高橋伸夫ゼミナール 《2018年度冬学期テキスト: 要約》  表紙(目次)に戻る  Handbook  BizSciNet

Chandler, A. D., Jr. (1962). Strategy and structure: Chapters in the history of the American industrial enterprise.. Cambridge, MA: The MIT Press.
三菱経済研究所訳『経営戦略と組織』実業之日本社, 1967.

有賀裕子訳『組織は戦略に従う』ダイヤモンド社, 2004.



序章 戦略と組織

【解題】米国の巨大企業には事業部制が広まっているが、第一次世界大戦直後から1920年代にかけて、デュポン、GM、ニュージャージー・スタンダード、シアーズの4社の経営陣が、独立に新しい組織形態である事業部制を構築し始めたのが最初だった。事業部制組織は、上から、(1)総合本社(general office)、(2)事業部(division)の中央本社(central office)、(3)部本部(departmental headquarters)、(4)現業部門(field unit)の4階層から成り立っている。「組織は戦略に従う」(p.18)ので、いくつかの基本戦略が組み合わさると、複雑な組織が出来上がる。(高橋伸夫)

動機と手法

 「アメリカの巨大企業の戦略と組織はどのように変遷してきたか」というテーマの探求は、比較経営史を著す試みとして始まった。つまりは製造・マーケティングなどの諸活動について様々な企業がどのように行っているかを比較することで、いくつもの企業の業績を正しく解釈し、ひいてはアメリカの経営者が諸活動をどのように行ってきたかを明確に説明できるに違いないという発想のもとに研究が行われた。

 アメリカ企業が行う諸活動の中でも、比較経営史に最も適しているのはマネジメントだと思われた。そこで、予備研究としてアメリカの巨大企業50社のマネジメントを調査した結果、幅広い経済活動に携わる企業では近年「事業部制」の採用が広まっていることが分かった。「事業部制」は「分権制」とも呼ばれ、総合本社が各事業部に人材・施設といった経営資源の割り当てを行い、各事業部の幹部が職能活動を統括しながら製品・サービスの提供をする、という形態である。(p.5の図1を参照のこと)

 予備研究によると、分権制を早い時期に取り入れ、かつ画期的な成果に結びついた企業は、デュポン/GM/ニュージャージー・スタンダード/シアーズの4社であった。本書ではこの4社に焦点を当てている。この研究において重要なのは、これら4社がお互いを模倣することなく独自に新たな組織形態を築いたという点である。

 4社の組織変革の研究を進めていくうちに、4社の沿革をさらに詳しく調べるだけでなくアメリカ経済史全体の幅広い知識が必要だということが判明した。こうして、研究範囲はこの4社を他の多くの大企業と比較するところに広がり、企業組織の歴史について一般化するまでに至った。こうした目的の達成のために、アメリカの大企業100社近くの調査が行われた。その結果、最先端のマネジメントとは何か、どういった企業がイノベーションの旗手を務めたのかが明らかになった。本書は組織革新によって近代的な分権制が生まれ、アメリカ産業界に広がっていく様子を描いており、大部分は先ほど挙げた4社のマネジメント史に割かれている。

いくつかの前提

 本書での「企業」の定義は、「利益追求型の大規模企業のうち、原材料の調達から最終顧客への製品販売へと至る連続的なプロセスの一部あるいはすべてを担う企業」である。つまり、ヴェルナー・ゾンバルドのいう資本主義的企業(独立の経済組織として、構成メンバーの上位に位置づけられる。個々の取引に介在しながら存在し続け、往々にして構成メンバーより長い寿命を持つ)の一種である。

 また、企業活動の命運を握る経営者の役割は、業務の調整・評価・プランニング・経営資源の配分であり、「マネジメント」や「管理」は、これらに関する経営者の行動や命令や判断を指す言葉である。

