高橋伸夫 (編著) (2000)『超企業・組織論: 企業を超える組織のダイナミズム』有斐閣.

目次


プロローグ: 超企業・組織の時代 (pp.1-11) [高橋伸夫]

【一部抜粋】

 いま都内某所で某銀行の支店の窓口に行ってみることにしよう。窓口に並んできびきび働く女性行員の姿に、あなたは何の疑問も持たないかもしれない。でも、ちょっと待ってほしい。銀行にもよるが、その女性「行員」のほとんどが正社員ではないということをあなたは知っていただろうか。色々な場合があるのだが、窓口業務には、寿(結婚)退社した元行員を契約社員やパート・タイマーとして雇用しているケースもあれば、人材派遣会社からの派遣社員を当てているケースもある。それでは、正社員はどこにいるのかというと、窓口からずっと後ろの方にデスクを構えている数人の人たちだけなのである。これは銀行だけに限った話ではない。

 次に、大きな会社の本社ビルを訪問してみよう。すぐに受付に座っている女性、いわゆる受付嬢が目に付く。我々からすると、その会社の顔ともいえるこうした女性は、多くの場合、人材派遣会社からの派遣社員である。本社ビルのもっと奥に入ってみよう。セキュリティー管理の厳しいコンピュータ・ルームがある。暗証番号等でドアのロックを外してもらい、コンピュータ・ルームの中を覗いてみると、忙しそうに働いているシステム・エンジニアやオペレーターなどのコンピュータ技術者集団が見える。でもその多くは、実はコンピュータ会社の人間である。ずっとそこに常駐しているので、自分の会社ではなく、常駐先の会社のカルチャーに完全に染まっていると揶揄されるほどだ。

 スーパーのような大型量販店の電器売り場に行ってみよう。あなたはテレビを品定めしているが、迷った挙句、店員に声をかけて相談してみることにした。店員はあなたの話を一通り聞き終わると、しきりにX社の製品を薦め始めた。その店員の説明では、新製品で価格も安いのだそうだ。あなたは、ついつい乗せられて買ってしまった。でも、その「店員」が、実はそこの店の従業員ではなく、X社から派遣されてきた人だったということをあなたは知っていただろうか。そうでなくても、小売業ではパート・タイマーやアルバイトの比率が高く、スーパーの中には、大学を卒業したてで初々しさの残るフロアー・マネジャーだけがフロアー唯一の正社員で、あとのフロアーの店員は皆、派遣社員、パート・タイマー、アルバイトだという会社まである。

 メーカーだって例外ではない。いまあるメーカーに工場見学に行ったとしよう。もらったパンフレットによれば、その会社は従業員数50人だそうだ。工場をざっと見渡したところ、数十人ほどが働いていて、あなたは何の不思議もないままに見学を一通り終える。工場内がうるさかったので、会議室で改めて説明をしてくれるという。ところが、会議室に向かう途中、あなたは事務室で意外な光景を目にする。オフィスにも数十人の人が働いていたが、これでも営業部隊が出払っていて閑散としている方だというのだ。しかももっと驚いたことに、この工場は、生産が追いつかないほどに注文が殺到して、昼夜2交代制で操業していると言うではないか。どうも150人近くの人が働いていることになりそうだ。でも従業員数50人というパンフレットに偽りはない。正社員以外の人は、その会社の下請企業数社から働きに来ている人たちなのである。正確には「外注」というべきだろうが、その会社では、これを「内注」と呼んでいて、実に雰囲気が出ている。

