高橋伸夫ゼミナール 《2018年度冬学期テキスト: 要約》  表紙(目次)に戻る  Handbook  BizSciNet

Chandler, A. D., Jr. (1962). Strategy and structure: Chapters in the history of the American industrial enterprise.. Cambridge, MA: The MIT Press.
三菱経済研究所訳『経営戦略と組織』実業之日本社, 1967.

有賀裕子訳『組織は戦略に従う』ダイヤモンド社, 2004.



序章 戦略と組織

【解題】米国の巨大企業には事業部制が広まっているが、第一次世界大戦直後から1920年代にかけて、デュポン、GM、ニュージャージー・スタンダード、シアーズの4社の経営陣が、独立に新しい組織形態である事業部制を構築し始めたのが最初だった。事業部制組織は、上から、(1)総合本社(general office)、(2)事業部(division)の中央本社(central office)、(3)部本部(departmental headquarters)、(4)現業部門(field unit)の4階層から成り立っている。「組織は戦略に従う」(p.18)ので、いくつかの基本戦略が組み合わさると、複雑な組織が出来上がる。(高橋伸夫)

動機と手法

 「アメリカの巨大企業の戦略と組織はどのように変遷してきたか」というテーマの探求は、比較経営史を著す試みとして始まった。つまりは製造・マーケティングなどの諸活動について様々な企業がどのように行っているかを比較することで、いくつもの企業の業績を正しく解釈し、ひいてはアメリカの経営者が諸活動をどのように行ってきたかを明確に説明できるに違いないという発想のもとに研究が行われた。

 アメリカ企業が行う諸活動の中でも、比較経営史に最も適しているのはマネジメントだと思われた。そこで、予備研究としてアメリカの巨大企業50社のマネジメントを調査した結果、幅広い経済活動に携わる企業では近年「事業部制」の採用が広まっていることが分かった。「事業部制」は「分権制」とも呼ばれ、総合本社が各事業部に人材・施設といった経営資源の割り当てを行い、各事業部の幹部が職能活動を統括しながら製品・サービスの提供をする、という形態である。(p.5の図1を参照のこと)

 予備研究によると、分権制を早い時期に取り入れ、かつ画期的な成果に結びついた企業は、デュポン/GM/ニュージャージー・スタンダード/シアーズの4社であった。本書ではこの4社に焦点を当てている。この研究において重要なのは、これら4社がお互いを模倣することなく独自に新たな組織形態を築いたという点である。

 4社の組織変革の研究を進めていくうちに、4社の沿革をさらに詳しく調べるだけでなくアメリカ経済史全体の幅広い知識が必要だということが判明した。こうして、研究範囲はこの4社を他の多くの大企業と比較するところに広がり、企業組織の歴史について一般化するまでに至った。こうした目的の達成のために、アメリカの大企業100社近くの調査が行われた。その結果、最先端のマネジメントとは何か、どういった企業がイノベーションの旗手を務めたのかが明らかになった。本書は組織革新によって近代的な分権制が生まれ、アメリカ産業界に広がっていく様子を描いており、大部分は先ほど挙げた4社のマネジメント史に割かれている。

いくつかの前提

 本書での「企業」の定義は、「利益追求型の大規模企業のうち、原材料の調達から最終顧客への製品販売へと至る連続的なプロセスの一部あるいはすべてを担う企業」である。つまり、ヴェルナー・ゾンバルドのいう資本主義的企業(独立の経済組織として、構成メンバーの上位に位置づけられる。個々の取引に介在しながら存在し続け、往々にして構成メンバーより長い寿命を持つ)の一種である。

 また、企業活動の命運を握る経営者の役割は、業務の調整・評価・プランニング・経営資源の配分であり、「マネジメント」や「管理」は、これらに関する経営者の行動や命令や判断を指す言葉である。

 本書における2つの前提は、

  1. 大規模企業における経営者の関心は、各職能の成果よりもマネジメントに強く向けられているということである。
  2. 経営者は2種類のマネジメント作業をこなす必要があるということである。一方は長期的なプランニングや業績評価であり、他方は目の前の課題や予期しない危機への対応だ。
近代的な事業部制の下でのマネジメント活動は、4つの異なる組織階層(総合本社、事業部中央本社、部本部、現業部門)を通して遂行される。各階層はそれぞれ異なるマネジメント活動を行っている。 がそれぞれ行われている。戦略面のマネジメント・実務面のマネジメントは共に判断と実行で区別するべきである。総合本社による経営資源の配分を通じて、戦略面の提案を実行に移すことができる。一方で下層組織のマネージャーは、総合本社から割り当てられた資源を用いて実務判断を実行に移す。つまり、経営資源の配分を担う人々が企業を支えており、そうした人々のことを「企業家」あるいは「経営者」と呼ぶ。対照的に、割り当てられた資源をもとに調整・評価を行う人を「マネージャー」と呼ぶ。

 各企業は4つの組織階層すべてを持つとは限らない。各組織階層は、異なる種類の事業成長に伴って生まれたと考えるのが自然である。ここで事業の成長パターンによって異なるタイプの組織が生まれるという主張を正確に表すために、「戦略」と「組織」の定義を行う。「戦略」は、事業成長のプランニングと実行を指す。具体的には、長期の目標設定と、目標達成のための経営資源配分などの行動のことである。「組織」は、新たに加わった活動や経営資源をマネジメントするための部門を指す。戦略は、組織形態に少なからず影響を持つものである。

 「組織形態」とは、マネジメント組織のつくりを指す。組織形態には2つの側面があり、第1にマネジメントに携わる様々な組織・人材の間での権限やコミュニケーションの経路、第2にそれらの経路を通じて社内に伝わる情報やデータである。

 以上の諸前提から、組織は戦略に応じて決まり、いくつかの基本戦略が組み合わさると極めて複雑な組織が出来上がる、という主張が引き出される。事業活動の量的拡大により、単一組織で単一職能に携わるマネジメント組織が、地理的な拡大により諸部門と部本部が、新たな職能部門への進出により中央本社が、全国規模・国際規模への事業成長により事業部制や総合本社が、それぞれ形成されていくことになる。本研究では、新たな職能部門への進出を「垂直統合戦略」、新製品分野への進出を「多角化戦略」と呼ぶ。

 ここでさらに2つの問いかけが生まれる。

  1. 組織が戦略に従って決まるなら、新戦略の遂行に必要な組織が設けられるまでになぜ時間がかかるのか
  2. 組織改編を要する戦略が生まれたのはなぜか
である。1の問いに対しては、新戦略に伴って生じるマネジメント・ニーズが組織改編の決め手となるほどの意味合いを持たない、もしくは経営陣が新たなニーズに気づいていないという答えが妥当だと思われる。つまり、経営陣に非があるということだ。2の問いに対しては、人口移動や所得水準の変化や技術イノベーションなどにより新たな事業機会やニーズが生まれたからだという答えが妥当である。

 以上の点を前提にすると、事業が成長しても組織を改編しないことは非効率を生じさせるだけだということがわかる。ケーススタディが示すように、大規模企業は戦略に対して組織改編が遅れをとることはあっても、いずれかの時点で多角化した事業をマネジメントする組織を設けている。したがって、戦略・組織を明確に定め両者の関係をわかりやすく説明することで、組織の充実を図った人々の業績について評価が容易になると考えられる。ただし、各社の内外の情勢について幅広い歴史的観点からとらえる必要があることに注意が必要である。

(榎本裕)


第1章 歴史的背景

【解題】19世紀、米国では、企業が海外展開と多角化によって成長、巨大化するにしたがって、それらをマネジメントするための革新が必要になってきた。20世紀に入ると、地理的な拡大と、それ以上に製品の多様化によって生じるひずみが限界に達し、1920年代に事業部制が生まれた。そして第二次世界大戦後の活況時にほとんどの企業が事業部制を取り入れていった。(高橋伸夫)

アメリカでの経営管理の端緒

 アメリカ産業界は企業が極めて小規模で、同族経営が一般的だったため、1850年前後まで、経営管理のための明確な体制も、フルタイムでその業務に関わる人も必要とされなかった。わずか2〜3人ほどが基本的な業務全般の管理を担っており、そのため売買取引そのものや、現業の管理に忙殺されて、長期プランについて頭をめぐらすことはなかった。

 しかし1850年以前でも一握りの大企業は未発達ではあるがマネジメントのための組織を設けていて、これらの企業は本社と現業部門に組織を分けていた。合衆国第二銀行と、アメリカン・ファー・カンパニーはともに当時の最大規模の企業でマネジメントの組織を設けたが、大企業の企業形態には影響を及ぼさなかった。

 むしろ大きな影響を与えたのは1920年代、30年代の大規模な輸送インフラの建設であろう。建設中の運河や鉄道はいくつもの工区に分けられ、それぞれに副技師が割り当てられ、その仕事を本社の技師長が評価し、管理していた。1850年までは鉄道などの建設に当たるのは小規模な企業で、少数の工区しか担当しないため容易に経営者が作業を監督できた。そのため体系的な組織へのニーズはさほど大きくなかった。しかし1850年以降東西を結ぶ幹線鉄道ができ始めると管理業務がフルタイムの仕事としての性格を帯びてきた。主要な鉄道会社は全米最大規模の企業となり従来とは異なるマネジメント法が求められた。エリー鉄道の統括責任者マッカラムは新しい制度として本社と現業部門の間に緻密な指揮系統とコミュニケーションの経路を定めることと、現業部門の長から本社の統括責任者に詳しい報告を絶やさないことを定めた。他の企業もこの構想に沿った組織作りを行った。そしてさらに鉄道の規模が拡大すると、部門同士の関係を定めた包括的な組織を作り、また部門長からなる中央組織を設けて社長と協議しながら会社の利益になるように部門の活動を調整するようにした。このように鉄道会社はアメリカの民間企業としていち早く近代的なマネジメント体制を築き、他業種の企業の組織構築の模範となった。

 南北戦争が終わると一気に都市化が進み、そこから生まれる事業機会をとらえて多くの企業が収益を伸ばし、本拠地から離れた場所で他社を買収したり、部門を新設するなど地理的拡大と垂直的統合の萌芽が生まれた。そして1890年代になると事業帝国が乱立し始めそれらを管理するための組織の設立が課題となった。そしてこの管理は同族経営では手に負えなかったため、フルタイムの専門経営者の手に委ねられた。

複数部門を擁する統合企業の登場

 このように業務が多岐化したことによって先ほど述べたような課題が生じ、マネジメントを主たる任務とする大組織が生まれた。製造分野では多機能型の大企業が対照的な二つの成長戦略を通じて誕生した。

  1. 単一の企業が事業拡大して傘下に販売組織を設けるもの。
  2. 多数のメーカーが持ち株会社などを形成して製造活動を束ね、販売分野への前方統合(メーカーと原材料企業の企業統合)、購買分野への後方統合(メーカーと販売企業との統合)に速やかに乗り出すというものである。
いずれも全米規模で急速に市場が拡大し、様々な機会や圧力がもたらされたためそれらへの対応として取られたものである。

 販売組織を設けるタイプの垂直統合を通じで成長した企業の好例としてグスタヴス・スウィフトがあげられる。食肉を冷蔵することで、西部で生産された肉を東部で売ることを可能にし、主要都市で冷蔵機能のある貯蔵庫や加工場、流通、販売組織を傘下に入れることで利益を上げ、次第に販売組織を海外にも展開し垂直統合された巨大事業帝国となっていった。各業務を体系的にマネジメントし、部門別の製品の流れを調整できるようになると、それに適した製品を開発できるようになった。同様にしてデュークはタバコ業界で垂直統合の形態を作り利益を上げた。また、新しい耐久消費材の開発においても革新的企業は、クラークなどのように自社社員の方が商品知識を持っているため売りやすかったり、掛売りができるといった理由で代理店を通さず、営業所で商売を行ったり、マコーミックなどのように代理店を、自社の資源を使って後方から支援したりして販売組織を強化した。産業用の耐久消費財を提供する企業や、鉄鋼メーカーも同様の組織が形作られた。

水平統合から垂直統合へ

 企業が垂直統合へと向かう道程として一般的だったのは同業他社との結びつきを強めるというものだった。1870年代後半の好況期を中心に各社の経営陣は新しい市場から利益を上げようとして生産を拡大し、その後市場の伸びが鈍って価格が下がったため、各メーカーとも価格の設定などを和らげようと同業他社との関係強化に前向きになった。こうして多くの小企業が水平統合を行ったが、これらは一般的に短命だった。生産スケジュールや価格をグループ内で強制できず足並みをそろえるのが難しく、各社の経営資源を有効活用することができなかったためである。全米規模で事業展開する本格的な統合企業は法律上も実際のマネジメントの上でも新しい形態を必要とした。法的な課題は1889年にニュージャージー州が会社法を改正し、企業相互の株式の持ち合いを認め、これが他の州にも伝播したため、親会社一社が子会社の多数株式を保有することが認められ、様々なハードルを超えて低コストで広域事業を展開しながら各地に分散した事業への法的コントロールを保てるようになった。

 1890年以降はマネジメント面のイノベーションがアメリカ企業の発展に大きな意味を持った。メーカーや販売会社のゆるやかな連合体は本社の下で統合され、業務プロセス、購買活動の標準化によって規模の経済が実現できるようになった。また流通業者とメーカーでは歩調を合わせるのは困難で、メーカーは自ら流通に乗り出した方がコストを抑えられると考え、卸売、小売を手がけることで全米規模の流通網に見合う量を製造、販売できるようになった。この戦略のために販売組織を立ち上げる場合もあったが、合併や買収が一般的だった。このように次第に水平統合は本社一括管理が加わることで垂直統合へ動いた。

 ここからさらに取り組みを進めた企業もあり、販売や製造だけでなく、原材料を生産しその輸送も手がける事例も生まれ始めた。こうした事例は、農産物や天然資源を原材料にしている場合が多く、限られた量の原材料を数社で抑えられたため、他の企業は納得のいく価格で原材料を入手することができないのではないかという脅威を抱き始めこうした動きに追従する動きが増えた。由来がどうあれ統合企業の大多数は傘下の各社を一体化して単一企業へと脱皮した。

 1880年から1900年にかけて事業帝国は拡大のための戦略を練り、経営資源の確保を目指し、工業化と都市化の急激な進展に伴うニーズと課題に応えようとし、多大な経営資源を傘下に置いたが、それらを効果的にマネジメントするための組織を設けてはおらず関心も低かった。にもかかわらず拡大のためにはマネジメントにおける革新が必要とされていた。

(信田直人)

    

組織の構築

 20世紀初頭ではアメリカでは統合企業のマネジメントの難しさが叫ばれた。巨大企業は非効率にならざるを得ず、規模の経済はまず引き出せないといった論調が長らくアメリカを支配してしまった。こうした経営管理上の課題に立ち向かったのは多くの場合巨大事業帝国を築いたのとは別の人々だった。事業帝国をマネジメントするための組織設計には企業を次々に傘下に収めるのとは全く異なる資質と気質が求められたのだ。なぜなら、拡大や合併、垂直統合を進めた当初は多大な経営資源を効率的に管理して単位あたりのコストを下げよう、との意図は明確ではなかったからだ。経営陣は競争をコントロールするのを主な狙いとしていたのだ。

 マネジメント面の統合が進んだ新興企業では統合に責任を負う経営者が臨機応変に新しい組織の枠組みを設け、マネジメントのあらゆるレベルで権限やコミュニケーションの体系が築かれた。本社は各職能部門と全社の調整、評価、プランニングを効果的に遂行できなくてはならなかったのだ。こうした中で、鉄道会社は一時代前に似た課題に直面していたため、組織構築の貴重な先例を提供することとなり、なかでもペンシルベニア鉄道の例は広く知られていた。

他業種ではこうしたペンシルベニア鉄道の取り組みに着目した企業家も存在しただろうが、鉄道よりも遥かに複雑なマネジメント課題を抱えていた。その理由は大きく3つある。
  1. 鉄道の各管区と異なり、他業種では現場の諸部門は地理的に分散し、繋がりが弱かったから
  2. 製造と販売が量的に拡大し、その手法も複雑化するにつれ、補助的サービスを担う部門数が増えたから
  3. 大規模な統合企業は多彩な活動をしていたから
理由3については、新興の統合企業は少なくとも3つの主要機能を担っていてそれぞれ異なる能力や研鑽が求められた。また、鉄道の運行部門のような、誰もが認めるような最重要部門といったものは無かった。よって、ペンシルベニア鉄道における最大の特徴であったラインとスタッフの違いを持ち出しても無意味だったのである。つまり、業務内容の異なるいくつもの部門を対象に業績を評価したり、プランニングを行うのは大変難しかったのだ。このような課題に対して、1920年代には、集権的職能組織という組織構造をどの企業も持ち合わせるようになった。しかし、この形態は根本的な弱点を抱えていた。ごく一握りの人々に膨大な量かつ複雑な判断が委ねれていたのだ。また、幹部の育成もうまく行えなかった。幹部の大多数は入社以来ごく狭い範囲の業務だけをこなしたので他部門や全社的なニーズ・課題とは無縁となってしまったのだ。

さらなる成長: 事業部制の誕生

 19世紀末のアメリカは人口動態と技術の根本的変化、とりわけ都市部の急速な拡大によって企業はさらなる成長を遂げていた。そうしてリーディング企業は複雑なマネジメント上の課題に直面し、分権的な事業部制という新しい組織形態によるマネジメントが始まった。

 新しい市場や技術に大きく影響された業界は海外展開と多角化によって成長を実現させた。両者の内でも、多角化の方がより強く事業部制の誕生を促した。先進的な技術を用いた業界のリーディング企業は自社の設備や科学面でのノウハウを新しい市場に向けた新規製品の生産や販売に容易に転用できると考え、多角化を推し進めた。一方で、流通販売を主体とする企業は都市部ついで郊外の市場の変貌を受けて多角化の道を歩んだ。多角化による成長は海外展開にも増して通常業務、経営業務の増加と高度化を招いた。製品をつくって市場に届けるまでにはいくつもの部門が関わったが、それらの足並みを揃える仕事に至ってはより困難を極めたのだ。例えば、長期の戦略プランニングを行うためには、施設、人材、資金などをどのように活かすか、既存の製品ラインに関わる経営資源をいかに充実させていくかを判断し、実行するだけでなく、新しい分野への参入、既存分野からの撤退あるいは縮小といった決断をも下さなくてはならないのだ。

 こうして1920年代に事業部制は生まれ、デュポン、GM、ニュージャージー・スタンダード、シアーズの4社はいち早くこの新しい形態に移行した。そして第二次世界大戦後の活況時にほとんどの企業がこれに従っていった。

以上のように、事業の成長と多角化を機に多くの企業が、デュポン、GM、ニュージャージー・スタンダード、シアーズの4社が1920年代に直面したのと同じ課題に直面したわけで、この傾向は今後も続いていくだろう。

 これまでアメリカで大規模企業が成長した軌跡を概観した。過去の記録を辿ると、組織は戦略に従って決まり、事業拡大の道筋が異なれば、マネジメント上のニーズも異なり、結果として別タイプの組織が生まれる、という事実が浮き彫りになる。しかし上記のような概観だけでは、その詳細はわからない。各社の実情に迫り、事業帝国や組織を築き上げた人々がいかに新しい策略を定め、組織をつくっていったのかを確かめるのが唯一の道である。次章以降の4つのケーススタディはこのように企業を内側から眺めていくことを目的としている。各ケーススタディは経営者や企業が違えば、マネジメントの諸課題へのアプローチにも違いが出ることを示している。そうしたアプローチや見通しが異なる点が、4つの事業帝国の間で、外部のニーズや機会への対応に開きが生じた最大の原因と言えるだろう。

(梶ヶ谷悠希)


第2章 デュポン: 自律的事業部の創設

【解題】火薬製造会社だったデュポン社は、戦時の需要急増期には集権的職能別組織で急成長を遂げたが、その後、戦後の余剰設備を生かすために製品多角化に乗り出す。しかし、製品によってマーケティングを変える必要があったのに、それに対応できず、利益を出せずに危機に陥った末、とうとう製品別の事業部制に再編する。事業部制組織に再編後は、危機を脱して、総合化学メーカーとして順調に発展していくことになる。(高橋伸夫)

1. 集権的な組織

 1902年冬、E.I.デュポン・ド・ヌムールの社長ユージン・デュポンが急死した。残された共同経営者たちは、同業界2位のラフリン社への身売りを考えたが、当時37歳だったアルフレッド・デュポンはこれに反対し、いとこのコールマン、ピエールとともにデュポンを買収した。

統合戦略の推進

 ユージンがなくなった当時、デュポンの経営者や管理者のポストは一族がほぼ独占しており、経営手法も保守的であった。しかし、デュポン社は原則として同業他社の株式を保有する方針を採っており、火薬業団体を通じて業界全体の価格や生産スケジュールに関して実質の決定権を持つなど、火薬業界全体にも強い影響力を及ぼしていた。こうした業界内での連携により、アメリカの火薬業団体はきわめて安定して長く活動を続けた。

 ユージンは、業界全体の生産・販売には強い発言権を持っていたが、加盟各企業の生産・販売については無関心だったようである。団体も加盟企業も、コスト・業務プロセス・マーケティングといった経営資源をうまく活かすための情報や手法は持ち合わせていなかったため、効果的なマネジメントの実現はほど遠かったというのが実情だ。

 しかしユージンの死後、コールマンとピエールは、買収したデュポン社の組織改編に伴って、事業帝国を築き、集権的なマネジメントを取り入れようと奮起した。コールマンは、新会社E.I.デュポン・ド・ヌムール・パウダーを設立し、その株式や現金と交換に、既存のグループ各社や株主に、デュポン家への株式譲渡を求めた。一方ピエールは、各社に実効あるコントロールを及ぼし、低コストでの製造を全社的に実現するために、新会社のマネジメント体制構築に専心した。こうして、「一社の名の下に、単一の販売組織、単一のマネジメント、単一の業務遂行体制の下で経営する」ことが可能になった。

 ピエールとコールマンは、集権的な組織を築く上で、ロレーン・スチールや、レパウノのダイナマイト工場をモデルとし、製造を統合、主力三製品それぞれの管理組織・マーケティング組織・開発部門などを設け、経営資源を統合するためのマネジメント組織をつくり上げた。さらに、新設所部門の部本部を置くために、ウィルミントンの中心部に巨大な高層ビルを建てた。コールマンは社長、アルフレッドはゼネラル・マネジャー、ピエールは経理の責任者となり、ロレーンからやって来たモクザム、レパウノで活躍したハスケルとバークスデールとともに主要ポストを占めた。彼らは新しい任務を遂行するうえで、種々の現業部門でも効果的な調整、評価、プランニングを行うために、部門制を取り入れる必要があると考えていた。

複数部門制の導入

 集権的な組織を築くなかで、コールマンとピエールは経営業務と日常業務を明確に区別した。各主要部門には長期的なプランニングと業績評価を行うバイス・プレジデントと、部門の日々の業務を進めるディレクターを置いた。このバイス・プレジデントは、社長と共に経営委員会を構成して全社の大方針を定める傍ら、担当部門のマネジメントに関してはすべての責任と権限を与えられた。

 3つの主力製造部門は、ゼネラル・マネジャーであるアルフレッドの管理下にあった。アルフレッドとバイス・プレジデントたちは、部本部から各工場での業務を調整・評価・プランニングし、手順を定めた。また、部本部と現場との間の権限やコミュニケーションの流れは、ライン・スタッフの概念に従って定められており、各部門は、本社スタッフと工場の監督者を集めて定例会議を催し、低コスト化・効率アップのための方策について話し合った。

 セールス活動も、製造と同様に組織化された。名セールスマンだったパターソンは、全米の各都市に17のセールス組織を構え、それぞれに配置された支店長が、現場のセールス担当たちの活動を監督した。またセールスは、従来の代理店や販売請負人に変わって、産業用火薬の使用法を熟知した従業員が担い、顧客とともに個別の課題解決に取り組めるようにした。

 この様な研修や育成はやがて技術部門が引き継いだ。スタッフ組織にはこのほか、広告部門や、自社と競合他社の販売データの統計にまとめる販売データ部門、販売原価部門が設けられた。これらの分野でも、本社と現場の関係はライン・スタッフの概念に沿って定められていた。

 以上の部門に規模は劣るが、ほかに主要原材料、開発、不動産、法務、経理という5つの職能別部門が社長直轄下に置かれていた。

 中央本社には、職能別のバイス・プレジデントと社長がおり、全社の調整・評価・プランニングは財務・経営・管理の3委員会に委ねられた。ただし、経営委員会は長期のプランニングと業績評価にのみ力を注ぎ、諸部門の日々の業務を調整するのは、部門のディレクターたちから成る管理委員会としていた。

組織改編: 1903年から1919年

 以上の大変革ののち、第一次世界大戦が終結するまでの間、デュポンの組織は大きく変わることはなく、中央本社内で微調整が行われるにとどまった。この微調整は主に3種類に分けられる。

 最も重要な変化は、トップ交代に起因するものであった。経営者に最もふさわしいと判明したピエールが、1909年に正式に社長に就任し、1911年には経営者としての力量不足や聴力の衰えを理由に、ゼネラル・マネジャーであったアルフレッドを解任する。これを受け若手がトップ・マネジメントに次々と抜擢され、経営陣が入れ替わった。翌年、デュポンのシャーマン反トラスト法違反が認定されたため火薬事業は三分割され、デュポン社に加えて新たに2社が誕生した。これによってデュポン社本体は工場と人材の一部を失ったが、組織と戦略の大枠には影響しなかった。

 その後様々な対立があったとされるが、1914年には結局ピエールが社長として全社の方針と業績に責任を負う立場に戻り、弟のイレネーがゼネラル・マネジャーに就任する。それまで上層部を占めていた年長者は退任し、経験と資質を備えた若者が新たにバイス・プレジデントに登用された。こうした改革を進めるなかで、ピエールは排他主義的な一族経営を退け、これ以来血筋ではなく能力に応じて人材を登用するのが慣行となった。

 経営陣の世代交代を成し遂げると、ピエールは、中央本社の使命を慎重に定めていった。そして、経営委員会の仕事は、全社に関係した問題・方針を検討し、各部門の大枠の目標や方針を決め、全社の利益に沿って部門間の調整を図ることだとした。

 財務委員会についても、経営委員会と同列以上の格を与えた。しかし、その権限は経営員会の予算案の承認にとどまり、ピエールとコールマンは、財務委員会のメンバーに自分たち二人のほかアルフレッドらを含めることで、大株主から重要な意思決定に意見を挟む余地を奪った。第二の変化は、エンジニアリング・購買・輸送部門、化学製品部門や軍需セールス部門といった補助業務やサービス業務を担う部門の拡充であった。第三の変化は、全社のマネジメントに関する情報に関わって起こった。第一次大戦前から戦中にかけて統計データとその利用方法が洗練され、経理関連部門は、景気全般を予測した上で経営資源の配分を提案するようになった。特筆すべきなのが、ブラウンが考案したROI(投資収益率)の算出法である。ROIのおかげで、中央本社と部本部に正確なモノサシを提供して、各事業部門の業績評価、非効率の発見、プランや方針の修正などが可能になった。

よりいっそうの集権化: 1919年

 第一次世界大戦が集結すると、ピエールは、転機を迎えたデュポンのマネジメントと発展を次世代に託すため、経営陣を刷新するべきだと判断した。加えて、経営委員会の下に組織改編案を練る小委員会を設け、その議長にハスケルを据えることを提案した。ハスケルは特に組織に興味を寄せ、ピエールに対し簡素化と集権化の徹底を求めている。

 小委員会がまとめた報告書では、組織上の諸問題への取り組み方や、職能別組織の意義の捉え方が論じられていた。まず、組織の目的について、「最小の努力から最大の成果を引き出すこと」だと定義している。この目的に関して、経験をもとに2つの原則「似通ったもの同士ではなく、関連性の高いものを集めるということ」と「関連性の高い複数の業務を預かるマネジャーに、全幅の権限と責任を与えるということ」が掲げられた。さらに、この2つの原則を柱に、事業活動を生産・セールス・開発・経理の4つの職能別「大」部門が分担することや、経営員会がプランニングと全般的な業績評価を担うとすることなど、いくつかの提案を示している。

 報告書に目を通したピエールは、理想的な組織形態を先に固めてしまうのではなく、人材を核にして組織を構築していくべきだと主張し、若手エグゼクティブを登用するように提案した。かつての経営委員会のメンバーは財務委員会に移し、自身も名誉職的な取締役会長に就任、イレネーを社長、ラモットを経営委員会議長に指名した。経営委員会は新体制となって程なく、ハスケルの報告書の勧告を若干の修正を施しただけで受け入れた。

 1919年夏には、デュポンはマネジメント組織の簡素化を終え、若さと経験を備えた人材を上層部に備えて第一次大戦後に備えていた。垂直統合された巨大企業のマネジメントを行う上で、これ以上合理的に考案された組織は他にない。しかし単一の製品ラインをマネジメントするために設けられた組織は、製品多角化という戦後の戦略には適さず、デュポンはこの集権的組織を2年後には根本的に改めることになる。

