人間が行なっているにもかかわらず、所属する組織と全体とのバランスを調整することなく、単に所属する組織の効用を計算する「経済人」であるかのように振る舞うのをよくみる。この現象を説明するには、個人の決定と組織の決定の区別をあきらかにしなければならない。バーナードは、人が組織のメンバーとして行う決定は、その人の個人的な決定とはかなり異なることを指摘している。組織に参加するかどうかはその人の個人的な考慮によって決められるが、参加を決定した後のその組織における行動を決定するのは個人的な考慮ではなくなる。つまり参加者の決定における「正しさ」の基準として、組織の価値尺度が個人の価値尺度に代わっているのである。
この現象を名付けるために「一体化」という言葉を取り入れることとする。ここでは「人が意思決定を行うときに、特定のグループにとっての結果の観点からいくつかの代替案を評価するとき、その人はグループに自身を一体化している」とする。一体化の現象の説明に寄与するいくつかの要因を挙げる。
一体化は、決定の環境をつくるための重要なメカニズムである。これが誤っている場合には、社会と各組織の間もしくは組織全体と各部門の間の価値の乖離によって能率に損失が生じてしまう。それに対して組織の構造がよく考えられている場合には、一体化によって組織に参加する人々の決定を支配することを可能にする。特定の目標に自身を一体化している経営者は、能率(投入した資源と比較しての目標が達成された程度)よりむしろ十分性(目標が達成された程度)の観点から評価する傾向がある。しかし、経営決定の基本的な基準は、能率の基準でなければならない。十分性の問題を能率の問題に置き換えるのに、予算手続きは最も重要な手段である。
効果的な組織化の一つの主要な問題は、一体化の心理的な諸力が、正しい意思決定を妨げることなくむしろそれに貢献するようなやり方で活動を専門化し細分化することのようである。ある機能に責任があるひとに、その機能と他の機能の重要性を比較考慮する責任を託することは健全ではない。それを任せるべきなのは、両方に責任のあるひとか、あるいはどちらにも責任のない人である。しかし、これは人々が所属する組織に完全に一体化するであろうことを前提としている。社会の価値と組織の価値との間の選択に直面する経営者は、組織の価値を優先させるとき多かれ少なかれ良心の痛みを感ずる。したがって、経営者の決定を支配する一体化の領域を、ある程度まで広げうることが望まれよう。観察によれば、経営組織の階層が高くなるにつれて、内部業務の重要性は外部業務(組織外の人々との関係)の重要性に比べて減少する。組織への一体化が有害となりうるのは、こうした組織階層の上部においてである。上部では、新しい経営構造の可能性を評価し、決定が行われる準拠の枠組そのものが作られなければならない。
第10章では組織の一体化に関する心理的な基礎について扱った。しかし、組織の下位目標の形成と下位目標への忠誠心に対する説明において、合理性の限界については強調されなかった。その結果、限られた合理性を扱った「第5章 経営決定の心理学」との密接な関係性に関しては曖昧となったため、本コメンタリー前半で扱うこととする。また後半では、利他主義の心理的な基礎に関する新たな分析を踏まえ、組織への忠誠心と利他主義の結びつきについて議論する。
第10章で議論した一体化メカニズムに関する認知的要素は、以下のように記述することができる。
このようにしてある組織のある部門の意思決定者は、同組織の他の部門員とは全く異なる一連の目標と「世界観」に強く一体化する。この現象を証明する体系的な章はほとんどなく、それを示すことがこの節の目的である。
選択過程には動機的メカニズムと認知的メカニズムが混在しており、それぞれの相対的な貢献度を評価することは有益である。ここで次の仮定をおく。
本実験は、同一の大規模製造会社に勤務している23人の経営管理者を対象として行った。彼らは地位的には同質で「中間管理職」と呼ばれる層の人々であるが、一方で会社において異なる部門(販売・製造・経理・その他)に属していた。そして彼らは、ある中規模の製鉄会社に関するケースを読み、その会社の社長が最も優先して扱うべき問題は何だと思うか、簡潔に答えるよう指示された。その際、実際に彼らが所属している部門の視点からではなく、自身が社長であると仮定して臨むよう指導されている。
「最も重要な問題」として指摘された問題とそれを指摘した者が所属する部門との間には、有意な関係性が観測された。例えば、「販売」を最も重要な問題として指摘した者の83%が販売部門に所属していた。
