一流の大企業にも寿命があるという話を聞いたことはないだろうか。会社の寿命30年説を唱えている人もいる。本当だとすれば、新卒で大企業に就職しても、幸せに定年まで勤めあげられる人は幸運としか言いようがない。もっともこれはかなり荒っぽい議論なので、実際には30年よりもずっと寿命は長そうなのだが、それでも数十年の歳月のうちには産業の栄枯盛衰があり、それぞれの時代のニーズに合った事業を主力事業として育てるのに成功した企業のみが歴史を生き抜いて来たことに違いはない。
そこで会社が生き残るには、本業にばかりしがみついていないで、多角化することこそが肝要という話になる。1960年代の日米の大企業の多角化戦略の比較分析によれば、日本企業と比較して、米国企業の多角化はずっと進行していたことがわかっている。しかもメーカーが建設業、運輸・通信業、卸売・小売業、飲食店、金融・保険業、不動産業、果てはラジオ・TV放送といったサービス業にまで進出していった。さすが米国は進んでいると言いたくなる。1960年代は米国経済にとって、まさに黄金の60年代だったのである。
しかしよくよくデータを調べてみると、米国の大企業リスト中の16%は1960年代の後半を中心に脱落してしまっていた。その間、日本の大企業での脱落は0だったのに、一体米国では何があったのだろう。実は、1960年代の特に後半の米国では、収益性のある投資機会を求めて、事業的に関連もない企業を合併・買収することが流行していたのである。巨大なコングロマリットが出現する一方で、合併・買収の憂き目に会った企業は大企業であっても次々と消滅していった。日本では多角化というと、企業が内部的に事業展開する形で成長して行く姿を思い浮かべることが多いけれど、当時の米国での多角化は他の企業の合併・買収を意味していたのである。
このように1960年代の合併・買収ブームにより多角化、というよりコングロマリット化が進んだ米国企業に関心を呼んだのがプロダクト・ポートフォリオ・マネジメントいわゆるPPMだった。PPMはゼネラル・エレクトリック社(GE)を舞台に開発されるが、もともとエジソンが起こした白熱電灯システムの会社としてスタートしたGEも、当時はコングロマリット並みに多角化が進んでいたのである。
PPMの基本は、市場成長率と相対市場シェアの2変数を使ったポートフォリオ・マトリックス上での製品系列のポジショニングである。マトリックスの各セルに付けられた金のなる木、花形、負け犬、問題児といったユニークなキャラクターも受けて、1970年代、PPMに代表されるポートフォリオ概念は大流行し、戦略論の時代が到来する。
ところがPPMのセオリー通りに、コングロマリットは金のなる木である成熟産業の企業を買収し、そこから利益を吸い取ってしまったので、米国の伝統ある産業の衰退が一気に進むことになる。実は、PPMの市場成長率と相対市場シェアの2変数は、もともと資金流出と資金流入の代理変数にすぎなかったのである。ポートフォリオという用語自体が、もともと金融資産の組合せを意味する投資理論の用語だったわけだが、「経営者」はまるで投資家が証券投資をするように、自分の会社の事業に投資をし、資産管理をしていただけだったのである。これで会社を経営しているといえるだろうか。
事実GEでも、1970年代、古くからの製造事業の多くは外国の競争会社や景気後退によって打ちのめされてしまう。1981年、GEの会長に就任したウェルチは、GE自らが具体化に力を貸した管理原則によって、まるで投資のポートフォリオであるかのように資産の管理に終始し、長期的利益を犠牲にして短期的利益を追求することが蔓延し、米国の主要産業の多くをだめにしてしまったのではないかと危惧する。
実際、負け犬のレッテルを貼られた事業が、それに反発して発奮し、飛躍を遂げた事例が日本では報告されている。また1980年代に盛んになったグローバル経営の議論の中でも、多国籍企業が海外子会社をポートフォリオ的に管理してきたことが批判され、本来の企業特殊的優位を生かしきるグローバル経営が唱えられたりするのであった。
「経営する」とは資産を管理したり投資をしたりすること以上の何かなのである。
「経営する」ということは資産を管理したり投資をしたりすること以上の何かではないかということを裏付けるように、「経営者=資本家、オーナー」という図式が成り立たないことは、いまや大企業の常識である。実際、日本の多くの大企業では、所有とは関係のない生え抜きの専門経営者が当たり前になっている。こうした専門経営者の台頭は日本特有のものではなく、米国では1930年頃から指摘されていた現象であった。