 本書における2つの前提は、

  1. 大規模企業における経営者の関心は、各職能の成果よりもマネジメントに強く向けられているということである。
  2. 経営者は2種類のマネジメント作業をこなす必要があるということである。一方は長期的なプランニングや業績評価であり、他方は目の前の課題や予期しない危機への対応だ。
近代的な事業部制の下でのマネジメント活動は、4つの異なる組織階層(総合本社、事業部中央本社、部本部、現業部門)を通して遂行される。各階層はそれぞれ異なるマネジメント活動を行っている。 がそれぞれ行われている。戦略面のマネジメント・実務面のマネジメントは共に判断と実行で区別するべきである。総合本社による経営資源の配分を通じて、戦略面の提案を実行に移すことができる。一方で下層組織のマネージャーは、総合本社から割り当てられた資源を用いて実務判断を実行に移す。つまり、経営資源の配分を担う人々が企業を支えており、そうした人々のことを「企業家」あるいは「経営者」と呼ぶ。対照的に、割り当てられた資源をもとに調整・評価を行う人を「マネージャー」と呼ぶ。

 各企業は4つの組織階層すべてを持つとは限らない。各組織階層は、異なる種類の事業成長に伴って生まれたと考えるのが自然である。ここで事業の成長パターンによって異なるタイプの組織が生まれるという主張を正確に表すために、「戦略」と「組織」の定義を行う。「戦略」は、事業成長のプランニングと実行を指す。具体的には、長期の目標設定と、目標達成のための経営資源配分などの行動のことである。「組織」は、新たに加わった活動や経営資源をマネジメントするための部門を指す。戦略は、組織形態に少なからず影響を持つものである。

 「組織形態」とは、マネジメント組織のつくりを指す。組織形態には2つの側面があり、第1にマネジメントに携わる様々な組織・人材の間での権限やコミュニケーションの経路、第2にそれらの経路を通じて社内に伝わる情報やデータである。

 以上の諸前提から、組織は戦略に応じて決まり、いくつかの基本戦略が組み合わさると極めて複雑な組織が出来上がる、という主張が引き出される。事業活動の量的拡大により、単一組織で単一職能に携わるマネジメント組織が、地理的な拡大により諸部門と部本部が、新たな職能部門への進出により中央本社が、全国規模・国際規模への事業成長により事業部制や総合本社が、それぞれ形成されていくことになる。本研究では、新たな職能部門への進出を「垂直統合戦略」、新製品分野への進出を「多角化戦略」と呼ぶ。

 ここでさらに2つの問いかけが生まれる。

  1. 組織が戦略に従って決まるなら、新戦略の遂行に必要な組織が設けられるまでになぜ時間がかかるのか
  2. 組織改編を要する戦略が生まれたのはなぜか
である。1の問いに対しては、新戦略に伴って生じるマネジメント・ニーズが組織改編の決め手となるほどの意味合いを持たない、もしくは経営陣が新たなニーズに気づいていないという答えが妥当だと思われる。つまり、経営陣に非があるということだ。2の問いに対しては、人口移動や所得水準の変化や技術イノベーションなどにより新たな事業機会やニーズが生まれたからだという答えが妥当である。

 以上の点を前提にすると、事業が成長しても組織を改編しないことは非効率を生じさせるだけだということがわかる。ケーススタディが示すように、大規模企業は戦略に対して組織改編が遅れをとることはあっても、いずれかの時点で多角化した事業をマネジメントする組織を設けている。したがって、戦略・組織を明確に定め両者の関係をわかりやすく説明することで、組織の充実を図った人々の業績について評価が容易になると考えられる。ただし、各社の内外の情勢について幅広い歴史的観点からとらえる必要があることに注意が必要である。

(榎本裕)


第1章 歴史的背景

【解題】19世紀、米国では、企業が海外展開と多角化によって成長、巨大化するにしたがって、それらをマネジメントするための革新が必要になってきた。20世紀に入ると、地理的な拡大と、それ以上に製品の多様化によって生じるひずみが限界に達し、1920年代に事業部制が生まれた。そして第二次世界大戦後の活況時にほとんどの企業が事業部制を取り入れていった。(高橋伸夫)

アメリカでの経営管理の端緒

 アメリカ産業界は企業が極めて小規模で、同族経営が一般的だったため、1850年前後まで、経営管理のための明確な体制も、フルタイムでその業務に関わる人も必要とされなかった。わずか2〜3人ほどが基本的な業務全般の管理を担っており、そのため売買取引そのものや、現業の管理に忙殺されて、長期プランについて頭をめぐらすことはなかった。

 しかし1850年以前でも一握りの大企業は未発達ではあるがマネジメントのための組織を設けていて、これらの企業は本社と現業部門に組織を分けていた。合衆国第二銀行と、アメリカン・ファー・カンパニーはともに当時の最大規模の企業でマネジメントの組織を設けたが、大企業の企業形態には影響を及ぼさなかった。