 どの場合でも、あなたから見れば一つの組織である。いや見かけだけではない。実態としても、まぎれもなく一つの組織として動いている。しかし、これまで見てきたように、本当は、いくつもの企業に分かれているのである。もうおわかりだろう。企業と組織は違う概念なのである。しかも「組織」は実態として機能しているネットワークやシステムの概念なのだが、「企業」はもともと制度であり、境界、あるいは仕切りの概念なのだという質的な違いもある。企業と組織は違う概念なのだという事実をいったん認めてしまえば、私たちの理解力と構想力は格段に向上する。一段高いステージに達して、色々な真実が見えてくる。複数の企業が一つの組織として機能しているという光景は、いまやまったく当たり前の光景なのである。これを組織のネットワークが企業の境界を超えて活動の範囲を広げていると見ることもできるし、あるいは、いくつもの企業を束ねるネットワークとして組織を見ることもできる。しかし、どちらにしても重要なのは、私たちの関心が、企業の内部外部にかかわらず、本来は、組織としての活動にあるということなのである。つまり、私たちの関心は、常に組織としてのパフォーマンスにあるのだ。そこで、こうした組織の見方に基づいた組織論を本書では「超企業・組織論」と呼んでいる。これは私たちの造語だが、「超・企業組織論」ではなく、「超企業・組織論」だということを、あなたは、もう無理なく理解できるはずである。「超企業」とは英語で言えば ”transfirm”―― これも造語だが――つまり「企業の境界を超えた」「多企業の」という意味なのである。考えてみれば、組織、あるいは組織的活動は、有史以前、それどころか、おそらく人類が誕生する以前から存在していたはずである。しかし会社という制度は、「発明」されてから、せいぜいこの1000年程度の歴史しかないといわれている。組織と企業が同じ概念であるはずもないのである。


第I部 市場の組織化

 第1章 ゴミ箱モデル (pp.15-24) [高橋伸夫]
 第2章 顧客満足 (pp.25-34) [安藤史江]
 第3章 系列取引 (pp.35-44) [山田耕嗣]
 第4章 組織間関係論 (pp.45-54) [山田耕嗣]

 組織論の世界では、組織の意思決定過程に参加するのに「企業の正規メンバー」である必要はない。そもそも「ゴミ箱モデル」では、企業の外部の人間でも、選択機会に問題や解を投げ入れるチャンスさえあれば組織の意思決定の参加者となることができるのである。従業員以外でも、顧客、投資家、そして部品供給業者は参加者となる頻度が高く、現に、彼らを参加者として招き入れるために様々な経営施策が考え出されてきた。例えば顧客。かつて企業内の従業員に対するモティベーション管理で「職務満足」が頻繁に研究され、従業員の離職率・欠勤率・定着率が注目された。そして1980年代後半になると、今度は企業外の市場においても、リピーターのような特定の顧客層に対するマーケティング活動で、顧客を惹きつけ、定着させるために、「顧客満足」(customer satisfaction; CS)が注目されるようになる。企業という境界の内と外の違いはあっても、どちらも同じ発想の概念で、それを実現するためのアプローチまでが類似している。投資家は株式会社では株主ということになるが、株主に対する安定株主工作も同様の発想である。顧客も株主もまさに潜在的参加者であり、組織化の成功の暁には、当然、組織への参加者とみなされることになる。一般に、こうした経営施策は「市場の組織化」と理解することができる。部品供給業者の系列も、複数の企業の境界にまたがって存在している組織のことであり、市場の組織化が進んだ一つの姿である。日本では、自動車産業に代表される組立加工業の場合には「系列取引」が見られ、部品供給業者から販売店に至るまで別企業の集まりであるにもかかわらず、実際には情報面から財務面に至るまで緊密に連携しあい、まさに一つのシステム=組織として組み上がって機能していることも多い。ただし「組織間関係論」の資源依存パースペクティブでは、相互依存関係を吸収するために、合併・買収により垂直的統合、水平的拡大、多角化などが必要とされているが、そもそも協調行動の発生にとって、企業内部に取り込むことは必要条件ですらない。組織化こそが重要なのである。


第II部 競争と協調

 第5章 協調行動の進化 (pp.57-66) [清水剛]
 第6章 対話としての競争 (pp.67-76) [桑嶋健一]
 第7章 デファクト・スタンダード (pp.77-86) [高松朋史]
 第8章 戦略的提携 (pp.87-96) [桑嶋健一]