本実験により、それぞれの経営管理者は自身の日頃の活動や目標に特に関係する状況の側面を、より強く知覚するという仮説を支持することができた。また彼らが自身の部門の視点からではなく、全体的立場から考えるよう支持されていたことを考慮すると、選択の基準は内部化されているということが本実験により示されたと言える。
現在の自然淘汰の標準的なモデルでは、よい人間よりも利己的な人間の方が適応的(速く増える)とされており、この議論は効用関数を利己的な経済的目標で説明する際に使われてきた。しかしこの議論は間違っている。実際は、限定された合理性を考慮した自然淘汰モデルは、組織から「利己的な」報酬を全く期待できないときでも、多くの人が組織への忠誠心によって動機づけられるという考えを支持していると言える。
実際の現代社会では、利己的な報酬は自然淘汰で目標とされる子孫の数と直接的な繋がりはないのかもしれないが、今回はこの議論は控えるとして、通常、利己的な目標の達成が進化的な適応に貢献しているとする。その上で、個々の人間が生存できるか否かは、社会環境に依存している。社会は常に人間の活動に反応し、人間の手助けをする場合もあれば、邪魔をする場合もある。換言すると、社会は人間の進化面での適応性を強化・衰退させる大きな力を持っている。このような社会に依存した生物としての適応性を高める要因としては、個人的な強みや知能に加えて、「従順さ(docility)」が挙げられる。従順であるということは、扱いやすく、そして何よりも教えやすいということだ。進化という観点からは、適度に従順さを持つことは、利他主義ではなくて見識ある利己主義だと言える。
組織の生存可能性や適応性を高めるために、個人の「従順さ」を利用することができる。その方法の1つは、組織のプライドと忠誠心を個人に繰り返し教え込むことである。これらの動機は「われわれ」と「かれら」の区別に基づいている。「われわれ」への個人の一体化は、「われわれ」という単位の成功からその個人が満足感を得ることを可能にする。このようにして、個人の組織への一体化は、物的な報酬などと同様に、個人が組織の目標に向かって積極的に働く動機となる。ここまで、社会的に導かれた集団への一体化に対して自然淘汰が強力な基礎を提供していることを示してきたが、一体化が道徳的に望ましいか否かという判断を示した訳ではない。あくまでも本コメンタリーでの関心は、組織の効率性を促進する集団への忠誠心の存在とその役割を説明することにあり、評価することではない。
本章までの議論の糸をたぐりよせ、それらの糸が経営組織のためのなにかの型を織りなしているかどうかをみるときとなった。本書で展開されている分析の中心にある主題とは、組織がとる行動は、全て現業員(組織の実際の「物理的」仕事を行なう人々)の行動にただ影響を与えることをねらった決定過程の複雑なネットワークだ、ということである。
組織のなかで行なわれる意思決定で、一人の個人の仕事としてなされるものはほとんど皆無である。特定の行為の最終責任はある定まった個人にあるといっても、その決定がなされるに至った様子を研究してみれば、公式および非公式の伝達経路を経て、その諸前提の形成に参加してきた多くの個人にまで達することができるであろう。これら構成要素の全てが確認されれば、公式の意思決定をなした個人の貢献は小さいものであることがあきらかとなる。この、過程という観点からすると、合成された決定を意思決定を行なう個人の立場からみることが、(a)各個人に実際にどれだけの自由裁量の余地が残されるか、および、(b)組織はどんな方法で、各個人が選択する決定の諸前提に影響を与えるか、を理解するのに役立つ。
影響は、一人の人間によって発表された決定が、別の人間の行動の全ての局面を支配するときに、もっとも完全な形で行使される。通常では、影響は、自由裁量の行使に部分的な制限を加えるにすぎない。部下は、「なにを」なすべきかを言い渡されるであろうが、「いかにして」その仕事を実行するかについては、相当の余裕が与えられるであろう。影響一般について、また特に権限について現実的な分析をすれば、影響の行使には、あらゆる明細さの程度がありうることを認めなければならない。具体的な事例において行使される影響もしくは権限の範囲を決定するには、まず部下の決定をその構成部分に分解し、ついでこれらの部分のどれが上司によって決められ、またどれが部下の自由裁量にまかされるかを決めなければならない。第3章において、合理的な決定は、二つの異なる種類の前提、すなわち価値前提と事実前提から引き出された結論とみられることが示された。それゆえ、合理的な人間の行動は、彼にとってその決定の基礎となる価値的および事実的前提があきらかにされるなら、コントロールすることができる。したがって影響は、決定の前提に対するコントロールを通じて行使される。部下の決定は、上司が部下のために選んだ前提と両立することが必要である。権限の範囲、また逆に自由裁量の範囲は、あきらかにされた前提の数と重要性、およびあきらかにされずに残された前提の数と重要性によって決まる。