 むしろ大きな影響を与えたのは1920年代、30年代の大規模な輸送インフラの建設であろう。建設中の運河や鉄道はいくつもの工区に分けられ、それぞれに副技師が割り当てられ、その仕事を本社の技師長が評価し、管理していた。1850年までは鉄道などの建設に当たるのは小規模な企業で、少数の工区しか担当しないため容易に経営者が作業を監督できた。そのため体系的な組織へのニーズはさほど大きくなかった。しかし1850年以降東西を結ぶ幹線鉄道ができ始めると管理業務がフルタイムの仕事としての性格を帯びてきた。主要な鉄道会社は全米最大規模の企業となり従来とは異なるマネジメント法が求められた。エリー鉄道の統括責任者マッカラムは新しい制度として本社と現業部門の間に緻密な指揮系統とコミュニケーションの経路を定めることと、現業部門の長から本社の統括責任者に詳しい報告を絶やさないことを定めた。他の企業もこの構想に沿った組織作りを行った。そしてさらに鉄道の規模が拡大すると、部門同士の関係を定めた包括的な組織を作り、また部門長からなる中央組織を設けて社長と協議しながら会社の利益になるように部門の活動を調整するようにした。このように鉄道会社はアメリカの民間企業としていち早く近代的なマネジメント体制を築き、他業種の企業の組織構築の模範となった。

 南北戦争が終わると一気に都市化が進み、そこから生まれる事業機会をとらえて多くの企業が収益を伸ばし、本拠地から離れた場所で他社を買収したり、部門を新設するなど地理的拡大と垂直的統合の萌芽が生まれた。そして1890年代になると事業帝国が乱立し始めそれらを管理するための組織の設立が課題となった。そしてこの管理は同族経営では手に負えなかったため、フルタイムの専門経営者の手に委ねられた。

複数部門を擁する統合企業の登場

 このように業務が多岐化したことによって先ほど述べたような課題が生じ、マネジメントを主たる任務とする大組織が生まれた。製造分野では多機能型の大企業が対照的な二つの成長戦略を通じて誕生した。

  1. 単一の企業が事業拡大して傘下に販売組織を設けるもの。
  2. 多数のメーカーが持ち株会社などを形成して製造活動を束ね、販売分野への前方統合(メーカーと原材料企業の企業統合)、購買分野への後方統合(メーカーと販売企業との統合)に速やかに乗り出すというものである。
いずれも全米規模で急速に市場が拡大し、様々な機会や圧力がもたらされたためそれらへの対応として取られたものである。

 販売組織を設けるタイプの垂直統合を通じで成長した企業の好例としてグスタヴス・スウィフトがあげられる。食肉を冷蔵することで、西部で生産された肉を東部で売ることを可能にし、主要都市で冷蔵機能のある貯蔵庫や加工場、流通、販売組織を傘下に入れることで利益を上げ、次第に販売組織を海外にも展開し垂直統合された巨大事業帝国となっていった。各業務を体系的にマネジメントし、部門別の製品の流れを調整できるようになると、それに適した製品を開発できるようになった。同様にしてデュークはタバコ業界で垂直統合の形態を作り利益を上げた。また、新しい耐久消費材の開発においても革新的企業は、クラークなどのように自社社員の方が商品知識を持っているため売りやすかったり、掛売りができるといった理由で代理店を通さず、営業所で商売を行ったり、マコーミックなどのように代理店を、自社の資源を使って後方から支援したりして販売組織を強化した。産業用の耐久消費財を提供する企業や、鉄鋼メーカーも同様の組織が形作られた。

水平統合から垂直統合へ

 企業が垂直統合へと向かう道程として一般的だったのは同業他社との結びつきを強めるというものだった。1870年代後半の好況期を中心に各社の経営陣は新しい市場から利益を上げようとして生産を拡大し、その後市場の伸びが鈍って価格が下がったため、各メーカーとも価格の設定などを和らげようと同業他社との関係強化に前向きになった。こうして多くの小企業が水平統合を行ったが、これらは一般的に短命だった。生産スケジュールや価格をグループ内で強制できず足並みをそろえるのが難しく、各社の経営資源を有効活用することができなかったためである。全米規模で事業展開する本格的な統合企業は法律上も実際のマネジメントの上でも新しい形態を必要とした。法的な課題は1889年にニュージャージー州が会社法を改正し、企業相互の株式の持ち合いを認め、これが他の州にも伝播したため、親会社一社が子会社の多数株式を保有することが認められ、様々なハードルを超えて低コストで広域事業を展開しながら各地に分散した事業への法的コントロールを保てるようになった。