 実は既に1960年代に、協調関係を維持するには、互いに自分に能力があることを実演する必要があり、協調関係を維持することの確信は歴史的事実によって強化されると考えられていた。このアイデアは1980年代に活発化する「協調行動の進化」の議論とも基本的に合致している。すなわち、こうした条件が満たされれば、利己的な企業の間にでも協調行動が成立することが、理論的には示されているのである。さらに、協調行動というわけではなく、まさに市場で激烈な競争を展開している場合でも、当事者同士が、相手の次の新製品を先読みしながら、その特徴や機能を自らの新製品に取り込んでいくという、あたかも対話しているかのような状況が生まれる。実際、日本の電卓産業では、こうした状況の中で、互いの製品が同質化していく現象「対話としての競争」が観察される。競争の結果生まれる事実上の業界標準である「デファクト・スタンダード」についても競争と協調の場面が混在する。ユーザーの数が増えるにしたがって、個々のユーザーが得ることのできる便益も高まっていく性質をネットワーク外部性と呼ぶが、この性質をもった産業では、ユーザー数であるインストールド・ベースを早期に拡大することが、業界標準の確立には決定的に重要になる。そのためには、ライセンシングやOEMなどを通して、他企業を誘引し、提携の形で市場を組織化することも必要になってくるのである。現代ではこうした場面だけではなく、本来ライバル同士であるような企業と企業が、戦略的な意図をもって、研究開発・生産・販売などを共同で行うことが頻繁に見られ、これらを「戦略的提携」と呼んでいる。


第III部 アーキテクチャと製品開発

 第9章 製品アーキテクチャ (pp.99-108) [近能善範]
 第10章 ユーザー・イノベーション (pp.109-118) [椙山泰生]
 第11章 プロデューサー (pp.119-128) [生稲史彦]
 第12章 ゲートキーパー (pp.129-138) [桑嶋健一]

 ただし、こうした議論からもわかるように、一口に組織化といっても、その程度にはかなりの幅がある。それを規定するものとして重要なものには、例えば「製品アーキテクチャ」がある。これは、製品のコンポーネント間の機能分担と相互作用を設計する際の設計思想のことである。モジュラー・アーキテクチャの代表格、デスクトップ型パソコンの場合には、広義のインターフェイスが標準化されているので、各モジュールの開発は自由度が大きく、アウトソーシングも進んで、メモリやモニターなどの自律的な供給業者が多数存在している。そのため、ユーザーが自作パソコンを作ることすら可能である。対照的に、自動車のようなインテグラル・アーキテクチャの場合には、コンポーネント間の相互依存性が大きいので、部品はどこの供給業者のものでもかまわないというわけにもいかず、系列取引が重要な意味をもつようになる。それどころか、いまや画期的な新製品を形にするのもメーカー側の仕事だとは言い切れなくなっている。ガス・クロマトグラフのような科学機器や半導体製造装置といった分野では、むしろ製品のユーザー側が自らイノベーションを起こしていた。まさに「ユーザー・イノベーション」が起きていたのである。そして、エンターテインメント産業における事例は、一定の条件が整えば、製品開発という活動が企業の境界を超える可能性を示している。例えば、映画、音楽、テレビ番組などの世界において、あるコンテンツが生み出されて収益を上げるまでの一連の過程を管理する「プロデューサー」の存在である。音楽産業では1960年代半ばからレコード会社の外に身を置いて必要に応じて協力関係を結ぶ独立プロデューサーが出現する。こうしたレコード会社のようなパブリッシャーと、ミュージシャンのような制作者ネットワークの両者を媒介するプロデューサー的存在は、テレビゲームソフトをはじめとする他の産業にも見られる。そこまでいかなくても、研究所にはコミュニケーションのキーになるスター的人物「ゲートキーパー」がいて、彼らの外部の人とのコミュニケーションの度合いが高いことも明らかになっている。


