いま都内某所で某銀行の支店の窓口に行ってみることにしよう。窓口に並んできびきび働く女性行員の姿に、あなたは何の疑問も持たないかもしれない。でも、ちょっと待ってほしい。銀行にもよるが、その女性「行員」のほとんどが正社員ではないということをあなたは知っていただろうか。色々な場合があるのだが、窓口業務には、寿(結婚)退社した元行員を契約社員やパート・タイマーとして雇用しているケースもあれば、人材派遣会社からの派遣社員を当てているケースもある。それでは、正社員はどこにいるのかというと、窓口からずっと後ろの方にデスクを構えている数人の人たちだけなのである。これは銀行だけに限った話ではない。
次に、大きな会社の本社ビルを訪問してみよう。すぐに受付に座っている女性、いわゆる受付嬢が目に付く。我々からすると、その会社の顔ともいえるこうした女性は、多くの場合、人材派遣会社からの派遣社員である。本社ビルのもっと奥に入ってみよう。セキュリティー管理の厳しいコンピュータ・ルームがある。暗証番号等でドアのロックを外してもらい、コンピュータ・ルームの中を覗いてみると、忙しそうに働いているシステム・エンジニアやオペレーターなどのコンピュータ技術者集団が見える。でもその多くは、実はコンピュータ会社の人間である。ずっとそこに常駐しているので、自分の会社ではなく、常駐先の会社のカルチャーに完全に染まっていると揶揄されるほどだ。
スーパーのような大型量販店の電器売り場に行ってみよう。あなたはテレビを品定めしているが、迷った挙句、店員に声をかけて相談してみることにした。店員はあなたの話を一通り聞き終わると、しきりにX社の製品を薦め始めた。その店員の説明では、新製品で価格も安いのだそうだ。あなたは、ついつい乗せられて買ってしまった。でも、その「店員」が、実はそこの店の従業員ではなく、X社から派遣されてきた人だったということをあなたは知っていただろうか。そうでなくても、小売業ではパート・タイマーやアルバイトの比率が高く、スーパーの中には、大学を卒業したてで初々しさの残るフロアー・マネジャーだけがフロアー唯一の正社員で、あとのフロアーの店員は皆、派遣社員、パート・タイマー、アルバイトだという会社まである。
メーカーだって例外ではない。いまあるメーカーに工場見学に行ったとしよう。もらったパンフレットによれば、その会社は従業員数50人だそうだ。工場をざっと見渡したところ、数十人ほどが働いていて、あなたは何の不思議もないままに見学を一通り終える。工場内がうるさかったので、会議室で改めて説明をしてくれるという。ところが、会議室に向かう途中、あなたは事務室で意外な光景を目にする。オフィスにも数十人の人が働いていたが、これでも営業部隊が出払っていて閑散としている方だというのだ。しかももっと驚いたことに、この工場は、生産が追いつかないほどに注文が殺到して、昼夜2交代制で操業していると言うではないか。どうも150人近くの人が働いていることになりそうだ。でも従業員数50人というパンフレットに偽りはない。正社員以外の人は、その会社の下請企業数社から働きに来ている人たちなのである。正確には「外注」というべきだろうが、その会社では、これを「内注」と呼んでいて、実に雰囲気が出ている。
どの場合でも、あなたから見れば一つの組織である。いや見かけだけではない。実態としても、まぎれもなく一つの組織として動いている。しかし、これまで見てきたように、本当は、いくつもの企業に分かれているのである。もうおわかりだろう。企業と組織は違う概念なのである。しかも「組織」は実態として機能しているネットワークやシステムの概念なのだが、「企業」はもともと制度であり、境界、あるいは仕切りの概念なのだという質的な違いもある。企業と組織は違う概念なのだという事実をいったん認めてしまえば、私たちの理解力と構想力は格段に向上する。一段高いステージに達して、色々な真実が見えてくる。複数の企業が一つの組織として機能しているという光景は、いまやまったく当たり前の光景なのである。これを組織のネットワークが企業の境界を超えて活動の範囲を広げていると見ることもできるし、あるいは、いくつもの企業を束ねるネットワークとして組織を見ることもできる。しかし、どちらにしても重要なのは、私たちの関心が、企業の内部外部にかかわらず、本来は、組織としての活動にあるということなのである。つまり、私たちの関心は、常に組織としてのパフォーマンスにあるのだ。そこで、こうした組織の見方に基づいた組織論を本書では「超企業・組織論」と呼んでいる。これは私たちの造語だが、「超・企業組織論」ではなく、「超企業・組織論」だということを、あなたは、もう無理なく理解できるはずである。「超企業」とは英語で言えば ”transfirm”―― これも造語だが――つまり「企業の境界を超えた」「多企業の」という意味なのである。考えてみれば、組織、あるいは組織的活動は、有史以前、それどころか、おそらく人類が誕生する以前から存在していたはずである。しかし会社という制度は、「発明」されてから、せいぜいこの1000年程度の歴史しかないといわれている。組織と企業が同じ概念であるはずもないのである。