(松田朋佳)

2. 多角化戦略

 デュポンは1902年の企業統合以来、単一生産ラインの生産量を増やすことで事業拡大してきた。しかし第一次大戦後、新しい分野での生産ラインを立ち上げる成長戦略をとった。それに伴い、マネジメント面で課題が生じた。では何故、今までの戦略を捨てて新しい道を選んだのか。それは戦時中に物理的規模だけでなく、財務、人員が大きく膨らんだためである。

多角化への第一歩

 デュポンは、新しいスタートを切った1902年当初、多角化を否定していた。この時点で傘下に入ったインターナショナル・スモークレス・パウダー・アンド・ケミカルは、無煙火薬の製造過程で生じる副産物から、溶剤などの事業を行なっていた。新生デュポンもこれを継承したが規模が小さかったため育てはしなかった。火薬以外の分野に進んだのは1908年からで、後の多角化と同様その背景には設備余剰があった。政府が軍用火薬の発注を棚上げしたため、工場設備と労働力がだぶつくと懸念が起こったのだ。1903年に他社を買収し、軍用火薬を独占的に供給するようになると、程なくして1906年には連邦政府がデュポン相手に反トラスト訴訟を起すといった政治的逆風に晒された。デュポンは1908年に工場の1つを閉鎖し残りの2工場でも生産量を減らした。こうした中、経営委員会では政府からの受注を逃したのが契機となって、政府受注の意義を問い直すことになる。遊休状態に陥った経営資源を新たな目的に配分すれば、政府向けの工場や人材も収益性の高い活動に転用できるかもしれない。こうして、市場の変化により新しい圧力とニーズが生まれたため、経営者は戦略転換を図ったが、同時に新しい事業機会にも目を留めたのである。

 ピエールは弟のイレネーを開発部門長と経営委員会のメンバーに据え、新戦略づくりを任せた。そこで、ニトロセルロースを主原料とする人工皮革、レーヨン、写真フィルムを含むピロキシリン製品の3事業に注目する。では、デュポンがすでに持つ経営資源を活用する上で最も広い事業機会を提供するのはどれだろうか。まず、ピロキシリンの市場規模は大きいが、製造に困難が伴う。ゆえに、他メーカーと競合するのではなく、それらの企業に原材料を提供する道を探るべきという結論に至った。レーヨン事業への参入は別の困難があった。アメリカでは全くレーヨンが製造されていなかったので、事業機会は大きかったが、ヨーロッパでレーヨンを製造するシャルドネ社が法外な特許使用料を求めてきたのだ。人工皮革に関しては、初期投資もかさまず、デュポンの専門技術、経営資源を活かせるようだった。アメリカでは、ニトロセルロースが原料の人工皮革はまだ質が低く、高品質のものの需要があった。そこで、開発部門は1909年秋、閉鎖された無煙火薬工場に小規模な実験施設を設けた。実験からは上々の成果が得られたため、経営委員会は人工皮革事業への参入に同意した。

 1910年以降しばらくは多角化の動きを見せなかった。海軍からの受注が増えた上に、政府から無煙火薬の大量発注があったのだ。1913年夏には、政府発注が減ったため、再び設備余剰の問題が生じる。そこで、経営委員会は「ニトロセルロースのこれまでにない用途を探すように」と開発部に命じ、これを受け、短い木綿繊維でできたセルロースからピロキシリンを生産する案を実行するべきだと提言した。ところが、さらに検討を進めたところ、他のピロキシリンメーカーの要望にあったニトロセルロースを供給するのは容易ではないと判明した。なぜなら、そのメーカーがコントロール権を失うため、他社からの原料調達は避ける上、デュポン社に製品構成や製造方法を細かく教える必要があるからだ。つまり、サプライヤーとメーカーの連携が欠かせないため、参入するなら半製品、さらには完成品の生産・販売をするという垂直統合戦略が求められた。経営委員会はピロキシリン事業への参入を認めた。当初、大きな収益が求められると予想したが、ヨーロッパが戦争に突入したため、この計画は軌道修正を求められた。1914年秋、連合国軍から膨大な無煙火薬の注文が舞い込んだのである。こういった状況から、1915年春までは、戦時需要に応えるために巨大工場などの施設を建設するのに精一杯で、それ以外に注意を払う余裕はなかった。

多角化への圧力が強まる

 戦争中の事業拡大を受けて、その後、無煙火薬事業の設備余剰が深刻な問題として浮上した。戦時中大量注文されたのが主に砲弾を飛ばすための火薬で、デュポン社の屋台骨を支える高性能爆薬ではなかったのだ。こうした生産量の増大を受けて、以前にも増した原材料の増産に踏み切る。そこで、原料を確実に調達するには垂直統合をさらに推し進めることが求められた。また、新たな需要が生まれたため、工場の生産能力が拡大したばかりか、熟練労働者の数や投下資本の額も押し上げられた。従業員数も大きく増えたが、管理職はそれに比べ微増にすぎなかった。

 火薬工場の拡充が進み、軍需が満たせると見込まれるとすぐに、戦後プランが検討された。化学を土台とした多角化プランが練られたが、それには2段階のプロセスがあった。

  1. まず、開発部門に新設された遊休工場活性化部が、拡大した無煙火薬工場の用途を探した。
  2. ついで1917年には工場・機械以外の研究所・販売組織、とりわけ人材などの経営資源にも検討対象が広げられた。
化学関連分野への多角化は3つの柱に沿って進められた。
  1. すでに参入していた人工皮革とピロキシリンの事業が拡大した。この過程において、その分野で蓄積のある他社を数社買収し、垂直統合を進めた。
  2. 欧州での戦争で品不足に陥った染料業界に参入した。
  3. 戦後に生産施設を有効活用できる新製品をいくつも検討した。
次いで、個々の無煙火薬工場について、立地・機械設備・人材の面でどのような利点があるのかを調べる作業に取り掛かった。報告書では、様々な工場の資源が新製品の製造に転用可能であることが示された。中でも、パーリン工場の転用案が好評だったので、1916年にワニスと塗料事業に参入すると決断された。これには余剰設備が利用されるので大きな投資は必要ないと見込まれた。この際に生じるマーケティング上の課題には経営委員会や開発部門は無頓着であり、買収によっての解決を求め、1916年末にハリソン・ブラザーズを傘下に収めることとなった。

多角化戦略の新展開

 塗料事業への参入を機に、開発部門と経営委員会は多角化戦略の目的を問い直した。それまでは、既存工場の有効利用を最優先していたが、調査を幾ら重ねても、単一の製品あるいは製造能力を全て使い切ることはできないという結論に至った。そこで、1917年に、個々の工場の設備だけ でなく、全社のあらゆる経営資源、つまり従業員の資質、機械類、資本などを生かせる事業を探すべきだと考え始める。この新たな多角化戦略に沿って、デュポンは1917年の春に塗料メーカーを次々と買収していった。塗料事業は利益率が低く損失が出ていたが、開発部門はフルラインの塗料生産に向けて計画を実行すべきだと提案し、経営委員会も工場買取を認めた。しかし、その後1918年末までには、マーケティングが暗礁に乗り上げ、損失にも歯止めがかからなかったため塗料事業の拡大と他社買収の計画は中止となった。

 塗料事業の拡大を除けば、アメリカが第一次大戦に参戦した煽りで火薬の増産に多大なエネルギーが向けられたため、多角化プログラムは順調には進まなかった。とはいえ、1917年11月には、開発部門は塗料以外の分野でも進展があったことを報告している。第一次大戦が終結して火薬需要が急速にしぼむと、デュポンは1917年の決定に沿って、新規事業への参入を続けて行った。こうして1919年春には、デュポンは火薬のほか、化学・塗料・ワニス・ピロキシリン・人工皮革などの事業分野で足場を固めていった。そしてこの年の下期にはついにレーヨン製造への参入が決断された。

 1919年までの間に、デュポンは事業内容を急速なテンポで変容させていく。第一次大戦前は、単一の生産ラインに高い比重を置いていたが、戦火が収まった初年には、ニトロセルロースや無煙火薬とは製造手法の似た多くの製造分野に進出している。だがこれらの製品は従来とは全く異なった市場に向けられたもので、資材や原材料も異なるケースが見られた。このような多角化戦略は、経営資源に余剰が生じるのではないかという危惧から生み出されたものであった。既存の経営資源について新たな用途を見つける必要があるとの認識は、1908年に政府受注が減少したのをきっかけに芽生え、第一次大戦の勃発とともに一気に強まった。この間に経営陣は、ニトロセルロース技術を応用すれば、既存の工場や人材を生かして、火薬の製造販売よりも利益率の高い事業を生み出せると考えていた。

 しかし、彼らは、経営資源を長期的に有効活用するために多角化戦略を推進しながらも、戦略と組織の関係を見落としていた。種々の経営資源を結びつけて生産効果を高めるには、組織が重要だと気がついていたが、単一の生産ラインを製造販売するために設けられた組織が、果たしてそのままで性質のことなる製品を新たな市場に送り出すのに適しているのか、という問題提起はしないままだったのだ。

(西山將己)

3. 新戦略にふさわしい組織づくり

 多角化が進むと、管理組織の需要が急増したため、これが組織面での大きな課題となった。この多角化に伴う管理業務の急増という問題は、各部門にも増して中央本社に重くのしかかってきた。単一の業務ではなく複数の事業について、方針を決めて経営資源を割り当てたり、業績を公平に評価したりしなくてはならないのだ。このように部門間の調整が必要ではあったが、1919年時点のデュポン社では、購買、製造、セールスの主要3部門は、市場予測とスケジュール設定をそれぞれ別個に行なっていた。

新戦略がもたらした新たな問題

 以上のようなマネジメント上の矛盾はすぐに表面化したが、デュポンが組織改編に踏み切ったのは、1920年から翌年にかけての深刻な不況によって、いよいよ抜き差しならない事態に陥ってからだった。マネジメントに矛盾が生じているとの兆しはまず、一部新規事業の業績低迷というかたちで表れた。景気が良好だった1919年ですら、新製品の多くが期待されたほどの利益を上げられずにいた。塗料事業などは多額の損失を計上する有様だった。報告書に「塗料とワニスの売り上げは伸びたが、損失も増大したのだった」と書かれたほどである。他の新規事業は、塗料事業ほど悲惨ではなかったにせよ、やはり期待通りの利益を上げられずにいた。塗料と同じように小売店や最終顧客に小口で売られる製品分野は、とりわけ業績が思わしくなかった。諸問題のなかでも最も深刻だったのはセールス関連で、この点については衆目が一致するところだろう。新製品の原料や製造プロセスは火薬と共通のものが多かったが、マーケティング面では火薬との共通性はほとんどなかった。セールス担当バイス・プレジデントのフレデリック・W・ピッカードの考えでは、性質の異なるいくつものマーケティング活動をマネジメントしなくてはいけないという点が、何より大きな問題を引き起こしていた。ピッカードによれば、製品の多角化を受けて、デュポンはマーケティング面で3つの選択肢に直面しているという。

  1. 参入まもない消費財分野で、「全米規模の販売促進を積極的に拡大」する。
  2. この事業分野から撤退して売却先を探す。
  3. 「すでに着手した事業については販売活動を続けるが、拡大路線は取らず、さらなる多角化も見合わせる」という現状維持を柱とした中庸の道を行く。
のいずれかである。これはきわめて難しい選択で、セールス部門の上層部は結論を取りまとめることができなかった。そこでピッカードはこの問題を検討して解決策を引き出すために、主要4部門(生産、セールス、経理、開発部門)の代表者からなる小委員会を設置してほしいと経営委員会に懇請した。

問題の分析

 経営委員会はすぐさま小委員会を設置し、ピッカード(セールス部門)、ドナルドソン・ブラウン(経理部門)、 ウォルター・カーペンター(開発部門)、A・フェリックス・デュポン(火薬製造部門ゼネラル・マネジャー)の4人をメンバーに据えた。彼らは多忙を極めるあまり、この重要な問題に十分な注意を払えなかったため、さらに下部委員会を設けて、4部門から1名ずつ有能な人材を出し、これに社長補佐を加えたメンバーに課題を委ねた。この5人は6カ月にわたって精力的に検討を重ね、1920年3月16日付で上層部に報告書を提出した。彼らの検討内容と報告書は、マーケティング面での当面の課題を解決するにとどまらず、デュポン社全体に実に多大な影響を及ぼすことになった。創業以来初めて、新たなマネジメント形態が提案されたのだ。下部委員会はピッカードが示した3つの選択肢を検討し、ピロキシリン、化学物質、塗料、ワニスに注力すると決めた。様々な調査の結果、下部委員会は1920年代初めに、問題の根はセールスのやり方ではなく組織にある との結論を導き出した。最終報告書で下部委員会は引き続き、「事業は組織によって遂行される」と述べている。デュポンの塗料事業とセルロイド(完成品)事業では「職能別の責任は十分に果たされているが、利益への責任は果たされてこなかった」としている。言い換えれば、各職能部門の各活動はうまくマネジメントされているが、個々の製品ラインに目を光らせて確実に利益を上げるという責任は、だれも負っていなかったのだ。

組織改編案が退けられる

 下部委員会は、組織に抜本的にメスを入れるべきだと強く提案した。

  1. 職能ではなく製品を切り口にして組織をつくるべきだ。
  2. 塗料・ワニス、ピラリン・セルロイドの購買、製造、マーケティング、経理 を扱う組織を既存部門から切り離して、その2つの事業にそれぞれ1人ずつ幹部を割り当て、前記4つの職能と利益、業績に関する責任を負わせるとよい。
というのだ。次に委員会は組織図を描いて、2つの自律的事業部を有効に機能させるにはどうすればよいかを示した(p.120図4)。各部門を代表する、比較的若いが経験豊かなエグゼクティブが示したこれらの提案は、当時のデュポンの組織のみならず、後にアメリカ産業界で主流となる事業部制の基本コンセプトを示したものである。もっとも、この提案が了承され、実行に移されるまでには、1年半を要した。マーケティング課題解決のための小委員会と経営委員会の両方から、強い反発を受けたのだ。小委員会は、下部委員会の報告書から組織に関する分析・提案をすべて削除して、経営委員会に提出したのだった。 にもかかわらず、下部委員会の提案は幹部のあいだで議論され、数週間後、経営委員会は組織検討のための特別委員会を設けて、6月には、以前に下部委員会が出したのとほぼ同じ意見にたどり着いていた。そして1920年7月8日、塗料事業とピロキシリン事業に関するかつての提案内容を全事業に拡大すべきだと、進言したのだ。同じ事業分野に属する関連性の高い製品を集めて、「自律的な事業部の管轄下に置き、事業全体と利益への責任をゼネラル・マネジャーに負わせる、というものである。しかし、幹部たちは、解決の決め手は組織改編ではなく、よりよい情報や知識を得ることだろうと考えており、社長のイレネー・デュポンはこの報告書とは異なる見解を持っており、「専門化の原則」を捨てることに後ろ向きだった。そのため、組織に関する最終決定権者である社長は提案を退けた。

妥協の成立

 革新的な新組織案には疑いの目が向けられたため、ピッカードらは、同じ製品ラインを担当する各職能別組織を効果的にマネジメントするにはどうすればよいか、新たな方法を模索し始めた。その結果提案された報告書は、表立って組織の問題を扱っていたわけではなく、「塗料・ワニス事業から10%のリターンを得るために」という威勢のよいタイトルがついていた。そしてその実現のためには、「事業のコントロールと利益責任を同一組織に委ねる必要がある」と述べ、その組織は「塗料セールス担当のディレクター、塗料生産のアシスタント・ディレクター、中立的なメンバーからなる委員会であるべき」だとしたのだ。経営委員会はこの的を射た提案に強い感銘を受け、承認を下した。この承認を受け、ピッカードと、組織に関する小委員会で彼の右腕を務めたウィリアム・スプルーアンスが、委員会の案をデュポンのほぼ全活動にまで広げ、主要製品ラインごとに事業部カウンシルを設けるべきだと提案した。この時も正面からは組織の問題を取り上げず、データ収集と統計をどうマネジメントすべきかという内容の報告書を作成したのだ。

 調整のために新設された委員会のうちで、塗料・ワニス諮問委員会が最も活発だったが、これは1人にすべての権限が集中していたからである。塗料・ワニス諮問委員会はまず、セールス、生産、購買の各部門で塗料を扱う部署の統廃合を、矢継ぎ早に進めていった。このようなマネジメントの下、塗料・ワニス事業は上向き始め、少なくとも損失額は減っていった。にもかかわらず、1922年の年明けから春にかけて、9つのカウンシルのいずれについても、「塗料事業の先例に倣って、1人のエグゼクティブに全権を与えるべきだ」と主張した人は皆無だった。 それどころか5月には組織に関する小委員会が、カウンシル制度は順調に滑り出したとの見解を示し、その提案に沿って経営委員会は、少なくともあと1年は現状を維持すると決めたのだ。

危機の到来と事業部制への移行

 妥協のうえに成り立っていたこの組織形態は、9月までしか存続しなかった。1922年上期の財務内容があまりに惨憺たるものだったため、ついに組織に大々的にメスを入れることになったのである。経営委員会でさまざまな改善案が話し合われる中、H・フレッチャー・ブラウンがある改善案を提案した。それは、まず第一に、集権的職能別組織を完全に捨てて、前年に提案のあった組織形態へと移行する。第二に、経営委員会メンバーから事業部の代表者を外す、というものであった。ブラウンの考えでは、経営委員会は十分に機能していなかった。なぜなら、経営委員会は議長を除く全員が部門長・事業部長で占められていて、これまでの慣行に従って、特定部門の問題については話し合いを避けており、部門長たちは、他部門の業務について調べたり、批判したりする立場にない。そのため、客観的な立場からの批判や分析ができず、メンバーは社のニーズや問題点を全社的な視点からとらえられなかったのだ。

 このブラウンの案が元となって最終組織改編案が決定された(p.132図5)。この新組織により総合本社は全社的な戦略判断によりふさわしい組織へと変わり、各事業部ゼネラル・マネジャーは日々事業を 運営していくのに必要な権限と資源を、十分に手に入れた。ゼネラル・マネジャーはみな、担当の主要製品を製造・販売するための職能をすべて管理下に置いていたため、経営委員会の定めた予算と枠組みの範囲内であれば、 経営資源の最も効果的な活用法をみずから決めることができた。取締役会に提出された最終報告書には、こうも記されている。「このようにして責任の所在が明確になった。結果への責任を負わされると、おのずと関心も湧いてくるものだ。すると業務を精力的に、しかも効果的にこなすため、高い成果が引き出される。この新プランの採用を機に、従業員の士気が飛躍的に高まるものと信じている」。ちなみに、組織改編による心理的効果について言及があったのは、これが初めてである。

 この組織形態が採用されたのち、損失は程なく解消され、1922年以来、30年代の深刻な不況期を含めて今日まで、デュポンは危機と無縁であり続けている。GM、ニュージャージー・スタンダード、シアーズ・ローバック は、いったん大掛かりな組織改編を行った後、さらに大きく組織を変えているが、デュポンの組織は全体として、1922年以降ほとんど変わっていない。事業部、補助スタッフ部門、経営委員会、財務委員会などは、業務内容、組織形態共に、1922年秋とほぼ同じままなのである。

(藤原欣広)


第3章 ゼネラルモーターズ(GM): 総合本社の創設

【解題】GMは自動車メーカーや部品メーカーを次々と合併買収して成長していったが、基本的に自動車会社であり、デュポンのようには多角化しなかった。しかし、GMが持株会社から事業会社に変更しても、GMの本社にはデュラントと2、3人の補佐役しかおらず、各事業部長が好き勝手するのをまとめられなかった。そのため、2度目の経営危機(1920年)の後、スローンの構想に基づいて、強力な総合本社を設置して事業部制となり、古参の事業部長を挿げ替え、一つの組織へと変態を遂げた。その後は、不況なども乗り越えて成長していった。(高橋伸夫)

1. デュラントの戦略

 デュポン社では、経営委員会が製品ライン別事業部制の導入について話し合いを持ったのと同日、財務委員会は緊急の会合を開いていた。ウィリアム・C・デュラントが設立したGM社が破産の危機に瀕し、株式市場が大混乱に陥る寸前まで来ていたのである。この事態を防ぐため、デュポン社取締役会長ピエール・S・デュポンと財務担当幹部のジョン・J・ラスコブ、それからデュラントの3名は、大株主のJ・P・モルガンの代表者たちと会談して、デュポン社とJ・P・モルガン共同で新会社を設立のうえ、デュラントの債務と保有GM株を引き継ぐことで合意していた。デュラントは直後に社長の任を退き、ピエール・デュポンがGMの社長に就任する。

 1920年11月、デュポン社の経営委員会では分権的な事業部制を導入する組織改革案がイレネー・デュポンによって退けられた。しかしそれから1ヶ月もしない同12月、アルフレッド・P・スローンが提案した組織改革案が、類似の内容であったにも関わらず、ピエールによって承認された。それぞれの案は、互いに対照的なマネジメント課題を解決するために生まれたものであったため、ピエールもイレネーも二つの案が似ていると思わなかったことが原因であると考えられる。デュポンでは、旧来の集権的職能別組織のもとでの新製品ラインのマネジメントに綻びが見え、その解消を目的としていた一方、GMは各事業部の足並みがひどく乱れていたため、その統合が問題となっていた。

 1920年12月にピエール・デュポンが直面していた課題を理解するためには、GMの沿革を振り返る必要がある。デュラントは他社の吸収・合併を繰り返す拡大戦略を取ってきており、それがGMの歴史であったと言っても過言ではない。草創期の自動車業界で、自社の工場を拡大することを通してニーズに応えようとしたヘンリー・フォードと異なり、デュラントは持ち株会社の下にボディ、部品、付属品などを製造する多彩な製造施設を置く戦略を選んだ。GMは1919年には資産ベースで全米5位の大企業へと成長するが、デュラントは拡大した組織を効果的にマネジメントするための組織づくりにはほとんど関心を払わなかった。1920年以前にも総合本社に類するものを設けようとする試みはあったが、実現には至らなかった。しかし1920年に入ると深刻な戦後不況の煽りを受け、全社的なマネジメント体制の必要性が明らかになり、同時に経営陣の交代が促されることになる。

デュラントの戦略の背景

 デュラントは自動車市場の将来像を明確に描いており、馬車メーカーやビュイックで実績の上がった経営方針をもとにGMを築き上げていった。

 デュラントはその事業をミシガン州フリントでの馬車製造からスタートした。当初は自社製造よりも販売を重視し、都市部で自前の販売組織を築いたり、地方ではディーラーに委託したりといった方法で需要を増やしていった。その後自前の製造設備を持つことを決意し、後方統合を図った。大量の生産をこなすために、出来合いの部品や付属品を調達して組み立てることが効率的だと考えていたが、生産の拡大に合わせて納得のいく部品を調達することが困難になっていった。そこでそれらの企業への資金提供や部品メーカーの設立に努め、質の高い部品や付属品の安定確保を図った。その後も統合を進め、工場は四輪馬車、スプリング付き荷馬車など多彩な製品を取り扱うようになっていた。

 当時既に巨万の富を築いていたデュラントは、次に自動車産業に大きな可能性を見出す。1904年には経営危機に陥っていたビュイック・モーター・カンパニーの買収に踏み切り、馬車事業とほぼ同じ方針で自動車会社の立ち上げに取り掛かる。販売組織や工場など、それまでの経営資源をそのまま用いたのであった。フリントへの部品メーカーの誘致などを経て、ビュイックは目覚しい成長をとげる。デュラントはさらなる拡大を志し、ビュイックの経営を生産マネージャーであったナッシュに委ねる。彼とその後継者は統一性の高い集権的組織を生み出した。

GMの設立

 デュラントは自動車市場のさらなる拡大を確信していた。生産の拡大を低コストで実現するため、既存の自動車メーカーを傘下に入れようとした。デュラントは持株会社ゼネラルモーターズを設立し、ビュイックその他2社の株式を買い占めていった。その後も自社の株式との交換で自動車メーカーの株式を収集していった。デュラントはGMでも大量生産と垂直統合の戦略を選んだ。

 この中でデュラントは需要が減る事態を全く想定せず、手元の資金の用意を怠り、さらには生産水準の管理や組織づくりにも関心を示さなかった。1910年に景気がやや後退するとデュラントはGMでの実権を奪われた。景気後退によって生じた在庫がデザインの流行の変化が理由で陳腐化し、無価値となってしまった。デュラントは資金繰りのために銀行から融資を受けるのと引き換えに、経営権を銀行団に譲渡した。

ストロウによる舵取り

 経営権を引き継いだ銀行団は当面の利益を手堅く得ることに心を砕いた。銀行団とその利益代弁者であるジェームズ・J・ストロウ、さらに社長の座についたナッシュは全社をマネジメントする組織を築くため、子会社の代表を集めた取締役会での定例会の開催、マネジメントを担う三部門の設立、組織横断的な委員会の設立などを実践した。しかしこれらの会は情報交換の場になるにとどまり、それ以上の役割はほぼ果たさなかった。彼らは1915年にGMの経営から退くが、その時点での本社は経営資源をうまくマネジメントしているとは言えなかった。

デュラントの復権と拡大路線の追求

 デュラントはシボレーの買収、デュポン家からの資金援助を背景に、銀行団との信託契約が切れる1916年8月、社長の座に返り咲く。同時にピエール・S・デュポンが代表取締役に就任したが、当時ピエールはデュポン社の経営にかかりきりであり、デュラントは実質単独で経営に当たることになった。デュラントは復権すると、自動車には依然途方もない需要があるのだという確信から、前にも増した生産先行の戦略を推し進めた。組織をつくることには一切関心を持たず、部品や付属品のメーカーばかりを買収し、ストロウが設置した会社のマネジメントのための組織を廃止することすらした。アルフレッド・P・スローンはこの時期買収されたハイアット・ローラー・ベアリングの経営者であり、彼はユナイテッド・モーターズの社長に指名された。

 アメリカが第一次世界大戦に参戦するため、拡大戦略が一時的に停滞すると、デュラントはトラクターや冷蔵庫事業に進出することで、工場や販売代理店に遊休が生じるのを避けようとする。戦火が収まると、再び拡大戦略に着手し、組み立て工場の設置、素材メーカーの買収などを行った。デュラントは未だ組織に関心を全く示さず、事業部同士や事業部と本社の関係にはストロウとナッシュの時代よりも足並みの乱れが目立った。生産量や価格など要となる判断はデュラントと事業部長たちが会議や個人的な話し合いの場で下していたが、時にはデュラントが独断で決めたり、事業部長が簡単に相談するだけで決まっていたこともあったという。

デュポン社のGMへの関わり

 すでに多大な額の投資をしていたデュポン家は、GM全社のマネジメントの必要性を強く認識し、経営レベルの委員会の構想、そのメンバーと使命を提言した。デュポンからはラスコブ、ハスケル、ジョン・リー・プラットなどが送り込まれたが、GMの基本方針を変えるには至らず、財務マネジメントの改善には成果を上げられなかった。曰く、「資金がどのように割り当てられているかをだれも知らず、野放図に支出が行われている」状況であった。ストロウ時代に比べるとデュポンは、GMの本社に組織の体裁を与え、各事業部を調整、評価、監督する力を高めるのに成功したと言えるが、まだまだ多種多様な企業の寄り合いに過ぎなかった。デュポンから幹部として派遣された人々が、誰一人としてGMの課題やニーズを分析しようとしなかったことが原因であった。この曖昧なマネジメント体制は1920年末に大きな災厄をもたらすことになる。

1920年の危機

 1920年最初の数か月は戦争特需の名残で経済は繁栄し、各事業部長は生産の拡大に腐心していた。1920年4月時点ではラスコブも追加資本の調達に自信を示していた。しかし5月には、割賦販売の条件が厳しくなり、需要が先細りの見通しとなった。ラスコブの提案で、各事業部に調達量を抑えさせるための在庫割り当て委員会が設けられた。この下で生産量は下方修正されたが、どの事業部も委員会から割り当てられた購入額を守ろうという努力を怠った。自動車の需要はさらに低迷し、在庫は膨らんでいった。販売数も落ち込み、賃金の支払いにすら窮したデュラントは、株価の暴落に対し信用買いを試みたが、失敗し破産の瀬戸際に追い込まれ、1920年11月20日に社長の座を降りることとなった。ピエール・デュポンは後任に就くと、その翌日にはGMの立場と課題を体系的に見直す作業に取り掛かった。そしてすぐにアルフレッド・スローンによる組織改編案を受け入れたのであった。

2. スローンの組織構想

 スローンの提案は12月29日の取締役会で承認され、すぐ実行に移された。この組織の骨組みは今に至るまで受け継がれているが、それは総合本社を設置し、多数の事業部の足並みを揃え、業績を評価し、大枠の目標や方針を定めるのに成功したことが理由であった。

