「人間は考える足である」
これは、ある大手企業の企画部で活躍中の営業出身のサラリーマン氏の言葉である。17世紀のフランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家であるパスカルの『パンセ』の中の有名な「人間は考える葦である」をもじったこのフレーズを私はいたく気に入っている。意味からすると「人間は足で考えるものである」とでもすべきところだが。
このサラリーマン氏、もともと地方で、アポなしでセールスして回るいわゆる「どぶ板営業」を長くやってきたような人だった。そんな営業に明け暮れる日々の中で、お客さんの愚痴や希望を繰り返し繰り返し聞いているうちに、あるとき、ある商品の企画を思いついた。それを売り出してみると、これが当時、その地方ではちょっとしたヒット商品になった。その成功に目をつけた東京の本社の企画部から引き抜かれ、華やかな(?)企画の世界へ。ところが企画部に来てみてびっくり。部内の会議はほとんどがカタカナで、英語、フランス語……エトセトラ。思い余って「日本語で話そうよ」と提案したとか。
それもそのはず、企画部の会議では、毎回毎回、海外の流行や同業他社の動向、さらには最新の理論やらビジネスモデルやらが、実にきらびやかに報告されていたのである。確かに報告の質は高く、良い勉強にはなる。ところが、一流大学出ばかりを集めたそんなハイ・レベルな企画部なのに、一向に企画らしい企画が出てこない。そのうち、自分がなぜ企画部に呼ばれてきたのか、その理由もなんとなく分かってきた。
そこでこのサラリーマン氏、昔のようにお客さんのところを回り始めた。もちろん営業時代とは目的が違うのだが、自分のような人間は、結局、足で稼ぐしかないと心得、毎日のように営業よろしく顧客回りを続けたのだ。するとそのうち、顧客の多くが、共通のIT系の悩み・不満を持っていることに気がついた。もっともご本人もITの話はチンプンカンプンだし、話しているお客さんの方も、ITには詳しくないのでモヤモヤとした愚痴と願望を繰り返しているだけ。しかし、その愚痴と願望を何度も何度も繰り返して、まるで頭を殴られるようにして聞いているうちに、なんとなく顧客の欲しているIT系サービスの内容が見えてきた。そこで社内の若手IT技術者に相談してみると、あっさり「できますよ」の答。「えっ! できるの?」こうしてヒット商品が誕生した。
「やっぱり、企画は足で考えないとね。」
企画は会議室で生まれるんじゃない。現場で生まれるんだ。
私の知る限り、経営の問題に対する答は、ほぼ100%ケース・バイ・ケースである。会社、部門、あるいは時期によっても問題や答は異なるのが当たり前だろう。好調を続ける日本を代表するような大企業には、ゼロから自分の頭で考えたような企画書以外は、そもそも上司が読んでくれないというところもある。そして「耳から血が出るくらい考えた」という企画だけが日の目を見ることになる。だからこそ、その会社は強い。理論や他社のケースは、ヒントや参考にはなっても、決して答にはならない。だいいち、何が問題なのかもよく分かっていない場合がほとんどなのだから。
結局、自分の会社で何が問題なのかは、自分の目線で切り出すしかないし、答は自分の頭で考え出すしかないのである。だから、『経営学入門』として、私はこの本を書いてみた。大事なのは、入学したての大学生や入社して間もない若いサラリーマンでも絶対にもっているはずの「自分の目線」なのである。身近な小集団であれ、見上げるような巨大なグローバル・カンパニーであれ、経営を見つめる自分の身の丈に合った目線の高さが大切なのである。問題を探し、答を考えるヒントは、確かに学問としての経営学がそれなりに蓄積してきている。しかし、それはあくまでもヒントでしかない。