組織論の世界では、組織の意思決定過程に参加するのに「企業の正規メンバー」である必要はない。そもそも「ゴミ箱モデル」では、企業の外部の人間でも、選択機会に問題や解を投げ入れるチャンスさえあれば組織の意思決定の参加者となることができるのである。従業員以外でも、顧客、投資家、そして部品供給業者は参加者となる頻度が高く、現に、彼らを参加者として招き入れるために様々な経営施策が考え出されてきた。例えば顧客。かつて企業内の従業員に対するモティベーション管理で「職務満足」が頻繁に研究され、従業員の離職率・欠勤率・定着率が注目された。そして1980年代後半になると、今度は企業外の市場においても、リピーターのような特定の顧客層に対するマーケティング活動で、顧客を惹きつけ、定着させるために、「顧客満足」(customer satisfaction; CS)が注目されるようになる。企業という境界の内と外の違いはあっても、どちらも同じ発想の概念で、それを実現するためのアプローチまでが類似している。投資家は株式会社では株主ということになるが、株主に対する安定株主工作も同様の発想である。顧客も株主もまさに潜在的参加者であり、組織化の成功の暁には、当然、組織への参加者とみなされることになる。一般に、こうした経営施策は「市場の組織化」と理解することができる。部品供給業者の系列も、複数の企業の境界にまたがって存在している組織のことであり、市場の組織化が進んだ一つの姿である。日本では、自動車産業に代表される組立加工業の場合には「系列取引」が見られ、部品供給業者から販売店に至るまで別企業の集まりであるにもかかわらず、実際には情報面から財務面に至るまで緊密に連携しあい、まさに一つのシステム=組織として組み上がって機能していることも多い。ただし「組織間関係論」の資源依存パースペクティブでは、相互依存関係を吸収するために、合併・買収により垂直的統合、水平的拡大、多角化などが必要とされているが、そもそも協調行動の発生にとって、企業内部に取り込むことは必要条件ですらない。組織化こそが重要なのである。
実は既に1960年代に、協調関係を維持するには、互いに自分に能力があることを実演する必要があり、協調関係を維持することの確信は歴史的事実によって強化されると考えられていた。このアイデアは1980年代に活発化する「協調行動の進化」の議論とも基本的に合致している。すなわち、こうした条件が満たされれば、利己的な企業の間にでも協調行動が成立することが、理論的には示されているのである。さらに、協調行動というわけではなく、まさに市場で激烈な競争を展開している場合でも、当事者同士が、相手の次の新製品を先読みしながら、その特徴や機能を自らの新製品に取り込んでいくという、あたかも対話しているかのような状況が生まれる。実際、日本の電卓産業では、こうした状況の中で、互いの製品が同質化していく現象「対話としての競争」が観察される。競争の結果生まれる事実上の業界標準である「デファクト・スタンダード」についても競争と協調の場面が混在する。ユーザーの数が増えるにしたがって、個々のユーザーが得ることのできる便益も高まっていく性質をネットワーク外部性と呼ぶが、この性質をもった産業では、ユーザー数であるインストールド・ベースを早期に拡大することが、業界標準の確立には決定的に重要になる。そのためには、ライセンシングやOEMなどを通して、他企業を誘引し、提携の形で市場を組織化することも必要になってくるのである。現代ではこうした場面だけではなく、本来ライバル同士であるような企業と企業が、戦略的な意図をもって、研究開発・生産・販売などを共同で行うことが頻繁に見られ、これらを「戦略的提携」と呼んでいる。
ただし、こうした議論からもわかるように、一口に組織化といっても、その程度にはかなりの幅がある。それを規定するものとして重要なものには、例えば「製品アーキテクチャ」がある。これは、製品のコンポーネント間の機能分担と相互作用を設計する際の設計思想のことである。モジュラー・アーキテクチャの代表格、デスクトップ型パソコンの場合には、広義のインターフェイスが標準化されているので、各モジュールの開発は自由度が大きく、アウトソーシングも進んで、メモリやモニターなどの自律的な供給業者が多数存在している。そのため、ユーザーが自作パソコンを作ることすら可能である。対照的に、自動車のようなインテグラル・アーキテクチャの場合には、コンポーネント間の相互依存性が大きいので、部品はどこの供給業者のものでもかまわないというわけにもいかず、系列取引が重要な意味をもつようになる。