経営学の分野で進化論のアナロジーが用いられることは、そうめずらしいことではない。しかし、それが単なるアナロジーを超えて理論として機能してきたのかどうか、言い換えれば、実際の具体的な経営現象を説明するに足るだけの説明力をもっていたのかどうかについては疑わしい。本書は、その意味では組織進化についての最初の理論と実証の研究書である。
しかし、本書の基本的アイデアはわれわれのオリジナルというわけではない。その多くは、先行研究、特にアクセルロッドに代表される政治学分野での協調行動の進化の研究に負っている。こうした魅力的なアイデアが、これまで経営学の分野で利用されてこなかったこと自体が不思議ではあるが、もともとの議論がゲーム理論やコンピュータ・シミュレーションの言葉でなされていたことがその一因だろう。そこで、本書ではそのエッセンスを「未来傾斜原理」と呼び、より使い易いものに概念化することにした。
協調行動の進化モデルによると、未来への重みづけである未来係数が高いと、敵対する者同士の間でも協調行動が自然発生することがわかっている。わかりやすく言えば、過去の実績や現在の力関係よりも、未来への期待に寄り掛かる形で意思決定を行うという意思決定原理である。それは経済学における期待効用原理やワーク・モティベーションにおける期待理論のように、未来の事象を現在価値に換算した上で選択を行う原理とは本質的に異なる。むしろ未来が実現する確率そのものに基づいた意思決定原理であり、未来係数が非常に大きい場合には、その未来の実現に寄り掛かり傾斜した格好で現在を凌いで行こうという行動につながる。その意味では、未来傾斜には lean on future という英訳がぴったりするのではないかと思っている。
多くの日本企業で働く人にとって、これは当たり前の話であろう。例えば、日本企業のもつ強い成長志向、より正確に言えば、今は多少我慢してでも利益をあげ、賃金や株主への配当を抑え、何に使うかはっきりしていない場合でさえ、とりあえずこつこつと内部留保の形で、将来の拡大投資のために貯えることは、未来傾斜原理の典型的な発露である。さらに年功序列制度も、会社側にとっては従業員の将来の能力への期待、従業員側にとっては将来の収入・処遇への期待に寄り掛かって、現時点での給料・処遇を決定するシステムである。年俸制のような過去の実績によって給料・処遇を決めてしまおうとする賃金システムと対比すると、その未来傾斜ぶりが際立つ。
本書で明らかにされるように、未来傾斜原理によって説明が可能な事例は、実にたくさん存在する。そして重要なことは、理論研究が明らかにするように、協調行動の進化モデルでは、長期的パフォーマンスの点で他のシステムは淘汰され、やがて未来傾斜原理に則ったシステムが繁栄するようになるとの結論が得られていることである。実は生き残るのは未来傾斜原理に則ったシステムの方なのである。進化論的な言い方をすれば、他の意思決定原理は淘汰され、やがて未来傾斜原理に則ったシステムが繁栄するようになる。本書で行われる実証研究は、この理論的予想が日本においてはほぼその通り実現されつつあることを示しているのにすぎない。
したがって、本書の目的は、いわゆる日本的経営の擁護でも、組織の進化と革新を扇動することでもなく、年功序列制度のようなシステムや制度などが、かなりの数の日本企業においてなぜ共通に観察されるようになったのかを進化論的に説明することにある。そしてこうした生存競争で生き残ってきたシステムや制度に共通して見られるエッセンスを未来傾斜原理として抽出して提示することにある。