とは言っても、1840年頃まで米国のほとんどすべての企業の最高経営者は企業の所有者つまり企業家、その家族、金融資本によって押さえられていた。それが企業と資本の大規模化が進み、株式の広範な分散が進行すると、最大株主の持株比率は小さくなり、ついには、企業が危機的状態にでも陥らない限りは、出資者である株主が経営者を解任できないような状況が生まれる。これが経営者支配である。こうして第一次世界大戦の頃までに米国の大企業の多くでは、家族も銀行も株主も管理には関係しなくなっていた。それに代わって経営者としての才能に恵まれた専門経営者が短期の企業活動の管理だけではなく、長期の政策をも決定するようになったのである。
1930年当時ですら、米国の非金融最大株式会社200社のうち65社、資産額で44.16%が経営者支配の会社であった。まさに専門経営者の時代が到来しつつあったのである。経営者革命とさえ呼ばれた。経営者支配の進行はその後も着々と進み、1963年に同様にして行われた研究では、実に200社中160社が経営者支配の会社になっていた。これを受けてこの研究を発表した論文は、米国では経営者革命が終結に近づいているという文章で結ばれる。そして皮肉なことに、米国では1960年代の後半になると経営者革命は本当に終わってしまうのである。既に見てきたように、合併・買収の嵐が吹き荒れる中、株主反革命が起こり、経営者よりも株主が力をもち、「経営者」の仕事は単なる資産管理、というより事業・企業の売買に成り下がってしまうのであった。しかし日本ではそうならなかった。
日本での経営者革命は米国同様、1930年当時でも既に進行していたが、それを決定的にしたのは、1945年の敗戦であり、それに続く占領軍による財閥解体、財閥系企業の役員の公職追放、財閥家族の企業支配力排除、持株会社の禁止であった。これにより、1948年初頭の旧財閥系企業の経営者は全面的に刷新され、正真正銘の経営者支配が戦後日本の大企業に出現したのであった。
しかし試練は続く。1949年にドッジ・ラインによる急激なデフレが始まるが、財閥解体に伴う大量の株式売却で株価低迷の株式市場では資金調達もままならない。そんな中で1950年の朝鮮戦争勃発による特需も重なって、民間の資金不足は深刻となる。こうして都市銀行の系列融資が始まり、1951年のサンフランシスコ講和条約調印以降は、旧財閥系企業の三井・三菱・住友の商号も復活し、1950年代から1960年代にかけて、この三つの旧財閥系企業集団とさらに三つの銀行系企業集団が次々と形成されることになる。
これらの企業集団の企業は株価低迷の中、第三者による株式の買い占め、乗っ取りの危険にさらされていた。その上1967年の第一次資本自由化措置以降は、外国資本による乗っ取りの危険にもさらされることになる。その防止のために安定株主工作として企業集団内での株式の相互持合いが進められたのである。こうして専門経営者が経営する大企業同士の間でヨコの企業集団が形成された。米国で合併・買収ブームが過熱した1960年代後半、日本でのブームは回避され、経営者支配がシステムとして確立されていくのである。
米国での合併・買収ブームのツケは大きかった。米国では1960年代後半以降、関連性のない事業を買収してしまったことの当然の帰結として、本社の経営者は現業部門からの提案を評価することも業績を見ることもできなくなっていた。本社の経営者はポートフォリオ的なデータ管理に終始し、企業を統一的に組織として維持して行く能力を失い始める。そして1970年代に入ると、そうした事業の売却が急増し、企業の売買がビジネスとして成立するようになる。そんな中で資本市場では、ポートフォリオの短期的な投資収益のみを追求し、個々の企業の長期的な健全性や成長に興味を持たないファンド・マネージャーによって大量の株式が日常的に取り引きされるようになる。市場取引で企業支配も容易に行われるようになってしまった。こうして、市場競争上、不可欠なはずの米国企業の組織能力は破壊され、米国経済を牽引してきた米国の多くの資本集約型産業は、国内・国外市場でのシェアを急速に失うことになる。その間、日本企業の専門経営者達はといえば、ただひたすら夢中で会社を守り、会社を切り盛りすることに明け暮れていた。つまり経営をしていたのである。