それどころか、いまや画期的な新製品を形にするのもメーカー側の仕事だとは言い切れなくなっている。ガス・クロマトグラフのような科学機器や半導体製造装置といった分野では、むしろ製品のユーザー側が自らイノベーションを起こしていた。まさに「ユーザー・イノベーション」が起きていたのである。そして、エンターテインメント産業における事例は、一定の条件が整えば、製品開発という活動が企業の境界を超える可能性を示している。例えば、映画、音楽、テレビ番組などの世界において、あるコンテンツが生み出されて収益を上げるまでの一連の過程を管理する「プロデューサー」の存在である。音楽産業では1960年代半ばからレコード会社の外に身を置いて必要に応じて協力関係を結ぶ独立プロデューサーが出現する。こうしたレコード会社のようなパブリッシャーと、ミュージシャンのような制作者ネットワークの両者を媒介するプロデューサー的存在は、テレビゲームソフトをはじめとする他の産業にも見られる。そこまでいかなくても、研究所にはコミュニケーションのキーになるスター的人物「ゲートキーパー」がいて、彼らの外部の人とのコミュニケーションの度合いが高いことも明らかになっている。
多国籍企業の直面している問題も、その多くは国境(国境は同時に、親子会社間や子会社間の境界にもなっている)を超えた組織化の困難さに由来すると指摘されている。多国籍企業の失敗の原因は経営戦略の失敗などではなく、戦略を遂行するための組織力の不足にあったのである。多国籍企業を一つの組織として機能させられるかどうかが、成否を分けていた。こうした問題意識から、1980年代後半に新しい多国籍企業のモデルが提案されるようになるが、その代表格が「トランスナショナル企業」、すなわち、国ごとに分化した子会社と本社による国境を超えた柔軟なネットワーク組織なのである。しかし、ネットワークの柔軟さは、組織解体の危険性と背中合わせでもある。このため組織統合に成功した企業は、経営理念を組織全体に浸透させているという共通点があった。このことは以前から「組織文化」として繰り返し指摘されてきた。すなわち成功している多国籍企業では、それ自体の固有の文化が、各国のローカルな文化を乗り超えるか、少なくとも修正しているのであり、組織文化の創造と管理は経営者のリーダーシップと表裏一体のものなのである。漠然とした文化よりもさらに内容を特定したものとしては「ドミナント・ロジック」がある。これは、それまで本体事業を成功に導く点で、他のどのロジックよりも優れていた成功のロジックのことを指している。いわば成功の方程式である。他企業を合併・買収によって獲得する多角化の際にも、自社のドミナント・ロジックが移植可能ならば、成果が期待できる。つまり、企業の境界を超えてのドミナント・ロジック移植の成否が、組織としての企業グループの成否を決めるのである。このように、企業の境界を超えて存在する組織文化やロジックを本書では「トランス文化」と呼ぶことにしよう。トランス文化のような強い文化は、同時に強い慣性としての側面ももっている。それが環境に適応して、企業の境界を超えて広がっていくには、淘汰のメカニズムが重要になる。「個体群生態学」的に考えれば、個々の企業は構造的な慣性をもち、それ故に適応行動には限界がある。そのため、個々の企業レベルでは淘汰が働き、それにより企業グループ全体のレベルでの環境適応が行われる。組織を何らかの行動主体としてとらえる時に重要な視点は、あるレベルで見ると淘汰であることが、もう一つ上のレベルで見ると適応として理解ができるということである。つまり企業グループの全体を覆うような企業の境界を超えたスケールの大きな組織を考えることで、現実の組織の適応行動を正しく捉えることができるようになる。実際、例えば系列のような企業グループが形成され成功してきた理由としても、取引特殊的資産を使った説明よりも生態学的説明の方が説得的である。すなわち、系列の場合にも、実際には個々の企業の淘汰が進むことで、系列のシステム全体=組織の環境適応が進んでいった。
こうした適応の現象は、当該企業と供給業者/顧客との部品/製品売買関係に注目し「価値ネットワーク」を考えても観察することができる。企業内で行われる意思決定も、企業の境界を超えて広がる価値ネットワークの影響下で行われているわけだが、価値ネットワークが異なると、その中で部品/製品に付与される価値も求められる機能、コストも当然異なってくる。例えばメインフレーム用とノート・パソコン用とでは、ハード・ディスク・ドライブに求められる機能もコストも全く異なる。そして、それぞれのネットワークの中で、リーダー企業は技術革新に邁進する。しかしその結果、例えば、これ以上高性能・高機能はいらないから、手頃な値段の製品がほしいというような顧客を、それまで別の価値ネットワークに属して能力を向上させていた分断的な技術をもった新規参入者に奪われ、淘汰されることになる。