 

スローンの組織構想の原点

 スローンとデュラントはマネジメントの諸問題に対照的な取り組み方をした。その理由のひとつはスローンの出自であった。スローンはMITで技術系の学位を修め、ハイアットに入社した。やがてハイアットを買い取り、事業を伸ばしていった。スローンの課題は大量生産、緻密な製造、迅速な納品をいかに実現するかであった。デュラントと異なりスローンは法人を相手に製品を扱っており、製造活動の専門分化が進むのに伴い、集権的組織が築き上げられていった。ハイアットは目覚ましい成長を遂げ、スローンは1916年、この会社をデュラントに売却した。スローンはユナイテッド・モーターズの社長に就任し、以前よりも大きな経営責任を負って組織の構築に努めた。スローンはユナイテッド・モーターズ・サービスを設立し、各子会社の製品・販売・サービス業務を全米に展開した。これによりマーケティングと製造の足並みが揃い、GMのディーラーに部品や付属品を安定供給できるようになったのであった。会社戦略を練るなかでスローンは、GMには全体として体系的な組織や制度が欠けていることに頭を悩ますようになる。ストロウやデュポン社出身の面々がかつて同様の問題に取り組もうとしていたことに気づいたスローンは、以降多数の事業ユニットをマネジメントする構想を練り始める。経営陣やスタッフ組織の長からなる総合本社あるいは「中央組織」をつくり、各事業部にどのように割り振りコミュニケーションを図るかを定め、正確で有用なデータを各組織に送ることをおおもとの狙いに据えた。スローンが意図した総合本社は、ストロウやデュポン出身者たちの構想よりも遥かに大がかりで、積極的な役割を担うものであった。

『組織ついての考察』

 スローンは新たな組織案を提案するにあたり、『組織についての考察』という文章を書き上げた。その書き出しは以下である。「この考察は、GMに新しい組織を提案するものである。目的は、従来の効率性をいっさい損なわずに、幅広い事業全体に権限ラインを確立して、全体の調和を図ることにある」。この土台をなすのは以下の二つの原則である。

この二つの原則をよりどころとしながら、スローンは考察の目的を以下のように並べ挙げている。  そしてこの目的の達成のため、スローンは4つの道筋を示した。
  1. 全事業部をいくつかのグループに分ける。
  2. 各グループの統括役として本社エグゼクティブを指名する。
  3. 総合本社のスタッフ機能を拡充して、各機能を担う組織を単一の「アドバイザリー・スタッフ」組織に統合する。
  4. 財務・経理部門により幅広い業務を担わせる。
計画の概要を描くにあたり、初めに経営、財務両委員会の役割と義務が定められた。財務委員会は配当水準や経営陣の報酬を決め、資本を調達し、財務方針を立てる。会社の財務や会計を「全般的にコントロール」する役割を担った。経営委員会は「事業部全体の実質的な代表者として、事業に全般的な監督を及ぼす」役割を与えられた。 次いでスローンは各事業部に引き続き自律性を持たせる旨を強調し、事業部長に全面的な権限と責任を与えた。さらに事業部同士、事業部と本社の関係を明確化するため、各事業部を4つのグループに分類した他、「グループ・バイスプレジデント」という新しい役職を設けた。これは多数の事業部の調整、業績評価の効率化や、デュラント直属のエグゼクティブの人数縮小などの効果をもたらした。

 本社には、経営陣の他に各スタッフ組織の専門家を設置した。会計を基本的マネジメント・ツールと位置づけ、その手法を統一する重要性を訴えつつも、各事業部の自律性を損なわないよう注意を払った。

 グループ・エグゼクティブの配置とスタッフ組織の充実、この2点が独自の本社組織を構築するカギであった。スローンは必要と考えるスタッフ組織とおおよその役割を記し、さらに@組織とA事業部間の調整という2つのテーマについても担当部門を設けたいと考えていた。組織部については@社内の組織の状況の把握A権限関係図などの記録B事業部への、組織形態についての適切なアドバイスが使命であるとされた。また事業部間の調整を担う部門は、生産スケジュールに関係した情報を収集し、それぞれの事業部に責任を示すこと、部品グループや付属品グループの生産物を適切に配分することなどを通じ、製品の円滑な流れを促そうとした。このようにスローンはGM全社を網羅した組織構造を提案した。

ピエール・デュポンによる若干の変更

 スローンの提案を受け入れ実行に移す際、ピエール・デュポンは若干の変更を加えた。そのなかで最も重要な変更は、財務スタッフ部門と業務委員会を設置したことであった。財務スタッフ部門は財務・保険課、ボーナス・統計課に分かれていた。後者は経営委員会に助言や支援をすることを使命とし、実際には事業部と連携を取り、経営委員会が大きな課題に取り組めるようサポートした。

 1921年はGMにとって組織構築の年であった。エグゼクティブの任命、部門の新設や人材の引き抜きなどが活発に行われ、年末までにはスタッフ組織の陣容も固まった。並行していくつかの事業部の大物事業部長を交代させ、これは事業部の手綱を引き締め全社に統一の会計・統計基準を取り入れる仕事を容易にする、という影響をもたらした。

 1922年の暮れにはスローンの提案はほぼすべて実行された。GMの歴史で初めて、マネジメント力、技術力、物的資産などさまざまな経営資源を効果的に統合できたのであった。ただしスローンの提案した組織はリーダーたちの多大な努力のもとではじめて円滑に機能したものであり、彼らがマネジメント体制の効率性と完成度に自信をもつのは1925年になってからである。

(藤田英祐)

3. 新組織を動かす

 GMの経営陣は、新しい組織の運営を軌道に乗せていく過程で、以下の3つの分野に絶えず細心の注意を払う必要があった。

  1. 事業部同士が上手く補完関係を築けるように各事業部の業務内容を定める。
  2. 正確で有用な情報が各組織に伝わる仕組みを設ける。
  3. 本社と各事業部トップがより効果的に協調できるように、コミュニケーションの手段を拡充する。
である。

各事業部の業務内容を定める

 第一の課題は、市場戦略と密接に結びついていた。デュラントの時代には増産が最優先され、合理的な製品ラインを築こうとの試みはほとんどなされなかった。そこで最初の取り組みとして、全事業部の製品品質を<ビュイック>や<キャデラック>の水準に引き上げるとともに、事業部間の合理的な棲み分けを実現するために「各事業部が異なる価格帯に製品を投入する」という戦略がとられた。低価格帯から高価格帯に至るまで、フルラインの製品が提供され、GM車同士の競合が解消されたのである。この方針を通し、製造や流通の分野で各事業部間の連携が実現されることとなった。

 またGMの経営陣は各自動車事業部だけでなく、それを支援する事業部にも注意を払った。デュラント体制の下では、原材料や部品のメーカーを買収するという垂直統合戦略がとられていたが、1921年にこの路線から離れる方針を採用したのだ。これは、フォードが原材料や部品のほぼ全てを自社生産していたことと対照的だった。  次いでGMは、「製品の販売先が他事業部であろうと、社外であろうと、市場価格で取引する」というルールを定めた。こうして事業部間取引に際しても、市場価格が適用されることとなったのだ。

統計・財政面でのコントロール

 各事業部の業績をより適切な手法で評価するためには、コスト、生産量、売上げその他について正確で統一的なデータを得る必要があった。この任務に最適な人物は、ピエール・デュポンとともにGM入りした元デュポン社経理部長、ドナルドソン・ブラウンだった。彼のGMでのパイオニア的偉業を辿れば、複雑な現代企業のマネジメントに、業績統計がどれほど重要な意味を持つかが浮き彫りになるのだ。ブラウンは二段階に分けてこの仕事を遂行していった。まず一段階目として、総合本社が数多くの事業部を監督するために、どのようなデータや手順が必要か検討し、さらに資本その他の経営資源をより体系的に活用する手法開発に乗り出した。次に二段階目として、データの精度を高め、情報やその活用手法が磨かれた。この段階では、過去や現在の状況の把握というよりも、将来を予測するためのデータ入手とコントロールに力が加えられた。GMはマネジメント判断を下す際に、将来予想に基づくことにし、外部環境の変化に適応しながら事業活動を展開しようと方向転換したのだ。

 1920年の危機はそもそも在庫増大によって引き起こされたため、ブラウンはまず、調達・生産のコントロールを強め、需要に密接に連動させようとした。各事業部が販売を予測し、それに伴って生産量、資材費、人件費などの見積もりを立てる。その内容が総合本社の承認を得て初めて、事業部は資材の調達に動く。このようにして販売予測は体系化していった。これと同じ時期に、GMの経営陣は体系的な資本配分手順も確立した。また長期・短期の支出をコントロールする体制を整備したのに伴って、現金管理にも同じような仕組みが取り入れられた。

 1920年の危機を引き金にして、さらに別の面でも全社マネジメントの体系化が進んだ。統一的な会計手段がようやく全ての組織に行き渡ったのだ。事業部長や総合本社はこうした手段によって得られるデータから、コストと利益をほぼ正確に知ることができた。もっとも、損益を正しく把握するためには、手順を統一してデータ精度を高めるだけでは不十分だった。自動車産業は、多大な工場設備が求められるため、単位コストは生産量の影響を強く受けたのだ。こうした需要の変動の中でのコストを見極めるために、ブラウンは標準生産量の概念を生み出した。これは「適正と考えられる平均工場稼働率」を長期にわたって推定したものだ。製造コストの主な要素は生産量の影響を受け、標準生産量を前提に予測された。ブラウンは予測の精度を高めることには計り知れない重要性があると考えていたが、1924年の春から自動車市場が低迷に陥ると、GMの予測手法の大きな欠陥があぶり出された。需要の落ち込みを見通せず、対応が後手に回ったのだ。スローンはこうした状況に対して速やかに対策を取り、全ディーラーから10日ごとに報告を受けるという方針が採用された。その報告をもとに、従前の予測に早期に修正を加え、需要の急激な変化に対応したのだった。

 こうして正確な情報が絶えず入ってくるため、より実情に近いデータをもとに各種の予測を立てられるようになった。総合本社は各事業部の長期予測が正確で妥当なものであるかに大きな注意を払い始め、それをもとに全事業部を網羅した全社生産計画を立てるようになっていた。自動車メーカーには莫大な在庫投資が求められ、また量産車の製造・販売における各プロセスで、工場、設備、人材に多大な投資をする必要がある。こうした事情から、製品の製造から販売に至るスケジュールその他の意思決定は、現状ではなく予測に基づいて下された。同様に、経営資源の長期的な配分や当座の使用も将来予測に基づいて決定された。このように予測は、戦略プランニングに欠かせないものとなり、同時に業績評価の手段ともなった。

 以上のように1921年から25年にかけてGMは極めて合理的・体系的な手順を打ち立て、これによって事業部間の調整と各事業部の業績評価、全社方針の策定が可能となった。財務・会計手順が新設されたことによって、業務の監督・評価に欠かせないデータがそろったばかりでなく、方針策定や計画立案の前倒しが可能になった。さらに、設備投資のより合理的な配分が可能になったほか、事業拡大や外注、内製などの判断が容易になった。またこれら互いに連動した手順の導入によって、資材調達から生産、マーケティングまでの足並みが揃い、業務効率が高まったほか、コストも低減された。ただし、こうした手順やデータの充実それだけで経営コントロールや全社調整が徹底するわけではなかった。その徹底のためには、アドバイザリー・スタッフもまた大きな役割を担っていたのである。

アドバイザリー・スタッフの役割

 財務スタッフ部門などのアドバイザリー・スタッフは、調整、業績評価、プランニングといった各種業務の補佐を使命としており、事業部長や経営上層部に専門的な助言や支援を行うことや、事業部の監視を行うこともその役割となっていた。これらに加えて、スタッフ部門の上層部には、各事業部の職能別組織がおおよそ同じやり方で業務を遂行できるように、各種プログラムや手順を整えることも期待された。この狙いは、全社のライン・スタッフ組織の上層部にアイデアを集積させ、マネジメント面での範囲の経済を引き出すことであった。

 ところがスローンは程なく、本社スタッフが助言役としての機能をうまく果たせていないことに気づく。スタッフ組織は、事業部のトップから干渉ばかりする部外者とみなされていたのだ。これに伴い、スローンはスタッフ組織がより効果的に任務を遂行できるように、社内の風通しを良くする方策を検討し始めていた。こうした背景のもとライン組織とスタッフ組織、事業部と事業部の意思疎通が密になるように、事業部横断的な全社委員会が設置された。全社委員会には、経営陣、事業部長、スタッフ組織の専門職らが集まり、1923年に社長に就任したスローンはすべての全社委員会のメンバーを務めた。

経営委員会の使命

 全社委員会の最も重要な役割は、主な職能分野について新たな方針や手順を提案することだった。各委員会はいずれも最終判断は下さず、事業部長または経営委員会にバトンを渡すのだった。このように経営委員会は従来どおりGMの統治にあたった。1920年にピエール・デュポンによって設立された際は、危機対応を目的とした少人数の組織だったが、危機克服の後は拡大が図られ、経営戦略上の重要な判断を下した。他方、経営委員会と並ぶ権威を持つ業務委員会は、自動車事業部のトップのみをメンバーとしていて、その役割は情報交換や課題をめぐる論議にとどまっていた。

 デュラント時代と打って変わり、経営委員会のメンバーの大多数は、細かい実務に責任を負わなくてよい経営上層部の人々で占められており、大きな戦略課題に取り組むための時間と情報を有し、そのための意欲にも溢れていた。GMの経営陣は、事業部長を主体とした委員会によるマネジメントでは、そこから導かれる方針は利害関係を持つ各部門の妥協の産物となってしまうと考えていた。そのためGMでは事業部長ではなく本社経営陣が経営の根幹を担ったのだ。

新組織の完成

 スローンが1920年の危機以前に構想して、21年初めに採用に至った組織は、25年には円滑に機能して、多彩な事業体を効果的にマネジメントしていた。本社経営陣の下に、各職能の専門家を集めた大規模なマネジメント組織を設け、多数の職能を併せ持つ自律的事業部のための調整、業績評価、プランニングにあたらせた。本社・事業部間の権限、コミュニケーション経路も慎重に定め、それを補う全社委員会を設置した。さらにそのコミュニケーション経路に沿って、業績や事業環境についての正確なデータを豊富に提供した。こうした新組織はGMの業績向上に寄与し、以後GMは自動車業界のリーディング企業としての地位を保つこととなった。自動車の需要が横ばいとなり、競争が激化すると、合理的でわかりやすい組織はよりいっそう価値を増した。

こうしてGMは好業績を謳歌したため、「分権的な色彩の強い事業部制の組織」という大枠に変更が加えられることはなかった。1925年以降で最大の組織改編は、30年代中盤に行われた全社委員会の廃止と、それに続くポリシー委員会の設置である。ポリシー委員会は本社経営陣とスタッフ組織の代表者で構成され、その設置を機に、本社は戦略に、事業部は事業運営にそれぞれ責任を負う、という役割分担が鮮明になった。またこのことでスタッフ組織はその重みを増した。これらの変化は重要なものではあるものの、1920年から25年にかけての組織改編に比べると、影響度は小さいと言える。

 20年から25年にかけてのマネジメント体制の変更は、GM1社を繁栄に導いたにとどまらない意義を持っていた。というのも、この変革を主導した人々はその成果を広く喧伝したのだ。「事業責任は分散させるが、方針策定は集権的に行う」という事業部制についてブラウンが紹介したところ、アメリカでは事業部制をテーマにした記事や書籍が次々と世に出された。経営陣が自分たちの作り上げた組織を熱心に紹介したため、アメリカの巨大企業が類似の組織変革を行う際にはGMが真っ先に模範とされた。

GMとデュポンの比較

 スローンが生み出した組織は、結果としてデュポン社のそれと似通っていた。だが両社は全く別個に組織変革を進め、その理由も異なっていた。デュポンの場合には、経営資源を活かす必要から製品多角化が進められ、その結果が新組織の誕生につながった。一方GMでは買収による組織拡大を推し進めたところ、工場や設備だけでなく、技術・マネジメント面での技能が集積していき、それらを十分に活用するために、統合のためのプラン作りが不可欠となった。両社の組織プランには、総合本社と事業部間の職権分担、コミュニケーション経路、その経路を通して配布すべき情報の種類が定められていた。GMは1920年秋に危機を経験したが、このことが全社マネジメントのための組織の不在がいかに危険かを浮き彫りにした。他方、デュポンの経験は、従来組織のままで性質の異なる多数の製品ラインをマネジメントすることの難しさを示した。デュポンの新組織に求められたのは、新たな業績報告やデータではなく、コミュニケーション経路の再編だったのだ。両社ともに戦略が決まるとすぐに、あるべき組織の姿も見えてきた。デュポンは他社を飲み込んでアメリカ火薬業界の相当部分を牛耳るようになると、部本部を設けて職能別部門の調整、プランニングなどを行った。やがて多角化戦略を推し進めると、事業部制へ移行した。片やGMでは、傘下の様々な自動車事業部が国内需要に応えようとして急速に拡大したため、中央本社とライン・アンド・スタッフ型の職能別組織を設けた。

 両社で新しい組織形態が生み出された背景には、コールマン・デュポンやウィリアム・デュラントら「帝国構築者」の後継者たちが幅広い事業領域を合理的、体系的にマネジメントしようとした事実がある。彼らは管理面でのニーズを、マーケティング、製造、エンジニアリングよりもむしろ、組織という観点から分析した。そしてそれゆえに、戦略が決まるとすぐに組織形態も定まったのだ。

 デュポンとGMの組織改編におけるアプローチは以上のようなものだったが、これは1920年代のアメリカ産業界にとって決して常識的なものではなかった。両社のアプローチは、スタンダード石油ニュージャージーの事例と比べる必要があるだろう。

(武内亮佑)


第4章 スタンダード石油ニュージャージー: 海図なき組織改編

【解題】1912年にスタンダード石油が分割されたことで誕生したニュージャージー・スタンダードは、原油生産、輸送、国内販売の組織を失い、米国内で原油を精製して海外販売するだけの会社になってしまっていた。その失われた部分に再進出して垂直統合を進め、かつガソリン需要の急増に応えるために研究開発を進めるのだが、(1)ガソリン需要減で1925年に在庫危機に陥ったために、本社に調整部門などスタッフ部門を新設していった。(2)原油の過剰生産で1927年に第二の危機に陥り、総合本社に加えて自律的な事業部を設けることで、事業部制を導入した。ただし、こうした組織が十分に機能するようになるのは第二次世界大戦後である。(高橋伸夫)

 スタンダード石油ニュージャージー(以下「ニュージャージー・スタンダード」)は、1920年代半ば、原油需要拡大による垂直統合推進の結果、既存の職能や製品が拡大する一方新たな職能や製品が追加されたため、様々な事業の業績を評価し、各事業に経営資源を効果的に配分するのが難しくなった。このような課題を経営陣は組織という切り口から捉えることはなかったために、さほど明快な解を導き出せなかった。このニュージャージー・スタンダードのたどった軌跡は、戦略に合った組織を構築できない場合いかに激しいマネジメント上の軋みが生じるか、経営陣の育成や日々の活動次第で組織改編がいかに後手に回るかをGMやデュポンの例にも増して示している。ニュージャージー・スタンダードは1912年から25年にかけて目覚ましい勢いで事業を拡大したが1925年時点では旧来とほぼ変わらない組織で経営資源を管理していた。その後1925年から27年にかけて経営陣は、過剰生産と価格下落のあおりを受け3つの主要マネジメント組織とそれらの相互関係をほぼ同時に見直すよう迫られた。痛みを伴いながらも、部本部は委員会型からライン・アンド・スタッフ型に移行していった。いくつもの事業部が新設され、それぞれの中央本社が職能別部門の調整、業績評価、方策策定を担った。最後に総合本社にもメスが入り、体制が改められた。このように計画性に乏しく成り行き任せの組織改編の結果できあがったのは、GMやデュポンに似た分権的な事業部制だった。

1. 1925年以前の戦略と組織

 デュポンが1902年から翌年にかけ経営資源を統合したときと同じように、連邦最高裁の分割命令を引き金とした諸変化はニュージャージー・スタンダードの歴史上大きな分水嶺となった。分割前のスタンダード石油は多彩な事業活動を展開しており、持ち株会社と事業会社の性質を併せ持ち、多数のグループ企業の半ば連合体、半ば統合体との位置づけだった。ブロードウェイの本社から様々な部門や子会社を通して各地に分散する油田や営業所、タンカーなどを管理していた。経営陣はブロードウェイの執務室で単一職能組織だけでなく、独自の精製、輸送、販売施設を持つ大規模な多職能型組織(スタンダード石油インディアナ、同ニューヨークなど)も管理せねばならなかった。しかしこの巨大な事業帝国のマネジメントにあたる組織は、整然としているとは言いがたく、経営陣の誰一人として1912年まで10年以上もコミュニケーションや指揮命令の経路を定めようとしなかった。組織の体系化に関心が薄いことと並び、委員会によるマネジメントも旧スタンダード石油の体質であった。経営陣は長らくブロードウェイの本社から委員会を通して同一職能を行う複数の組織をマネジメントしており、輸送、パイプライン、生産、海外販売、国内販売など多彩な委員会が設けられていた。各委員会は同一職能を担ういくつもの組織の調整、業績評価、プランニングを通して事業運営上の細かい判断を頻繁に下していた。委員会は各職能別組織だけでなく全社のマネジメントにもあたった。常務取締役は毎日経営委員会を開き各組織、全社の業績評価などに携わったが責任や権限の系統が曖昧であったため往々にして個別事業の詳細に深入りし、他の事業や全社の課題をなおざりにした。

 分割後のニュージャージー・スタンダードは、法律上の位置づけもマネジメント体質も旧スタンダード石油と似ていたが、その他の面では異なっていた。規模が縮小しただけでなく、原油生産、輸送、国内販売の組織を失いアメリカ国内で原油を精製し他国で販売するのが主な事業内容となった。そして新旧のスタンダード石油で最大の相違は、新会社の取締役会が単一職能型の部門や子会社への経営コントロールを強め、多職能子会社については放任傾向を強めたことだろう。ニューヨーク本社は多職能子会社から報告書の提出を受け取締役会は予算の承認権を握っていたが資金その他の経営資源を割り当てる際に参考にしたのは当の子会社からの情報だけだ。各多職能子会社と本社の関係はデュラント時代のGMでの各事業部・本社の関係に極めて近かった。

 他方、単一職能組織の活動については、本社が強い決意で手綱を引き締めにかかった。パイプラインは子会社2社がマネジメントするようになり、オクラホマ・パイプラインが比較的新しい中部の油田を、タスカローラがアパラチア地方の古くからの油田を受け持った。これら子会社の経営トップは他の事業との歩調が合わせやすいよう本社に執務室を与えられ、そこで経営方針を決めた。

 販売活動を担ったのは、国内販売部門、海外販売部門という独立した2部門であり、前者の方が規模が小さかった。国内販売委員会は分割命令で国内市場の大半が失われたため廃止された。海外販売委員会は存続はしていたが実際に事業を動かしていたのは海外販売部門の上層部であった。委員会によるマネジメントは海外販売の分野では影を潜めたが、ニュージャージー・スタンダードのもう一つの柱である製油分野では依然として幅をきかせていた。製造委員会は自社の精製能力の9割以上を支配し、この分野に関わるほぼすべての問題は製造委員会に持ち込まれた。更には現在および将来にどのように経営資源を活かすか計画を立てる役割もあった。製油部門は製油所の連合体とはいえいくつもの製油所が製造委員会の場で相互調整を図っており、職能別組織のマネジメント全般は担当重役が、日々の実務は組織トップが遂行する中で、例外的に製造委員会が集団でマネジメントにあたっていた。このように著しい集権制と分権制が混在するのに加え、経営陣と各部門、多職能子会社との間の指揮命令やコミュニケーションの経路は曖昧で組織についての明確な方針が欠けていた。仮に事業が大きく伸長せず経営体制に変化がなかったらニュージャージー・スタンダードは困難に直面することはなかったかもしれないが、当時事業は急速に拡大し、それによって各部門、ひいては全社組織の改編は避けられない情勢となる。

垂直統合と拡大の戦略

 1912年以後、ニュージャージー・スタンダードは主に2つの圧力に押され拡大戦略を取る。1つは企業分割を契機に石油事業の各分野にバランス良く進出したいとの思い、もう1つは電力とガソリンエンジンの誕生で市場が急速に変化・成長しそれに対応する必要に迫られたことである。石油製品の需要が膨らんでいくのを受け、経営陣は原料を手ごろな価格で調達できるか懸念を抱き始めた。ニュージャージー・スタンダードは精製に特化しており原料調達や販売に関しては他社に依存せざるを得なかったのだ。1912年から30年代の大恐慌までの期間は、製造に集中していた経営資源を分散させ石油産業の他分野へと進出するのがニュージャージー・スタンダードの基本目標となった。垂直統合を目指すというこの基本方針を貫き市場の需要に応えるためには、機械・製造設備・人材を増強する必要があった。新たな事業活動をマネジメントするうえで職能別組織の追加が求められた一方で、事業成長に伴い既存の職能別組織にも新たな課題や業務が押し寄せた。また傘下の企業が増えたり自立性の高い多職能子会社の規模が拡大したりしたため、かつてない幅広いマネジメント上の問題が持ち上がった。このような圧力にもかかわらず、ティーグルとその同僚がマネジメント組織に関心を向けるのは何年も後であった。

垂直統合と職能別組織の追加

 ニュージャージー・スタンダードの記録によると、1911年からの事業拡大が明確な戦略プランに沿って進められた形跡はない。だが経営陣が販売組織の整備よりも輸送や原油精製分野の施設、人材ほかの経営資源を増強することに長年にわたり大きな関心を持ち続けたのは明らかだ。販売組織整備よりも原油を調達することばかりに気を取られていたためにガソリン需要の急増に対応する方策を見出せず、この遅れにより足をすくわれかねない状況に陥った。

 原油の調達や出荷を他社に頼らざるを得ないことにはティーグルと若手幹部サドラーがとりわけ懸念を抱いておりこの両名はカーター石油とルイジアナ・スタンダードの生産量と経営資源を拡充するという第一次大戦からの方針を支持した。

 1917年初め以降、サドラーは生産についての考えを明確に示す。サドラーの見解は

  1. 事業を拡大するという揺るぎない方針と
  2. 生産活動を遂行するための明快な戦略と組織が求められている
というものだった。サドラーの主張にティーグルも同意し、ニュージャージー・スタンダードは第一次大戦後に海外を中心に生産施設の獲得に乗り出した。国内での最も大きな動きは、1919年にテキサス最大級の石油生産会社ハンブル・オイル・アンド・リファイナリーの支配的経営権を得たことである。これにより原油供給を他社に依存するという危険な状態が解消された。

事業拡大と伝統部門

 垂直統合戦略の推進により経営資源が増え、それを管理する業務が生じた。その結果2つの職能別部門が新設され既存のカーター石油が拡充された。これら3つの組織では指揮命令やコミュニケーションの経路はいずれもライン・アンド・スタッフ型を基本に明確に定められていた。垂直統合とガソリン市場の拡大は戦後になると指揮命令やコミュニケーションの経路が曖昧であった伝統的部門に大きな影響を及ぼした。

 海外販売部門は、アメリカほど激しい市場変化にさらされず影響は小さかった。しかし能力熱意共に劣るマネジャーたちがより複雑な状況に対処しなければならなかった国内販売部門への影響は大きく、1919年、取締役たちは、それまでの伝統を見直し自部門のプランニングや業績評価にあたる国内販売委員会を設けるなど国内販売部門の改編を行った。製造部門は販売部門以上の痛みを経験した。垂直統合により他部門との間によりよいコミュニケーションと調整を実現する必要に迫られ、ガソリン市場の拡大は精製量の増大を生み、生産量の増大と技術革新はまた、補助・サービス部門の拡大を促しそれが更なるコミュニケーションや調整の課題を生み出した。

スタッフ部門の拡大

 スタッフ部門の拡大も全体調整を難しくした一因である。補助・サービス的な役割を担うスタッフ部門が設けられたのは主に原油精製に携わる施設や人材が増えたからだ。スタッフ業務の増大が最も激しかったのは製造部門であった。製造部門では事業拡大と技術の高度化を受けて、1919年に研究開発部門を設けたほか、エンジニアリング活動の活発化、独自の購買部門設置などを進めた。

 開発部門が設けられた背景にはガソリン需要の増大がある。自動車の登場により主力製品となったガソリンの影響で、原油の軽質留分を入手するために業界全体が奔走し始める。そして1913年、バートン博士のガソリン製法により単位あたりの原油から得られるガソリンが飛躍的に増えたのだ。