第IV部 トランス文化化

 第13章 トランスナショナル企業 (pp.141-150) [椙山泰生]
 第14章 組織文化 (pp.151-160) [藤田英樹]
 第15章 ドミナント・ロジック (pp.161-170) [安藤史江]
 第16章 個体群生態学 (pp.171-180) [清水剛]

 多国籍企業の直面している問題も、その多くは国境(国境は同時に、親子会社間や子会社間の境界にもなっている)を超えた組織化の困難さに由来すると指摘されている。多国籍企業の失敗の原因は経営戦略の失敗などではなく、戦略を遂行するための組織力の不足にあったのである。多国籍企業を一つの組織として機能させられるかどうかが、成否を分けていた。こうした問題意識から、1980年代後半に新しい多国籍企業のモデルが提案されるようになるが、その代表格が「トランスナショナル企業」、すなわち、国ごとに分化した子会社と本社による国境を超えた柔軟なネットワーク組織なのである。しかし、ネットワークの柔軟さは、組織解体の危険性と背中合わせでもある。このため組織統合に成功した企業は、経営理念を組織全体に浸透させているという共通点があった。このことは以前から「組織文化」として繰り返し指摘されてきた。すなわち成功している多国籍企業では、それ自体の固有の文化が、各国のローカルな文化を乗り超えるか、少なくとも修正しているのであり、組織文化の創造と管理は経営者のリーダーシップと表裏一体のものなのである。漠然とした文化よりもさらに内容を特定したものとしては「ドミナント・ロジック」がある。これは、それまで本体事業を成功に導く点で、他のどのロジックよりも優れていた成功のロジックのことを指している。いわば成功の方程式である。他企業を合併・買収によって獲得する多角化の際にも、自社のドミナント・ロジックが移植可能ならば、成果が期待できる。つまり、企業の境界を超えてのドミナント・ロジック移植の成否が、組織としての企業グループの成否を決めるのである。このように、企業の境界を超えて存在する組織文化やロジックを本書では「トランス文化」と呼ぶことにしよう。トランス文化のような強い文化は、同時に強い慣性としての側面ももっている。それが環境に適応して、企業の境界を超えて広がっていくには、淘汰のメカニズムが重要になる。「個体群生態学」的に考えれば、個々の企業は構造的な慣性をもち、それ故に適応行動には限界がある。そのため、個々の企業レベルでは淘汰が働き、それにより企業グループ全体のレベルでの環境適応が行われる。組織を何らかの行動主体としてとらえる時に重要な視点は、あるレベルで見ると淘汰であることが、もう一つ上のレベルで見ると適応として理解ができるということである。つまり企業グループの全体を覆うような企業の境界を超えたスケールの大きな組織を考えることで、現実の組織の適応行動を正しく捉えることができるようになる。実際、例えば系列のような企業グループが形成され成功してきた理由としても、取引特殊的資産を使った説明よりも生態学的説明の方が説得的である。すなわち、系列の場合にも、実際には個々の企業の淘汰が進むことで、系列のシステム全体=組織の環境適応が進んでいった。


第V部 企業間ネットワークとしての組織

 第17章 価値ネットワーク (pp.183-192) [宮崎正也]
 第18章 知識連鎖 (pp.193-202) [安藤史江]
 第19章 情報粘着性 (pp.203-212) [椙山泰生]
 第20章 クラスター (pp.213-222) [山田耕嗣]