 1890年以降はマネジメント面のイノベーションがアメリカ企業の発展に大きな意味を持った。メーカーや販売会社のゆるやかな連合体は本社の下で統合され、業務プロセス、購買活動の標準化によって規模の経済が実現できるようになった。また流通業者とメーカーでは歩調を合わせるのは困難で、メーカーは自ら流通に乗り出した方がコストを抑えられると考え、卸売、小売を手がけることで全米規模の流通網に見合う量を製造、販売できるようになった。この戦略のために販売組織を立ち上げる場合もあったが、合併や買収が一般的だった。このように次第に水平統合は本社一括管理が加わることで垂直統合へ動いた。

 ここからさらに取り組みを進めた企業もあり、販売や製造だけでなく、原材料を生産しその輸送も手がける事例も生まれ始めた。こうした事例は、農産物や天然資源を原材料にしている場合が多く、限られた量の原材料を数社で抑えられたため、他の企業は納得のいく価格で原材料を入手することができないのではないかという脅威を抱き始めこうした動きに追従する動きが増えた。由来がどうあれ統合企業の大多数は傘下の各社を一体化して単一企業へと脱皮した。

 1880年から1900年にかけて事業帝国は拡大のための戦略を練り、経営資源の確保を目指し、工業化と都市化の急激な進展に伴うニーズと課題に応えようとし、多大な経営資源を傘下に置いたが、それらを効果的にマネジメントするための組織を設けてはおらず関心も低かった。にもかかわらず拡大のためにはマネジメントにおける革新が必要とされていた。

(信田直人)

    

組織の構築

 20世紀初頭ではアメリカでは統合企業のマネジメントの難しさが叫ばれた。巨大企業は非効率にならざるを得ず、規模の経済はまず引き出せないといった論調が長らくアメリカを支配してしまった。こうした経営管理上の課題に立ち向かったのは多くの場合巨大事業帝国を築いたのとは別の人々だった。事業帝国をマネジメントするための組織設計には企業を次々に傘下に収めるのとは全く異なる資質と気質が求められたのだ。なぜなら、拡大や合併、垂直統合を進めた当初は多大な経営資源を効率的に管理して単位あたりのコストを下げよう、との意図は明確ではなかったからだ。経営陣は競争をコントロールするのを主な狙いとしていたのだ。

 マネジメント面の統合が進んだ新興企業では統合に責任を負う経営者が臨機応変に新しい組織の枠組みを設け、マネジメントのあらゆるレベルで権限やコミュニケーションの体系が築かれた。本社は各職能部門と全社の調整、評価、プランニングを効果的に遂行できなくてはならなかったのだ。こうした中で、鉄道会社は一時代前に似た課題に直面していたため、組織構築の貴重な先例を提供することとなり、なかでもペンシルベニア鉄道の例は広く知られていた。

他業種ではこうしたペンシルベニア鉄道の取り組みに着目した企業家も存在しただろうが、鉄道よりも遥かに複雑なマネジメント課題を抱えていた。その理由は大きく3つある。
  1. 鉄道の各管区と異なり、他業種では現場の諸部門は地理的に分散し、繋がりが弱かったから
  2. 製造と販売が量的に拡大し、その手法も複雑化するにつれ、補助的サービスを担う部門数が増えたから
  3. 大規模な統合企業は多彩な活動をしていたから
理由3については、新興の統合企業は少なくとも3つの主要機能を担っていてそれぞれ異なる能力や研鑽が求められた。また、鉄道の運行部門のような、誰もが認めるような最重要部門といったものは無かった。よって、ペンシルベニア鉄道における最大の特徴であったラインとスタッフの違いを持ち出しても無意味だったのである。つまり、業務内容の異なるいくつもの部門を対象に業績を評価したり、プランニングを行うのは大変難しかったのだ。このような課題に対して、1920年代には、集権的職能組織という組織構造をどの企業も持ち合わせるようになった。しかし、この形態は根本的な弱点を抱えていた。ごく一握りの人々に膨大な量かつ複雑な判断が委ねれていたのだ。また、幹部の育成もうまく行えなかった。幹部の大多数は入社以来ごく狭い範囲の業務だけをこなしたので他部門や全社的なニーズ・課題とは無縁となってしまったのだ。