 ニュージャージー・スタンダードは当初このバートン方式の加圧蒸留器の建設に取り組んだが、進捗ははかばかしくなかった。その後ティーグルの下で独自の手法を開発すべき時期が来たとの判断が下され、インディアナ社ウッドリバー製油所のクラークをベイウェイ製油所の責任者に抜擢した。クラークは有能な技術者を率いて着任し研究を進め製造の長期的プランニングにも携わった。

 クラークは石油技術の発展に関心を持ち、最新の動向を追うためにシカゴの弁護士ハワードに頻繁に書簡を送った。ほどなくティーグルの命を受けたクラークがニュージャージー・スタンダードのR&Dプラン立案をハワードに要請する。こうして彼らの熱意に押されハワードは新組織立ち上げに携わることになった。ハワード率いる開発部門は、製造委員会のニーズにより生まれたが、既存部門との関係は複雑で、込み入った関係が災いし、開発部門と製油分野の間に軋轢が生まれた。製油所の一部にはハワードの合理的、科学的な取り組み姿勢を「策略」と見なし疑いの目を向ける者もいたのだ。

 開発部門以外のスタッフ組織、すなわちエンジニアリング、人事、購買などの各部門と製油所の関係も不明快だった。エンジニアリング部門のマネジャー、ハウプトは製造委員会のメンバーであったが取締役会に直接報告する立場であり、製油所の建設などに責任を負っていた。ハウプトは昔気質の人物でハワードほど製造部門との軋轢はなかったが、製造部門はハウプトの古い考えのしわ寄せにより機械類・製造プロセスの改良といった役割を肩代わりするはめになった。

 以上のように誕生間もない補助・サービス部門と古くからの現業部門との関係は最初から波乱含みだった。スタッフ部門には有能な人材が集まっていたにもかかわらずその才能は十分に活かされなかった。ライン・アンド・スタッフ組織にはそれでなくとも緊張関係が伴うが、ニュージャージー・スタンダードの場合、スタッフ専門家の役割や義務が明確でなかったため、なおさらである。ティーグルたちも対立が起こるのは当事者たちの肌が合わないからと考え、スタッフ組織の上層部の立場を明確にしようとはしなかった。取締役会がライン組織とスタッフ組織の関係改善に熱心でなかった裏にはもう1つ、取締役会が皆自分の任務で忙しく、部門間の関係に気を配ったり、行動を起こしたりする余裕がなかったとの事情もあった。

取締役会

 ニュージャージー・スタンダードの取締役会は各職能に責任を負う専門家で構成されていたが、彼らは全社をマネジメントするための時間、情報、関心を持たなかった。特定部門を離れ全社の立場から諸問題を捉えられたティーグルでさえ、経営資源を有効活用するための組織作りに関心を示さなかった。しかし、1924年になると合理的な組織形態を取り入れる必要に迫られる。既存・新規の経営資源を活かすには4つの分野で組織改編が求められた。取締役会は日々の事業運営上のニーズが優先されるせいで長期的なプランニングや業績評価が疎かにならないよう注意が必要だった。多彩な部門の調整手段も欠かせなかった。さらに全体として経営資源の有効活用を目指すなら、大規模な多職能子会社をより緊密にマネジメントすべきであった。

組織の弱点に目覚める

 ニュージャージー・スタンダードの経営陣は誰一人として組織上のニーズを上記のような視点で捉えていなかったが、1924年には組織に最も関心のあったクラーク、ハワード、サドラーの3人が組織に見過ごせない短所があるとの主張を始めた。社内の職能別マネジメント組織として最も重要なのは製造委員会だが、クラークとハワードはその仕組みに不安を抱いていた。そして製造活動の組織に規律が欠け混乱しているのが諸悪の根源だと攻撃した。その後の報告書でハワードは製造委員会の組織には3つの弱点があると指摘した。

  1. ルーチン業務に時間をかけすぎている。
  2. 集団で意思決定を下すことに精力を傾けすぎている。
  3. スタッフ組織をほとんど活用していない。
が中身である。これらの結果、同じ目的のために別々に努力して協力が疎かになる事態が生じていた。またサドラーは、各部門の代表者を集め、原油の適正配分を目的とした委員会を設けるべきとの提案を行った。

 取締役会はこのような調整の効率化に向けた提案を徹底的に議論したが、行動には至らなかった。しかし、垂直統合、事業拡大、ガソリン需要増により組織改編の必要性が誰の目にも明らかになると、彼らの提案にも光が当たることになる。

(奈良勇貴)

2. 第一弾の組織改編: 1925年から26年

 在庫危機を機に国内販売と製造という2つの主要部門が組織面で欠点を抱えていることが判明すると、社長ティーグルと取締役会は多様な事業活動の足並みを揃え、経営資源をどのように活用すべきかについて長期的な計画を立てる必要性を実感し、サドラーやハワードの組織改革案にようやく関心を示した。組織改革は1925年のガソリン需要減を端緒とし、精製品の生産過剰による経営資源の遊休の懸念から職能別部門の再編が行われた。同時に、製品フローの短期的調整と長期的な経営資源の配分を目的としたスタッフ部門が本社に設立された。さらに1927年に新油田の操業に伴い原油の生産過剰が発生すると、国内の主要職能別組織は多機能子会社に統合され、総合本社が多機能子会社と地域別子会社の管理を行った。

ティーグルが直面した課題

 新車生産の落ち込みと共にガソリン需要が減少すると精製施設の遊休が課題となった。加えて、製造手法の発達により生産能力の過剰は深刻化した。さらに精製能力の拡大を背景とした国内外での競争激化や保管・輸送上の問題が直近の課題としてあり、ティーグルは製品フロー全体を調整する能力を高め、製造と国内販売の両部門を急速な競争激化に対応出来る体制に改編する必要性を感じた。問題は、製油所や市場で需要が減少しているにもかかわらず原油供給量が急増しており、かつ貯蔵設備が不十分なことだった。当初ティーグルは他社に倣い「リース・アンド・ライセンス」制度を導入して系列ガソリンスタンドを増やしたが、より組織的な改革が必要とされ、取締役会で価格体系の変更、効率的な流通手段の提案、販売組織の拡充が了承された。

1925年の新プログラム

 販売政策を見直し、製品フローをより効率的に調整するために財務資源を長期的視点で分配する必要があると実感した経営上層部は、調整委員会・調整部門、予算委員会・予算部門の新設を決定した。さらに国内販売部門や製造部門にも改革を行う必要があるとし、ルイジアナ・スタンダードの事業活動を本体と密接に連携させることにした。ただし組織についての判断は綿密な調査や検討に基づいておらず、全社組織や委員会によるマネジメントの改編は提案されなかった。

調整部門と調整委員会

 1925年にハーデンをトップとした調整部門・調整委員会が設置された。ハーデンは自部門をライン権限を持たないスタッフ部門と位置づけ、全社の利益を守るという観点から、製品フローの整理のみならず、全社のプランニングや業績評価業務まで担当した。製品フローの整理においては、製油所の需要通りに原油を供給し、かつ過剰供給を避けるための適正な原油生産量を子会社に提案し、国内外の製油所の原油調達や契約条件の交渉なども担当した。この複雑な業務においては正確かつ多大な情報が求められたため、調整部門は数値データを集めて、それをもとに精製コストを分析する責務も負った。これらのデータは各拠点での精油計画を立てるためだけでなく、本社経営陣による業績判断や将来計画を立てる上での基本ツールとされた。加えて、調整部門は全製品の仕様変更に対する評価や承認、経営資源の配分についての提案など全社のプランニングをも担当した。この結果、単位コストの低減と一人当たりの生産量向上が実現した。

予算部門と予算委員会

 資本の有効活用と経営活動全般の合理化・体系化のためのデータ提供やプランニングを使命とし、予算部門と予算委員会が設置された。それまで運転資本と設備投資は場当たり的に配分・管理されており、定期的な予算要求の仕組みも曖昧で参考データも乏しかったため、取締役会は財務状況を不完全にしか把握していなかった。そこで予算部門のトップであるゼインはデータを統一様式にまとめ、承認した予算のその後を追い各部門の計画と実績を比較して取締役会に報告した。これにより取締役会は個別部門や全社の将来プランを立てる際に、項目の要・不要やその程度を見極められるようになった。本社に調整部門と予算部門が設けられたのを機に、取締役会と事業部門、子会社間の意思疎通が目覚ましく改善し、経営資源の有効活用が実現した。1925年以降、両部門はデータの正確性と洗練度を高め、これによりニュージャージー・スタンダードでも過去の実績ではなく市場分析に基づく将来の予測をもとに製品フローの整備や設備投資の配分が行われた。

販売部門の改編

 ティーグルと取締役会は、本社から全部門・子会社に至るコミュニケーション経路を設け、既存・新規の事業部門が経営資源を結びつけることで高い生産性を引き出す目的で、職能別組織の内部構造を改編した。その第一歩として古くからの組織である販売部門の改編があげられる。国内販売組織の改革にあたり、ティーグルはトップの交代と国内販売委員会のメンバー刷新に取り組んだ。ルイジアナ社の販売活動を親会社に統合するためルイジアナ社の販売部門幹部を販売担当ゼネラル・アシスタントに任命した。また国内販売部門の幹部数人を委員会のメンバーに加え、販売部門をどのように改編するべきか提案を求めた。結果的に、ライン・アンド・スタッフ型の組織を土台にして本社と現場の指揮命令系統を定めようとしたティーグルの意図に沿って、幹部たちは本社から支店長を通して現場に指揮命令を行う方式で部門をマネジメントしようとした。一方で4人の委員会メンバーは責任と権限の所在を明らかにしようとせず、この部分はティーグルの意図に反していた。

製造部門の改編

 製造部門においても、指揮命令とコミュニケーションの経路を見直し、人材を入れ替えることが急がれた。だが製造部門は販売部門よりも複雑な問題を抱えており、その改編は伝統企業の組織改革がいかに難しいかを如実に示していると言える。

  1. 製造部門では改編への切迫感が希薄であった。それまで大小の顧客からガソリンの品質のバラツキについて苦情があり、開発・製造・販売の連携を強める必要があった。
  2. ティーグルや取締役会が製造部門の人材入れ替えに消極的であった。これは経験年数が昇進や評価に大きく作用する製造部門において、長期にわたりポストを占めてきた上層部の入れ替え、強大な権限を持つ委員会の解散が有能な人材の流出や士気の低下に繋がりかねないからだ。
  3. 製造部門内部で対立が絶えなかった。古株たちは新しい科学的手法に懐疑的であり、他社の人材が幹部ポストに就くのを歓迎しない一方で、他社から来た人材も古い仕事の仕方に苛立ちを隠さず、製造部門の上層部が二派に分裂していた。
このような状況の中で、製造委員会の幹部であるマックナイトとグラフによって委員会業務の多くを職能別組織に移すべきとの提案がなされた。それに沿って、製造部門は開発、エンジニアリング、製品検査・苦情対応、品質管理、会計・コストの5つの職能別組織を設け、製法や機械の標準化は標準化委員会が担当することとなった。さらに翌年、ティーグルと取締役会は主要生産部門の統合を行い、長としてサドラーが就任した。サドラー自身も生産現場との会議を通して方針や手順についての意見を交換し、生産担当者と取締役会が顔を合わせる場を設けて、生産上の幅広い問題を取り上げ、統計データを収集・分析する一助とした。一方で、この結果サドラーは全社のプランニングや業績評価、調整など取締役としての業務に時間を割けなくなった。また生産管理が本社に集約されると同時に、海外での販売・製造分野における経営上の意思決定が分権化されつつあった。ニューヨーク本社とヨーロッパの子会社間、子会社相互のコミュニケーションを円滑化し、海外販売部門の業務負担を軽減することを目的として、業務手順を統一することを使命としたヨーロッパ委員会が設置された。またヨーロッパでの製造活動を監督・調整するため、ヨーロッパ製油所担当の製造委員会が設置された。しかし依然として課題は山積していた。職能別組織の管理を強化したため担当取締役の負担が重くなった。またニュージャージー・スタンダードの組織は以前のまま、経営陣が委員会型マネジメントを通して各部門に干渉し続けていたため、意思決定が実務にばかり偏り、経営戦略の判断が疎かになっていた。
(大平綺乃)

3. 分権的な事業部制の創設

解決されない難題

 1926年10月ティーグルらは前年の成果を振り返り、新設の調整部門、予算部門の貢献ぶりを高く評価していたが、一方で従来からのスタッフ組織、特に製造部門と販売部門の低迷を課題として認識していた。これは多数の人間に責任が分散し、意思決定も集団で行われていたため、上層部の対応が鈍かったためである。製造部門に関しては、組織改編の直後であったにもかかわらず、なおも権限と責任が分散していたため、論争に決着がつかなかった。先の生半可な組織改編は、製造部門の内輪揉めを収束できなかったばかりか、製造、開発、販売の横の連携にもプラスに働かなかった。結果、1927年末には国内の精製事業は3680万ドルという途方もない損失を出してしまった。論争がいつまでもやまず、取締役会のメンバーがことあるごとに部門業務に口を出す姿を見て、ティーグルはこのままでは取締役会が長期的なプランを立てることも、実行に欠かせない交渉を行うこともできないと認識し始めた。リーデマンも翌年、大枠の戦略に注意を集中する重要性を訴えている。

1927年の改革

 経営レベルの戦略を立案、交渉するための時間が取れず、国内販売、製造の両部門は引き続き委員会型マネジメントから成果を上げられずにいたが、それでもニュージャージー・スタンダードには大掛かりな組織改革に踏み切るほどの切迫感がなかった。改革には差し迫った危機が必要だったが、それは1927年の春に起きた。オクラホマとテキサスの油田での石油の過剰生産が、価格低下だけでなく一時的にコストを押し上げ、1927年の利益は1912年以降最低水準に落ち込んだのである。この苦難に対して、二つの案が出された。

  1. 政府規制または自主規制によって原油生産を抑制すること。
  2. コスト削減、人材削減、実務・マネジメントの効率向上といった各分野であらゆる努力を試みること。
こうしてティーグルは本格的な組織改編に乗り出し、1927年春にサドラーの力を借りながら全社的な組織改編案を練った。この改革はそもそもニュージャージー・スタンダードが改革を必要としており、ティーグルがそれに気づいたために実現した。この改革の一つ目の柱は、各部門内の権限や責任を明確にすることで、これは委員会が日々の業務に介入するやり方に疑いの目が向けられたことや、集団で責任を取る体制は時間ばかりかかり、態度が煮え切らなかったために生まれた。もう一つの柱は、自律的な事業部を設けてその中に職能別組織を置き、全社マネジメントのための組織を新設することで、これは意思決定がニューヨーク本社に集中しすぎて、重要案件に時間が割けないという懸念があったため生まれた。これらの組織改編の実行に当たって、ハワードのR&D活動をより効率化するためには持ち株会社と各事業部の役割上の相違を明らかにするべきだという考えがベースになった。同時にニューヨーク州の税法の影響で持ち株会社と事業部を分ける必要性が高まった。結果その後の数次にわたる組織改編によって、本社と各事業部の役割は法律、マネジメントの両面で明確化されていった。本社は個別事業から手を引いたため、ニュージャージー・スタンダードは法的に持ち株会社となり、多数の多職能型事業の調整、業績評価、さらには全社の業績評価とプランニングに特化した役割を担うことになった。職能別組織である製造、国内販売両部門とカーター石油は、新設されたデラウェア社のマネジメント下に置かれ、製造、国内販売、海外販売の各委員会は廃止された。このデラウェア社は自社の全般的な方針や計画を策定するようになり、理論上自律的な多職能子会社となった。インペリアルを除いた海外子会社は、マネジメント上の必要から再編され、ヨーロッパ、ラテンアメリカをおのおの統括する二人の幹部に率いられた。ヨーロッパ委員会は委員会の決めた方針の実行状況に目を光らすと共に、ヨーロッパの製品フローの調整を支援した。一方、ラテンアメリカでの事業は、ジョセフ・H・シニアの元に一元化され、強い結束力を持つに至った。

 この組織改編において最も困難を極めたのは、スタッフ業務を本社と事業部にいかに割り振るかという判断だった。結果的にスタッフの業務は、ニュージャージー・スタンダードの事業部から要請を受けた業務の他、グループ全社の製造や技術手順の調整と標準化、方針策定を支援することなどとされた。またスタッフ、ライン両組織のコミュニケーションを体系化するために、事業部の幹部のうち最も技術に関心のある人々がデベロップメント・カンパニーの取締役会のメンバーに就任した。よってスタッフの役割として取締役会のメンバーに助言や情報を提供して、事業部の業績評価、長期プランニングに役立ててもらうことも加えられた。またニューヨーク本社は、同様の課題を他の各部門についても整理する必要があった。そのため本社は社内サービス部門のほか、グループ企業をマネジメントしたり、それら相互のコミュニケーションを促進したりするために欠かせない部門が設けられた。またサドラーの生産部門とハーパーの海外販売部門は本社スタッフ組織の一部にとどまって、様々な事業部の職能活動に助言を与え、それら組織の足並みをそろえ、横のコミュニケーションをとるための経路を用意するなど、取締役会の負担を軽減する役割を担った。このようにこの変革では、高い自律性を持った多機能職能子会社と、多数の事業部、総合本社が作られ、前者にはマネージャーが、後者には本社経営陣とスタッフ組織が置かれた。

新組織を軌道に乗せる

 この組織改編は多くの時間を要したが、それは非公式の青写真しか存在しなかったという理由や、人によって解釈が違ったという理由もあるが、より大きいのは1927年以降も従来と同じ面々が同じ執務室で同じ業務をこなしていたという理由である。

 1927年以降50年代まで組織と人材には小さな変更しか加えられなかったが、特筆すべきは恐慌によって引き起こされた1933年における変化と、第二次世界大戦によって引き起こされた変化である。1933年における変化は4点に集約できる。

  1. 経営陣の顔ぶれが大きく変わったこと。
  2. 取締役会の構成を変えて方針策定に関わる人だけをメンバーとしたこと。
  3. デラウェア、ルイジアナ両社の事業活動を再編して一時的に単一職能組織となったこと。
  4. ニュージャージー・スタンダード本社が移転し、デラウェア社と物理的に離れたこと。
この組織編成によって、国内石油事業は職能別に再編され、カーター石油が生産、デラウェア、ルシジアナ両社が精製、新設の販売部門が販売を担い、こうした職能別組織のトップは以前より大きな権限を持った。またこれによってニュージャージー・スタンダードの経営陣は、特定の利害を代表する人々が全社方針を策定するのは好ましくないことの気づき、取締役会のメンバーは皆、全社の調整、業績評価、プランニングに全力を注げるようにした。また長期的な調整とプランニングの予備作業は以前と同様調整部門が担い、また予算は本社経営陣と各事業部門の責任者が定期的に顔を合わせ、個別事業の利益に左右されず決定する場であるグループシステムによって決められた。

 この1933年の組織編成は取締役会の構成や責務を明確にすることを柱としていたが、第二次大戦から戦後の組織改編は本社組織の業務を定型化するとともに、アメリカ国内の事業部を再編することを主眼とした。この時期は石油事業が急激に伸びたため、事業部は再び地域別に再編され、多機能型組織に戻った。またこの頃の大きな意味を持つ組織変更といえば、スタッフ組織間にコミュニケーション経路を設けたことで、具体的には調整委員会の再編と、諮問委員会の設置であった。

むすび

 ニュージャージー・スタンダードでも組織は戦略に従うといえた。しかしニュージャージー・スタンダードの事例ではデュポンやGMと比べて、場当たり的で、強い方向感のないまま組織改編が行われた。これはある意味ニュージャージー・スタンダードは両社にまして困難な課題に直面していたからだという見方もできる。ニュージャージー・スタンダードはデュポンのような職能別集権組織と、組織改編前のGMと同じ分権化の行き過ぎた組織の両方から成り立っており、デュポンが事業部の創設、GMが総合本社の設置を課題としていたのに対してニュージャージー・スタンダードはその両方を成し遂げたのである。しかしこのようなニュージャージー・スタンダードの組織改編に対して、石油業界の他社は追随しなかった。ニュージャージー・スタンダードは大手石油会社の先陣を切っただけではなく、アメリカ企業全体の中でも極めて早い時期に事業部制を取り入れたのである。 

(信田直人)


第5章 シアーズ・ローバック: 計画と偶然がもたらした分権化

【解題】米国農村部でのカタログ通販に特化して成功したシアーズは、都市化の進展と自動車の普及を鑑み、1925年に直営店の展開を決断する。カタログ通販と競合しないように人口10万人以上の都市に、繁華街を避けて幹線道路沿いの地価の安い場所に広大な駐車場を備えた店舗を開設することを基本戦略とした。こうした戦略が当たり、1925年から1929年にかけて事業は急拡大するが、直営店経営のノウハウも人材もないままに急拡大したことで、その後の組織改編は右往左往を繰り返し、ようやく戦後1948年になって、(1)経営陣とスタッフ組織で構成される総合本社と (2)自己完結的な事業部(self-contained operating divisions)とからなる事業部制組織が実現する。(高橋伸夫)

1. 変わりゆく戦略と組織

 1929年、アメリカの小売業界で最大級の規模と利益を誇るシアーズ・ローバック(以下「シアーズ」)は、かつてのGM、デュポン、ニュージャージー・スタンダードと類似のマネジメント課題にほぼ同じ理由で直面していた。不況に直面し余剰設備が生じるおそれがあったため、1925年、従来のカタログ販売特化から、直営店の展開へと戦略を転じた。このため新たな経営資源の獲得、既存の資源の新用途への振り分けなどが必要になったが、当初は旧来組織のまま新戦略を遂行しようとしたため、無数の問題が持ち上がった。シアーズはGMやデュポンと異なり、大企業の買収や合併ではなく既存の経営資源の増強や店舗の新設、購入を通して事業を拡大してきたため、直面した課題も比較的単純であったが、新戦略に伴うマネジメント・ニーズにかなう組織が完成するまでには長い時間を要したのであった。

 改編が遅れた理由は誤った目標に向けて不適切なプランを立てたことで、この点ではニュージャージー・スタンダードとは大きく異なっていた。当初の組織プランは指揮命令とコミュニケーションの経路が不明確であること、各部門や総合本社がマネジメント上果たすべき役割が熟慮されなかったことなどの問題を抱えており、これは主に事業規模の維持・拡大よりもコスト削減を目指したことが原因であった。

当初の戦略と組織

 シアーズが実質的に誕生したのは1895年であった。それ以前はリチャード・シアーズが腕時計と貴金属のみを通信販売していたが、95年にジュリアス・ローゼンワルドとアーロン・E・ナスボームが加わり、以降10年間で目覚ましい成長を遂げた。地場の雑貨店しかないアメリカ農村地域をターゲットにし、価格を抑えたカタログ販売を行うことで業績を伸ばした。5年後には業界最強のモンゴメリー・ワードを純売上高で凌ぐまでに成長した。 事業が拡大するのに合わせ、施設や人材の増加、仕入れや販売の業務の体系化などの必要に迫られた。ルイス・E・アッシャーを広告・カタログ部門のマネジャーに据え、事業帝国を築いていった。シアーズとアッシャーが次々と注文を取り付け、ローゼンワルドがそれ以降の処理を受け持つのであった。

 ローゼンワルドはマネジメント体制に関心を向け、数々の部門の立ち上げに尽力した。中でもJ・フレッチャー・スキナー率いる購買部門は重要であり、多数のバイヤーが商品の選択と購買に大きな裁量を与えられた上で可能な限り安く仕入れを行い、ビジネスの起点となる部門であった。

 注文の膨大化を受け、シアーズはまず物的資源の拡充に取り組み、巨大社屋の建設に着工した。次に業務手順の体系化に取り掛かり、オペレーション部門長のオットー・C・ドーリングが通販拠点のために効率的で緻密なスケジュール体系を作り上げた。加えて注文を処理するための機械の導入、供給部門と輸送部門の設立などが行われた。

 資本拡大の資金需要から、ゴールドマン・サックスの助言を受けシアーズは株式上場する。リチャード・シアーズとローゼンワルドは大株主となり、取締役会を整備した。事業が伸びると、シアーズは垂直統合を進める。安価に商品を仕入れるために、望み通りの価格で仕入れができない場合には往々にして製造元に出資を行った。この方針は長い間変わることはなかった。

 1907年の不況から程なく、自身の戦略の失敗から、リチャード・シアーズは退任する。その数ヶ月後アッシャーも退任し、広告・カタログ部門は購買部門に編入された。シアーズの後任としてローゼンワルドが社長に就任すると、1908年から1921年にかけて毎年売り上げと利益を伸ばすなど、シアーズは急成長を遂げた。この時期、アメリカ国内での地理的拡大を受け、各地域に支社が設立された。シカゴ本社と比較的近接するフィラデルフィア支社ができると、本社と支社との関係を整理しようとの気運が初めて生まれる。各支社は当初の構想から外れ大きな自律性を持っていたが、フィラデルフィアに拠点ができたことで、混乱や非効率、調達面の不必要な競争が浮き彫りになったのであった。

 ローゼンワルドは購買部門のトップからの提案を受け、本社の購買部門が全支社の購買活動に権限と責任を負う体制を確立した。他の部門についても本社に権限が集中し、購買、販売、配送、資金調達といった基本職能がシカゴ本社に一元化される形で、中央本社と支社との関係が初めて明らかにされた。

 1908年以降、職務が増大化した多くの仕入れ部課のトップは、必要に迫られる形で独立性を高めた。購買部門は一人一人のバイヤーの取引を監督する余裕はなく、シアーズは「商人の連合体」とみなされるようになっていった。バイヤーを縛っていたのは、最低限の基準のチェック、カタログ表示の検証を請け負う商品検査部のみだった。

 1921年不況が到来すると、シアーズは市況の悪化により深刻な過剰在庫に直面した。シアーズのバイヤーは戦後の景気の見通しを誤り、大量の仕入れを続け、それが在庫の膨大化につながった。GMの例に似た状況であったが、ローゼンワルドが私財を投げ打つ覚悟を表明したことで銀行団による買収はかろうじて免れた。

 この危機に対処するため、ローゼンワルドとローブはコスト削減に努めるとともに、購買部門マネジャーにマックス・アドラーを指名し、緊縮プランの実行を任せた。アドラーは商品検査部を廃止し、これはある意味バイヤーへの縛りを無くしたわけだが、自身は財務方針や在庫、手順の管理を強化した。購買管理者はそれ以降マネジメント上重要な役割を担う。本社で他の経営陣と緊密に連携し、売り上げや在庫の予測を行った他、これをもとにバイヤーの管理、監督を請け負った。1921年の不況は、のちに将来の需要や経済の動向を専門家を雇って予測するようになるのに、大きな教訓となった。

 1924年にはシアーズは、カタログ販売事業に関して集権的組織を設けていた。商品の仕入れ、販売促進、流通・配送などは、財務取引や手順、各工程の監督などと共にシカゴに一元化された。経営陣は財務部門の収集したデータを活用しつつ、全社の業績評価と方針・手順の策定を進めていった。

新しい戦略

 1925年の直営店開設は、社の沿革のなかでも最大の節目となった。ローゼンワルドは自身とローブの後任として、鉄道経営者として実績を挙げていたチャールズ・M・キトルを社長に、またロバート・E・ウッドを副社長にそれぞれ任命した。

 ウッドはモンゴメリー・ワードのゼネラル・マーチャンタイジング・マネジャーからの転身であった。ウッドは都市化の進展と自動車の普及が通販市場に及ぼす影響をいち早く感じ取り、モンゴメリー・ワードの社長に既存の支店を流通拠点として活かした小売市場への参入を提言したが、社長は関心を示さなかった。その後も対立が続き、ウッドはモンゴメリー・ワードを去ることとなる。そしてローゼンワルドに招かれ、シアーズの工場・直営店担当副社長に着任した。ウッドは着任早々新規店舗開設の案を進言した。モンゴメリー・ワード同様古参幹部から反感を買うが、キトルやローゼンワルドの後押しもあり、直営店舗の展開プランは実現に向かう。1928年、キトルが急死しウッドが社長に任命されたことは、本人にとっても大きな転機であった。ウッドはドナルド・M・ネルソン、セオドア・ハウザー、レッシング・ローゼンワルド、トマス・J・カーニー、エミール・J・ポロックといった腹心と共にシアーズの舵を取ると、全米で直営店を展開するプランを急速に推し進めた。

 ウッドの基本戦略は、A、B、C、三ランクの店舗を使い分けながらもっぱら大都市に直営店を展開する、というもので、これは人口10万人以上の都市に対象を絞ればカタログ販売とじかに競合せずに済む、というアイディアに立脚していた。競合に挑むにあたってウッドは@店舗の立地A店舗ごとの個性B多彩な耐久消費財を大量に仕入れて豊富なラインアップを揃えることの三つを基本コンセプトとした。立地については自動車の普及を意識し、大都市では繁華街を避け、幹線道路沿いの地価の安い場所に店舗を開設し、広大な駐車場を設けた。第二の店舗の個性については、従来の百貨店の「ソフト路線」と対照的に、男性や家族連れ、マイカーなどを意識した「ハード路線」を選択した。三点目の耐久消費財はこのハード路線の延長であり、メーカーに出資することで家電など高額商品を安価に大量調達し、単価を引き下げ、大量流通を図った。シアーズは商品企画に始まり消費者に販売するまで、商品の流れを逐一コントロールする体制を強めた。