 こうした適応の現象は、当該企業と供給業者/顧客との部品/製品売買関係に注目し「価値ネットワーク」を考えても観察することができる。企業内で行われる意思決定も、企業の境界を超えて広がる価値ネットワークの影響下で行われているわけだが、価値ネットワークが異なると、その中で部品/製品に付与される価値も求められる機能、コストも当然異なってくる。例えばメインフレーム用とノート・パソコン用とでは、ハード・ディスク・ドライブに求められる機能もコストも全く異なる。そして、それぞれのネットワークの中で、リーダー企業は技術革新に邁進する。しかしその結果、例えば、これ以上高性能・高機能はいらないから、手頃な値段の製品がほしいというような顧客を、それまで別の価値ネットワークに属して能力を向上させていた分断的な技術をもった新規参入者に奪われ、淘汰されることになる。このように、従来、部品メーカーと組立メーカーとの間に形成されていたものは「製品連鎖」と呼ばれるものだった。だが、今や企業同士が相互学習をし、その結果を再び製品の流れに転換できる関係の構築が求められている。組織学習を主目的としたこうした企業間ネットワークは「知識連鎖」と呼ばれるものである。この知識連鎖では、ネットワークを構成するある企業が学習すると、その変化はネットワークを通じて、まるで連鎖反応を起こすかのように、関連するネットワーク内の他企業にも次々と変化を生じさせ、新たな知識も生まれて、ネットワーク全体の組織ルーティンの質的な変化へと展開する。つまり、組織学習の成果は各企業でとらえられるものではなく、企業間ネットワーク全体、つまり超企業・組織でしかとらえられないのである。こうした企業間ネットワークで組織学習を引き起こすような情報の移転は、いつも容易なわけではない。情報の移転コストは「情報粘着性」という用語で表されるが、情報粘着性が高ければ、情報の移転は難しくなり、そのため情報のある場所にいること自体が非常に重要になる。こうして、通信・輸送技術の発達した現代でも、競争力をもった企業や特定の産業は依然として特定の地域で発生して、集積している。このようにして、さまざまな専門的知識をもった企業が、地理的に集積し、分業しながら緩やかなネットワークを形成している状態を「クラスター」と呼んでいるのである。


エピローグ: システムとしての組織・境界としての企業 (pp.223-249) [高橋伸夫]

【一部抜粋】

 この本の目的は、企業概念の頚木(くびき)から組織概念を解き放ち、組織が、企業の境界を超えて存在し、活動している現実を直視することで、組織論の新たな展開の可能性を示すことにあった。これまで、企業と組織は同じもの、あるいは組織というのは一つの企業の内部組織を指すものと漠然と想定して議論されることが多かったが、それでは「組織」も「企業」も概念としての切れ味が悪すぎるのである。この本を締めくくるにあたって、ここで改めて「組織」を要素間のネットワークまたはシステムの概念と定義し、「企業」を企業内部と市場とに分ける境界の概念として定義することを提案したい。この提案は、「組織」と「企業」を再び切れ味鋭い概念として研ぎ直し、理論的道具として蘇らせるためのものである。このように定義することの理論的メリットと現代的意義については、第1章〜第20章を読めば歴然としている。もともと組織は、要素と要素を結び付けて相互作用を及ぼし合うようにするシステム化やネットワーク化が実現した状態を指した概念であった。プロローグにも書いたように、組織、あるいは組織的活動は、有史以前、おそらく人類が誕生する以前から存在していたはずである。それに対して、会社という制度は、人類が発明してから、せいぜいこの1000年程度の歴史しかない。そして、現在の法制度上では「会社」と呼ばないものも含めて、一般的に、企業は要素と要素の関係あるいは相互作用を切ったり隔離したりする際に登場する境界の概念なのである。