米国では1980年代に入ると、さすがに米国企業の生産性の伸びの低下を嘆く論調が目立ってきた。そして日本企業の躍進を背景に、文化という言葉がキー・ワードになってくる。しかし、多国籍企業における文化の国際比較を行ってみても、それぞれの国の国民性の比較を行っているというより、せいぜい多国籍企業が持っている企業文化に対して国民文化のもたらす差異を観察している程度といった方がよさそうだ。多国籍企業には、かなり異なる各国の文化の中でも驚くほど似た方法でことを進める現象が見られる。多国籍企業はそれ自身の文化をもっており、しかもそれぞれの国の文化を乗り越えるか、少なくとも修正してしまうほどの強さを時として持っているのである。そしてその強い企業文化を創造し、マネージすることが、リーダーたる経営者が本来行うべき決定的に重要な仕事なのである。
米国では日本企業の経営を見習えと主張する本も何冊か出版された。しかし本当はその必要はない。1940年代〜1950年代の米国の偉大な会社がやってきたことやオリジナルの概念、アイデアを見直せば良いのである。ビジネスは豪華な建物でも、戦略的分析でも、5ヶ年計画でもない。会社が本当に存在したのは人々の心の中だった。人々が企業を動かしていることを思い出す必要がある。企業文化がいかにして人を結び付け、日々の生活に意味と目的を与えているか、先人の教訓を学び直す必要がある。米国企業の創立者達は強い企業文化が成功をもたらすと信じ、従業員が生活の不安を感じることなく、それゆえ事業の成功に必要な仕事ができるような企業文化を社内に作り出すことが自分達の役割であると考えていたではないか。1960年代は財務部門の人が昇進し、1970年代はMBA達が昇進した。しかし経営者達は一時的流行につられて昇進させるのをやめる必要がある。成功するためには、企業文化を体現している人々を昇進させなければならないのだ。
米国で企業文化が注目され始めたのとちょうど同じ頃、日本ではオイル・ショック後の低成長時代を迎えて、組織活性化が唱えられるようになる。低成長下で沈滞している組織に高度成長期の時のような活気を取り戻そうというのである。それはやはり強い文化的目標の下での革新を意味していた。真の組織革新とは、その企業がそれまで培ってきた企業文化を捨て去ることではなく、その企業文化の良い面を強化する中で、既成の枠を超えた行動を起こしていくことなのである。
それでは経営者の本来の役割とは何だったのだろうか。19世紀末から20世紀初頭、30年にわたってフランスの大企業コマンボール社の社長として活躍した専門経営者ファヨールは、危機に直面していた同社を、市場での資金調達、不採算部門の売却、吸収・合併、研究開発による多角化により立ち直らせた。こうした華やかな経営者としての活躍の末に到達したのが、経営管理論の最初の書物といわれる『産業ならびに一般の管理』である。しかし、それは財務、合併・買収、多角化について書かれた書物ではなかった。紛れもなく組織について書かれた書物だったのである。
そして米国では、20世紀初頭、専門経営者の時代を迎えていたAT&Tに入社し、その後、その子会社のベル電話会社の社長になった、やはり専門経営者であるバーナードによって、1938年、近代組織論の最初の書物『経営者の役割』が出版される。彼は協働システムをシステムたらしめる中核的サブシステムとして公式組織を考え、これを成立・存続させることによって協働システムを維持することこそが経営的職能、つまり経営者の役割であると考えた。そして経営的職能は組織を管理することとは違うのだと明言するのである。
しかし、米国では合併・買収ブームの過熱した1960年代後半以降、「経営者」は自分のオフィスに閉じこもったまま、分析し、計画立案し、命令・統制するだけのポートフォリオ的管理に終始するようになる。そしてビジネス・スクール出身のMBAたちによるプロフェッショナル・マネジメントの時代が到来するのである。しかし、CAD用のコンピュータが机の上にあるだけで、技術者が橋でも原子炉でも設計できると考えるのが滑稽であるように、手法を身に付けただけで、適用されるべき文脈からも、人間のイニシアティブからも遊離してプロフェッショナル・マネジメントなるものが機能できると信じるのは滑稽というほかはない。ところがなんと当時、コンサルタント達によって、経営者は製品知識をできるだけ持たないようにするのが理想であることが説かれ、そうすることで事業に関するあらゆることが距離を置いたとらわれない方法で効率的に扱えると心から信じられていたというのである。
「組織を管理する」という発想は、組織が成立・存続しているということを前提にしているといっていいだろう。確かに、名前もない短命の公式組織は無数に存在する。しかし公式組織を成立させ、それを長期にわたって存続させることは大変な努力と才能を要する仕事なのである。部門間は言うに及ばず、上司・部下・同僚とのコミュニケーションの不足、部門間での共通目的の喪失、そして協働意欲の欠如した従業員をかかえた職場といった日常的現象のどれ一つが発生しても、実はバーナードのいう公式組織ではありえない。公式組織の成立・存続こそが経営者の果たすべき重い役割なのである。