 直販進出にあたって最も扱いが難しかったのは中規模のBランク店だった。Bランク店を出店するような小ぶりの都市では中心部と周辺地域の線引きが難しかったのである。さらに周辺地域でもさほど有利な立地とは言えなかった。モンゴメリー・ワードが小規模都市に店舗を開いたため、シアーズのカタログ事業を守るために、当初の計画を逸脱しやむを得ず追随したのであった。またBランク店については買い物客を引きつけるためにはハード路線だけというわけにはいかず、品揃えの点でも悩みの種となった。

新戦略による組織面の軋み

 直営店は明確な戦略に基づき展開されたが、店舗の運営効率と利益率は芳しくなかった。シアーズの場合にも事業を拡大するためには、新店舗をマネジメントするための組織が求められたのだ。さらに重要な点として、既存の経営資源を配分し直す必要があった。従来からの通販拠点や手順、人材などを新規の経営資源と連携させ、新戦略のニーズにうまく適合させる必要があり、シアーズもマネジメントの難しさに直面した。ウッドたちは当初、既存のカタログ販売向け組織を微調整するのみで新規店舗のマネジメントに充てようとしたが、これでは不十分であることがすぐに明らかになった。とりわけ直営店舗運営を始めるための人材に関する問題に苦心した。通販カタログ拠点出身者を店舗スタッフにしても接客のノウハウを知らないが、外部からの人間だとカタログ販売事業を理解していないため軋轢が生じる。消費者と直に接しながら商品を売るために、シアーズは従来とは違った販売手法を身につける必要があった。1929年には人材不足が深刻化し、ウッドはJ・C・ペニーとの合併を検討したほどであった。

 この頃には旧来の組織形態が災いして、商品調達に非効率が生じていることが明らかになった。通販のバイヤーは都市マーケット向けの仕入れに素養がなく、オペレーション部門でも商品が店舗に届くまでの流れが複雑化していた。これらの組織に改革が必要なのは明らかであった。

 他にもウッドの戦略は人材や組織を圧迫した。従来ではソフト路線の商品がカタログ販売事業の売り上げの過半を占めたが、ウッドのハード路線により、購買部門は改革を強いられる。ネルソンとハウザーは商品検査部を復活させ、多くの商品別部隊を再編、統合した。「商人たちの連合体」というシアーズの伝統は時代に合わなくなっていったのであった。

 直営店の開設を契機にマネジメント課題が複雑さを増すと、1925年ウッドは新店舗開設の一時棚上げを決意する。直営店舗の運営が改善し新規事業と従来事業がうまく噛み合うまでは新店舗の開設を見送る、という決断で、これはGMやニュージャージー・スタンダードの経営幹部らと異なりウッドがCEOの立場にいたため実現した迅速な行動であった。

 直営店の改善に向けた第一歩としてウッドはマーケティング専門家のアルビン・ドッドをシアーズに招いた。他にもW・I・ウェスターベルトを商品検査部の責任者に据えた。さらにウッドは販売や業務オペレーションにとどまらない根本的な問題は「組織」であると悟り、ジョージ・E・フレイザーにシアーズのマネジメント組織を刷新するよう要請した。具体的には、組織改編委員会の議長就任を要請したのであった。委員会は丹念な調査の後、新しい組織形態を提案し、購買部門の改編、商品フローの改善、通販拠点と直営店の人材を有効活用する組織の構築という三つの目標を掲げた。中でも三つ目の目標が最も重視された。

(藤田英祐)

2. 分権化の失敗

フレイザー委員会

 ウッドは、若くて才能のある経営者たちを集めて、フレイザーを議長とする組織改編委員会を立ち上げた。ハウザーは、全商品を21の分野に再編し、さらに衣料・家具・家庭用装飾品、大型機械・農具・建設機器に大きく分類した。この新しい商品区分に沿って各部の組織図を作成し、業務手順の概要を示した。ドッドは新設の販売部門のプランづくりに取り組んだ。カタログ販売拠点が直営店をマネジメントする仕組みについてはまったく成果が上がっていないとし、地域別組織を設ける案をとりまとめた。全米を33の地区に分けて各直営店をいずれかの地区の管轄下に置き、各地区は4つの地域別部門のいずれかの配下に置かれた。

組織改編委員会の提案

 組織改編委員会の最終提案は、旧来の職能別組織に加えて、地域別組織を設けるとの内容を骨子とし、職能別部門には購買部門以外ほとんど手をつけなかった。どのような分野の商品を、どういった構成で担当するかについての最終判断はウッドとネルソンに任された。

 シカゴ本社の職能別部門は、10の通販拠点・300の直営店の幹部と直に連絡を取り合うことになった。同時に、各通販拠点と直営店は地域、地区別組織の一部でもあった。組織改編委員会は、地域別事業部と職能別部門をひとまとめにした大規模な全体組織をつくりたいと考え、指揮命令・コミュニケーションの経路を2系統設けた。社長から地域あるいは通販マネジャーを経て店長に至る経路と、社長からシカゴの職能別部門を経て店舗の各職能担当者に至る経路である。

 そして委員会は、地域支社長の権限を本来業務である人事と商品フローに限定するために、地域支社のスタッフ数を必要最小限に絞ろうとした。地域支社長は多数のスタッフを抱えたがったが、フレイザーは、地区マネジャーの役割は管内の直営店や通販拠点の業績を評価・分析して人材を入れ替えるだけだと解釈し、コスト負担や業務の重複を避けるため最小限の人数の登用を強く主張した。

 委員会提案には、地域支社長と地区マネジャー全員に幅広い責任を与えたという見過ごせない欠点があった。各支社長は、「管轄地域内の事業活動に関して、社長と副社長に責任を負い、具体的には資産、利益、支出、人材、社の評判すべてに責任を持つ」とされたのである。さらに、通販拠点や直営店のゼネラル・マネジャーは地域支社長から求めがあればじかに業務報告を行う義務があった。また、地域支社長は関連の職能別部門の長に理由を伝えれば、自分の裁量で命令を拒否できるとされていた。ここには、間違いなく、不協和音の種が潜んでいた。

委員会提案の実行

 ウッドとレッシングは、フレイザー委員会の提案をほぼそのまま受け入れ、幹部の人選に着手した。彼らは一応候補者を示したものの、最終判断は地域の幹部に委ねるべきだと考えていた。特に地域支社長という要職への適任者を見つけるのは容易ではなく、4人の地域支社長のうち副社長に任命されたのはバーカー1人であった。したがって地域別組織は、幹部連絡会に代表を出せず、方針策定にあたっては地域別組織よりも職能別組織の方が大きな役割を果たすこととなった。

 フレイザー委員会の提案にもとづく新組織は1930年2月17日に船出した。ところがその直後から、職能別部門と地域別組織の関係について、疑問が噴き出した。フレイザーは、混乱を解消するために地域支社長の権限をなんとしても制限する必要があると訴えた。

 新組織プランを実行するうえで、マネジメントに最も難航したのは、Bランク店であった。しかし中途半端で広く浅い品揃えのBランク店は、農産物価格が落ち込みカタログ販売の売り上げが低迷すると、収益源としての重みを増す。1930年には、カタログ販売の売り上げが5650万ドルも減少する一方、直営店は620万ドルの増収を記録し、この傾向は続くと考えられた。ウッドは、Bランク店の品揃えを充実させ販売効果を高めるためには地区事務所の拡大が急務だというハンファリーの意見を受けて、1930年8月8日に地区事務所への商品スタッフ配置を承認した。

フレイザーによる新組織の検証

 その数週間後、ウッドは新組織の見直しを決意する。不況が深刻化するにつれて、Bランク店がよりいっそう頭痛の種となったほか、職能別部門と地域別組織の間の溝が深まっている様子だったのだ。1930年9月30日の幹部連絡会において、直営店をめぐる諸問題に対処するためにはあらゆるマネジメント段階によりよい人材を投入する必要があるという点、また新組織の見直しを進めるという点で合意がなされた。その1ヶ月後、フレイザーは、委員会が練り上げた組織プランに運用面で修正が加えられているという旨の報告を行い、地域支社長に職能別活動を担わせるのは不適当だと訴えた。1929年末に考案された新組織は、翌年秋のわずかな改良をのぞき、手を加えられることなく1年以上が過ぎた。フレイザー委員会設立の目的であった直営店への商品供給の問題が一応の解決を見たからである。

根強い対立と新たな提案

 ところが1931年末にはまたも恐慌により管理コスト増大への懸念が増幅したと同時に、職能別部門と地域別組織に権限と責任が分散していることが原因となり、組織間の軋轢が強まった。利益の確保が難しい中、利益に責任を負う地域幹部が、直営店や通販拠点の運営に介入を強めたのだ。一方、店長たちも、シカゴ本社よりもむしろ地域支社や地区事務所に支援を求めた。

 この状況において、ウッドは、シアーズが直面しているのは人材面の課題だと考えた。幹部や店長によりよい研修を施せば課題を克服できるはずだと主張し、直営店人材部門を設けた。続いて地域支社に通達を出して、本来の業務である人事に専念し、職能別部門の長が定めた基本方針が地域で適切に実行されているかを見守ることが地域支社の役割なのだと意見した。しかしウッドは、人材の力に大きな信頼を寄せるあまり体系的組織の価値を小さく見積もり、シアーズの組織体系に潜む致命的な欠点を見落とした。地域支社長は人事を預かるだけでなく、本社の定めた方針を実行しなくてはならなかったのだ。だが、地域支社は方針の決定には関わっていなかったため、それを整理して実行に移すのはきわめて難しかった。にもかかわらず、管轄地域のさまざまな事業活動について、利益と市場業績に責任を負わされていたのが厄介であった。つまり、地域支社長たちは、権限を別の人々に譲り渡したうえで、多職能組織をマネジメントすることが求められていたのである。

 問題の本質をより明確に捉えていたのはカーニーであった。カーニーは、問題の根源は組織にあり、職能別組織の職務を地域支社がこなしている点にあると主張した。オペレーション、会計、販促などに関わる店舗の問題がすべて地域支社長に持ち込まれ、地域支社は人事に時間を割く余裕がなく、本社は職能専門家の力を活かせずにいたのだ。ついには、職能別部門からの指示の拡大解釈や修正を許可するまでになってしまっていた。カーニーは、仮に最初から地域支社長の責任を人事と商品フローの調整に限定していたら、シアーズははるかに力強い発展を見せていただろうと述べている。責任と権限を明確にすべきなのは明らかだった。そしてカーニーは、シカゴの職能別部門と地域支社の両方がいくつもの職能業務を受け持つ限り、両者の対立は解消されないだろうと予想し、実質的に集権的職能別組織への回帰を提案した。

 各支社長に、ウッドとカーニー両氏の報告書を送り意見を求めたところ、支社長たちは予想通り、自分たちには幅広いマネジメントの権限が与えられていると理解していることがわかった。さらに、シアーズが現場の状況変化や課題を乗り越えていくためには、自分たちがそのような幅広い権限を持つことが絶対に欠かせないとも考えていたようだ。

 1931年1月15・16両日、地域支社長と職能別部門の幹部が会議を開いた。根本的な二つの問題があるという点で意見が合致した。

  1. 現場には本社への、本社には現場への不満がくすぶっており、店長はシカゴ本社ではなく地域支社長に助言や支援を求めている。
  2. シカゴ本社からの命令が単なる提案として無視される事例が相次いでいる。
 2日間の会議では、カーニーの意見がほぼ通った。地域支社長は、社長以下の権限ラインに属して利益責任を負うが、現場マネジャーとシカゴ本社のあいだに対立が起きて初めて、職能活動について意見を述べたり、情報を得たりできることとなった。命令が単なる提案と誤解されないように新たな手順が定められ、部門のトップは現場マネジャーとの交流を深めるように求められた。しかし、これらの措置は気休めにしかならなかった。地域支社とシカゴ本社のあいだでは依然として権限と責任が分散しており、対立は解消されなかったのである。

地域組織の解体

 不況が深刻化してコスト削減への圧力が強まっていた。1932年、ウッドはついに地域組織の廃止に踏み切った。カタログ販売拠点の責任者はカーニーに業務報告を行い、直営店を管轄する地区事務所はシカゴの直営店管理担当副社長の指示に従うこととなった。当時のシアーズが集権的職能別組織を取り入れるうえで、厳しい経営環境が促進要因となったのはたしかだ。しかし、この組織改変の主な理由は、ウッドらが、職能別・地域別二本立ての組織ではシアーズは立ち行かないと悟ったことにあった。

(松田朋佳)

3. ゆるやかな分権化の進展

 シアーズは、地域別組織と職能別部門を長期間にわたって併存させることができなかった。1932年春以降、ウッドは別の選択肢を試みた。第一に、シカゴの直営店管理担当に直営店の監督を一手に引き受けさせる体制を築き、その後1935年初めには地区制度と直営店管理担当を共に廃止して、店舗マネジメントを完全に分権化した。これによって直営店とカタログ販売拠点は社長直轄の組織となったが、新設された地域マネジメント組織は意図とは反し拡大し、結果的に旧地区事務所に取って代わった。そこでウッドは再び直営店と地域マネジメント組織を統括する地域別組織を設け、仕入れを除く全ての職能活動と利益への責任を地域支社長に負わせた。つまり、地域別組織を多機能組織に、シカゴ本社を総合本社にそれぞれ変えようとしたのだ。このようにして、第2次世界大戦直後にマネジメント組織が完成すると、新設の総合本社の役割を決めるのが重要課題として浮上した。

直営店組織の集権化

 1932年5月、バーカーが直営店管理兼人事担当副社長に就任し、375の直営店を監督する責任を負ったが、それらの直営店はフレイザー報告書が提案したのと同じ地区割りをされていた。そこでバーカーは

  1. 明確なマネジメント責任: 直営店の方針や業務手順の策定、業績評価だけではなく、有能な人材を採用、育成、登用するという継続的なニーズに応えることを指す。
  2. 直営店運営に関する全社的な調整を担う本社組織: 職能別部門と直営店を担当する重要組織との絆を強めることを意味する。
を設けなくてはならなかった。バーカーは個別の案件については個々の副社長と二人三脚で取り組み、同時に直営店委員会の議長という立場では全副社長と一丸となった。バーカーはバロウズを伴い人事部を拡充し、人事手続きの体系化やシカゴ本社と直営店の風通しを良くするための会議を行った。「本社幹部が最前線のどの状況にどの程度通じているか」にかかっていると信じ、本社と現場との橋渡しは本社幹部自ら行うべきとしていた。

 バーカーは研修と業績評価を並行して進め、商品の抜き取り検査と会計・統計データの重要性を説いた。経営上層部が数値を通してしか事業の現状を把握、コントロールできない企業規模にまで拡大すると。綿密な統計数値を取りまとめ、配布すること、経営陣がその内容を的確に解釈できるかが重要であると認識していたウッドも多大な協力をした。研修と業績評価についで重要なのは、直営店の商品企画だった。1932年春の時点ではBランク店にまつわる課題が主でバーカーとその補佐役たちは職能別部門と最も緊密に連携し対策として全てのBランク店を品揃えに応じて分類した。B1店はソフト路線、比較的小規模なB2店はハード路線、特に金物屋大型機器などに特化し、さらに小規模なB3店はカー用品などを主に扱った。B1店をAランク店が代替し、B3店はCランク店が代替するため廃止すべきだと考えたが、店舗の拡大戦略は全て詳しい調査結果に基づいて推進すべきというバーカーの信念もあった。シアーズの品揃えを改善するためにバーカーは上記以外の改革として、品揃えパターンの枠組みを与え顧客の不興を買いそうな品揃えが起きないようにすること、ユニット管理などの統計手順を洗練させ適切なタイミングで適切な量の在庫を確保すること、地域別参考価格を設定し最低限の利益確保をするなどした。このように事業をあらゆる角度から監督・規律し、手腕に疑問のある管理職を淘汰し、有能な人材の育成に手を緩めず販売面で新しい手順や方針を企画し、職能別部門と直営店の管理者層の協力関係を密にすることで、バーカーは1934年末には強い結束を誇る優れた小売組織を築き上げていた。この時点で、それ以降も売り上げを維持・拡大するために広告・販売手法をいかに改善するかが喫緊性の高い課題であった。

小売組織の分権化

 バーカーの成功を受け、各店長が任務を理解したため複雑なマネジメント組織を残す必要性が薄いと考えたウッドは官僚的組織の肥大を懸念し人材に高い能力があると信じ続けたからこそ、1934年末にシカゴ本社の直営店管理担当副社長のポストと地区組織を廃止することを提案する。これは、直営店業務のプランニング、業績評価、調整を担う部門を廃止し、400あまりの直営店と通販拠点の責任者はウッドに直接報告責任を負うこととなり、またシカゴの職能別部門は監査役を派遣したり連絡役を介したりして引き続き店舗の管理を行うという提案だ。この極端な分権化に対し経営陣は、店長にこれほどの裁量を与えることの時期尚早さを唱え反対した。例えばバーカーは業務全般を分析・評価することは監査役、業務オペレーションの専門家だけでは不可能で、各職能別部門からの厚意と協力を得てあらゆる業務内容を検討し、本社と現場の両方に影響力を持つ直営店管理担当を廃止することは危険で、鍛錬を積んだ管理者の能力を十分に活かせなくなると主張した。

 マネージャーの自信や自発性が失われることを危惧し人材を頼るべきだと強く信じたウッドだったが、経営陣のこれらの反対の中で意図したほどに分権化を推し進めることはできなかった。直営店管理担当副社長のポストと地区組織を廃止したため店長は皆社長に直に業務報告を行ったが、実際のマネジメント業務の一部は従来通り現場とシカゴ本社が担い続けたのだ。1935年初めに人事担当の社長補佐に任命されたマッコネルは自身で各店舗の業績に目を光らせたが、主要ポストの人事や本社とカタログ通販事業の人事も任されたため業績を分析したり分析結果をもとに対策を提案・実行する時間的余裕はなく、これらの仕事は新設の地域別組織のマネージャーに委ねられた。つまり、地区制度は廃止されたが他の地域マネジメント組織は拡大したのだ。バーカーの指揮下で同一地域に属するBランク店のグループ化が進み大都市圏内で価格・取扱商品・業務手順などを統一した。多くのAランク店はこれらグループに編入されたが、グループ化されていないB、Cランク店は5つのゾーンのいずれかに組み入れられ、従来の地区マネージャーが各ゾーンの責任者となった。ゾーン責任者は既存の職能別部門に慎重に組み入れられ、現場に身を置きつつも職能別部門の代表者として行動し、小売り方針委員会に基本事項の提案を行った。この委員会は1935年以降もバーカーが議長を務め、メンバー、使命ともにかつての小売委員会とほぼ同じだった。

地域マネジメント組織の拡大

 1935年以降の数年間で

  1. グループ事務所
  2. ゾーン事務所
  3. これらに属さないAランク店のマネジメントチーム
という3種類の地域マネジメント組織が、幹部人数の増加を要因に拡大していった。シアーズはA、B両タイプでソフト路線を強化するとしたため市場との密着や、販売手法を磨く必要があり特に仕入れの専門家が増加したのである。地域のマネジメント要員が増えたのは直営店組織を立ち上げる際にドッドとハンファリーが地域組織を拡大すべきだとした理由と同じで、市場動向と販売促進策を研究し、店長やシカゴの仕入れ担当者に助言を行う幹部がいて初めて各地に散在する多大な経営資源を生かし大量の配送を迅速にこなし、単位コストと価格を下げるという経済上の使命を果たせるということだった。また、ゾーン事務所はグループ事務所と極めて似通っていた。1939年には各店舗はバーカー時代よりも少し融通はきくが、ほぼ同じような組織でマネジメントされていた。店舗数の増加と、それによって業績が回復し売り上げが伸びたため、直営店管理担当が正式に復活しマッコネルが担当副社長に就任した。

地域別組織への回帰

 1939年初めに経営トップが交代し、ウッドが取締役会長の座に就きカーニーが社長に昇格した。この新体制が固まった後、シカゴ本社が下すべき判断が多くなったため再び地域別組織を取り入れる決断を下したが、今回は性急な改革ではなく西海岸でまず実施し、それが成功した時点で他地域へも反映することとした。この新しい体制において、管轄地域内のグループ/ゾーン/Aランク店/通販拠点の管理者はすべて西海岸地域の支社長バロウズに業務報告を行ったため、シカゴの販売促進の専門家と、グループ/ゾーン/Aランク店の仕入れ管理者らは密接に連絡を取り合ったが、それ以外においてシカゴに連絡するのは方針を確かめる際と予算に関してのみであった。西海岸地域での試行は予想を上回る成果をあげた。戦後に向けての基本プランと拡大プランは、多職能組織である地域支社/グループ/ゾーン/Aランク店/通販拠点からなる組織を前提に立てられた。

 後任社長にバロウズが就くと、1945年には南部・東部各支社の具体的組織を練り始める。新組織の概要を定めるに当たって2種類の課題が持ち上がった。1つ目の各支社の地域割りと組織割りをどうするかという課題はすぐに解決したが、地域支社に全権を与える時のシカゴ本社の役割をどのように定めるかというもう一方の課題は一筋縄では解決しそうもなかった。

 本社組織が始動してから2週間後にバウロズが社長を辞任し、マッコネルが後任に就任した。マッコネルとウッドは地域組織を完成させる前に、組織の調査やこれまでの改編の分析、課題への解決策の要請を目的にコンサルティング・ファームを雇うことを決意する。コンサルティング・ファームによる報告書は、総合本社の役割について提案が示されている点でシアーズの経営陣にとって有意義だったが、それ以外の点についてはマネジメント組織に対する一般的なまとめがなされているだけで地域別組織の形態や支社長が負うべき責任、本社との関係性については全く触れていなかった。シアーズ経営陣は組織に関して正しい方針と哲学を持っているというお墨付きを外部の専門家から得たが、次のステップに関しては内部に常設委員会を設置し、生の情報と経験とともに組織がプラン通りに機能しているかを絶えず見守り社内のあらゆる部門からの修正提案を綿密に検討する場と位置付けることとした。1948年末、常設委員会からの報告書には、地域の境界線をどう引くかという問題以外の真の課題は総合本社の特にスタッフ部門の役割を地域支社との関係で明確にすることだと再び記されていた。

組織の完成形

 1948年4月には未開設だった地域支社が業務を開始し、同時に総合本社では他部門への助言を行うためにオペレーション部門が復活し旧来の直営店管理担当は廃止となった。シカゴ本社に残った機能は全般的な課題や手順についての助言役となった。シアーズのコントローラー部門は、地域コントローラーを通して、直営店とカタログ販売拠点にじかに指揮命令を行った。以前の地域別組織と同じく地域支社長は本社の命令を握りつぶすことができた。スタッフ部門の幹部は、命令を下す機能はなかったものの現場のライン幹部に対してそれぞれの業績や成果に至る過程などについて、疑問を投げかけることが許され、「監査」という重要な責務としてむしろ推奨された。スタッフ部門は監査や助言のほか、社長、会長、購買担当副社長、財務担当副社長と緊密に連携しながら幅広い方針を定め、プランの実現に必要な賃金、人材、施設などの割り当てを行った。総合本社は経営資源の管理を通して事業分野別の拡大・維持・縮小について判断を下した。シアーズの総合本社は規模が非常に小さかったため幹部連絡会はじきに経営委員会へと姿を変え、地域支社の設置とともに廃止された。方針決定が、現場とかけ離れた場所で行われないようにするため、経営陣は定期的に現場を視察して回ったり、情報やアイデアの共有を促すために総合本社の監督下に支社連絡会を設けて会合を行ったりしたが、もっとも重要だったのは、現場から絶えず流れ込んでくる統計データや報告書であった。1920年代以降シアーズの経営陣は過去の業績だけでなく、将来予測をもとにしたプランを策定し始め、30年代に入るとそれらのデータは正確性と洗練度を高めていた。

 1948年夏には、シアーズはGM、デュポン、ニュージャージー・スタンダードがすでに確立していたのと極めて近い組織形態を実現する。自律的な事業部と、経営陣とスタッフ組織で構成される総合本社を柱としたこの組織は、以後今日まで大きく変わっていない。ここにたどり着くまで長い時間を要したが、これは経営トップの考え方と、外部環境の両方によるものだっただろう。以上のようにシアーズでは、戦略的な事業拡大が組織改編を促した。当初は、シカゴのカタログ販売拠点の業務量が急増したため、仕入れ、配送、財務などの主要活動ごとに部門が設けられた。営業地域が広がると、各部門の手綱を引き締める必要性が高まった。既存の経営資源を最大限に活かすための集権化が完了すると程なく、工場や人材が遊休状態に陥るのではないかとの懸念から、ウッドと新経営陣は急拡大する都市部とその近郊の市場に食い込もうとして新たな方向性を打ち出す。こうして1925年以降、直営店の開設を機にそれらをマネジメントするために地区・地域事務所からなる新組織が生まれたのだ。この新組織を、カタログ販売事業のために設けられた旧来の組織とどのように共存させるべきか、という問題が解決されないままくすぶり続け、やがてウッドがいくつもの多職能事業部を設置し、その中央本部は現場組織をマネジメントするのに必要な職能活動を全てこなした。この多職能事業部は他方で、シカゴに新設された総合本社によって全社の利益に沿ってマネジメントされた。小売業を営むシアーズの事例では、垂直統合ではなく持続的成長が、職能別組織を中央からマネジメントする必要を生み出した。完成した組織の姿にも、小売業のシアーズと大手製造業3社との違いは現れている。また、本社経営陣の数が少なかった点も異なる点の1つである。これは事業の複雑性が他の3社と比べて低かったからだ。多職能事業部はほぼみな同じ業務をしており、市場も概ね同質的であった。

 シアーズの事例は、他の3つのケーススタディにも増して、大企業で充実したマネジメントを実現するためには、人材が極めて大きな意味を持つことを浮き彫りにしている。そして、指揮命令とコミュニケーションの経路を明確にする重要性をも示している。ウッドが強く主張する、適材適所の意義は的を射た主張だと言える。大規模企業が繁栄を勝ち取る上では常に、有能な経営者が何よりも重要だが、一方でそれだけでは効果的なマネジメントは実現せず、行動の土台となる数値データや、そしてまた自分の決定が確実に実行されると確信できる環境が必要だという教訓を得たのであった。

(伊津野咲)


第6章 組織イノベーション: 比較分析

【解題】4社の組織建設の事例を (1)従来の事業慣行に従って現場組織、部本部、中央本社などを立ち上げた適応的順応(adaptive response)の時期と(2)分権的な事業部制を導入した創造的革新(creative innovation)の時期に分けて整理する。(1)の時期に活躍した帝国建設者(empire builder)が、(2)の時期に組織建設者(organization builder)となることは極めて稀で、帝国建設者と組織建設者とでは、パーソナリティーも素養も異なっていた。(高橋伸夫)

 今までに取り上げた4社(デュポン、GM、ニュージャージー・スタンダード、シアーズ)は、事業拡大とそれに伴う経営資源の配分により生じた新たなニーズに対応するため、マネジメント組織の新設や既存組織の改編を行った。この中で、経営陣の経験や人柄が、ニーズに対応した組織を作り、組織イノベーションを成し遂げるまでの時間の長短を決定付けた。

1. 適応的順応

 シュンペーターによれば、経済上のイノベーションは、従来の慣行や手順を打ち破ってイノベーションを成し遂げる「創造的革新」と、大きな変化を経験しながらも従来の慣習から抜け出していない「適応的順応」に区別できる。4社の組織構築は分権的な事業部制の導入にあたり創造的な方法を取ったものの、現場組織や部本部・中央本社を立ち上げた際には従来の事業慣行に従ったため、適応的順応に分類される。しかし無条件に他社を模倣した訳ではなく、他社の事例を検討した上での決断だった。

職能別組織の構築

 幅広い製品需要に効果的に対応することを目的に事業拡大や買収・合併の戦略を採用した企業は、全米に多数の工場や出先機関を擁していたので、現場組織をマネジメントするために部本部を設ける必要に直面した。部本部を設ける際の主な仕事は、本社と現場の指揮命令、コミュニケーションの経路をどう定めるか、本社各幹部にどのような任務を割り振るかにあった。この中で課題となったのは、上位二階層のマネジメント組織をいかに構築するか、同じ機能を担う両組織の幹部同士の関係をいかに定めるか、であった。だが通常は、本社と現場での両方で専門的な補助的活動が行われ、そこでの責任はほぼ例外なくライン・アンド・スタッフ型組織に沿って果たされた。ライン・アンド・スタッフ型組織においては、指揮命令系統は幹部からその直属の補佐役を介して、工場長や監督者へと連なり、工場長と部門長は各組織の業績に全責任を負った。より専門性の高い機能を担う幹部は本社、工場それぞれのライン担当者を介して部下と意思疎通を行い、命令を下せるのはライン担当者のみだった。

