この論文は、生産・マーケティングの既存システムに対して、技術革新が影響を与える能力を変革力(transilience)と呼んで、変革力マップ(transilience map)でマッピングして分析している。「変革力」というとおとなしい感じだが、英語では “transilience” で「飛び越え、急変」の意味なので「ぶっ飛び力」みたいな感じか。何しろ、論文の副題は「創造的破壊の風をマッピングする」なので。この論文の前にAbernathyへの追悼文 Utterback (1985) が掲載されており、おそらく、Abernathyの絶筆であろう。
変革力マップとは、横軸に技術・生産(technology/production): 途絶/陳腐化(disrupt/obsolete)←→保存/定着(conserve/entrench)、縦軸に市場・顧客リンケージ(market/customer linkage): 既存途絶/新規創造←→既存保存/定着、をとった2次元の図(p.8, Fig. 1)のことである。4つの象限につけられている、アーキテクチャ的(architectural)、革命的(revolutionary)、通常(regular)、ニッチ創造(niche creation)は、意味がよく分からない。しかもこれに米国の自動車産業の技術革新をマッピングするわけだが、Fig. 4 (p.19)のように、クライスラー社の技術革新一つ一つをマッピングするのであればまだしも、Fig. 1 (p.8)のように、T型フォード、A型フォードのようなモデルと、V8エンジン、鋼製閉鎖型ボディ、電気スターターのような部品を一緒くたにマッピングするのは意味が分からない。前者が、既存リンケージ途絶/新規リンケージ創造(A型フォードが本当にそうなのかは疑問だが)なのに対して、後者の部品が既存リンケージ保存/定着にとどまるのは、一般論としてはそうだろう。なにしろ論じているレベルが異なるので。だが、ここで問題なのは、市場でバカ当たりした鋼製閉鎖型ボディを、市場で売れなかったV8エンジンと同じ「革命的」象限(既存技術・生産を途絶・陳腐化/顧客との既存リンケージ保存・定着)に入れていることで、これは疑問である。同じ部品とはいえ、鋼製閉鎖型ボディはT型フォードを駆逐したわけだし、「アーキテクチャ的」象限(既存技術・生産を途絶・陳腐化/顧客との既存リンケージ途絶・新規リンケージ創造)に入れておかないとまずいのではないだろうか? この「変革力マップ」自体は、似たものがAbernathy et al. (1983)の第9章でFig 9.1として登場しているが、横軸は「生産システムへのインパクト」、縦軸は「市場リンケージへのインパクト」になっていて、異なる。いずれにせよ、疑問の残る論文である。
Abernathy, W. J., Clark, K. B., & Kantrow, A. M. (1983). Industrial Renaissance. New York: Basic Books. (望月嘉幸監訳『インダストリアル ルネサンス』TBSブリタニカ, 1984)
【解説】秋池篤, 岩尾俊兵 (2013)「変革力マップとInnovator's Dilemma: イノベーション研究の系譜―経営学輪講 Abernathy and Clark (1985)」『赤門マネジメント・レビュー』 12(10), 699-716. ダウンロード
今日、自動車といえば、屋根のある車体「閉鎖型(クローズド)ボディ」が普通で、特に日本のように雨のよく降る国では、屋根なしのオープン・カー、つまり「開放型(オープン)ボディ」の自動車はめったにみかけない。そのため意外な感じがするが、実は、1920年に米国の1,000ドル以下の価格帯の自動車市場をほぼ独占していたT型フォードは、基本的にツーリング・カーすなわち幌付きのオープン・カーだったのである(和田, 2009, pp.63-66)。
そんな自動車市場で起きた1920年代半ばの全金属製閉鎖型ボディの導入に対して、アバナシーらは1930年代の「動くリビング・ルーム」(rolling living room)に至る「革命的変化のほとばしり」(a spurt of revolutionary change)とまで呼んでいる(Abernathy, Clark, & Kantrow, 1983, p.115 邦訳p.202)。全金属製閉鎖型ボディ車の開発によって可能になった「動くリビング・ルーム」の快適な居住性に加え、1940年代に自動変速機が装備されるようになって、それから30年間、米国自動車市場を牛耳るドミナント・デザインが完成したすることになるのである(Abernathy, Clark, & Kantrow, 1983, p.115 邦訳p.202)。このドミナント・デザインは、1970年代、1973年と1979年の二度の石油危機によって拍車のかかった日本車進出によるFF車の台頭まで続いた(Abernathy, Clark, & Kantrow, 1983, pp.116-117 邦訳p.204)。