このように、従来、部品メーカーと組立メーカーとの間に形成されていたものは「製品連鎖」と呼ばれるものだった。だが、今や企業同士が相互学習をし、その結果を再び製品の流れに転換できる関係の構築が求められている。組織学習を主目的としたこうした企業間ネットワークは「知識連鎖」と呼ばれるものである。この知識連鎖では、ネットワークを構成するある企業が学習すると、その変化はネットワークを通じて、まるで連鎖反応を起こすかのように、関連するネットワーク内の他企業にも次々と変化を生じさせ、新たな知識も生まれて、ネットワーク全体の組織ルーティンの質的な変化へと展開する。つまり、組織学習の成果は各企業でとらえられるものではなく、企業間ネットワーク全体、つまり超企業・組織でしかとらえられないのである。こうした企業間ネットワークで組織学習を引き起こすような情報の移転は、いつも容易なわけではない。情報の移転コストは「情報粘着性」という用語で表されるが、情報粘着性が高ければ、情報の移転は難しくなり、そのため情報のある場所にいること自体が非常に重要になる。こうして、通信・輸送技術の発達した現代でも、競争力をもった企業や特定の産業は依然として特定の地域で発生して、集積している。このようにして、さまざまな専門的知識をもった企業が、地理的に集積し、分業しながら緩やかなネットワークを形成している状態を「クラスター」と呼んでいるのである。
この本の目的は、企業概念の頚木(くびき)から組織概念を解き放ち、組織が、企業の境界を超えて存在し、活動している現実を直視することで、組織論の新たな展開の可能性を示すことにあった。これまで、企業と組織は同じもの、あるいは組織というのは一つの企業の内部組織を指すものと漠然と想定して議論されることが多かったが、それでは「組織」も「企業」も概念としての切れ味が悪すぎるのである。この本を締めくくるにあたって、ここで改めて「組織」を要素間のネットワークまたはシステムの概念と定義し、「企業」を企業内部と市場とに分ける境界の概念として定義することを提案したい。この提案は、「組織」と「企業」を再び切れ味鋭い概念として研ぎ直し、理論的道具として蘇らせるためのものである。このように定義することの理論的メリットと現代的意義については、第1章〜第20章を読めば歴然としている。もともと組織は、要素と要素を結び付けて相互作用を及ぼし合うようにするシステム化やネットワーク化が実現した状態を指した概念であった。プロローグにも書いたように、組織、あるいは組織的活動は、有史以前、おそらく人類が誕生する以前から存在していたはずである。それに対して、会社という制度は、人類が発明してから、せいぜいこの1000年程度の歴史しかない。そして、現在の法制度上では「会社」と呼ばないものも含めて、一般的に、企業は要素と要素の関係あるいは相互作用を切ったり隔離したりする際に登場する境界の概念なのである。
「システムとしての組織・境界としての企業」のアイデアは、近代組織論の考え方と非常に良くフィットしている。バーナード(Chester I. Barnard)の『経営者の役割』(1938)によって創始された近代組織論は、さらにサイモン(Herbert A. Simon) の『経営行動』(1947)、およびマーチ(James G. March)とサイモンの『オーガニゼーションズ』(1958)によって精緻化された。バーナードとサイモン、マーチとの間には主張にやや隔たりがあり、バーナードについては後述するが、サイモンとマーチは、意思決定過程の連鎖的ネットワークあるいはシステムとして組織をとらえ、組織メンバーの限定された合理性が、組織の意思決定過程の中でどのように克服されていくのかを解明することを基本的テーマとしていた。それでは、バーナードは一体どのように組織を考えていたのであろうか。バーナードは、まず具体的な組織に対応する「協働システム」を考えた。協働システム(cooperative system)とは「少なくても一つの明確な目的のために2人以上の人々が協働することによって、特殊なシステム的関係にある物的、生物的、個人的、社会的構成要素の複合体(complex)」のことである。これはいわゆるヒト・モノ・カネ等からなる具体的な実体であり、さまざまな要素から構成されている。そして、協働システムのすべての要素を協働的状況に結びつけているものをバーナードは公式組織(formal organization)と呼んだのである。