 ライン・アンド・スタッフ型組織が一般化した理由として、この組織形態を取り入れると現場に権限や責任を委譲しやすい点が挙げられる。本社から現場への指揮命令や情報が工場や支社に十分に届かなければ、地域のマネージャーは自部門の業績に責任を負えず、このような場合、実に多くの事項において本社に判断を仰ぐ必要が生じるだろう。また、ライン組織とスタッフ組織の区別が曖昧だと意思決定が一箇所に集中しやすいのである。この中でニュージャージー・スタンダードが委員会形式のマネジメントを取り入れた事例は特記すべきである。1925年から1927年の組織改編においては委員会によるマネジメントをライン・アンド・スタッフ型組織にゆっくりと移行させ、部門と製油所両方について個人が責任を負う体制を築いた点が特徴的である。これにより、業務判断を下す責任と権限が本社から現場に委譲された。 しかし言うまでもなく、組織改編が行われたからといって、それだけで日々の判断が現場に委ねられ、各部門の上層部が全体の調整、評価、プランニングに専念できるとは限らない。意思決定を誰が行うかは、本社幹部と現場責任者の気質や素養によって決まる面が強い。それでもなお、ライン・アンド・スタッフ型組織がなければ、幹部の気質などに関わらず意思決定は本社に集中する傾向にあると結論づけられる。このように4社の事例からは、広域にまたがる事業組織を構築、あるいは買収するという拡大戦略を推進すれば、部本部と現場との間で指揮命令やコミュニケーションの経路を明確化する必要が生じるということがわかる。

中央本社の創設

 部本部が現場組織をマネジメントする仕組みの下では、企業規模が拡大すると部本部は中央本社の監督下に置かれる。中央本社は複数の職能活動を監督しながら経営資源を配分し、また調達や製造に関する法律や規制などの影響を認識しておく必要があるのだ。メーカーでは、製造と販売を結びつける目的で行われた垂直統合の推進が中央本社創設の契機となった。製造と販売を連携させると、続いて後方統合が推進された。これは守りの戦略であり、工場が必要としている時に常に値頃な価格で原材料や資材を調達したいという要請によるものであった。経営資源が蓄積され、自社の販売・流通経路を通して国内市場への浸透が可能になり、原材料・資源についても安定確保が実現すると、4社はいずれも本社組織を整備して、マネジメント効果を高めた。これは経営資源の有効活用にも繋がっただろう。この中で中央本社は3種類の使命を帯びる。

  1. 職能別部門間での製品フローの調整も含め、多数の職能組織の成果を互いに結びつけて、変わりゆく需要動向やニーズ、嗜好に対応する事だ。この実現には、製造と販売を連携させるのみならず、製品を改良するためにエンジニアリング部門を充実させる必要があった。
  2. 事業成長と垂直分業を受けて、中央本社の補助的部門が拡充され専門業務を担ったため、職能別部門のマネジメント負担が軽減された。
  3. 市場に合わせて活動を調整し、経営資源からどれだけの成果が上がっているかを評価して、将来の資源配分を決めた。
 中央本社が以上の調整役の機能を実際に果たすのは、需要が頭打ちになった後である。4社では部門業務や部門間の製品フローを需要に合わせて調整する必要が大きかったため、事業判断はほぼ全て将来の見通しに基づいて下されるようになった。需要予測の精度が高まれば高まるほど、製品の流れは平準化できるからである。また、緻密な需要予想を始めるきっかけは以上にとどまらない。中央本社が全社のプランニングと業務評価を効果的に実践するためには、全部門のコストに関して正確で有意な統一データを備える必要性が大きかったのだ。この中で、4社はあらゆる事業活動を市場の変化に合わせるために、既存製品、検討・企画段階の製品について現在および将来の需要を熱心に予測するようになった。また経営陣も、方針策定と経営資源の配分を体系立てて行うためには、予算と資源配分について綿密な手順が求められると気付いた。このプランニングにも将来の財務や経済情勢を予測することが求められた。

 多機能型の大企業では、工場・施設・人材などを市場の変化に合わせて活用するために、専門的な補助的部門の設置に取り組んでいた。例えばメーカーでは製造部門が中央本社へと発展する事例が多かった。さらに好業績を保ち、将来の成長を目指す上では、中央本社の設置にも増して、経営幹部の任務を明らかにすることが重要であり、経営幹部を日々の業務運営よりもむしろ、経営の舵取りに専念させる必要があった。この中で中央本社が抱えた課題とは、全社のプランニング、調整、業績評価に責任を負うはずの経営幹部が実務に忙殺されており、経営戦略上の判断を下すための時間や情報、意欲を持たなかったことだ。その上彼らはスペシャリストであり、自分の専門分野の業務の視点や職能の立場から会社の課題を眺めたため、偏った偏見をもとに全社の活動を評価、プランニング、調整する傾向があったのだ。これに追い打ちをかけたのが、部門業績に関して客観的データを得るのが難しいという事実だった。これは個々の活動の損益が、他部門の活動に極めて強く依存していたからである。また業績評価やプランニングについても当の部門が作成したデータに頼らざるを得ず、偏った考えを持った人が偏ったデータをもとに議論して経営判断を下していた。このような歪みが大きくなったのを受けて、事業部制が導入され、総合本社が設けられた。しかしながら事業部制に近い制度を導入し、総合本社の設置を試みたGMのように、多数の子会社を傘下に持つ連合型企業がマネジメント効果をあげられなかったため、同様の成り立ちを持つ多くの企業は程なくして集権的職能別組織を築く。経営資源を有効活用するには、集権的マネジメントが唯一の解であるかのように受け止められたのである。

 巨大企業をマネジメントする上では、集権制にも過度の分権制にも、それぞれ欠点がある。経営陣は集権制の下では日々の実務に忙殺され、一方で分権化が進むと子会社の現状に疎くなる。どちらの組織形態にも、調整、評価、プランニングを行う上で経営陣には足かせがあるのだ。

(大平綺乃)

2. 創造的革新

 組織を根底から変えたこのイノベーションを分析するには、次の問いに答える必要がある。

  1. どのような状況が変革を促したのか。
  2. どのような過程を経てイノベーションが実現したのか。
  3. 大企業勃興期のアメリカで、これら4社が、既存のマネジメントでは全社の調整、業績評価、プランニングを十分に遂行できないと、いち早く悟ったのはなぜか。
  4. これら企業の経営者はなぜ、どのようにしてこのニーズに気づき、いかにして行動を起こしたのか。
  5. 一度動き始めたプランや方針をどのように軌道修正していったのだろうか。

イノベーションを引き起こした要因

 デュポンで職能別組織の欠点が明らかになったのは、製品多角化が本格化して以降である。第1次世界大戦後、 生産設備に余剰が生じたため、稼働率を向上させるために、製品種類を増やす必要が生じたのだ。シアーズのたどった軌跡はデュポンにきわめてよく似ている。1920年代にカタログ販売事業が急激な伸びを見せ、拠点数が3から10へと増えたが、この時組織には、ほとんどしわ寄せは及んでいない。他方、直営店による販売という新たな試みに挑んだ際には、調整、監督、プランニングなどの面で多数の問題が持ち上がり、 従来の組織では手も足も出なかったのだ。ニュージャージー・スタンダードの場合には、製品多角化ではなく、自動車の普及を背景として新製品が生まれ、世界各地で垂直統合を推し進めたことが、マネジメント上の難題をもたらした。GMは各価格帯に製品ラインを持ち、それぞれのラインに複数のモデルを投入していた。部品や付属品の分野でも、フォードよりも積極的な取り組みをして、全米に向けて製品を製造・販売していた。このように多角化が進むと、過度の分権制の下で持ち株会社が全体を効果的にマネジメントするのは不可能に近いと判明したが、かといって集権的多職能組織を構築するのも現実的ではなかった。組織のひずみを生む原因が、規模の拡大よりもむしろ事業の多角化であるとの前提に立てば、本書で取り上げた4社がなぜ、アメリカの大企業のなかでいち早く組織改編の検討に乗り出したのか、その理由が明らかになってくる。各社の経営陣は、もはや単一産業にとどまらず、全米あるいは世界の経済を股にかけていた。つまり特定職能の専門家ではなく、まさにゼネラリストであることが求められていたのだ。そのうえで、あらんかぎりの時間と情報を傾けて、全社の監督とプランニングにあたる必要があったのである。

イノベーション実現への道のり

 イノベーション実現までの各社の道のりの共通点として、事業の複雑化に起因する組織のひずみに最初に気づいたのは、経営トップ層を形成する幹部だったという点がある。ただし、イレネー・デュポンは新組織の提案に強い拒否反応を示し、デュラントとティーグルは、組織の不備にも、改編への提案にも無関心だった。4社の経営トップのうちで、組織ニーズに目を留め、速やかに行動を起こしたのは、シアーズのウッドだけである。実際に組織イノベーションを推し進めたのは、問題をだれよりも身近にとらえ、 実務に縛られずにこの経営上の大問題に取り組む時間を持てた人々である。デュポンは、若手幹部が集まる委員会、GMは、スローン、ニュージャージー・スタンダードでは、クラークとハワード、サドラー、シアーズでは、多忙なウッドの代わりにハウザーやドッド、フレイザーが関わった。結果として、GMとデュポンでは、 変革の旗振り役を務めた人々は組織改編の全体像を詳しく、しかも明確に示した。ニュージャージーの場合には、 当座の課題への対症療法を示したのみだった。シアーズは、社外の人材によって小売店のマネジメント組織が提案されたが、的外れな中身で成果につながらなかった。

イノベーションの意義

 4社が取り入れた組織形態が高い成果を生んだのは主として、社の命運を握る経営トップを細かい実務から解放して、長期のプランニングや業績評価に必要な時間と情報を与え、そのための意欲を高めた、と同時に、多職能型事業部のトップに、実務をマネジメントするための権限と責任を与えたからである。加えて、事業部に惑わされることなく、量と汁の面で優れたデータが提供された点も大きい。この状況のもと、新組織では、事業部の上層部は各事業の実務を担い、本社経営陣は目標や方針の設定、全社の 業績評価などを行うと役割を分けたところ、意思決定の手法にも変化が現れた。事業部では、判断はやがて個人に委ねられるようになった。経営レベルでは、集団での行動、それどころか集団での意思決定が一般化していった。この、意思決定をうまく分散させ、正確なコミュニケーションとコントロールを実現する利点のほか、新組織には、経営者に鍛錬を促し、力量を試す場を提供したという利点もあった。

3. 組織の革新者

 経営陣は実務に追われていたにもかかわらず、どうやってマネジメント上のニーズや課題にいち早く着目して、組織イノベーションを成し遂げたのだろうか。

組織革新者の気質と素養

 4社の事例からは、事業帝国を築き上げた企業家たちが、マネジメント・ニーズに合った組織づくりに携わることはきわめて稀だとわかる。コールマン・デュポン、ウィリアム・C・デュラント、リチャード・シアーズ、ウォルター・ティーグルとロバート・ウッドは、事業帝国の構築者としての性格を強く持っていた。一方、事業帝国のマネジメント体制を考案した人々は、事業帝国の構築者とは異なるタイプである。ピエール・デュポン、ハリー・ハスケル、ドナルドソン・ブラウン、アルフレッド・スローン、フランク・ハワード、エドガー・クラーク、ジェームズー、セオドア・ハウザーらは、事業帝国を築き上げた人々と比べて控えめな性格で、事業課題に慎重に計画的に取り組んだ。これら経営者は今日の専門経営者と相通じる面が多い。こういった組織づくりに携わった人々の共通点としては、入社以前に他社や他産業での経験をさほど積んでいない、にもかかわらず大多数が、前任者や今日の専門経営者に比べれば、社外での経験が豊富だと言える点や大多数がエンジニアリング 分野の教育を受けている点、比較的若く、責任ある地位に就いてほどなく組織改編に関心を払い始めたという点が挙げられる。以上の点をまとめると、新戦略や新組織を構築するのは、幹部に登用されて年数が浅く年齢的にも若いが、幅広い事業経験があり、社外での経験も有する人物が最も適していると言えるだろう。

情報の源

 ニュージャージー・スタンダードとGMでは、自身の経験をもとに課題への対応策を示していた。一方、デュポンとシアーズは、他社の事例や考え方に大きな関心を払った。これは、各企業における課題の捉え方や企業風土に基づく違いといえよう。

 これまでの、事業部制導入の先駆けとなった4社の比較分析からは、以下のことが言える。事業部制の採用を促す状況が生まれたのは、新規事業に参入したり、全米あるいは世界規模で事業を拡大したりした後である。それによって持ち上がったマネジメント・ニーズに新組織が対応できたのは、

  1. 会社の業績や成長に責任を負う経営陣に多くの時間、情報、意欲を与え、事業拡大によって増えた戦略案件について、集中して判断できる環境を用意したからである。
  2. 組織を円滑に動かす責任を負う人々に、単一製品あるいは単一地域の変わりゆく需要に対応するために製品フローを調整したり、職能活動に専念したりする環境を与えたからである。
この比較分析はまた、特定のやり方でのマネジメントに慣れた人々にとっては、新しいマネジメント体制を築くのは難しい、という事実を浮き彫りにしている。他方、エンジニアリングの素養、マネジメント課題への理論と分析を主体としたアプローチ、若さ、昇進からの歳月が浅い点などはすべて、経営陣が新たなニーズに目を留め、組織革新者になるのを助けるようだ。
(藤原欣広)


第7章 事業部制の広がり

【解題】ここでは、(i)職能別より一般的な使命をもつ経営陣のいる総合本社をもち、(ii)複数の自律的な(autonomous)事業部をもつ場合、事業部制(new multidivisional form)を採用したと定義する。70社は次の3群に分けられる。(a)事業部制の採用が少ない鉄鋼、非鉄金属、(b)事業部制の採用・不採用が混じる農産物加工、ゴム・タイヤ、石油、(c)事業部制を採用する電機・エレクトロニクス、自動車・動力機械、化学。どんどん分化・変異する顧客群に対して、全く異なるラインの製造・販売をする企業だけが事業部制に移行していた。(高橋伸夫)

 近代的な企業組織構築のパイオニア4社を取り上げて、組織改編の比較分析を行ったところ、今日の企業マネジメントにおいて、各経営者の手腕をある程度まで客観的に評価できた。4社は共に、当初の組織をつくり上げる際には他社を参考にしたが、事業部制という新しい組織形態を導入すると、今度は他社からその事業部制を模倣されたのだ。だが、他社は4社と同じ理由から事業部制の導入に踏み切ったのだろうか。このような問いに答えるためには、事業部制の導入に先駆けた4社と、他の多数の大企業を比較するのが唯一の道だろう。調査対象の70社は、表2 (p.9)にあるように便宜上3つのグループにまとめられる。鉄鋼や非鉄金属といった業界では、事業部制あるいはそれに類する組織形態を取り入れた企業はきわめて少数だ。他方で農産物加工、ゴム・タイヤ、石油などの業界は、事業部制を採用した企業とそうでない企業に分かれる。電機・エレクトロニクス、自動車・動力機械、化学などで構成する第三のグループでは、主要企業はほぼ事業部制に移行している。第一のグループを分析したところ、戦略や組織の大きな変化を促すような経済環境は生じておらず、組織の安定と経営の簡素化を優先させたのだとわかった。第二グループを検討すると、同一産業に属していても、企業ごとに経営や組織のニーズが異なるのはなぜが見えてくる。最後に第三グループの変化を分析すると、組織改編の引き金となった複雑な事情は何か、新たなニーズへの対応を妨げた社内要因が何かについて、より幅広い解釈を加えられる。

1. 第一グループ: 事業部制を未導入の業界

 すでに述べたとおり、70社のなかで1960年の時点でも事業部制を導入していない企業は、鉄鋼・非鉄金属業界に集中している。銅やニッケルを扱う企業は、組織にはほとんど関心を寄せてこなかった。他方、鉄鋼メーカーは指揮命令やコミュニケーションの経路に深く思いをめぐらせ、その結果ほぼ例外なく集権化を強めた。他の素材メーカーは、逆の道を歩んだ。アルミニウム業界のリーディング・カンパニーは、分権化への圧力を受けながらも、それを跳ね返して旧来の職能別組織を維持して、非常に複雑な形態へと進化させてきた。これら企業が選んだ組織形態は、市場の特徴と深く関わっている。顧客の多様化が進むにつれて組織が複雑になったため、体系化への動きが強まったのだ。大多数の事例では、技術の違いや経営者の気質にも増して、販売面の相違が、組織形態に大きく影響したようだ。

銅・ニッケル

 銅・ニッケル・亜鉛などの業界では20世紀の初頭から一貫して、同じ企業が同じ方法で生産してきた。アルミニウムを除けば、非鉄金属業界のリーディング企業は、採掘、 溶解、精製に特化していた。ところが1920年代〜30年代には、インターナショナル・ニッケルを除いた全社が加工会社の支配的経営権を手に入れた。1950年代にはこれら子会社が合計で、全米の製錬銅製造量の65%を占めていたと推定される。銅メーカーは、銅の採掘・加工に携わっているが、市場が明確に定義されており、製品種類もかぎられているため、組織に大きな注意を向ける必要性は小さかった。組織上の課題といえば、部本部と中央本社へのコントロールをどう強めるかという点だけである。均質性の高い標準品に関しては、生産計画を立てるのはさほど難しくない。製品を輸送・保管する必要も小さかったため、石油会社や鉄鋼メーカーとは違って、製品フローの調整に気を揉まずに済んだ。このため、大多数の企業と比べて原料の調達・生産のタイミングと量の決定は、日々の価格変動に大きく依存する。銅、ニッケル分野の企業の場合、事業内容がシンプルで、技術・市場共変化に乏しいため、経営陣の下す判断はもっぱら実務に関してであった。時の経過と共に、各職能活動の監督に伴う判断や、需要に合わせて職能部門間の業務の流れを調整する仕事は、ルーチン化してきた。新工場の建設や鉱山の買収といった、比較的軽微な戦略判断ですら、求められるのはごく時折である。ニッケル業界も銅業界と同じような変遷をたどってきた。

鉄鋼

 鉄鋼事業では、生産手法と販売の両面で、緻密なマネジメント・コントロールが求められた。銅やニッケルの生産とは違って、この分野ではかなり以前から、精製・加工などを同一の工場で行い、諸活動を密に連携させている。鉄鋼業界では銅業界に比べて、製品量や顧客数が遥かに多く、生産の各プロセスが深く関わり合っているため、スケジューリング、職能別活動の調整共にきわめて複雑だった。そのうえ、標準加工品を大量生産するためには、 将来の市場動向を予測・分析して、それに合わせてさまざまな活動の足並みを揃える必要が大きくなっている。このような必要から、大手鉄鋼メーカーの大多数は、かなり以前から集権的職能別組織を採用している。金属業界で集権化が趨勢となっているのは疑いない。生産スケジュールの作成や事業部間の調整が複雑であるため、中央から一元的にマネジメントしないかぎり、鉱山、鉱石輸送船、流通組織などの稼働を平準化することも、過剰在庫や生産設備その他の遊休などによる損失や無駄を避けることもできないだろう。事業部制の継続や拡大に歯止めがかかったのは、単一市場の需要だけでは、大規模メーカーを常にフル稼働の状態に保てないからだと思われる。各社は全国市場での事業展開を目指すのだ。しかし、石油業界のような業種別市場、あるいは西部、南西部のような地域別市場は規模も多様性もあり、単一事業部の生産量すべてを吸収できるのではないだろうか。このような市場が存在するなら、ジョンズ・アンド・ローリン、USスチール、アームコなどの各事業部も、高い自律性を保ったままで活動を続け、利益を上げられるだろうか。にもかかわらず、ナショナル・スチールやUSスチールの歩み、ジョンズ・アンド・ローリンの経営思想からは、集権化への趨勢がはっきりと見て取れるのだ。仮に市場の変化が乏しく、自律的事業部の増加と拡大を促さなかったなら、多数の複雑な戦略判断が求められることもなく、経営陣と専門スタッフからなる総合本社を設ける必要も生じなかっただろう。鉱石の調達、生産、 加工、さらには鉄鋼の販売も、以前から変わらないルーチン的業務だと言える。工場の新設、新市場への参入、 新業務プロセスの開発などはごく稀な出来事であるため、経営陣が実務に専念していても支障がないのだ。何より重要なのは、鉱石、半製品、完成品の生産・販売にあたる施設や組織が、性質の異なる製品向けに転用しにくい点である。このため、鉄鋼メーカーが事業拡大を目指すうえでは、長期的判断の増加を招く製品多角化は、魅力的な選択肢とは見なされてこなかったのだ。

アルミニウム

 主要鉄鋼メーカーと比べて、最大手のアルミニウム・メーカーは分権化への強い圧力にさらされてきた。鉄鋼よりも市場が多様化しており、急速に変化してきたため、経営陣は戦略と実務の両面でより多くの判断を迫られているのだ。アルコアの組織は長年にわたって、ここで取り上げる他の非鉄金属メーカーよりも遥かに多くの困難と課題に直面している。なぜなら創業当初から多彩な産業、さらには家庭の主婦など消費者に向けて各種の加工品を製造・販売するために、経営資源の大部分を傾けてきたからだ。アルミニウムの需要が増大すると、後方統合を推し進めて、ボーキサイト鉱山、鉱石輸送船、倉庫などを買収していった。こうして第一次世界大戦前には統合型企業へと脱皮していただけでなく、アルミニウム業界に唯一の企業として君臨していたのだ。成長著しいアルコアは、1920年代には、集権的職能別組織によって経営資源をマネジメントするようになっていた。あらゆる職能分野の活動が増大したため、アメリカ産業界屈指の巨大で複雑な中央本社を擁するにいたったのだ。1960年時点でのアルコアの組織は、1919年のデュポンの組織をそのまま拡大したものだと考えればよいだろう。1921年以前のデュポンと同じく、今日のアルコアでも、大多数の副社長の配下にはゼネラル・マネジャーがいて、日々の実務を担っている。全社の業績評価やプランニングを担うのは、3人の上級副社長、社長、取締役会長、経営委員会議長、財務委員会議長である。このうち社長と上級副社長は言わば経営チームを構成して、日次で会議を開いているが、配下にスタッフがいるわけではない。アルコアのマネジメント活動の中核をなすのは、これら経営トップと職能別部門のトップだけである。人事、研究、広報、広告などですら、本社スタッフ組織というよりも、むしろライン組織と見なされている。プロダクト・マネジャーや生産プランニング部門が実施する以外の部門間調整も、委員会が担う傾向が強まっており、部門横断委員会の数は現在では100に迫るほどだ。以上のように、アルコアは多種多様な製品を扱い、時と共にいっそうの多角化を進めてきたわけだが、なぜ集権的職能別組織をこうも長く保っているのだろうか。指揮命令やコミュニケーションの経路は当然長く、交錯しているため、非公式の権限・責任経路のほうが、公式の経路よりも大きな意味を持っているのではないだろうか。 旧来の組織形態が脈々と受け継がれてきた背景には、製品と市場の特性、そしてまた経営陣の気質が影響しているだろう。現在の会長と社長は共に、35年以上もアルコアに在籍している。小さな同族企業にとって重要なこれら諸関係 は、今日のアルコアのような巨大事業帝国でも活かされるべきだ、というのだ。しかし、ハントが非公式な組織の意義を強く信じているにもかかわらず、生産と販売を密接に連携させる必要から、集権化への強い圧力が働いている。アルコアでは、鉄鋼メーカーと同じように、顧客の仕様に基づく受注生産が大きな比率を占めているのだ。仕様に忠実な製品を迅速に仕上げ、それと同時に多数の加工工場の稼働を平準化するためには、注文対応と製品フローのスケジューリングを入念に行う必要がある。半面、特定の主力製品に特化した工場を設ければ、その製品の製造、エンジニアリング、販売を自律的な事業部内に集中できる。いずれにしても、ライン・アンド・スタッフ概念に沿って 中央本社を合理的に再編すれば、各種委員会の会議に費やす時間を節約できるのではないだろうか。アルコアは多様な事業に携わっているため、現在の古参経営陣が退任した後は、組織改編が行われる可能性が高い。他方、鉄鋼メーカーの事例からは、多大な経営資源を投じて他産業向けに大規模な注文生産を行っている企業にとって、自律的な事業部を構築するのが難しいことも窺える。

各種素材

 素材産業は、多種多様な需要に直面しているため、大量生産につきものの集権化への圧力がうまく緩和されている。この業界の主要3社は、金属メーカーと同じく、消費者ではなく主として産業用に製品を販売している。だが3社はいずれも、製品の種類、顧客の数ともきわめて多い。併せて、原材料の調達や輸送よりも製造・販売に、つまり工場、人材、機械などにより多くの投資をしている。アメリカン・キャンとインターナショナル・ペーパーは、19世紀から20世紀への変わり目に複数の企業の連合体として誕生し、ほどなく集権的職能別組織を築き上げた。これに対してピッツバーグ・プレート・グラス は、特殊な製品を扱っているため、まずは販売組織を設け、そのあとで両社と似た組織形態を採用した。アメリカン・キャンは、金属製容器と缶詰機械を塗料業界や食品業界へ販売しており、多数の小規模企業が顧客であるため、各地に散在するいくつもの小さな工場で製造を行っていた。その結果、地域別事業部に事業運営を委ねることとなり、1930年代に大西洋岸、中部、太平洋岸、カナダの各事業部を設けた。従来の事業に加えて製紙に参入した後も、この組織はうまく機能した。ところがその後、金属容器事業の成長が鈍り、原料や人件費が高騰したうえ、競争が激化したため、紙・プラスチック容器の製造に大々的に乗り出す決断をした。これらの分野であれば、既存の経営資源、とりわけ余剰資金と熟練した人材を投じて、大きな利益を出せると考えたのだ。プラスチック、製紙会社の買収を機に、1957年には 3つの製品別事業部を設け、既存の金属容器事業を第四の事業部に位置づけた。総合本社も拡充して、経営陣、 専門スタッフ共に人数を増やした。このように、製品多角化を受けて、地域別事業部制から製品別事業部制への移行が進んだのである。インターナショナル・ペーパーは、1898年に複数の企業の連合体として誕生し、その後に集権的事業部制を取り入れていたが、1920年代に入ると既存の新聞用紙事業に加えて、袋詰めや、重量感のあるクラフト紙といった分野に経営資源の一部を振り向けることにした。30年代末には組織を改編し、地域、製品別の3事業部に比較的高い自律性を与えて事業運営にあたらせた。新聞用紙事業部はカナダ、クラフト紙事業部は南部に集中していたが、北東部の出版社ほか紙製品のユーザーを顧客とする特殊製品事業部は、都市市場の近くに置かれていた。ピッツバーグ・プレート・グラスは他とは違って、複数の企業を母体とするのではないが、1890年代には食肉加工会社と同じように倉庫、支社、小売店などで構成する大規模な販売組織を設けて、拡大への道を歩み始めた。続いて後方統合を進め、炭酸ナトリウムほか、ガラス製造に欠かせない原料の製造に乗り出した。さらに1900年以降は、販売に関わる経営資源を十分に活かす狙いから、窓ガラスや板ガラスと同じチャネルを通して販売できる塗料、ブラシなど、関連製品の製造に取り組んだ。この時期、炭酸ナトリウムを原料とする化学物質の市場も探し始めている。その後、さらに事業が拡大したため、経営陣と専門スタッフで構成する総合本社と各製品事業部へと、組織が明確に分化してきた。化学事業部は産業用製品だけを扱うため、長年にわたってほぼ完全な自律性を保っている。ここでも、市場の特性に応じて組織形態が決まったのだ。以上3社では、販売面での要請が組織形態に影響を及ぼしただけでなく、金属メーカーとは違ったかたちでの長期拡大戦略を促すこととなった。原材料関連や生産施設よりもむしろ、販売分野に多くのヒト、モノ、カネが投じられ、流通・サービス組織が金属メーカーよりも遥かに大規模だったため、既存製品の需要が減少した際には、経営資源を新たな製品分野に容易に転用できたのだ。経営陣、販売分野の人材共に、既存製品と関係の薄い未知の製品をそつなく扱った。金属メーカーが同じ選択をしたと仮定して比べると、これら素材メーカー3社のほうが、製品多角化による拡大戦略を低コストで進められ、経営資源の活用率も高いに違いない。同時に、新製品の市場は従来市場とかなり異質であったため、1922年時点でのデュポンと同じように、これら3社もまた、各市場に向けた多彩な職能別活動を互いに調整するために、事業部を設ける必要に迫られたのだ。

(西山將己)

