この論文は、英国の国民健康保険(National Health Service; NHS)の依頼で行われた研究に基づいている。NHSは、実証的な根拠に基づいた医療(evidence-based medicine; EBM)にもとづく革新の普及(diffusion)に興味を持ち、EBMによる革新は、組織を超えて容易に普及するのか? しないのであれば、それはなぜか? という関心から研究が始まった(p.118)。
この論文では、
より強い科学的根拠 | より弱い科学的根拠 | |
単独利害関係者 |
ケース1 (AC): 整形外科手術後の低分子量ヘパリン投与 ケース3 (PC): アスピリン投与による冠動脈疾患の再発防止 |
ケース2 (AC): 鼠径ヘルニアの腹腔鏡手術 ケース4 (PC): 骨粗鬆症予防のホルモン補充療法 |
複数利害関係者 |
ケース5 (AC): コンピュータ支援システムによる脳卒中の血栓予防 ケース7 (PC): 多職種による糖尿病ケア |
ケース6 (AC): 周産期ケアのリスク定義 ケース8 (PC): 家庭医による理学療法士の雇用 |
革新の結果については、下表のように評価された(Table 3を分かりやすく改変している)。
該当するケース | 利害関係者/科学的根拠 | |
システムを超えて拡散 | ケース3 (PC): アスピリン投与による冠動脈疾患の再発防止 | 単独/強 |
有意に拡散するも論争残る |
ケース6 (AC): 周産期ケアのリスク定義 | 複数/弱 |
論争あるも拡散あり |
ケース1 (AC): 整形外科手術後の低分子量ヘパリン投与 ケース2 (AC): 鼠径ヘルニアの腹腔鏡手術 ケース7 (PC): 多職種による糖尿病ケア |
単独/強 単独/弱 複数/強 |
孤立 |
ケース4 (PC): 骨粗鬆症予防のホルモン補充療法 ケース8 (PC): 家庭医による理学療法士の雇用 |
単独/弱 複数/弱 |
試験的実施 |
ケース5 (AC): コンピュータ支援システムによる脳卒中の血栓予防 | 複数/強 |
この表を一見して分かるように、利害関係者の数も、科学的根拠の強弱も、革新の拡散/不拡散を説明していない。
そこで、この論文は、両極端のケース3とケース5を比較している。どちらも抗血栓薬に関するもので、医師から看護師にルーチンを移行するもので、科学的根拠が明確だったにもかかわらず、結果は真逆になっている。ではなぜケース5では拡散しなかったのか。その不拡散(nonspread)の理由を、この論文では次の二つに求めている。
ただし、この最後の部分の考察を一般化することは無意味であろう。実際、利害関係者が複数であるにもかかわらず、科学的根拠が弱いのに拡散しているケース6のような場合もあるのだから。もっと多くの事例研究をしていれば、全体としての統計学的な傾向は見えてくるかもしれないが、こんなに少ない事例数では、何も見えてこない。この論文から何らかのインプリケーションを引き出そうとする努力は無駄である。
この論文は Academy of Management JournalのBest Article Awardを2005年に受賞しているらしいので、気を遣って★★☆にしたが、本当は★☆☆だと思う。最近の経営学のジャーナルには、この論文のように、「方法論的にはきちんと調べましたが、特に面白い結果は得られませんでした」という論文が多過ぎる。正直言って、論文として発表すること自体がどうかと思う。たとえていえば、「殺人事件の捜査本部は、本日、犯行現場と思われる○○川の河川敷のうち△△橋付近をきちんと捜索しましたが、結局犯行を裏付ける証拠は見つかりませんでした」という記者発表をしているようなものである。そんな発表を記事にする新聞があるだろうか。そんなつまらない記事を載せていたら、読者は逃げて行ってしまう。それと同じことで、面白い研究成果の出ない研究者同士で、互いに傷を舐め合うようなことを続けていると、そのうち世間から見放されてしまう。そんな危機感はもたないのだろうか。不思議な人たちである。