ただし、もともとT型フォードはオープン・カーとして設計されてはいたが、閉鎖型ボディのT型ももちろん生産されていた。しかし、1911年以来、フォード社の閉鎖型ボディ製作は、木製フレームを鋼板で覆って成型するという手間のかかるものだった(Hounshell, 1984, p.274 邦訳p.345; 和田, 2009, pp.73-74)。そのため、シャシーが大量生産できるようになると、ボディ製作は、自動車生産のボトルネックになっていったのである。
それに対して、金属プレスを使って全金属製の閉鎖型ボディを成形すれば、木材と違って全金属製は高温にさらせるので、エナメル加工や塗装の乾燥も短時間でできるようになり、ボディの大量生産が行なえるようになる(Nieuwenhuis & Wells, 2007)。最初に全金属製閉鎖型ボディを導入したのはダッジ社で、全金属製ボディの生産技術を開発したエドワード・バッド社(The Edward G. Budd Manufacturing Co.)に対して、ダッジ社は最初の主要顧客として、1915年、5,000台分のボディを初めて発注した。そして、1916年11月までに10万台分のボディが作られたといわれる(Nieuwenhuis & Wells, 2007)[19]。
とにもかくにも、こうして、実際に全金属製閉鎖型ボディの大量生産が始まると、1920年代、急速に開放型ボディ車の売れ行きは落ち、閉鎖型ボディ車がそれに取って代わるようになる。閉鎖型ボディ車のシェアは、1924年に43%となってから3年間で急激に伸び、1927年には85%にもなるのである。T型フォードに対抗していたGMのシボレーの場合でも、1924年には40%であったが、1927年には82%になっている(Sloan, 1964, pp.161-162 邦訳pp.209-210; 和田, 2009, p.68; pp.74-75)。
ところが、T型フォードは、元来オープン・カーとして設計されていたために、シャシーが軽く、重い全金属製閉鎖型ボディには不向きだったのである(Sloan, 1964, p.162 邦訳p.210)。T型の軽量のシャシーに重い全金属製閉鎖型ボディを架装すると、格好が悪いだけではなく、トップヘビーになってしまう。にもかかわらず、ヘンリー・フォードはT型に固執し、しがみつく。T型のシャシーに閉鎖型ボディを取り付け、1924年には37.5%を閉鎖型ボディにして売ったのだった(Sloan, 1964, p.162 邦訳p.210)。
さらに、フォード社は、T型用に、全金属製閉鎖型ボディの開発を行い、1925年に、鋼板プレス部門がハイランド・パーク工場からリバー・ルージュ工場に移転すると、木製のフレームを廃止して、T型フォードのボディを全金属製ボディ(all-metal body)に変更したのである(Hounshell, 1984, p.274 邦訳p.345)。しかし、それでも、T型に閉鎖型ボディが占める割合は、1926年に51.6%、T型最後の年である1927年でも58%にしかすぎなかった (Sloan, 1964, p.162 邦訳p.210)。
そして困ったことに、重い全金属製閉鎖型ボディは、T型にとってまさしく重荷となった。それでなくても、実質的な「モデル・チェンジ」で電装部品や内外装が追加されてきたことで、T型フォードは1〜3年ごとに、どんどん重量が増えていたのである。これに全金属製ボディの重量まで加わって、もはや軽量を前提とした20馬力のエンジンでは合わなくなっていたのである。しかも、次第に道路が整備されてくると、舗装道路では、より大きな、かつスピードの出る車が求められるようになっていった(Sorensen, 1956, p.218 邦訳p.264)。T型のように、エンジンの割には車体が重過ぎて、ノロノロとしか走れないような車は、格好が悪かった。確かに、20世紀初頭のように、悪路や道のない所を走らなくてはならないのであれば、軽量化が必要だったのだろうが、当時、既にそのような時代は終わりを告げようとしていたのである。こうなると、T型フォードは、他社製自動車と比べて性能面でかなり見劣りがすることになる。
ライバルGMの経営者スローン(Alfred P. Sloan, Jr.; 1875-1966)は、フォードとの「この競争における最後の決定的要素は、閉鎖型ボディであったと信ずる」(Sloan, 1964, p.160 邦訳p.207)といっている。GMのシボレーは、1926年にT型フォードとの価格差を30%以内にするまでに価格を下げてきた。この間、米国の消費者は豊かになり、1人当たりの所得は、1921年には551ドルだったものが、1926年には610ドルになっていた。しかも、フォード社はやらなかったが、GMは1919年に販売金融会社GMAC (General Motors Acceptance Corporation)を設立し、それを通じて、消費者が自動車を割賦販売で買うことができるようにしていたのである(Sloan, 1964, ch.17; Hounshell, 1984, pp.276-277 邦訳pp.348-349)。