2. 第二グループ: 一部の企業が事業部制を導入した業界

 金属・素材業界の主要企業の事例は、「理に適った組織形態は、市場のニーズや需要に対応しながら、社内の各職能間の足並みをそろえる役割を果たすはずだ」という仮説を強く実証していると言えるだろう。金属・素材業界の事例からはまた、市場の数が少なく、販売プロセスが簡素であればあるほど、職能別部門のマネジメントや調整は容易だという事実が見えてくる。このため、比較的少数の法人顧客に半製品を販売する企業にとっては、シンプルな組織で十分なのだ。片や、多数の業界や企業に向けて、同一製品ラインに属する多彩な製品を大量販売する企業は、ほぼ例外なく集権化を図って、職能別組織の設置と合理化を進めてきた。事業部制へと移行したのは、互いに性質の異なるいくつもの顧客層に向けて、全く違った複数の製品ラインを製造・販売する企業だけである。ゴム・タイヤ、石油業界の大規模企業、農産物加工業企業の経営史をたどったところ、企業の戦略と組織を決定づけるうえで市場が大きな役割を果たすことが、一層強く浮き彫りになった。

 こうした分野の主要企業は、金属・素材メーカーとは違って、消費者への販売がほとんどで、法人に卸す量はごくわずかだった。第二グループに属する大企業が、単一の顧客層向けに単一の製品ラインを扱っているかぎりは、マネジメント上の課題は、大市場の需要変動にいかに対応するかという一点に集中していた。このため、グループのほとんどの企業が草創期の成長を経験したあとに集権的職能別組織を築き、以後はその組織の完成度を高めようと努力を続けたのだ。この組織形態にひずみが生じるのは、新しい顧客層に新しい製品を提供しようとしたり、事業のフィールドを世界へ広げようとしたりしたあとである。このように、製品多角化や地理的拡大が図られるのは一般に、それまで積み上げてきた経営資源が十分に活用されず、工場、機械、人材、余剰資本などを新規事業に振り向けたほうがより大きな利益につながると、経営陣が判断した場合だ。

農産物加工

 農産物加工業界にも、依然として単一の製品ラインのみを扱う企業がある。そのような企業では、生産量が飛躍的に増大したにもかかわらず、集権的職能別組織はこれといってマネジメント上の軋みを経験していない。ところが、製品多角化を通して成長してきた企業はすべて事業部制へと移行しているのだ。これらの企業では新戦略を打ち出し、その結果、経営資源の一部を新しい製品ラインに転用しやすいとの理由から、組織を改編した。調達や生産よりも販売に多くの投資をしているか、小麦のように、多数の顧客に囲うように製品を販売しているか、どちらかの傾向がある。

 事業規模が拡大しても、同一市場に閉じているかぎりは新たなマネジメント上の課題は生じにくいという点については、タバコ産業が格好の事例を提供している。今日3大タバコメーカーが採用している集権的職能別組織は、1880年代とほとんど変わっていない。近年の特筆すべき組織変更と言えば、職能別組織の拡大とその各種活動増加に対処するために、副社長補佐を任命したことだろう。この時の組織改編は、本書で取り上げた他のどの事例にも増して、1919年のデュポンの組織改編に似ている。この逸話は、他の農産物加工企業の一部と相通じるものがある。ナショナル・ビスケット、アメリカン・シュガー、ユナイテッド・フルーツ、ディスティラーズ・シーグラムの経営体制は、およそ2世代にわたってほとんど変わっていないのだ。

食肉加工業界では、経営資源の配分が大幅に改められた後に初めて、経営者の注意が組織、さらには事業部制の採用へと向いた。リーディング企業2社のうち、スウィフトはこの半世紀、組織、戦略ともに大きく変えておらず、創業者一族が一貫して経営に大きな役割を果たしてきた。アーマーでは経営陣が先頃、新戦略と新組織を採用したばかりだ。この2社は50年以上前に事業組織を立ち上げた当時、家畜の仕入れから顧客への納入にいたる製品フローを調整する体制づくりに関して、パイオニア的存在だった。食肉加工会社はごく最近まで、デュポン、GM、ニュージャージー・スタンダード流の市場予測には必要性を感じていなかった。加えて主力製品への依存度が高いため、副産物にもあまり関心を払ってこなかった。1950年代には利益率が低下したため、食肉加工業界の一角では、主力の食肉・食品、副産物などとは関係の薄い分野に、経営資源の一部を振り向ける動きが生じた。アーマーはその第一歩として石けんとその類似製品の生産量を拡大した。旧来の組織は成長の足かせとなったため、これら製品をマネジメントするために自律的事業部を設けた。57年には全面的な組織改編によってGMに似た事業部制を導入した。

 他の農産物加工企業は、食肉加工企業よりも楽に多角化を進めてきた。過程はまちまちだが、成長と組織改編をもたらした主な理由は後述の4社で共通しているようだ、これら四社はみな、当初は既存の人材と施設の活用度を高めるために新製品を開発した。

 ゼネラルフーヅは、販売に多くの経営資源を傾けてきた。「各セールス担当者の取扱製品種類を増やせば、単一の販売組織が多数の製品を効果的に販売できる」という考えのもと、各種業務をマネジメントするために、程なく集権的職能別組織が設けられた。ところが、1930年代末から40年代初めにかけて市場全体が拡大し、集権的職能別組織では多数の製品ラインについて、購買、生産、販売の足並みをそろえるのが、徐々に難しくなっていた。第二次世界大戦の終結前に、一部の製品については、製造・販売を一元的に担う部門を設けて、そこに移管した。その後1946年に大規模な組織改編に踏み切って、16の事業部を4人の経営幹部がマネジメントするという、GMに極めて似た組織を構築したのだ。

 ゼネラル・ミルズとボーデンの事業拡大は、ゼネラルフーヅと違った歩みを見せた。というのもこの二社では、新市場に向けて新製品を開発するとの試みは、購買、加工に関わる経営資源を有効活用したいとの思いによるものだったのだ。ただしP&Gが製品多角化を進めた折には、製造分野の技能や機械だけでなく、販売関連の経営資源についても有効活用を目指した。ゼネラル・ミルズは、1930年代初めに、シリアルなど加工食品の製造・販売に乗り出した。37年には大掛かりな組織改編を行い、小麦・飼料、食品雑貨の2大事業部を設置した。さらに、第二次世界大戦中に獲得した経営資源を活かすために軽量家電分野に参入し、化学分野への多角化もいっそう進めたため、新規事業部の創設が相次いだ。このころにはその組織はごく標準的な事業部制に落ち着いていた。

 ボーデンでは19世紀末に、コンデンスミルクと牛乳の生産量が増大したため、大規模な販売組織を設け、その後、集権的職能別組織を築いた。1920年代、30年代には、化学製品や動物飼料への多角化を進めたのを機に、主力製品である牛乳の販路が拡大したほか、既存の技能や施設を有効活用できた。この動きに端を発して、30年代末には事業部制への移行が行われ、その15年ほど後には経営陣・専門スタッフで構成する総合本社と、6つの事業部ができていた。

 P&Gは主として第二次世界大戦が終結して以降、加工よりもむしろ流通のノウハウと施設を積極的に活かした。これを受けて50年代半ばには、製品別事業部制を導入した。

 以上の食品4社では、多角化を推し進めた結果として様々なマネジメント上の課題が生じたが、その課題と解決策はデュポンのそれときわめて似通っている。

 第五の企業ナショナル・デイリー・プロダクツは、地場の多数の乳製品メーカーによって、規模の経済を引き出す狙いで1928年に設立された。その組織ニーズはGMにより近いものだった。ナショナル・デイリーは、他の食品会社と違って、製品別事業部ではなく総合本社を設ける必要に迫られていたのだ。40年代末には、多数の子会社をマネジメントするために設けられた大規模な総合本社に、研究、品質管理、販売支援などのスタッフ組織があった。統計・財務コントロールの分野で、洗練された手法の開発も進めた。最近の大掛かりな改編では、地域別の子会社を製品別の大規模事業部に再編した。こうして今日では3つの事業部がナショナル・デイリーの主要活動を担っている。経営陣と本社スタッフ組織の役割を具体化したのも、近年の変化の一つだ。

 以上のような農産物加工会社が事業部制を導入したのは、事業の量的拡大ではなく、製品多角化を通した成長による。では、製粉、乳製品、石けんなどの企業が多角化と分権化を推進したのに対して、タバコ、砂糖、バナナなどの業界ではそのような動きが見られなかったのは、なぜだろうか。タバコメーカーや食肉加工会社、ユナイテッド・フルーツ、さらにはアメリカン・シュガーまでもが、工場、機械、人材などに多大な投資をして、各製品を農場から消費者のもとへ大量に届けられる体制を整えてきたが、こうした投資は既存製品のためであって、他の製品には転用しにくい。他方、ゼネラルフーヅ、ボーデン、ナショナル・デイリー、P&Gは、転用の利きにくい経営資源への投資を抑えてきた。ゼネラル・ミルズとボーデンの場合には、新製品を開発して既存製品の需要を押し上げる機会に他社よりも恵まれてきた。ただし言うまでもなく、経営資源の転用が容易だからと言って、その企業が新しい製品分野に参入するとはかぎらない。とはいえ、多角化を進めやすいかどうかは、主力製品ラインに求められる投資内容ときわめて強い相関関係があるようだ。原材料調達、輸送、生産に関わる経営資源よりも、販売分野の資源の方が転用しやすいようなのである。

 食品加工業界のさまざまな企業が多角化に乗り出し、結果として分権化を推し進めたわけだが、その具体的理由を知るには、各社の記録やインタビューをもとに、より詳しい研究を行う必要がある。現時点で明言できるのは、食品メーカーのたどってきた道のりはデュポンやシアーズと共通する面があるということだけだが、多角化の背後には、既存の経営資源を有効活用したいとの動機があるとみて、まず間違いないだろう。併せてすべての事例で、新戦略の採用によって短期の実務判断と長期の戦略判断の両方が複雑化した。前者では需要に応じて各職能活動の足並みを揃えること、後者では、経済情勢全般と将来の需要を予測して、各製品ラインに経営資源を配分することに留意しなければならなかった。

ゴム・タイヤ

 ゴム・タイヤ業界の「ビッグフォー」は、多角化と分権化の関係を一層鮮やかに浮かび上がらせている。自動車が誕生する以前にすでに大企業へと成長していた2社、USラバーとB・F・グッドリッチは長年、性質の異なるいくつもの市場で多彩な製品を販売しており、ともに早い時期に組織の分権化を図った。他の2社、グッドイヤーとファイアストンは、タイヤ専業メーカーとして出発し、単一製品ラインを扱ったため、前記の2社に比べると、多角化、分権化共に遅れている。

 USラバーは1905年に早くも、主力製品である靴類の需要伸び悩みを懸念し始めた。経営資源を活かして利益を上げるには、伸び盛りの各種ゴム製品のほうがふさわしいと思われた。産業用ゴム事業に大規模に参入した直後に、自動車の登場によって突如としてタイヤの需要が大きく膨らんだ。当初はゴムに用いていた化学処理法を応用して、徐々に重化学製品などの生産を増やしていき、1920年代には化学製品の売上げを3倍に伸ばした。USラバーは早い時期に多角化を進め、産業財だけでなく消費財の販売を始めたため、自律的な製品事業部の創設でアメリカ産業界の先駆けとなった。1917年までには、全社の事業活動を5つの製品事業部、農場を監督する海外事業部、海外販売事業部に分けていた。ただし、この時点では総合本社を設けず、全社のマネジメントには事業委員会があたった。ところが、この組織形態の成果を見極める前に、新経営陣が集権的職能別組織を復活させたのだ。このため、USラバーのマネジメント組織は現在のところ、創造的革新ではなく適応的順応にとどまっている。1928年に破産の瀬戸際に追い込まれた折には、全株式の30%をデュポン社が取得した。デュポンから送り込まれた経営陣は程なく、事業部制をUSラバーにも導入した。経営陣とスタッフ部門からなる総合本社が設けられ、財務・統計の制度とコントロールも導入された。その後1957年にはこの組織も大きく変わり、本社事業部の責任が増し、本社スタッフ組織の役割も拡大した。

 グッドリッチは、第一次世界大戦前にきわめて合理的、体系的な職能別組織を築いていた。事業部制に移行したのは1930年で、この時四つの製品事業部を設けた。不況によって深刻な打撃を受け、事業縮小を余儀なくされると以前の組織形態に戻したが、不況期が過ぎて事業が再び拡大すると、従来とは違った組織へと移行していった。1936年にラテックス製品を製造・販売する目的で独立事業部を設立したのだ。43年には化学製品事業部を追加し、53年には完全な事業部制へと移行している。

 グッドイヤーは産業用ゴム製品ラインを立ち上げるにあたって、一部の大量生産品に対象を絞るという方針を取った。多くの場合、製品のモデルや等級を一つに限ることで既存工場をフル稼働させ、集権的職能別組織のままでマネジメントを遂行しようとした。だが、第二次世界大戦が大きな転機をもたらした。合成ゴム開発計画が持ち上がったのを受けて、グッドイヤーは各種経営資源を拡充した。そして56年にポール・W・リッチフィールドが退任した後、全社組織の体系化を図ったのだ。非タイヤ事業は七つの製品事業部が担い、それぞれのゼネラルマネージャーが主要職能に責任を負った。このほかに海外事業部を設けたほか、経営陣とスタッフ組織で構成する総合本社を拡充して、全社マネジメントを強化した。

 ファイアストンは、ゴム業界の主要企業のなかでタイヤ事業への集中度が最も高い。不況期には、自動車部品、ゴム・プラスチック製品などを手がけたが、これは生産設備よりもむしろ販売組織の有効活用につながった。戦後にタイヤ事業が活況を呈すると、再び主力製品への集中度を高めた。今後タイヤ需要が横ばいに転じれば、他社のように多角化に乗り出す可能性も否定できないが、古参経営者たちは、実績ある戦略を守る道を選ぶのではないだろうか。いずれにせよ、製品ラインが増えないかぎり、現行の集権的職能別組織を変更する理由はないだろう。

石油

 石油会社の戦略と組織が変容してきたプロセスは、主要タイヤメーカーと多くの点で共通する。石油会社もまた、自動車の登場によって生まれた巨大マス・マーケットに向けて単一製品ラインを製造・販売し、その原料を生産することに、経営資源の多くを傾けていた。タイヤ業界と同じく石油業界でも、化学製品の生産に乗り出し、幅広い多角化への道を歩み始めたのは、第二次世界大戦、とりわけ戦時中に推進された合成ゴム開発計画の影響が大きい。戦後は石油化学事業の拡大が続いてきたため、これが分権化への圧力を生み出している。ただし石油業界で事業部制の導入が進んだ背景には、タイヤ・ゴム業界ではあまり見られない種類の圧力があった。石油業界は一社あたりの生産量が大きく、各種の職能活動が世界各地に広がっていたため、原産地から顧客にいたる製品フローの調整が難しかったのだ。大規模な石油会社は主力製品を増産するにつれて、ニュージャージー・スタンダードとほぼ同じ課題に直面した。そこでニュージャージー・スタンダードに倣って、地域別事業部と総合本社を創設した。同時に大多数は、従来製品とは大きく異なる化学製品分野に参入したため、製品事業部も必要となった。

 ニュージャージー・スタンダードを別にすると、これら企業はすべて20世紀に入ってから誕生した。1920年代末までは、主要石油会社はほぼ例外なく、ニュージャージー・スタンダードと同じように垂直統合による事業拡大を進めていた。ところが25年以降は、新車需要の低迷を受けてガソリンや潤滑油市場の伸びが止まった。原油の過剰生産が深刻になると、各社の経営陣は新規資源の蓄積から既存資源の有効活用へと関心を移した。多くの企業は集権的職能別組織へと移行した。大手の一角を占めるソコニーとインディアナ・スタンダードは地域別事業部制を守ったが、両社では経営陣が職能別部門と各事業部の両方をマネジメントし続けた。30年代の組織改編によって、大多数の企業は社内の製品フローに初めて真剣に注意を払うようになった。ひとたび不況を克服すると各社は再び拡大路線を歩み始める。その後50年代後半に需要が横ばいに転じると、経営陣は再び経営資源の有効活用に注意を向け、新規顧客の開拓にも力を注いだ。

 組織改編への強い圧力となったのは、世界各地で新規油田の開発が相次いだことでなく、むしろ上記のような市場に対応するために、広い地域にまたがって製油所を設けたという事実だろう。第二次世界大戦前には、石油会社の多くはアメリカ国内の一部地域のみで事業を行っていたため、アメリカ市場全体を網羅するというのも拡大シナリオの一つだった。その後、特に1950年代には海外市場での石油需要が大きく伸びたため、各社ともいっせいに海外市場に目を向けた。それと並行して国内での石油販売よりもむしろ、石油化学事業の開拓に力を注いだ。いずれの拡大路線をとったにせよ、ほぼ全社が組織を改編した。  カリフォルニア・スタンダードは不況後に、業界の先陣を切って地域拡大戦略に乗り出し、戦前にすでに地域別事業部を立ち上げた。1954年には西部事業部を追加したが、この設置を機に本社は個別事業から完全に解放され、経営陣と専門スタッフだけで構成する総合本社へと変容する。54年にはニュージャージーときわめて類似の組織形態へと移行していたが、地域別事業部だけでなく、製品別事業部も有していた。

 コンチネンタル石油は、国内市場への浸透を強め、石油化学事業にも短期間で参入を遂げるなど事業を拡大し、1954年以前にすでにカリフォルニア、ニュージャージー両スタンダードと類似の組織形態を採用していた。1949年から1950年にかけての組織改編では、他の大手石油会社よりも熱心に、断固とした姿勢でニュージャージーに倣った。

 インディアナ・スタンダードの組織改編はゆるやかな経過をたどった。海外へはほとんど進出していなかったため、集権化の傾向が強かったのだ。54年に多少組織を変えた後、1957年には本格的な集権的職能別組織を築いた。国内事業の集約を終えたインディアナ・スタンダードは次に海外へ進出する。原油の生産だけでなく販売に関しても「海外市場で大きな地位を占める」ことを目指したのだ。今後、海外市場での売り上げが狙い通りに拡大すれば、海外事業をマネジメントする組織の充実を迫られるに違いない。その場合には、ソコニー・モービル、シェル、テキサコなどが採用したのと類似の事業部制へ移行すると予想される。

 ソコニー・モービルは1958年まで、1927年以前のニュージャージー・スタンダードに極めて近い組織形態を取っていた。本社では1925年以降、流通部門が各職能間の製品フローを調整していた。30年以上第一線にいた経営者が退任すると大々的な組織改編が促された。総合本社と2つの大事業部が設けられたのだ。国内事業部は職能別部門に分かれ、石油化学製品と塗料の開発・販売をマネジメントする部門が別途設けられた。

 同じ1958年に、シェル石油を傘下に持つロイヤル・ダッチ・シェルはアメリカ国外の事業組織を再編し、その結果、ソコニーに極めて似た全社組織を持つにいたった。違いもあるにはあったが、それはシェルよりもかなり早い段階で大々的に石油化学事業に乗り出していたからだ。

 テキサコでも事業成長の末マネジメントの業務が増えたため、組織改編が行われた。1950年代半ばまでは他社との合弁会社を通して海外、石油、化学の各事業をマネジメントする方針をとっていた。だがテキサコは、こうした間接的なコントロールでは新規市場や遠隔地の市場で経営資源を有効に利用できているかを評価することも、事業拡大を計画することもできないと悟った。そこで1954年以降、海外販売・生産を拡大し、石油化学業界に積極的に参入してきたのだ。

 1940年までは、アメリカの石油会社はほぼすべて、主力製品のみを扱っていた。ところが新しい精製手法によって新素材が生まれたほか、化学分野の技術知識や経験が蓄積された。ついで人工ゴム開発計画が始動したため、各社はさらに深く化学分野に踏み込んでいった。この多角化戦略を受け、組織はおきまりの変化のパターンをたどった。当初は既存の職能別組織が新規事業のマネジメントに当たった。次にマーケティング部門が設けられ、販売部門とは独立に活動することとなった。このマーケティング部門はのちに、販売にとどまらず製品開発をも担う。さらには精製活動をも取り込み、自律的事業部としての性格をもつに至るのだ。

 石油業界のこれまでの動きを参考にすると、組織の基本目的とは、社内のすべての活動を結束させて需要の変化に対応することだとわかってくる。従来とは全く異なる顧客層に向けて製品を開発したり、地理的拡大を図ったりすると部門間の足並みをそろえるのは難しくなる。大手石油会社では一般に、遠く離れた国や地域に進出して、それらの市場の近くで製油所を設け、出荷体制を整えるとひずみが生じるのだった。するとこれらの企業はニュージャージー・スタンダードに倣って、地域事業部制を取り入れ、全社の調整、業績評価、プランニングについては総合本社に委ねた。後年、国内市場の均質化が進んで各地域の関係が強まると、すべての事業活動を高い自律性を持った単一組織に集約した。その後これらの企業は国内の地域事業部制を廃止する。ただし、海外事業については地域事業部制を維持したのだ。タイヤ・ゴム、食肉加工、タバコ、酒造などの各社も海外事業の拡大に力を入れたが、これらの企業は多角化に伴って分権化を進め、その際に「海外事業部」を設けたのだ。

 タイヤ・ゴムメーカーや農産物加工メーカーの分権化は、石油会社が石油化学分野に参入した時と同じような過程を経た。石油会社が多角化に伴って組織改編した過程からは、旧来の組織では、新製品ラインの需要に合わせて全社の経営資源を統合するのに支障があったため、それを克服するために新組織が生まれたのだということがはっきりと見えてくる。自律的な事業部が進化を遂げ、やがて経営の中枢部と全社組織が改編されるにいたったのだ。タイヤ・ゴム、農産物加工分野の企業が新製品ラインに参入した折にも。ほぼ同じような経過をたどった。

 分権化のきっかけとなった多角化戦略は、結果的には経営資源の追加を招いたが、もとの狙いは既存の人材や施設を活用することだった。ただタイヤ・ゴム、石油、農産物加工の3分野の企業でも、経営資源の大部分は従来どおり既存製品ラインに用いられていた。鉄鋼、銅、アルミニウムなどのメーカーと比べると新製品に多くの資源を傾けられたのは事実だが、施設や人材の転用は、化学、電機、動力機械メーカーほど容易ではなかった。

 以上のように、多角化を機に分権化への流れが生まれたのは、全体の生産量や事業規模が増大したからではなく、実務、戦略両面で短期間に判断の量と複雑さが増したからだ。さまざまな職能活動の足並みを揃える仕事が以前よりもはるかに難しくなったため、各製品ラインをマネジメントする必要から事業部制が採用された。経営陣には、性質の大きく異なる複数の事業についてのプランニングや業績評価が課せられたため、総合本社を創設して、社の命運を握る経営者に幅広い使命を果たすための時間、情報、意欲を与えようとの動きが生まれた。たとえ新製品が全生産量に占める比率が小さくても、以上のような企業は多くの課題を突きつけられた。それは、デュポンが多角化を推し進めた際に直面したのと共通の課題だった。にもかかわらず、デュポンの組織に意識的に倣ったのはタイヤ・ゴム業界だけである。ニュージャージー・スタンダードは地域別事業部制の先例を作ったが、石油化学事業の多角化では製品別事業部の模範とはならなかった。各社の様子をたどってみても、石油業界が新製品事業部を設ける際に特定の事例に倣った形跡は見当たらない。デュポンやGMの事例が、小麦、牛乳、食肉加工メーカーの変貌にどのように影響したかは不明だが、この先駆的な2社は、少なくとも間接的には影響を及ぼしているはずだ。

(武内亮佑)

3. 第三グループ:事業部制を広く取り入れた業界

 電機・エレクトロニクス、自動車・動力機械、化学の3業界では検討した20社のうち18社が、1960年段階では事業部制を採用している。これらの業界では、旧来の集権的職能別組織のままでは、市場の動向や需要に合わせて各職能別活動を統合、調整することができないのは明白だった。そのうえ経営陣も、増える一方の経営判断をさばいていくための時間と情報を持てずにいた。これら業界のリーディング企業は、従来とは大きく異なる市場に向けて新製品ラインを開発しようと、いっせいに腰を上げた。多角化を通した成長戦略は、組織改編を促す強大な力を生み出したため、これに対抗したり、無視したりできたのは、非常に大きな権力を持った経営者だけだろう。実際、事業部制を導入していないダウ・ケミカルとディーア・アンド・カンパニーは共に、長い同族経営の歴史を持っている。これら業界のリーディング企業が多角化へと歩み始めた動機は、デュポンほか、本書で取り上げられた他の多数の企業と同じく、既存の経営資源を十分に活かし続けたいというものだった。各社共、高い技術を要する事業に携わっていたため、アメリカ企業の大多数と比べて、新規事業を立ち上げるスピードに勝っていた。民需事業を主体としたアメリカ産業のうちで、組織的なR&Dに最も多くの経営資源を投入してきたのは、化学、電機業界である。これら業界の熟練労働者の技能は、多彩な製品の開発、製造、販売に応用可能な技術に根ざしているのだ。電機、自動車・動力機械、化学業界では、多くの企業が多角化戦略を採用して、多彩な事業をマネジメントするのに必要な組織形態へと移行したが、これは驚くに値しないだろう。

電機・エレクトロニクス

 第一次世界大戦までは、大手電機メーカーのウェスチングハウス、GEは共に、電力・照明関連機器の開発、製造、販売という基本分野に経営資源を集中していた。複雑な技術を扱う業界であったため、事業は当初から、集権的職能別組織によって効果的にマネジメントされていた。製品開発には常に大きなプレッシャーがかかったため、2社はアメリカ産業界で真っ先に研究部門を設けた。消費者向けの製品は電球と照明器具だけであったため、他の製品とはニーズが異なるとの理由で、両社共この製品の設計、生産、販売に特化した独立事業部を設けた。電機業界の巨大企業2社では、電力・照明関連以外の製品が増えるにつれて、旧来の組織がうまく機能しなくなった。両社とも、二つの形態で多角化を進めた。多角化に踏みきったのは両社共、既存の経営資源からより多くの利益を上げようとの狙いからである。R&Dの過程で生まれた新製品を製造するプロセスでは、既存の機械・器具を大いに用いたほか、こちらのほうがより重要なのだが、技術的素養を持った人材を有効活用した。やがてマネジメント上のひずみが拡大して、事業部制が導入される。2社は1920年代に、新たなマネジメント課題に対処するために、暫定的な組織改編を実施している。GEは家電事業のマネジメントに最も苦労した。家電事業の業務プロセスの各工程あるいは全体を通して製品フローを調整し、最終的に製品を市場に送り出すのは、きわめて難しい仕事だったばかりか、莫大なコストを要した。にもかかわらずGEの上層部は、1939年になるまで、マーチャンダイジング事業部や高い自律性を持った新製品 事業部の業務と、職能別部門、中央本社の業務を連携させようとはしなかった。ウェスチングハウスも1920年代に、GEとほぼ同じように、暫定的な組織改編を行った。1931年には、経営陣はマネジメント上の課題とニーズを徹底的に洗い出そうと決めた。ウェスチングハウスがGEよりも早い時期に組織プランニングに取り組んだのは、不況による減益を深刻に受け止めたからだが、恐らくより大きな意味を持つのは、ウェスチングハウスには、GEのスウォープ、あるいはシアーズのウッドのような、経営判断を一手に担った卓越した経営者がいなかったという事実だろう。こうしてウェスチングハウスの組織改編は、デュポンやGMと数多くの共通点を持つものとなった。第一に経営陣は、マネジメント上の難題が事業の量的拡大ではなく、多角化に起因することを認識していた。加えてウェスチングハウスの経営陣は、目の前の諸課題について、前例のない自社特有のものだと考えていた。

 ニュージャージー・スタンダードやデュポンと同じく、ウェスチングハウスは当初、さらなる集権化を目指した。製品エンジニアリング部門を製造部門に編入し、財務を除いた事業活動はほぼすべて、生産、販売という2つの主要職能別部門のいずれかによってマネジメントすることとなった。ほどなく、このような体制はうまく機能しないと判明したため、経営陣は次に「調整委員会」を立ち上げた。しかしこの種の委員会は、後の報告書が指摘しているように、「最終業績にだれ一人として責任を負わない」との結果を招いた。デュポンの事業部カウンシルと驚くほどよく似ているのだ。これもデュポンの例に違わず、妥協に基づくこの組織は、集権化の動きと同様に失敗に終わった。 そこで1933年には、事業部制を試行導入するとの決断を下した。そして1934年、全社組織を事業部制に移行した。また、各事業部の活動を調整、コントロールするために、総合本社を設置して「実務からは完全に切り離して・・・・・全社活動のみに関わらせる」こととした。総合本社には「調整委員会」ほか複数のスタッフ組織が置かれた。ウェスチングハウスではまず事業部制の導入を決め、そのあとで先駆的企業の事例を詳しく調べ始めたのだとわかる。