組織が、その影響力を個人の決定に関連させるようにする方法は、第1章で列挙された。「外的」な影響は、権限、助言と情報、および訓練を含む。「内的」な影響は、能率の基準、組織への一体化を含む。これらのそれぞれは、これまでの諸章で詳細に論じられたので、ここでその議論を繰り返す必要はない。これらの影響力の形態のそれぞれが使用されるべき範囲および方法を決定することは、組織の基本的な問題である。これら影響力のさまざまな形態は互換性が非常に高い。経営者は、近年、次第に次のことを認めるようになった。すなわち、権限は、他の形の影響によって支えられなければ、比較的無力であり、消極的にしか決定を左右しない。もっとも常軌的なもの以外の全ての決定にはいっている要素は、非常に数が多くまた複雑で、積極的にコントロールできる要素はわずかであるにすぎない。部下がみずから決定の前提のほとんどを供給し、それらを適切に総合することができなければ、監督という仕事は救いようもなく難儀になる。この見地からみるとき、組織の問題は必然的に採用の問題と交響してくる。なぜなら、組織のなかで有効に使用されうる影響のシステムは、ハイアラーキーのさまざまな段階での従業員の訓練および能力に直接に依存するであろうからである。もし、監督者の職位にしか訓練されたワーカーが得られなければ、そのとき監督者は、その部下に対する監督をはるかにより完全に行なう必要があり、多分、全ての決定を検討し、頻繁に指示を出すであろう。これに応じて監督の問題は最初の例におけるよりも難儀となり、監督者が有効にコントロールできる範囲はそれに応じてより狭くなろう。したがって、組織の問題は、組織によって設けられた職位を埋めるべき従業員の特性の明細を離れては考えられない。職務分類の全ての問題は、組織の理論とさらにいっそう密接に調整されるようにする必要がある。
合成された決定の過程において、また、さまざまな影響を単一の決定に向けさせることにおいて、決定的な重要性をもつ次の2つの経営の技術がある。これらについてはすでに随所で言及してきたが、組織の全般的な決定構造の一部分としてさらに体系的な議論がなされる価値がある。
計画およびスケジュールは、おそらく、その権限を命令から引き出すので、おそらく厳密には命令と区別できない。それでもなお、この計画とスケジュールは、そのなかに莫大な量の細目を含むことができるために、また、その形成に必要ならば広く参加が得られうるために、決定に影響を与える手法として特別の重要性をもっている。計画立案の手続は、全ての種類の専門能力を、組織のなかの権限の経路によって課せられる困難を全く伴わずに、決定のなかに引き入れることを、可能にする。最終の決定は、確かに権限による承認を受ける。しかし、形成過程全体にわたっては、「命令の一元性」の問題を引き起こすことなく、組織の全ての部分から自由に示唆や提案が流れるのである。このことから、つぎのようにいうことができる。すなわち、計画立案の手続が決定に達するのに使われる範囲内では、公式組織は全過程の最終段階に関係するにすぎない。適切な専門家たちが協議にあずかるかぎり、権限のハイアラーキー内でのかれらの正確な職位は、決定に大きく影響するとはかぎらない。
経営のハイアラーキーにおいて権限をもつ職位にある者は、レビューによって、部下が実際になにを行なっているかを確認することができる。
合成された決定の過程、そして特に組織におけるレビューの方法と機能について、われわれが行なってきた検討は、決定の過程を組織内に最適に配分する方法、および、決定の過程を集権化することによる相対的な利益と不利益、をあきらかにするのにかなり役立つ。本章では、組織のメンバーの能力が、可能な分権化の程度を決める一つの要因となりうることを主張した。一方で、決定の配分において重きをなすべき考慮事項は、すでに論及したもののほかにも存在する。一つは、レビューの機能の行使の仕方と分権化あるいは集権化の程度との間の非常に密接な関係である。レビューは、3つの結果をもちうる。すなわち、