システムとしての組織

 「システムとしての組織・境界としての企業」のアイデアは、近代組織論の考え方と非常に良くフィットしている。バーナード(Chester I. Barnard)の『経営者の役割』(1938)によって創始された近代組織論は、さらにサイモン(Herbert A. Simon) の『経営行動』(1947)、およびマーチ(James G. March)とサイモンの『オーガニゼーションズ』(1958)によって精緻化された。バーナードとサイモン、マーチとの間には主張にやや隔たりがあり、バーナードについては後述するが、サイモンとマーチは、意思決定過程の連鎖的ネットワークあるいはシステムとして組織をとらえ、組織メンバーの限定された合理性が、組織の意思決定過程の中でどのように克服されていくのかを解明することを基本的テーマとしていた。それでは、バーナードは一体どのように組織を考えていたのであろうか。バーナードは、まず具体的な組織に対応する「協働システム」を考えた。協働システム(cooperative system)とは「少なくても一つの明確な目的のために2人以上の人々が協働することによって、特殊なシステム的関係にある物的、生物的、個人的、社会的構成要素の複合体(complex)」のことである。これはいわゆるヒト・モノ・カネ等からなる具体的な実体であり、さまざまな要素から構成されている。そして、協働システムのすべての要素を協働的状況に結びつけているものをバーナードは公式組織(formal organization)と呼んだのである。

 しかし、バーナードの優れた所は、この構成概念である公式組織に対して、実在すればこのようなものになるという意味で、より具体的な姿を想像し提案しているところにある。それが公式組織の成立条件(内的均衡条件)とも呼ばれるもので、バーナードは、@コミュニケーション、A貢献意欲、B共通目的、の3条件が揃ったとき公式組織が成立していると考えた。それでは、どうやって公式組織を長期にわたって存続させるのだろうか。フォン・ベルタランフィに代表されるシステム論者が多用する概念にオープン・システムがある。例えば生物のように、環境との間で自分の成分をたえず交換していく中で自分自身を維持しているシステムをオープン・システムと呼んでいる。当然のことながら、この本で扱っているような組織もオープン・システムでしか存続し得ない。同様の認識のもとで、バーナードは公式組織の存続条件(外的均衡条件)として、短期的には組織の有効性か組織の能率のどちらか、長期的にはどちらもが必要になるとしている。ここでバーナードのいう組織の有効性、能率とは次のようなものである。

  1. 組織の有効性(effectiveness)とは、組織の目的の達成の程度のことである。組織の継続は、その目的を遂行する能力に依存し、明らかに、その行為の適切さとその環境の条件の双方に依存する。有効性は主としてこうした技術的な達成の程度を表すものである。
  2. 組織の能率(efficiency)とは、必要な個人的貢献を確保するのに足りるだけの有効な誘因を提供できる組織の能力のことである。
このうちbの組織の能率の概念は、その後サイモン(1947)の手で組織均衡(organizational equilibrium)の概念として開花する。これは、個人の組織への参加の意思決定を考察する際の重要な概念で、マーチとサイモンの『オーガニゼーションズ』(1958)によると、その骨格は次のように整理することができる。
  1. 組織は参加者と呼ばれる多くの人々の相互に関連した社会的行動のシステムである。ここでいう組織の参加者には、従業員の他に、投資家、供給業者、顧客も考える。
  2. 各参加者はそれぞれ組織から誘因を受け、その見返りとして組織に対して貢献を行うのであるが、誘因はたいていの場合、貢献とは異なった形での報酬によって行われる。
  3. 組織が参加者に提供する誘因を作り出す源泉は参加者からの貢献である。
  4. 各参加者は、要求されている貢献に比べて等しいか、またはより大きい誘因が提供されているときだけ組織への参加を続ける。
  5. 参加者の貢献を引き出すのに足りる(=必要な)量の誘因を供与し、かつそれだけの誘因を供与するのに十分な貢献を参加者から引き出すことに成功しているならば、組織は存続する。この状態を組織均衡と呼ぶ。
ここで注目されるのは、バーナードが「貢献者」(contributors)と呼び、サイモンが「参加者」(participants)と呼んでいる組織メンバーの範囲である。バーナードもサイモンも、通常、われわれが組織メンバーと考える従業員に加えて、投資家、供給業者、顧客までも参加者に含めて考えていたのである。このことは第1章でもみたように、後のマーチらのゴミ箱モデルではさらに当たり前のことになる。企業の内部の人間でも外部の人間でも、選択機会に問題や解そしてエネルギーを投げ入れるチャンスさえあれば、誰でも組織の意思決定の参加者となることができるのである。