 GEで大掛かりな組織改編が行われたのは、類稀な資質を持った社長ジェラルド・スウォープ、取締役会長スーウェン・D・ヤングが1939年に引退した後である。スウォープは、秩序に欠ける事業帝国をほぼ一人で舵取りしていた。アルフ・コーディナーが組織改編に着手し、まず6つの事業部を設置した。戦中・戦後の事業拡大によって、新たな技能が培われ、工場数が2倍に、従業員数が3倍に増えたため、さらなる組織改編への圧力が強まった。その後の改編は、小規模なマネジメント組織を多数設けた点でも、それら組織を統括するための手法を開発した点でも、本書で取り上げた他のどの企業よりも徹底していた。

 電機・エレクトロニクス業界の大規模企業には、GEのように事業部制を土台にしながら、さらに組織改編を推し進めた事例はほかに見当たらないが、RCA、シルバニア・エレクトリックなどが1950年までに事業部制を採用した。戦後はとりわけエレクトロニクス業界で多角化が進み、業界最大の規模を誇るIBMが事業部と総合本社で構成される組織へと移行した。とはいえIBMが組織改編に踏みきったのは、多大な経営資源を結集して同社をアメリカを代表する企業にまで押し上げた最大の功労者、トーマス・J・ワトソンが他界してからである。

自動車・動力機械

 動力機械業界は、経営資源を常にフル稼働の状態に保つ目的で、アメリカ産業界でいち早く多角化に取り組んだ。一例として、蒸気力機械メーカー数社が集まり、結束を強めることで誕生したアリスーチャーマーズは、ほどなく、動力機械やガソリンエンジンの脅威を感じ取る。そこで1904年にはこれら両分野に進出し、1910年にはアメリカ第3位の電機器具メーカーとなっていた。第一次世界大戦が終わる頃には、内燃機関を用いた ブルドーザー、ショベル、トラクター類、土木・建設機械などを幅広く手がけていた。アリスーチャーマーズは次いで、建設業者や企業だけでなく、農場向けのトラクター製造にも乗り出し、この市場での競争に対応するために、フルラインの農業機械を提供したほか、独立の販売組織を設けて支店を展開した。こうして1940年には農業機械分野でも全米1位につけていた。一方で、インターナショナル・ハーベスターは、アリスーチャーマーズとはいわば逆の道のりをたどった。すでにフルラインの農業機械を提供していたため、これらに内燃機関を取りつけることから始めたのだ。続いて1920年代に農村不況が深刻化すると、施設、資金、人材の一部を建設・産業用機械、トラックの製造に振り向けた。1940年、インターナショナル・ハーベスターは、トラックほか商用車の生産量で実にGM、フォードの次につけていた。アリスーチャーマーズとインターナショナル・ハーベスターは共に、このような事業拡大に伴うニーズを満たそうとして、当初はウェスチングハウスやGEのような暫定的な対応をした。アリスーチャーマーズの場合には、トラクターなどの土木・建設機械の販売活動が、他の動力機械とは性格の違うものだったため、第二次世界大戦のかなり以前にすでにトラクター事業部、機械事業部という2大事業部を設けていた。経営陣や旧来のスタッフ組織と、トラクター事業部の幹部たちとの関係は、明確にされないままだった。インターナショナル・ハーベスターでは、トラック、産業用機械事業が徐々に主力事業とは切り離されていった。ただし1940年までの段階では、独立の販売部門を設けただけにとどまる。

 インターナショナル・ハーベスターは、同業他社に先駆けて明快なかたちで事業部制を導入したが、これは経営トップの交代によってようやく実現したのだった。1941年に社長に就任したファウラー・マコーミックは、前任者と違って組織に強い関心を抱いていた。自社のニーズとGMの事例を詳しく調べた後、インターナショナル・ハーベスターは1943年に集権的職能別組織から事業部制へと移行した。この時、経営陣とスタッフ部門で構成する総合本社も設けた。スタッフ部門のなかでとりわけ重要なのは供給・在庫部門と購買部門で、それぞれ担当副社長が率いた。供給・在庫部門は、各事業部が複数の職能間で製品フローを調整するのを助け、購買部門は顧客との関係、販売活動、市場調査などを改善するための方針を策定した。新設事業部のうちモーター・トラック、産業用動力、鉄鋼の3事業部は、完全な自律性を与えられていたが、農業トラクター、農業用機械、繊維の各事業部は、エンジニアリングと製造を柱とした組織で、総合販売部門を通して製品を販売していた。総合販売部門は、1902年の創業直後に設けられた販売部門を、ほぼそのまま踏襲している。 この組織改編に携わった人物は、事業部制を導入した理由を3つほど挙げる。

  1. 「経営陣の負担を軽くして、実務判断を指揮命令系統の先端にあたる、現場に近いところで下す」ため。
  2. 「職能間の足並みを揃えるため」。
  3. 「事業部制の下では、多くの人材により大きな責任を負わせて、高い資質を持った 経営者を増やせると考えた」からである。
アリスーチャーマーズでは戦後、ディーゼルや産業用機械を中心に事業が拡大したため、1954年に大規模に組織を改編し、6つの主要事業部を2つのグループに統合した。片方には建設機械、農業機械、ティーゼル、他方には動力機械、産業用機械、その他が含まれた。1954年には、ウォーシントン、A・O・スミス、チェリー・バレル、トンプソン・プロダクツ、ボルグ・ワーナーなどが事業部制を採用していた。ボルグ・ワーナーは長らく、持ち株会社に近い組織形態を保ったが、他はすべて、大々的に多角化を推進したあとで新組織に移行した。ボルグ・ワーナーはGMやナショナル・デイリーと同じように、長い伝統を持つ各事業部をマネジメントするために、総合本社を設ける必要性に迫られていた。 これら機械メーカーのうちで、現在でも集権的職能別組織を守っているのはディーア・アンド・カンパニーだけである。ディーアが分権制を採用しないのは、多角化していないからで、その背景には、経営の実権を握る創業者一族が、慣れ親しんだ製品ラインに長く固執してきたとの事情がある。1956年に、創業者から数えて4代目の同族経営者が引退したのを機に、新経営陣は研究センターを設けると共に、1870年以来の本社ビルを離れ、経営チームの人数を増やした。

 自動車業界では、動力・機械業界よりもやや遅れて分権化の動きが現れた。1920年代末までは、リーディング企業はすべて、急拡大する乗用車市場にしか目を向けていなかった。GMの総合本社ですら、人材や施設のほとんどを自動車事業につぎ込んでいた。多彩な経営資源を数多くの製品に振り向けるのは、不況が到来してからだ。これに対してフォードとクライスラーは、単一の製品ラインに集中的に投資を続け、戦争が始まってからようやく自動車以外の製品を手がけた。この2社は、第二次世界大戦中に新たな経営資源を集積したため、マス・マーケット向けの乗用車以外にも、それを活用して利益を上げる道があると考えた。フォードは航空機製造にも進出して、優れた製品を生み出したが、やはり売れ行きは芳しくなかった。軽量トラックは自動車の製造・販売部門が扱い、利益を上げたが、それ以外の商用自動車を開発しようとの試みはほとんどしていない。部品・カー用品事業も熱心に開拓しなかった。フォードはGMと大差ない経営資源を有していたのだから、これら製品ラインを容易に開発できたはずなのだが。組織が秩序立っていなかった点からもわかるように、ヘンリー・フォードは巨大な事業帝国の舵取りに、目を覆いたくなるような成果しか上げられなかった。このため、多角化戦略を推進できなかったばかりか、利益と市場シェアの急落を招いてしまう。クライスラーは、第二次世界大戦が終わってからも長い間、多角化への圧力をさほど受けなかった。不況が到来した折には、すでに新会社を設けていたが、第二次大戦までは主としてエンジン製造、自動車組み立てに特化して、集権的職能別組織によってそれらをマネジメントしていた。需要が減少傾向にあった時期には、必要とする部品、付属品、資材などを手頃な価格で容易に調達できた。ところが戦後はこれらの品が不足したため、垂直統合によって資材のコントロールを強めざるを得なくなる。クライスラーは併せて、戦争中に始めた軍需品の生産を続け、この分野で培った経営資源の一部を活かして、船舶エンジンその他の民需品の製造を始めた。フォードもまた、戦争中に増やした機械や人材を、トラクター、農業機械、商用車、その他の製造に活かした。

 フォード、クライスラー共に、まもなく事業部制を採用した。フォードでは、ヘンリー・フォード二世によって引き抜かれたアーネスト・R・ブリーチほかGMの元幹部が、転身後の初仕事として、「GMの組織をフォー ドの製造の枠組みの上に重ね合わせた」。クライスラーでは、ウォルター・クライスラーから後継者に指名され、経営の舵を取っていたK・T・ケラーが退任すると、集権的職能別組織から事業部制への移行が始まった。

 GMの組織形態は、第二次世界大戦前に早くも大きな成果を生み出していた。スローン率いるGMは事業部制の恩恵によって、自動車市場でのシェアを12%から50%近くにまで伸ばしたばかりか、1930年代に鮮やかな多角化戦略を推進した。蒸気機関車用ディーゼルエンジンの製造を始めた折には、まるで全米の市場を独占したかのような勢いだった。航空機エンジンも好評だった。バスなどの商用車市場でも、トラック、機械メーカーとの競争を非常に有利に展開した。この間、フリジデアー、デルコ、部品・アクセサリー事業などもすべて、良好な投資収益率を上げ続けた。戦時体制への転換も、フォードよりも遥かに順調に進んだ。イギリス、ドイツ、オーストラリア各国での事業を海外グループを通して立ち上げ、拡大し、体系的にマネジメントできたのも、分権的な事業部制を構築していたからだろう。一方でフォードとクライスラーは、事業部制の導入に際して、模倣のきらいが強すぎた。トラクターや船舶エンジンなどの非自動車製品を扱う事業部と、総合本社が必要だったのは確かだ。しかし、自動車分野でも、製品ラインごとに事業部を設けるというGMの先例に従ったのである。GMが事業部制を採用した1920年には、製品ライン別に事業部を分けることには相応の理由があった。当時、各ラインはそれぞれ価格帯が異なっていたのである。単一事業部ではなく、複数の事業部を通して、ほぼ同一の市場に多くの似通った製品を投入してそれをマネジメントするのは、コストがきわめて高くついた。中価格帯市場に新型モデルを投入するだけなら、販売、生産、設計のために新しい組織を一から築く必要などおよそなかったのだ。「ビッグスリー」は1920年代以来の最も大きな製品変更として、小型車の開発を始めた際には、3社共新規事業部を設けるのではなく、既存事業部に設計、製造、販売を任せた。いくつもの事業部が同じ市場を食い合っていては、事業部間の棲み分けが曖昧になり、総合本社が多数の実務判断を下さざるを得なくなる。自動車以外の事業部では、それぞれ明確に異なる事業を展開していたため、このような問題はまず持ち上がらないが。

化学

 化学業界は、アメリカ産業界で多角化の障壁が最も低く、インセンティブが最も強く働いてきた。業務プロセスと製品が共に化学を土台にしているため、体系的なR&Dによって製品改良が急速に進んだばかりか、矢継ぎ早に新製品が生み出されてきたのだ。そのうえ1920年代以降、化学業界は他のどの業界にも増して、多くの人材と資金をR&Dに注いできた。各社は、セルロース、カルシウム、塩素化学など、核となる一つの専門技術を土台にして、短期間に多彩な製品を開発してきた。新製品の開発、エンジニアリング、処理に必要な技術ノウハウや機械・器具類は、既存製品とほぼ同じであるため、経営資源を新製品ラインに移転、応用するのは比較的容易なのだ。

 数社の合併により誕生した企業は、多角化への幅広い土台があった。ユニオン・カーバイドは、原料や販路を 融通し合う五社の合併によって1917年に産声を上げ、短期間のうちに5つの分野への参入を進めた。子会社エレクトロ・メタルージカルが合金類、ユニオン・カーバイドが炭化カーバイド、ナショナル・カーボンがコークスを用いた多数の製品を市場に送り出したほか、リンデ・エア・プロダクツ、プレストライトの2社が液化気体、アセチレン、天然ガスを用いた各種製品を開発した。以上の企業は化学テクノロジーの特性に助けられて、経営資源を活かして比較的容易にしかも低コストで新製品を生産できたのだが、販売面ではひどく苦戦した。実にさまざまな市場に製品を送り出し、法人向けを柱としながらも、一般消費者向けの販売も手がけていたため、製品フローをいかに需要に対応させるかといった実務上の問題、各種事業にどのように経営資源を配分すべきかといった経営上の問題が、徐々に難しさを増していったのだ。ごく自然な流れではあるが、多くの化学メーカーがデュポンに倣って製品別事業部制を導入した。アメリカで化学産業が急速に拡大したのは、第一次世界大戦後であるため、多くのリーディング企業が真剣に多角化に乗り出す前に、不況が到来した。第二次世界大戦時には景気が回復して経営資源が激増したため、主力企業のほとんどが当然のように多角化戦略を取った。このように、化学業界全体に組織改編の大波が訪れたのは1940年代、50年代である。たいていの企業が模範にしたのはデュポンの組織形態だ。分権化と事業部制導入の流れに逆らったのは、きわめて強い権限を持った経営者だけだった。イーストマン・コダックやアメリカン・ ビスコースのように、古参経営者が君臨していた企業ですら、事業部制を採用した。このような組織改編は抵抗、あるいは無関心といった反応に遭った。アライド・ケミカルでは、一九二〇年の創業時から第二次世界大戦期まで実権を握り続けたオーランド・ウェーバーが、組織に関心を払わなかった。猜疑心の強いウェーバーは、すべてを秘密にすべきだと考え、社内ですら情報の共有・交換を進めようとしなかったのだ。アライド・ケミカルは財務面でこそ好調だったが、工場の規模や従業員数、製品の種類と量、R&Dに費やす時間と費用などの面でデュポンやユニオン・カーバイドに大きく水をあけられた。再び上げ潮に乗るのは、1950年代に新経営陣の下で開発、多角化プログラムを推進し、総合本社を設けて事業部をマネジメントさせるなどの変革を行った後である。

 上記3業界では事業部制が主流となり、各社はきわめて多彩な製品を扱うほか、最先端の科学と深い繋がりを持つ。重要なことは、戦後の非軍事分野でのR& D活動が、消費財ではなく産業財に集中している事実だ。このため、化学、動力機械、電機分野の主力企業は、消費財から産業財へと経営資源の移行を進めている。これは、消費者市場が重視された19世紀の最後の10年間や1920年代とは逆の状況だ。先端科学に強く依存するこれら企業は、多角化をテコにして、計画に沿って筋道立てて成長戦略を推進してきた。そして研究に力を入れた結果、多角化、ひいては分権化、と踏み出した。さまざまな市場に新製品を送り込んだため、多数の機能活動の足並みを揃えながら、製品の開発とフローを円滑化する必要から、製品別事業部を設けることになった。併せて、多角化企業の各種活動の評価、戦略の立案・監督に伴いいくつもの問題が持ち上がったため、総合本社を設けて、長期的視野から複雑な判断を下すための時間と情報を経営陣に与えることが急務となった。つまり、原材料を調達して消費者のもとに製品を届けるまでの実務と、経営資源を最も有効に、あるいは最も多くの利益につながるように配分するという経営判断の両方の要請から、事業部制という新しい組織形態が採用されたのだ。

4. 組織改編の変種

小売り

 小売業界は、事業部制を導入済みの企業と未導入の企業が混在しているため、本来は第二グループの企業群に含めて説明すべきかもしれないが、やはり個別に見ていく必要がある。小売企業の事業の柱はあくまでも多種多様な商品を仕入れ、消費者に販売することである。したがって、小売り各社のあいだには外部環境、社内ニーズの両面で違いがあるものの、シアーズと同じように、本書で取り上げた企業群の一カテゴリーとして検討する必要があるのだ。シアーズと有力他社との違いは、GMとフォードの違いを彷彿とさせる。カタログ販売専門だったモンゴメリー・ワードでは、店舗販売に乗り出した際に組織にひずみが生じたが、これもシアーズの直面した課題と明らかに似通っている。不況のさなかにモンゴメリー・ワードの指揮を執ったシューアル・エイバリーは、集権化に活路を求めた。不況が去った後は事業が拡大したため、集権的職能別組織によるマネジメントを継続した。エイバリーは、ヘンリー・フォードと同じく、事業帝国の舵取りを自分一人で行いたいと考えていた。このため、1920年代のフォード・モーターと同様、1940年代のモンゴメリー・ワードでは経営幹部の退社が相次いだ。エイバリーは1950年代半ばについに退陣に追い込まれ、新経営陣はほどなく、シアーズに似た組織形態を取り入れた。フォード・モーターがGMの生み出した組織形態を採用したのと同じである。大手食品チェーンのA&P、クローガー、セイフウェイなども似たような組織を採用し、地域事業部と総合本社を設けた。総合本社は経営陣とスタッフ組織で構成され、言うまでもなく、全社の購買を一手に引き受ける 部門も置かれた。これに対して、同じ小売りでも生鮮品以外を扱うウールワースやJ・C・ペニーは、1960年代に入っても一時代前とほぼ同じマネジメント体制を維持していた。店舗を展開する地域も、取扱商品も、従来とほとんど変わっていなかったのだ。このため両社は、人口の大規模な移動郊外への人口集中を察知し、新しいタイプの小売店の進出にも影響を受けていた。しかし、食品チェーンほどの勢いではないにせよ事業の拡大は続き、従来の方針のままで利益が上がっていたため、1925年のシアーズほど、事業を大きく変革する必要は感じていなかったからである。

5. 組織改編プロセスについての総括

 以上、70社を超えるアメリカの大企業を対象に、経営と組織の歴史を簡単に振り返ってきたが、その内容からは、組織をいかに改編したかよりもむしろ、戦略をなぜ、どのようにして変更したかについて、より多くの示唆が得られる。なぜ一部の企業が新しい組織形態を採用し、他の企業はそれを見送ったのかを探ろうとするこの概要調査は、社内資料や書簡に基づいた4社のケーススタディから引き出した一般論が正しいとの裏づけになる。以下ではこの点についてもう少し触れてから、大規模企業が戦略を転換し、その結果として組織改編の必要が生じた理由を記述する。

 本章で紹介した概略研究からは、事業の拡大が契機となってマネジメント上の課題が持ち上がり、やがて組織 の改編につながった事実が明らかになったばかりか、組織に大きくメスが入るのはたいていが、経営トップの交代後であると判明した。事業帝国を築いた人々、すなわち、多数の人材、膨大な資金と資材を一社の下に集めた人々は、それら経営資源をより有効に活用するための方策を設けることは、あまり関心を払わなかった。マネジメント組織の充実・強化を図ろうとの関心が薄かった。同族企業は一般に、他と比べて戦略や組織の消極的なようである。これは、創業者一族が依然として経営の実権を握っているからかもしれない。あるいは、むしろ、単一の製品ラインを扱う企業では、事業活動がルーチン化しており、戦略的判断の必要性が少ないため、創業者一族が経営にとどまりやすいのかもしれない。

 多数のアメリカ企業を対象とした調査はまた、GM、シアーズ、デュポンのケーススタディを通して得られた教訓を裏づけている。つまり、創業者やその一族が経営上の責務をどのように果たそうとするかが、大企業の方向性を決定づける最大の要因なのだ。それゆえ各社とも、不況時からの経営陣が死去あるいは退陣するまでは、組織の充実に乗り出せなかった。専門経営者が長く実権を握ってきた企業ですら、旧経営陣が退任するまでは、組織改編の必要があっても、それを実行に移せないのが一般的だ。若い世代の新任経営者のほうが、前任者たちに比べて、経営のあり方を変えることに強い関心や意欲を示してきた。組織改編を推進した人々は、自社の問題を事業の進め方よりもむしろ、組織に根ざしたものだととらえ、解決には組織改編と組織慣行の変更が必要だと考えたのだ。ただし、若い世代の経営者が組織ニーズの台頭に気づいたのが、エンジニアリング分野の経験や素養、ビジネススクールの教育、その他の研鑽によるのかどうか、詳しくはわからない。また、全体のまとめにあたる本章では、事業部制には重要なバリエーションがあることも、折に触れて紹介するだけにとどめてある。複数の事業部と、経営陣とスタッフ部門で構成する総合本社を設けた点では共通しているが、総合本社の細かい組織や各事業部と総合本社・スタッフ部門との関係などは、各社各様なのだ。その一方で、70社あまりのこれまでの経営を概観したところ、詳細なケーススタディにも増して、アメリカの大規模企業がなぜ新たな成長戦略を編み出したのか、その理由がよりよく見えてくる。成長戦略が組織改編の必要性を高めるのはなぜかという点に関しても、4社のケーススタディから導き出した結論を、この70社超の研究が裏づけてくれた。アメリカ企業の戦略、組織面での変更には、市場がきわめて大きく影響しているのは言うまでもない。アメリカ企業が成長、統合、多角化を経験したのは、市場の変化に促されたからだ。新旧の経営資源をうまく結集して変わりゆく市場に対応するためには、集権的職能別組織の構築が求められた。地理的拡大や製品多角化がさらに進むと、今度は事業部制へと移行して、需要動向の変化に合わせて大規模な職能別活動を統合した。多数の大企業がたどってきた軌跡からは、市場と経営体制が密接に関係し合っているとの事実が鮮やかに浮かび上がる。この関係を理解すれば、アメリカの大規模企業がいかにして成長を遂げ、どのように組織を改編してきたのか、その大筋の流れを説明できるのだ。

(梶ヶ谷悠希)


終章 巨大企業の歴史

【解題】戦略(strategy)とは需要予想に合わせた資源配分計画、構造(structure)とは今の需要に合わせて既存資源をまとめるデザインである。資源を遊ばせずに効率的に使いたいという衝動が、成長の原動力となってきた。(高橋伸夫)

 これまで取り上げてきた4社、ならびに多数の大企業の比較により、経済主体の成長とマネジメントについて一般論を引き出すことができた。時の経過とともに戦略に沿って組織形態がかたちづくられる様子が見て取れるうえ、『経営資源を需要動向に合わせてどの程度うまく活用できているか』に注目すれば、組織と戦略の両方の有効性を測れるということも分かった。組織とは、『その時々の需要にうまく応えるために既存の経営資源を結集する仕組み』である。戦略とは、『将来の需要見通しに合わせて資源配分を計画すること』である。

 経営資源を遊休させずに高い成果につなげたいという要求から、マネジメント手法・組織が生まれてきた。つまり、経営資源をいかに投資したかが、企業の成長の方向性と組織改編の在り方を決定づけたはずなのである。そして、成長の速度や経営資源の利用効率はもっぱら経営陣の力量にかかっている。

 アメリカの大規模企業の歴史を動かしたという点では、反トラスト法や税制といった公共政策よりも、市場・経営資源の性質・経営者の資質のほうがはるかに大きな意味を持つ。デュポンを例にとれば、反トラスト措置よりも、変化を続ける軍需市場のほうが大きな影響を及ぼしていた。反トラスト措置が大きな影響を及ぼすのは独占状態を寡占へと移行させた場合であるが、そのような事例はごくまれである。

 そして、アメリカの大規模企業の歴史は極めて似通っており、以下の4段階を経てきたといえる。

第1段階: 経営資源の増大

 アメリカの巨大企業が成長を始めたのは、南北戦争後に工業化と都市化が進む経済環境の中であった。特に鉄道建設が、鉄鋼や機械産業に新規市場をもたらしただけではなく、資本市場の誕生による巨大資本の利用をも整えたのであった。こうした事業機会の獲得のために、各社は生産施設や労働者の増強に乗り出した。

 鉄道建設が下火になると、各企業は生産施設の拡大よりも流通網の確保に苦慮した。新しいタイプの製品を扱う企業は流通・販売組織を自前で設けた一方、旧来製品のメーカーは同業者との提携や経営統合を行った後に販売組織を設けた。大企業は販売組織の設立により需要にきめ細かく対応すると同時に、調達面でも規模の経済を引き出すことを狙って購買部門も設立する動きがあった。

第2段階: 資源活用の合理化

 第1段階において巨大な垂直統合企業を生み出したのは、事業帝国の構築者とでも呼ぶべき企業家たちであったが、彼らの蓄積した膨大な経営資源のマネジメントはその後継者に委ねられた。この課題への対処は二つの目的をもって行われた。1つ目は多数の職能別活動を合理化して単位当たりコストを下げること、2つ目は市況の変動に応じながら職能活動を遂行することである。第一の目的達成のために、各職能別部門でコミュニケーションの経路が定められ、様々な面での体系化をもたらした。第二の目的達成のためには、全社の組織整備が行われ、市場の要望を反映する組織が生まれた。

 自動車や機械といった耐久消費財メーカーにおいて特に顕著であったが、経営資源を十分に活かすためには需要変動に細心の注意を払ったうえで業務を調整する必要があった。そのため、各職能別部門が業務を合理化すると同時に中央本社が各職能間の調整を行うという集権的職能別組織が生み出された。職能別組織のもとで中央本社の上層部は、短期的な市場予測に基づく実務寄りの経営資源の配分と、長期的な予測に基づく経営寄りの資源配分とを行っていた。こうした経営判断は組織が整備されるにつれてルーチン化していったが、新規市場への参入を決断することにより、それまでの組織形態は経営資源を有効活用する妨げとなるのであった。

第3段階: 成長期

 業界によって時期は異なるが、第一次世界大戦前から1930年代にかけて、革新的企業のマネジメント手法を他社が模倣し始めたことで次第に各社のコスト差が縮まり、利益率が下がっていった。各企業はコスト削減機会が小さくなったため、新たな市場を探したり新規事業を開発したりすることで経営資源の稼働率を高めようとした。

 最初のステップは特定分野の製品をフルラインで提供することだった。それと同時に海外への進出を強めていった。こうしたフルライン戦略や海外進出よりも大きな意味を持ったのは、従来とは全く違う顧客層へむけて新製品を投入するという動きである。経営資源が原材料や製造分野に集中している企業・単一職能分野に偏った企業では、新製品のための資本転用が難しく、幅広い分野への多角化に消極的であった。一方で経営資源を最も転用しやすいのは機械や人材が製品よりも技術を扱っているような、化学・電機・動力機械といった産業であった。これらの分野では非常に高い技術力が求められていたため、R&Dへの投資比率が高く、経営資源が特定の製品分野に集中する傾向は弱かった。ゆえに製品多角化が進み、旧ラインの製品よりもむしろ新規分野での成長が続いた。

第4段階: 拡大した経営資源の利用の効率化

 多角化戦略を採用した企業は経営資源を遊休させずに済み、資源の蓄積を進めていったが、必ずしもそれらを有効活用できていたわけではなく、組織改編を迫られることとなった。製品多角化により、異質な複数の市場への対応が求められ、様々な職能を調整する活動は難しさを増すばかりだった。その結果、市場シェアの維持・増大の責任の所在があいまいとなり、やがて自律的事業部が各製品ラインをマネジメントするようになっていった。そして事業部長が各職能活動を調整する責任を負うようになるのである。

 業績評価や経営資源の配分を計画するためには、総合本社を設けて経営陣に情報や時間を与える必要があった。こうして、事業部制が経営資源を活用して利益を上げるという要請にこたえることになる。

 1930年代までは、組織形態を決めるにあたっては集権的職能別組織を設けるか、独立子会社に事業を任せるかの2つの選択肢しかなく、いずれにしろ経営陣が経営資源がどのように用いられているのかを把握することはできなかった。だが、事業部制の誕生により、多くの企業が多角化を行っても管理・監督を容易に行えるようになったのである。事実、総合本社を設けて組織的に戦略的判断を下し、R&D部門の新製品開発をルーチン化することで、多角化戦略は既定路線になっていた。

 アメリカ企業の歴史は明確に時代を区切ることができる。経営資源の蓄積、合理化、拡大と続き、再び合理化の時代が訪れたのだ。企業ごとに各段階の時間的長さ、意義などは異なるが、大企業全体の歴史に関しては時代わけも検証もさほど難しいものではない。

 マネジメントの原則について論じる人々の多くは、リーダーシップや組織形態については触れるものの市場についてはほとんど言及していない。一方で、市場の動きを追う専門家は、市場が企業マネジメントに与える影響についてはほとんど論じていない。しかし、アメリカの産業や企業の成長・マネジメントを研究するならば、市場と関連付けるのは当然のことなのである。

 また、市場経済の下では、大企業が国の経営資源の割り振りに大きな役割を果たしている点も忘れてはならない。工業化・都市化・技術の高度化が進み、大規模企業が経済活動のプランニング・調整・業績評価などに重要な役割を果たしている社会では、企業組織が体系だっていなければ資源利用の無駄や非効率が生じる。大規模企業がどのように成長してきたのか、マネジメントの在り方についてさらに研究を深めることには、学術面にはとどまらない大きな意義がある。

(榎本裕)


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