そこで、本書の各章は、まずはできるだけ身近な日常のエピソードから始めることにした。経営学の素人さんには、とても経営の話題には見えないかもしれないが、これがすべて立派な経営の話題なのである。少なくとも私のような職業の人間には、この世のあらゆることが経営の問題に見えてしまう。そして、私の目線で見えてくる「課題」と、それに対して学問としての経営学が貢献できる「課題のヒント」が続く。できれば「課題のヒント」に挙げてある経営学の本を1冊でもいいから読んでみてくれれば、自分の頭で一生懸命考えることの奥深さと面白さ、そして読者のすぐ脇、手を伸ばせば届くところに学問が横たわっていることにも気がつくはずである。
大切なことは、経営学説を覚えることでも、キーワードの用語解説ができるようになることでもない。本書の目的はただ一つ。自分の目の前の問題を自分なりに経営の問題としてとらえることができるようになり、自分の頭で答を出そうとする姿勢と作法を身につけることである。感受性の鋭い学生時代であればこそ、たとえ初期知識量が少なくとも、それができるようになることをいまや私は確信している。そして、それができる人間だけが、企業とこの国を救う。
本書は、実は経営学の古典中の古典として知られるバーナード『経営者の役割』
Barnard, Chester I. (1938) The Functions of the Executive. Harvard University Press, Cambridge, Mass. (山本安次郎・田杉競・飯野春樹訳『新訳 経営者の役割』ダイヤモンド社, 1968)
に着想を得て執筆された。といっても『経営者の役割』を読んだことのある読者にとっては、にわかに信じがたいかもしれない。しかし、たとえば本書の各章末にある「第●章のまとめ」は、実は原著『経営者の役割』の「第●章のまとめ」になっている。
本書の執筆作業は、難解さにおいて学界でも特に有名な『経営者の役割』の主張のエッセンスを力の及ぶ限り平易にアレンジしてみることから始まった。結果的に、例示がほとんどなかった原著とは対照的に、本書はエッセンスを翻案した現代風エピソードを中心にすえて書くことになった。その際に、バーナードの思い描いていたようなストーリーを壊さないように、バーナード以降の学問的発展(その萌芽が『経営者の役割』にあったという事実に読者の多くは驚くはずである)は「課題のヒント」として、あえて本文からは外していった。こうして、バーナードの『経営者の役割』の最終章「第18章 結論」を除いた各章、すなわち序、第1章〜第17章に対応して、忠実に、本書の序、第1章〜第17章が執筆された。4部構成の編成もまったく同じである。 それでも信じられないという読者の意識のギャップを埋めるために、そして、本書をきっかけにバーナードを読んでみたいと興味を持った若い読者にバーナード読解の橋渡しをするために、付録として、この「読解のための注釈」を付けることにした。
ところで、注釈が必要になったのにはもう一つ理由がある。バーナードはAT&T (アメリカ電話電信会社)の子会社として1927年に新設されたニュージャージー・ベル電話会社の初代社長だった人である。社長として約20年間、1948年まで在任していたが、そのちょうど中ごろの1938年に、この『経営者の役割』を出版している。彼はプロの研究者ではない。忙しい仕事の合間に(暇を持て余していたとする説もあるが)金字塔ともいえる『経営者の役割』を執筆したのである。そのせいか、細部を見ていくと明らかに矛盾や錯誤としか思えないものが多く見られ、何か文章を補って読まないと理解できない部分もある。つまり、原著を忠実に反映させると、解説が論理的に一貫したものにならなくなってしまうのである。それゆえ本書のようなスタイルを思いついた。しかし同時に、当然のことながら『経営者の役割』とは異なる部分も細部には出てくることになる。そこを埋めるのが(=どこを変えたのかを示しておくのが)、この付録「読解のための注釈」なのである。本書のような試みは、ベテランのバーナード研究者からは批判を受けるかもしれない。しかし私はバーナードの面白さを若い人に語り継ぐ道を選択した。これは、経営学者を志した頃から、バーナードの今日的な価値を見出した人間の一人として、いずれはやってみたかった仕事の一つだったのだ。