 事実、投資家、供給業者、顧客の扱いは彼らが思い描いていた通りに進展する。簡単に表現すれば「市場の組織化」の進行である。投資家、供給業者、顧客に対して、正確に言えば、その全部ではなく一部に対して、組織化が進行していった。かつて企業内の従業員に対するモティベーション管理で職務満足が頻繁に研究されてきたのと同様に、第2章で触れたように、最近では企業外の市場においても、リピーターのような特定の顧客層に対するマーケティング活動で、顧客満足が話題にのぼるようになってきた。従業員と顧客は、企業という境界の内と外の違いはあっても、両者とも同じ組織均衡の枠組みの中で、類似のアプローチで扱われているのである。そのアプローチは投資家についても同様で、安定株主工作などはその典型であろう。また第3章で触れたように、部品供給業者の系列なども、その後注目されるようになる。これは、一企業の境界を超えて複数の企業にまたがって組織が存在している実例ともなっている。こうした「市場の組織化」という現象を矛盾なく扱うためには、本書のように、組織と企業を独立に定義することが必要になる。そうすれば、企業の境界の外側(=市場)に組織のネットワークを張り巡らすことが組織の市場化であると簡単に説明することができる。そして、市場の組織化という現実を踏まえれば、バーナードやサイモンを踏襲して、従業員に加えて「投資家、供給業者、顧客」の一部を組織の参加者に含めて考えることはきわめて現実的かつ妥当なことなのである。

境界としての企業

 組織が企業の境界を超える時代にあっても、企業という境界を設定することには、重要な機能があることも指摘しておかなくてはならない。サイモンの『意思決定の科学』(1960)によれば、そもそも多細胞有機体の発達は、有機体を取り巻く複雑かつ多様な外部環境から内部細胞を隔離することによって、内部細胞の環境を単純化し、安定化させるものと解釈することができるという。すなわち実際的には、内部環境を内部細胞に合わせるのであり、それによって本来であれば外部環境に合わせて個々の内部細胞が複雑化しなくてはならないような必要性を有機体全体で回避するのである。これが進化におけるホメオスタシス(恒常性維持)の意義なのである。これと同様に、会社という制度のもつ組織論的意義は、構成員や出資者との間に境界を引き、複雑かつ多様な外部環境(正確には、企業の外部は市場として定義される)から、内部環境を隔離し、単純化・安定化するという点に集約される。組織がシステムの概念であったのに対して、企業は境界の概念であるといえる。そのように考えると、会社制度はまさに人類の英知の結晶なのである。

    例えば会社法では、会社とは商行為その他の営利行為を業とすることを目的とする社団法人とされているが、この定義の中にある「社団」「法人」について考えてみよう。

  1. 団体とは共同の目的を有する複数人の結合体のことであるが、もし、構成員相互間で直接的な契約を結ぶのであれば、構成員の数が多いと、その契約関係は複雑になり、構成員の退出、参加は繁雑を極めることになる。そこで社団の場合、団体の業務の管理・運営、及び利益配分に関する内部関係は、一定の内部取り決め(これを「定款」と呼ぶ)によって定められ、処理されることになる。構成員の結合は構成員相互間の直接的な契約関係ではなく、社員関係により団体を通じて間接的に結合される。つまり社団は個々の構成員を超えた独立の単一体として存在して活動すると社会的に認められるので、構成員の変更にかかわらず存続する。したがって、社団であることで、その構成員の具体的な個性・構成からの独立性を高め、出資者間の関係を安定化し、かつ単純化することができる。
  2. 次に法人(juridical person)とは、われわれ生身の人間のような自然人以外のもので、法律上、自然人と同様に権利・義務の主体たりうることを認められた者のことである。会社は法人格をもつことで、その団体の名において権利を取得し、義務を負うことができる。権利の事実的実現である強制執行を求める訴訟の当事者となりうるとともに、その名義の債務によってしか強制執行を受けないことになるのである。つまり、法人であれば団体の名で契約、訴訟、不動産登記を行うことができるが、仮に法人でなければこうしたことをいちいち団体構成員の全部または一部の名で行わなければならないので、非常に繁雑かつ不安定である。例えば、会社の不動産がある構成員Aの名で登記された場合を考えてみよう。するとこのAが個人的に負った債務のために、債権者によってこの不動産が差し押さえられ、売却されて人手に渡ってしまうことにもなりかねない。これでは会社が安定的に活動することは難しくなってしまう。このように法人とは、対外的な法律関係を単純化・安定化するとともに、構成員の個人財産から分別された団体財産を作る財産関係分別のための法律的技術なのである(例えば、山田卓生・河内宏・安永正昭・松久三四彦『民法T』(1987))。
  3. 会社にはまだ利点がある。