さらなる成長: 事業部制の誕生

 19世紀末のアメリカは人口動態と技術の根本的変化、とりわけ都市部の急速な拡大によって企業はさらなる成長を遂げていた。そうしてリーディング企業は複雑なマネジメント上の課題に直面し、分権的な事業部制という新しい組織形態によるマネジメントが始まった。

 新しい市場や技術に大きく影響された業界は海外展開と多角化によって成長を実現させた。両者の内でも、多角化の方がより強く事業部制の誕生を促した。先進的な技術を用いた業界のリーディング企業は自社の設備や科学面でのノウハウを新しい市場に向けた新規製品の生産や販売に容易に転用できると考え、多角化を推し進めた。一方で、流通販売を主体とする企業は都市部ついで郊外の市場の変貌を受けて多角化の道を歩んだ。多角化による成長は海外展開にも増して通常業務、経営業務の増加と高度化を招いた。製品をつくって市場に届けるまでにはいくつもの部門が関わったが、それらの足並みを揃える仕事に至ってはより困難を極めたのだ。例えば、長期の戦略プランニングを行うためには、施設、人材、資金などをどのように活かすか、既存の製品ラインに関わる経営資源をいかに充実させていくかを判断し、実行するだけでなく、新しい分野への参入、既存分野からの撤退あるいは縮小といった決断をも下さなくてはならないのだ。

 こうして1920年代に事業部制は生まれ、デュポン、GM、ニュージャージー・スタンダード、シアーズの4社はいち早くこの新しい形態に移行した。そして第二次世界大戦後の活況時にほとんどの企業がこれに従っていった。

以上のように、事業の成長と多角化を機に多くの企業が、デュポン、GM、ニュージャージー・スタンダード、シアーズの4社が1920年代に直面したのと同じ課題に直面したわけで、この傾向は今後も続いていくだろう。

 これまでアメリカで大規模企業が成長した軌跡を概観した。過去の記録を辿ると、組織は戦略に従って決まり、事業拡大の道筋が異なれば、マネジメント上のニーズも異なり、結果として別タイプの組織が生まれる、という事実が浮き彫りになる。しかし上記のような概観だけでは、その詳細はわからない。各社の実情に迫り、事業帝国や組織を築き上げた人々がいかに新しい策略を定め、組織をつくっていったのかを確かめるのが唯一の道である。次章以降の4つのケーススタディはこのように企業を内側から眺めていくことを目的としている。各ケーススタディは経営者や企業が違えば、マネジメントの諸課題へのアプローチにも違いが出ることを示している。そうしたアプローチや見通しが異なる点が、4つの事業帝国の間で、外部のニーズや機会への対応に開きが生じた最大の原因と言えるだろう。

(梶ヶ谷悠希)


第2章 デュポン: 自律的事業部の創設

【解題】(高橋伸夫)

1. 集権的な組織

 1902年冬、E.I.デュポン・ド・ヌムールの社長ユージン・デュポンが急死した。残された共同経営者たちは、同業界2位のラフリン社への身売りを考えたが、当時37歳だったアルフレッド・デュポンはこれに反対し、いとこのコールマン、ピエールとともにデュポンを買収した。

統合戦略の推進

 ユージンがなくなった当時、デュポンの経営者や管理者のポストは一族がほぼ独占しており、経営手法も保守的であった。しかし、デュポン社は原則として同業他社の株式を保有する方針を採っており、火薬業団体を通じて業界全体の価格や生産スケジュールに関して実質の決定権を持つなど、火薬業界全体にも強い影響力を及ぼしていた。こうした業界内での連携により、アメリカの火薬業団体はきわめて安定して長く活動を続けた。

 ユージンは、業界全体の生産・販売には強い発言権を持っていたが、加盟各企業の生産・販売については無関心だったようである。団体も加盟企業も、コスト・業務プロセス・マーケティングといった経営資源をうまく活かすための情報や手法は持ち合わせていなかったため、効果的なマネジメントの実現はほど遠かったというのが実情だ。