これら3つの要素は、全てさまざまな割合で混在しうるし、また通常は混在している。ほとんど全ての人は、長い目で結果をみるのでなければ、部下に委譲せずにみずから意思決定するのが「より安全だ」と感じる。上司は、さまざまな立場からこの集権化を合理化する。すなわち彼のほうが部下よりも高度に熟達あるいは訓練されている。自分が意思決定を行なえば、自分が望むままに確実に決定することができる。彼がつねに自覚しているとは限らないことは、決定の機能を完全に彼に集中することによって、彼の仕事を増加させ、かつ部下を不必要にしていることである。上司が部下よりも高度に訓練されている場合でも、決定を分権化する2つの大きな理由がある。
結論として、ある程度の集権化は、組織のもつ利点すなわち、調整、専門能力、および責任を確保するために不可欠である。他方で、集権化の費用も忘れてはならず、給料の高い者に、彼らが注意する価値のない決定まで任せることは、機能の重複を招き、不必要な部下を存在させることになってしまう。また、正しい決定のために必要な情報は、部下にしか手にはいらないかもしれず、このような場合に、その情報を上司に伝達することは非常に難しいかも知れない。これらのことが、決定を集権化あるいは分権化すべき程度を決める場合に、考量されなければならない。
近年のアプローチでは、決定の合理性、すなわち、特定の目標の完遂のためのその適切さが、経営の理論の中心的な関心事となっている。経営理論は、人間の合理性には実際には限界があり、これらの限界は静止していず、個人の決定がそこで行なわれる組織的な環境に左右される、という事実から必要とされるものである。個人がその決定において、合理性(組織目標の観点から判断して)にできるかぎり近づくように、この環境を正しく設計することが、経営の仕事である。
合理性への限界を個人の立場からみるとき、それは3つの範疇に分けられる。
したがって、経営理論は合理性の限界を扱わなければならないし、また人が意思決定をする場合に組織がこの限界に影響する仕方を扱わなければならない。
管理者の役割と訓練について簡単に述べることによって、本書を結ぶことが適切であろう。先に示唆したことであるが、「管理的」決定という独特な呼び方ができる決定は、意思決定の過程そのものと関連している決定である。すなわち、このような決定は、組織の仕事の内容を決めるのではなく、その特定の組織のなかで意思決定の機能がどのように配分され、また、どのように影響を受けるべきかを決める。われわれはつぎのことを理解する。組織が構成されるときの管理者の仕事は、
このコメンタリーでは、2つのことについて述べる。
最も早い段階での人間関係の課題は、意思決定への労働者の参加であった。そしてそれによって、参加の労働意欲への影響と、従業員の勤労意欲と生産性の関係についての研究が多く生まれた。
直観は、専門家が慣れ親しんだ刺激によって特徴づけられる状況を素早く認識し、それに反応するということを可能にする。それによって訓練や経験によって構築された大量の知識を利用することができるのである。
異なったタスクや環境は、異なった組織構造を必要とするというアイデアは、一般的に「コンティンジェンシー理論」と呼ばれるが、これに関して精緻な二つの事例をこのコメンタリーの最後で紹介する。
権限の本質や作用に関しては多くの一致した意見があるようだが、権限が組織においてどのように使われるべきか、そして使われるとしたらどの程度が望ましいのか、に関してはいまだに議論の余地がある。
新しく誕生した電子技術は、大抵の工学計算と多くの日常的な事務作業の自動化という側面において、既に組織に大きな影響を与えてきた。
一体化が、有形の報酬と雇用契約がもたらす組織の目標に向けて働くモチベーションを飛躍的に強める、ということがわかった。
組織文化の問題はコンティンジェンシー理論および組織の目標と表現に非常に密接した関係がある。
組織が自分自身を特徴づける仕方を「表現」とした時、適切な表現を見つけることは、新しく成長過程にある組織では協働の達成に特に重要である。そしてそのような表現が、組織の決定過程全体に浸透するまで理解され、広めることを確実にすることが重要なリーダーシップの責任である。効果的な表現とそれを広める効果的な方法は「経済協力局(ECA)」の事例を見ることによって、説明することができる。ECAは、二次大戦後のヨーロッパ諸国の経済支援を行う「マーシャルプラン」を実行する組織であるが、この組織は一度もはっきりと計画されることなく、相応に筋の通った形態を形成してきた。ECAの内部や周囲では、組織の増殖的な拡大や権力闘争が行われたが、この過程こそが急速な適応と有効な組織の展開を達成した過程だったのである。ECAの組織構造は、外国援助問題という複雑性に取り組む人間の精神によって、問題が構造化される仕方の反映とみなすことができる。