さらに、GMは、早くから中古車の下取りも行っていたが、その中古車市場が、第一次世界大戦後に発達したことで、GMではシボレーよりずっと上のクラスに位置づけられるビュイックのような車のあまり旧式ではない中古車までが、T型の新車の底値(rock-bottom price)以下で買えるようになってしまった (Sorensen, 1956, p.218 邦訳p.265; Sloan, 1964, p.163 邦訳p.212)。当時のGMの車種を下の価格帯から並べると、シボレー、ポンティアック(1925年に投入)、オールズモビル、オークランド、ビュイック、キャデラックとなるのだが(Chandler, 1962, p.143 邦訳pp.151-152)、つまり、GMのずっと高級な全金属製閉鎖型ボディの中古車が、T型フォードの新車と同じかあるいはそれ以下の価格で売られているという状況が生まれたのだった(Hounshell, 1984, pp.276-277 邦訳pp.348-349)。
当時、20世紀前半の米国ビジネスでは、無節操な雰囲気があり、戦略的に中古市場を使って競争相手を潰すという行為が行われていた。たとえば、キャッシュ・レジスターで有名なNCRは、当時、中古キャッシュ・レジスター業者の安値販売攻勢に業を煮やし、1903年にトーマス・ワトソン(1911年にNCRをクビになり、後にIBMを率いることになる)に指示して、中古キャッシュ・レジスターを買い集め、それをより安い値段で売りまくって、他の中古業者を潰してしまうというかなり汚い手口を使っている(Campbell-Kelly & Aspray, 1996, 邦訳p.44)。同様のことが、自動車業界でも行われ、あまり旧式ではないGMの上のクラスの中古車をT型の新車の底値以下で意図的に売ったのかもしれない。
いずれにせよ、こうして、1921年には55%もあったフォード社の市場シェアは、1926年には30%にまで落ち込んだ。1927年上半期には25%も下回り(Hounshell, 1984, pp.263-264 邦訳p.331)、フォード社は大量のT型の在庫を抱えてしまう。ついに1927年5月25日、1,500万台目をもってT型フォードの生産を中止することが公式に発表された。翌26日、ハイランド・パーク工場では最後となる1,500万台目のT型フォードが組立ラインから出てきて、ハイランド・パーク工場でのT型フォードの生産は終わった。この1,500万台目もツーリング・カー(オープン・カー)であった(Hounshell, 1984, p.279 邦訳pp.352-353)。
[19] ここで登場するダッジ社はダッジ兄弟(John Francis Dodge & Horace Elgin Dodge; 1864-1920 1968-1920)が経営する会社で、ダッジ兄弟は、1890年に自転車用ベアリングの工場をつくり、1899年にオールズモビル(Oldsmobile)向けの遊星歯車式の変速機を作り始め、1903年にエンジンと変速機の専門工場に成長させて、1904年にはダッジ兄弟自動車会社を設立して自動車の生産に乗り出し、翌1905年には4500台も量産している。ダッジ兄弟は、1903年のフォード社設立時に出資もしていて、フォード社とは浅からぬ因縁があった。T型以前のフォード社のモデルの中で異質なK型(1906年〜1908年販売)は、実は、ダッジ兄弟からの要求で作られたもので、K型の部品は、すべてダッジ兄弟の工場に発注されたといわれている(五十嵐, 1970, p.22; Sorensen, 1956, p.77 邦訳p.102)。1916年11月に、フォード社の10%の株式を所有する少数株主であったダッジ兄弟は、株主への配当を犠牲にして工場の拡張に資金を回すことを禁止するように裁判を起こし、1919年2月にミシガン州最高裁判所がその主張を認め、フォード社に1900万ドルの配当金を即金で支払うように言い渡したので、ヘンリー・フォードは、行動の自由を獲得し、少数株主からの干渉を排除するために、同1919年、少数株主のすべての株式41.5%を買い取り、1月1日に社長に就任していた息子エドセル・フォード(Edsel Ford; 1893-1943)の持株とした。残り58.5%は父ヘンリー・フォードの持株である(Ford, 1922, p.52 邦訳p.78; Sorensen, 1956, pp.160-163 邦訳pp.188-191; pp.165-166 邦訳pp.199-201; 和田, 2009, pp.77-78)。このときの株式買い取りに資金が必要だったために、リバー・ルージュ工場では、前述のように、最初に軍用艦の建造を行ったという逸話まで残っている(和田, 2009, pp.77-79)。他方、ダッジ兄弟は翌1920年に二人とも相次いで亡くなる。ダッジ社はその後1928年にはクライスラー社の傘下に入った(樋口, 2011, p.398)。ダッジ社が「プレス・ボディの全鋼製車を世界ではじめて量産」したのは1916年だとする説がある(樋口, 2011, p.398)。他にも、ダッジ社によって、金属プレスを使って大量生産した全金属製の閉鎖型ボディが導入されたのは1923年だったという説もあるが(和田, 2009, p.75)、もしそうだとすると、ダッジ兄弟はウェーバーの没年と同じ1920年に相次いで亡くなっているので、ダッジ兄弟の死後ということになる。