経営史家チャンドラーは1920年代に米国の大企業で開発された事業部制を研究し、組織は戦略に従うという有名な命題を提唱する。これまで成長を続け生き延びてきた大企業は、歴史的時間の中では、成長戦略がとられて急速な成長を遂げた後に時間的に遅れて、組織づくりの期間、つまり「経営の時代」がやってくるのを経験していた。それに成功した企業だけが生き残ってこられたのである。
われわれは戦略の適否が勝敗に結び付くケースを想定しがちであるが、実際には、戦略の適否が勝敗に結び付くのは、対戦者同士の力がかなり拮抗した場面だけであって、むしろまれなケースといっていい。多くの場合、最適戦略でも敗北したり、あるいは、かなりひどい戦略でも勝利するということが起こる。黄金の60年代、米国の経営者がもっともらしい戦略を振りかざしていられたのも、第二次世界大戦後20年間にわたって生産技術の競争優位と国内市場の安泰があったればこそなのである。組織づくりや地道な経営努力なくしては、いかなる戦略も勝利はおぼつかない。
戦略が最適で合理的であることは、そうでないよりは確かに望ましいかもしれない。しかしそのことを強調しすぎると、戦略のもっている本来果たすべき役割、経営するというプロセスの中における重要性を見失いかねない。どうせ経営の成功なくしては、いかなる戦略も勝利はおぼつかないのであるから、戦略は最適性や合理性を多少犠牲にしてでも、タイミングを逸しないように、経営のプロセスの中にうまく組み込んで打ち出していくべきものなのである。道に迷った時は、どんな地図でも役に立つ可能性があるし、何の根拠も合理性もない無茶な戦略でも、しかるべき人がしかるべき時に宣言すれば、戦略は人々の迷いを取り払い、人々を元気づけ、人々を方向付ける。戦略があればこそ、組織内での競争も可能になり、組織活性化の重要な第一歩を踏み出すことができるのである。
こうした企業や戦略の本当の意義は組織論によって明らかにされている。
人間は限られているとはいえ、合理的に意思決定を行うことができるし、もし問題が繰り返して経験される種類のものであれば、それに対して高度に複雑かつ体系化された反応の集合であるプログラムを形成することもできる。人類は幾世紀もの間、比較的反復的で良く構造化された環境から提起される問題に対し、組織内にプログラム化された反応を開発・保守するような技術を驚くほど蓄積してきた。技術的合理性に基づき、このプログラムによって構成される複雑なシステムがテクニカル・コアである。
テクニカル・コアの経済性を発揮させるために、組織はテクニカル・コアを外部環境の影響を受けにくい安定的な内部環境に隔離しようとする。ちょうど多細胞生物がそうであるように、内部環境の方を内部組織に合わせるのだ。それによって本来であれば外部環境に合わせて個々の内部細胞が複雑化しなくてはならないような必要性を回避するのである。そして会社制度は、内部環境を外部環境から隔離するという点で、まさに人類の英知の結晶である。法人格により構成員の個人財産から分別された団体財産を作り、有限責任制で出資者財産が団体から独立であることを保証する。そして会社の寿命を構成員の寿命から隔離することに成功した。組織がシステムの概念であったのに対し、企業はこのように境界の概念である。
テクニカル・コアを外部環境の影響から密封するためには、企業という境界を利用するだけではなく、さらに境界上に境界単位を置き、標準化、緩衝化、平準化が図られる。それでもだめなら環境変動の予測を行い、戦略を立てる。外部環境に適応するために右往左往するよりは、むしろ外部環境との間に一線を画して毅然として自ら予測し、自らの優先順位に基づいて自律的に行動することで、自らの能力や優位性を有効に発揮していこうという姿勢である。ゆらぎを起こすことではなく、確信に満ちてゆるがぬことこそが経営者の最初の仕事なのだ。
自己決定的であることは職務満足をもたらすという点でも重要だが、同時に組織が自らあげた利益の処分に対して自己決定的であることは、今は多少我慢してでも利益をあげ、こつこつと内部留保の形で、将来の拡大投資のために貯えるという長期的な行動を生み出す。組織が自己決定的であることを確保するために、企業という制度が境界として利用され、経営者は自らの責任において戦略を立て、組織メンバーが環境変動に右往左往させられることなく自律的に長期的視野に立って行動できるよう努力するのである。
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