短期間の急速な組織の変化を観察すると、環境の力が人間の精神の介在を通じて組織を形作ることがわかる。そして問題を扱う人が、その問題の洞察を深めて継続的に問題を再構築することが、組織それ自体の構造的要素に反映されるということも理解できる。この見方は、組織の再編成にとって重要な示唆を与える。一つ目は、再編成は計画目標を変更することで効率に影響を与えているということである。二つ目は、組織の計画は少なくとも二つの方法で行動に影響を与えていることがわかる。第一の方法は、組織の計画が正式に承認されることで、この計画は正当性の動機付けによって力を持つようになることで、第二の方法は、計画がおそらく行動に影響を与えるだろう、ということである。なぜなら機関が従業員に与える計画の概念図式は、決定と行為の枠組みとして役立つからである。
ここからは、著者が新たなビジネス・スクールの組織づくりを手伝った事例について述べていく。
プロフェッショナル・スクールの教育と研究の目標を達成するための、適切な情報の源は主に二つ存在する。一つは、実務界のものである。それは制度上の環境や専門的な問題を扱うための技能や技術といった情報である。もう一つは、その実務に関係する諸科学の情報や技能である。組織は社会システムに参加することで、蓄積されて伝達される情報や技能を手に入れられるので、ビジネス・スクールはビジネスの社会システムと、関連のある諸科学の社会システムの両者に効果的に参加する必要がある。
プロフェッショナル・スクールは、教育と同様に研究も活発でなければならない上に、その関係する学問分野とともに専門職にとっての信頼できる知的核心を提供しなければならない。
発明は全く異なった二つの知識を必要とする。それは自然法則についての知識と、その法則で何ができるのかについての知識である。しかし研究は全ての範囲を考慮することは困難であるため、科学的知識の環境へと向かい、存在する原料や過程の用途を模索すると良い。ビジネス・スクールは、それを行う科学者にとって魅力的なものにならなければならない。
ビジネス・スクールが、効果的にビジネスの社会システムに参加するための方法としては、ビジネス経験のある教授陣を登用したことや、スクール自身がコンサルタント活動や実地研究を行ったことが挙げられる。特に研究は、応用分野にいない教授たちを、実際のビジネスの環境に近づけるために、重要な役割を果たした。
優秀な科学者をビジネス・スクールの教授陣に採用して、彼らが生産的になるような環境を作ることで、必要な多くの科学的知識を獲得することができる。それを達成するためには、科学者自身の科学的分野への一体化と、その分野による承認に対する欲求を尊重することが必要である。
プロフェッショナル・スクールは、関連のある学問分野を代表する学部の教授たちと効果的な結びつきを持つ必要がある。その方法として、関連している領域の基礎的研究に対して資金を提供することが挙げられる。
ビジネス・スクールでは、科学的学問分野の教授陣・システムと、ビジネスの課題の中で訓練された応用的な分野の教授陣・システムがあるが、これらを分離させてはいけない。この分離状態では、ビジネス・スクールはその教育と研究機能を効果的に実行することができないからである。境界を超えたコミュニケーションを行うことで両教授陣が分離することを防げるが、そのためには研究が有効である。
学問志向と実務志向の教授陣のコミュニケーションの困難さの原因は、科学と技法、分析と総合、説明とデザインの違いから生じている。この組織問題の解決には、総合やデザインの過程の、明白で、抽象的で、知的で、分析可能で教育可能な理論を発展させることが重要である。
ビジネス・スクールを組織するには、学問志向と実務志向の障壁をなくすという困難な目標を達成すること、さらにはそれらが融合した状態を維持することが重要である。組織化は一度限りの活動ではない。これらは事業の持続的な成功にとって決定的に重要な、継続的な経営責任である。
第3章では倫理的なものと事実的なものを区別した。この区別は、経営の科学の本質の説明に役立つ。科学的命題が、観察できる世界およびその世界の動き方についての記述であるのに対し、倫理的命題は、好みの表現である。こう定義する時、経営の諸原則は、科学的命題としての資格があるだろうか。あるいは、それらは倫理的要素を含むだろうか。