 しかしユージンの死後、コールマンとピエールは、買収したデュポン社の組織改編に伴って、事業帝国を築き、集権的なマネジメントを取り入れようと奮起した。コールマンは、新会社E.I.デュポン・ド・ヌムール・パウダーを設立し、その株式や現金と交換に、既存のグループ各社や株主に、デュポン家への株式譲渡を求めた。一方ピエールは、各社に実効あるコントロールを及ぼし、低コストでの製造を全社的に実現するために、新会社のマネジメント体制構築に専心した。こうして、「一社の名の下に、単一の販売組織、単一のマネジメント、単一の業務遂行体制の下で経営する」ことが可能になった。

 ピエールとコールマンは、集権的な組織を築く上で、ロレーン・スチールや、レパウノのダイナマイト工場をモデルとし、製造を統合、主力三製品それぞれの管理組織・マーケティング組織・開発部門などを設け、経営資源を統合するためのマネジメント組織をつくり上げた。さらに、新設所部門の部本部を置くために、ウィルミントンの中心部に巨大な高層ビルを建てた。コールマンは社長、アルフレッドはゼネラル・マネジャー、ピエールは経理の責任者となり、ロレーンからやって来たモクザム、レパウノで活躍したハスケルとバークスデールとともに主要ポストを占めた。彼らは新しい任務を遂行するうえで、種々の現業部門でも効果的な調整、評価、プランニングを行うために、部門制を取り入れる必要があると考えていた。

複数部門制の導入

 集権的な組織を築くなかで、コールマンとピエールは経営業務と日常業務を明確に区別した。各主要部門には長期的なプランニングと業績評価を行うバイス・プレジデントと、部門の日々の業務を進めるディレクターを置いた。このバイス・プレジデントは、社長と共に経営委員会を構成して全社の大方針を定める傍ら、担当部門のマネジメントに関してはすべての責任と権限を与えられた。

 3つの主力製造部門は、ゼネラル・マネジャーであるアルフレッドの管理下にあった。アルフレッドとバイス・プレジデントたちは、部本部から各工場での業務を調整・評価・プランニングし、手順を定めた。また、部本部と現場との間の権限やコミュニケーションの流れは、ライン・スタッフの概念に従って定められており、各部門は、本社スタッフと工場の監督者を集めて定例会議を催し、低コスト化・効率アップのための方策について話し合った。

 セールス活動も、製造と同様に組織化された。名セールスマンだったパターソンは、全米の各都市に17のセールス組織を構え、それぞれに配置された支店長が、現場のセールス担当たちの活動を監督した。またセールスは、従来の代理店や販売請負人に変わって、産業用火薬の使用法を熟知した従業員が担い、顧客とともに個別の課題解決に取り組めるようにした。

 この様な研修や育成はやがて技術部門が引き継いだ。スタッフ組織にはこのほか、広告部門や、自社と競合他社の販売データの統計にまとめる販売データ部門、販売原価部門が設けられた。これらの分野でも、本社と現場の関係はライン・スタッフの概念に沿って定められていた。

 以上の部門に規模は劣るが、ほかに主要原材料、開発、不動産、法務、経理という5つの職能別部門が社長直轄下に置かれていた。

 中央本社には、職能別のバイス・プレジデントと社長がおり、全社の調整・評価・プランニングは財務・経営・管理の3委員会に委ねられた。ただし、経営委員会は長期のプランニングと業績評価にのみ力を注ぎ、諸部門の日々の業務を調整するのは、部門のディレクターたちから成る管理委員会としていた。

組織改編: 1903年から1919年

 以上の大変革ののち、第一次世界大戦が終結するまでの間、デュポンの組織は大きく変わることはなく、中央本社内で微調整が行われるにとどまった。この微調整は主に3種類に分けられる。

 最も重要な変化は、トップ交代に起因するものであった。経営者に最もふさわしいと判明したピエールが、1909年に正式に社長に就任し、1911年には経営者としての力量不足や聴力の衰えを理由に、ゼネラル・マネジャーであったアルフレッドを解任する。これを受け若手がトップ・マネジメントに次々と抜擢され、経営陣が入れ替わった。翌年、デュポンのシャーマン反トラスト法違反が認定されたため火薬事業は三分割され、デュポン社に加えて新たに2社が誕生した。これによってデュポン社本体は工場と人材の一部を失ったが、組織と戦略の大枠には影響しなかった。