しかし、バーナードの優れた所は、この構成概念である公式組織に対して、実在すればこのようなものになるという意味で、より具体的な姿を想像し提案しているところにある。それが公式組織の成立条件(内的均衡条件)とも呼ばれるもので、バーナードは、@コミュニケーション、A貢献意欲、B共通目的、の3条件が揃ったとき公式組織が成立していると考えた。それでは、どうやって公式組織を長期にわたって存続させるのだろうか。フォン・ベルタランフィに代表されるシステム論者が多用する概念にオープン・システムがある。例えば生物のように、環境との間で自分の成分をたえず交換していく中で自分自身を維持しているシステムをオープン・システムと呼んでいる。当然のことながら、この本で扱っているような組織もオープン・システムでしか存続し得ない。同様の認識のもとで、バーナードは公式組織の存続条件(外的均衡条件)として、短期的には組織の有効性か組織の能率のどちらか、長期的にはどちらもが必要になるとしている。ここでバーナードのいう組織の有効性、能率とは次のようなものである。
事実、投資家、供給業者、顧客の扱いは彼らが思い描いていた通りに進展する。簡単に表現すれば「市場の組織化」の進行である。投資家、供給業者、顧客に対して、正確に言えば、その全部ではなく一部に対して、組織化が進行していった。かつて企業内の従業員に対するモティベーション管理で職務満足が頻繁に研究されてきたのと同様に、第2章で触れたように、最近では企業外の市場においても、リピーターのような特定の顧客層に対するマーケティング活動で、顧客満足が話題にのぼるようになってきた。従業員と顧客は、企業という境界の内と外の違いはあっても、両者とも同じ組織均衡の枠組みの中で、類似のアプローチで扱われているのである。そのアプローチは投資家についても同様で、安定株主工作などはその典型であろう。また第3章で触れたように、部品供給業者の系列なども、その後注目されるようになる。これは、一企業の境界を超えて複数の企業にまたがって組織が存在している実例ともなっている。こうした「市場の組織化」という現象を矛盾なく扱うためには、本書のように、組織と企業を独立に定義することが必要になる。そうすれば、企業の境界の外側(=市場)に組織のネットワークを張り巡らすことが組織の市場化であると簡単に説明することができる。そして、市場の組織化という現実を踏まえれば、バーナードやサイモンを踏襲して、従業員に加えて「投資家、供給業者、顧客」の一部を組織の参加者に含めて考えることはきわめて現実的かつ妥当なことなのである。
組織が企業の境界を超える時代にあっても、企業という境界を設定することには、重要な機能があることも指摘しておかなくてはならない。サイモンの『意思決定の科学』(1960)によれば、そもそも多細胞有機体の発達は、有機体を取り巻く複雑かつ多様な外部環境から内部細胞を隔離することによって、内部細胞の環境を単純化し、安定化させるものと解釈することができるという。すなわち実際的には、内部環境を内部細胞に合わせるのであり、それによって本来であれば外部環境に合わせて個々の内部細胞が複雑化しなくてはならないような必要性を有機体全体で回避するのである。これが進化におけるホメオスタシス(恒常性維持)の意義なのである。これと同様に、会社という制度のもつ組織論的意義は、構成員や出資者との間に境界を引き、複雑かつ多様な外部環境(正確には、企業の外部は市場として定義される)から、内部環境を隔離し、単純化・安定化するという点に集約される。組織がシステムの概念であったのに対して、企業は境界の概念であるといえる。そのように考えると、会社制度はまさに人類の英知の結晶なのである。
例えば会社法では、会社とは商行為その他の営利行為を業とすることを目的とする社団法人とされているが、この定義の中にある「社団」「法人」について考えてみよう。
会社にはまだ利点がある。
このように組織がシステムの概念であるのに対して、企業は境界の概念である。この境界で企業の内部を市場から隔離する。しかし相互作用を及ぼし合う要素のネットワークが企業の境界をはみ出していても、それが一つのシステムとして機能している以上、それを一つの組織として分析するのが自然であろう。いまや派遣社員や契約社員が常態化し、われわれ第三者からは正社員と見分けがつかなくなっている現状を踏まえれば、企業の境界までで組織概念を断ち切ることは、もはや虚構でしかない。そして、現実の経営学の研究対象も、いくつもの企業の境界をまたがって存在しているシステムやネットワークが中心となっている。それは本書で紹介してきた通りである。バーナードやサイモンがそうしたように、われわれも企業の境界に囚われることなく、このシステムを「組織」と認識すれば、分析に深みが出るだけではなく、知的資産の再利用や相互利用も可能になる。バーナードやサイモンが考えていたように、従業員に加えて、投資家、供給業者、顧客の一部までが集まって現実に一つのシステムとして活動している世界では、企業という境界の外にあるという理由だけで、投資家や供給業者や顧客を「組織メンバーではない」と切り捨ててしまうことには、もはや何のメリットもないのである。