科学には、理論的なものと実践的なものの二種類がある。「これこれの事態を生み出すためには、これこれがなされなければならない」。科学的命題がこのように述べられているとすれば、それは実践的である。この命題に対し、「これこれの事態は、つねにこれこれの条件を伴う」という命題がある。これは同じ検証の条件を持つ、全く同等の理論的命題である。これらは同一の事実的意味をもつため、その差異は倫理的な領域にあるはずだ。より正確には、第二の文章に欠けている命令的な性質を第一の文章が持つことにその差異がある。第一の文章は、この命令的な側面が無視される場合にのみ、それが「事実」か「虚偽」か、といった議論をすることができる。 この状況は私たちが決定について妥当すると考えた状況と全く類似する。決定の倫理的要素が排除されて初めて、その決定に対し、「真実」と「虚偽」のことを適用できる。同様に、実践科学の命題は、仮定の形で述べなければ、そこから倫理的要素を取り除くことはできない。 これらの議論から、二つの明確な結論を導き出せる。
経営過程についての命題は、事実という点からそれが真実か虚偽かを断定できるかぎりにおいて、科学的だ。逆にいえば、もし経営過程に関する命題について真実か虚偽かを判断できれば、その場合、その命題は科学的となる。経営についての研究に「良い」「悪い」という言葉が出てくるとき、それが純粋に倫理的な意味で使われることはめったにない。手続が特定の目的の達成に役立つとき、それは「良い」といわれ、特定の目的の達成に役立たないとき、「悪い」といわれる。手続がそのように役立つ、あるいは役立たないということは、純粋に事実の問題で、経営の科学の真の実体をなす。科学は、私たちが利潤を最大化すべきか否かを語ることはできない。科学は単に、どのような条件のもとでこの最大化が起こり、また最大化の結果がどうなるであろうかを語ることができるだけだ。この分析が正しければ、一つの科学の文章と別の科学の文章を区別する論理的な差異はないことになる。どんな差異があろうと、それはいくつかの科学の内在的性質よりもそれらの主題から生じる。
これまでの論議は、社会科学の方法論学者たちの論争に一つの解決を与える。社会科学は倫理的規範を含み、自然科学の持つ客観性を欠くと、しばしば論じられてきた。当為の文章については、真実か虚偽かを断定し得ないことが明らかであるから、この区別は妥当でない。もし、自然科学と社会科学の間に基本的な差異があれば、それは何か他のところにある。もう一つの区別の主張は、皮相的なものとして退けられなければならない。
これらの区別の妥当性はともに認められようが、これらの区別が基本的であるとは考えられない。複雑性は程度の問題で、自然科学で扱われてきたより複雑な現象のあるものが、より単純な社会現象のあるものほど複雑でないかどうかを問うことはもっともだ。実験もまた、真の区別とはなりえない。自然科学で最初に発達した天文学は、その法則の発見に対し、実験室の利益を受けることはなかったからだ。
社会科学と自然科学の間に基本的な差異があれば、それは社会科学が、知識、記憶、および期待によりその行動が影響される意識的な人間を扱うという事実に由来する。したがって、人の行動を形づくる諸力を人間自身が知れば、そのことがその行動を変える可能性がある。このことは、人間行動の有効な法則を述べることが不可能であることを意味しない。社会法則の言明に含まれるべき変数の一つに、その法則が記述しようとする人間行動の、その当人の知識と経験の状態がある、ということを意味するにすぎない。科学の主題となる行動が熟考したものであるほど、知識と経験の果たす役割はより重要になる。目的志向行動が信念あるいは期待に左右されることは、集団行動を伴う社会的場面においてより大きな影響をもたらす。集団のそれぞれのメンバーの決定は、集団のその他のメンバーの行動に対する彼の期待に依存する。社会制度の基本的特質は、その安定性およびその存在さえも、この種の期待に依存することだ。他人の行動は、それが正確に予測される限りにおいて、客観的な環境の一部をなし、その本質において環境の人間外の部分と同じになる。これらの考察を経営の分野に適用する。第一に、経営組織は、その参加者の側での目的志向行動を意味するということがわかる。それゆえ、参加者の期待は、彼らの行動を決定する要因となる。さらに、彼らの期待の一部には、経営組織の他のメンバーの行動についての期待が含まれる。
経営の科学に関して、これまでに得た結論を要約できる。
経営の科学のこれら二つの代替的形態は、経営科学がとる二つの形態と類似する。第一に、経営理論と制度派経済学は、市場における人々の行動の一般化された記述である。第二に、企業理論は、利潤の最大化をもたらす企業行動の諸条件を述べている。この著書には、経営の社会学と経営の実践科学の両方の議論が含まれている。