 その後様々な対立があったとされるが、1914年には結局ピエールが社長として全社の方針と業績に責任を負う立場に戻り、弟のイレネーがゼネラル・マネジャーに就任する。それまで上層部を占めていた年長者は退任し、経験と資質を備えた若者が新たにバイス・プレジデントに登用された。こうした改革を進めるなかで、ピエールは排他主義的な一族経営を退け、これ以来血筋ではなく能力に応じて人材を登用するのが慣行となった。

 経営陣の世代交代を成し遂げると、ピエールは、中央本社の使命を慎重に定めていった。そして、経営委員会の仕事は、全社に関係した問題・方針を検討し、各部門の大枠の目標や方針を決め、全社の利益に沿って部門間の調整を図ることだとした。

 財務委員会についても、経営委員会と同列以上の格を与えた。しかし、その権限は経営員会の予算案の承認にとどまり、ピエールとコールマンは、財務委員会のメンバーに自分たち二人のほかアルフレッドらを含めることで、大株主から重要な意思決定に意見を挟む余地を奪った。第二の変化は、エンジニアリング・購買・輸送部門、化学製品部門や軍需セールス部門といった補助業務やサービス業務を担う部門の拡充であった。第三の変化は、全社のマネジメントに関する情報に関わって起こった。第一次大戦前から戦中にかけて統計データとその利用方法が洗練され、経理関連部門は、景気全般を予測した上で経営資源の配分を提案するようになった。特筆すべきなのが、ブラウンが考案したROI(投資収益率)の算出法である。ROIのおかげで、中央本社と部本部に正確なモノサシを提供して、各事業部門の業績評価、非効率の発見、プランや方針の修正などが可能になった。

よりいっそうの集権化: 1919年

 第一次世界大戦が集結すると、ピエールは、転機を迎えたデュポンのマネジメントと発展を次世代に託すため、経営陣を刷新するべきだと判断した。加えて、経営委員会の下に組織改編案を練る小委員会を設け、その議長にハスケルを据えることを提案した。ハスケルは特に組織に興味を寄せ、ピエールに対し簡素化と集権化の徹底を求めている。

 小委員会がまとめた報告書では、組織上の諸問題への取り組み方や、職能別組織の意義の捉え方が論じられていた。まず、組織の目的について、「最小の努力から最大の成果を引き出すこと」だと定義している。この目的に関して、経験をもとに2つの原則「似通ったもの同士ではなく、関連性の高いものを集めるということ」と「関連性の高い複数の業務を預かるマネジャーに、全幅の権限と責任を与えるということ」が掲げられた。さらに、この2つの原則を柱に、事業活動を生産・セールス・開発・経理の4つの職能別「大」部門が分担することや、経営員会がプランニングと全般的な業績評価を担うとすることなど、いくつかの提案を示している。

 報告書に目を通したピエールは、理想的な組織形態を先に固めてしまうのではなく、人材を核にして組織を構築していくべきだと主張し、若手エグゼクティブを登用するように提案した。かつての経営委員会のメンバーは財務委員会に移し、自身も名誉職的な取締役会長に就任、イレネーを社長、ラモットを経営委員会議長に指名した。経営委員会は新体制となって程なく、ハスケルの報告書の勧告を若干の修正を施しただけで受け入れた。

 1919年夏には、デュポンはマネジメント組織の簡素化を終え、若さと経験を備えた人材を上層部に備えて第一次大戦後に備えていた。垂直統合された巨大企業のマネジメントを行う上で、これ以上合理的に考案された組織は他にない。しかし単一の製品ラインをマネジメントするために設けられた組織は、製品多角化という戦後の戦略には適さず、デュポンはこの集権的組織を2年後には根本的に改めることになる。

(松田朋佳)


第3章 ゼネラルモーターズ(GM): 総合本社の創設

【解題】(高橋伸夫)

第4章 スタンダード石油ニュージャージー: 海図なき組織改編

【解題】(高橋伸夫)

第5章 シアーズ・ローバック: 計画と偶然がもたらした分権化

【解題】(高橋伸夫)

第6章 組織イノベーション: 比較分析

【解題】(高橋伸夫)

第7章 事業部制の広がり

【解題】(高橋伸夫)

終章 巨大企業の歴史

【解題】(高橋伸夫)

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