  4. もし個人で資金を集めようとすると、結局、借金をして集めるしか方法がない。こうした事業所上の借金のことを経営学では他人資本と呼ぶが、所詮は他人のものなので、借金は決められた期間内に元利合わせて返済しなくてはならない。しかもこの返済は将来にわたって確定したものであり、事業がうまくいこうがいくまいが、景気が良かろうが悪かろうが、借金だけはきちんと決められた通りに返済しなくてはならないのである。つまり、事業上のリスクは、結局すべて、事業を行う個人の側が負担することになってしまう。それに対して会社であれば、返済する必要のない自己資本として、ある程度の資金を他の人から「出資」してもらうことが可能になる。この自己資本に対しては利益が出たときには利益を分配する必要があるが、事業がうまくいかず利益が出なかった場合には借金のときの利子のようなものを支払う必要はない。返済に追われることもなく、事業上のリスクを出資者にも分担してもらえることになる。 しかし出資をしてもらう際には、出資者をある程度、事業上の危険性から隔離することが必要になる。会社が、事業の上で取引上の借金の弁済や相手に与えた損害の弁償、さらに事業が行き詰まって倒産した場合、出資者が自己の全財産を投じて債務の弁済・弁償にあたらねばならない(無限責任)というのであれば、出資額がどんなに少額であっても、その会社の事業上のリスクを限りなく背負いこむ覚悟が必要となってしまう。そこで、会社の場合には、有限責任制をとることで、出資者は出資額を限度として弁済・弁償の責任を負えばよいことにしている。しかも、株式会社であれば、株主は株を売却することで株の売却代金を受け取り、出資者としての立場から自由に退出することもできる。このことが自己資本としての資金の調達を容易にしている。法人が、出資者から独立の団体財産を作る法技術であったように、有限責任制は、出資者財産が団体から独立であることを保証する制度である。この両者が機能することで、出資者と会社の財産を互いに隔離することができる。

 このように組織がシステムの概念であるのに対して、企業は境界の概念である。この境界で企業の内部を市場から隔離する。しかし相互作用を及ぼし合う要素のネットワークが企業の境界をはみ出していても、それが一つのシステムとして機能している以上、それを一つの組織として分析するのが自然であろう。いまや派遣社員や契約社員が常態化し、われわれ第三者からは正社員と見分けがつかなくなっている現状を踏まえれば、企業の境界までで組織概念を断ち切ることは、もはや虚構でしかない。そして、現実の経営学の研究対象も、いくつもの企業の境界をまたがって存在しているシステムやネットワークが中心となっている。それは本書で紹介してきた通りである。バーナードやサイモンがそうしたように、われわれも企業の境界に囚われることなく、このシステムを「組織」と認識すれば、分析に深みが出るだけではなく、知的資産の再利用や相互利用も可能になる。バーナードやサイモンが考えていたように、従業員に加えて、投資家、供給業者、顧客の一部までが集まって現実に一つのシステムとして活動している世界では、企業という境界の外にあるという理由だけで、投資家や供給業者や顧客を「組織メンバーではない」と切り捨ててしまうことには、もはや何のメリットもないのである。



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